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「南京事件」を考える 10 [歴史]

▼他方、「大虐殺」派が政治的、党派的利害と無縁かといえば、そんなことはない。もちろん歴史学者を中心に集まった「研究会」であるから、史料批判や記述は「職業的良心」に従ってなされている。しかし彼らは、自分たちの「20万人以上の犠牲者」説に賛同せず異説をたてる秦郁彦たち「少数派」に対し、敵愾心を隠さない。
 「研究会」の中心だった藤原彰は、南京事件の研究が進み、事件を「まぼろし」だ、「虚構」だといって全面否定することは不可能になったので、そこで登場したのが「少数論」だ、と批判した。
 《「少数論」に共通しているのは、虐殺の範囲をなるべく狭くとり、その上で人数をなるべく少なく計上することによって、中国側の三十万という数字を否定し、ひいては「大虐殺」そのものを否定するという手法である。………「大虐殺説」とは「三十万説」であるという前提をつくり、三十万説の不十分さや誤りを論証することによって、「大虐殺」そのものを否定しようというのである。》(『南京大虐殺の現場へ』1988年)
 しかしこれは、文献資料を正確に読むことを仕事とする「歴史学者」にあるまじき党派的発言である。
 秦は『南京事件』(1986年)のあとがきで、「数字の幅に諸論があるとはいえ、南京で日本軍による大量の「虐殺」と各種の非行事件が起きたことは動かせぬ事実であり、筆者も同じ日本人として、中国国民に心からお詫びしたい」と書いた。
 また、藤原の発言よりも後になるが、「まぼろし」派について秦は、《二十万、三十万という虐殺はありえぬと声高に叫ぶが、ゼロだと言いはっているわけでもなく、いくら問いつめても数については口をつぐむ。現代の感覚だと、三百人や三千人でも「立派な大虐殺じゃないか」と言い返されるのを知っているからだろう》と、皮肉っている。(『現代史の争点』1998年)
 藤原の指摘は「まぼろし」派の活動については当たっているが、それを「少数論」にまで拡げ、その仕事を全否定しようとする党派的姿勢には幻滅を覚える。

▼筆者は以前のブログに書いたように、虐殺の規模について判断する用意がないし、「少数派」の主張が正しいと結論を出したわけでもない。「研究会」メンバーの、「まぼろし」派を批判する研究にも、有意義なものが少なくないという印象を持っている。
 しかし中国政府が戦後の戦犯裁判のために急いでこしらえた「虐殺三十万人」という数字、あるいはその主張をもとに東京裁判判決が示した「二十万人以上」という数字を、なぜか墨守しようとする「研究会」の姿勢には、学問的動機以上のものを感じる。笠原十九司の書いた次のような一節は、筆者の疑いを裏書きしているように見える。
 《我々の現段階における推定総数と中国側の「虐殺三十万人説」との違いは、さほど大きな問題ではない。南京大虐殺の規模の大きさと内容の深刻さを認識していることにおいて、基本的には我々と中国側とは同じである。》(『南京大虐殺否定論・13のウソ』1999年)

 中国を侵略した歴史への反省は、多くの日本人に共有されているだろうが、それをどのように受け止め、生かそうとするかは、中国との友好関係に対する考えと同様、ひとそれぞれであろう。しかし「研究会」は「南京事件」の事実の究明という問題に、歴史への「罪悪感」や「日中友好への思い」を密輸入し、「虐殺三十万人説」や「二十万人説」に疑問を投げかける研究を排斥する。それは異なる思考を党派的対立の中に閉じ込め、論争を不毛なものにする。
 (たとえば北村稔『「南京事件」の探求』(平成13年)を、筆者は新しい発見のある有意義な研究だと考えるが、笠原十九司『南京事件論争史』(2007年)は党派的対抗心むき出しで、これを全否定する。)

▼本稿を閉めるにあたって、感想をいくつか記しておきたい。
 まず、「南京事件」の原因となった日本の対中国政策の混迷と、政治的意志決定力の致命的弱さについてである。
 昭和12年12月、日本は南京という一国の首都を占領した。しかし日本は自分たちが決定的に重大な行為をしたという自覚に乏しく、行為の前後にその影響と意味をしっかり検討することもなかった。当時の日本人の意識を平たい言葉で言えば、「自分たちは占領などしたくなかったのに、中国政府の態度が悪いから、占領せざるを得なかった」といったことになるだろうか。
 そもそも南京を占領する意思は、はじめ日本政府にも軍中央にもなかったのである。しかし軍中央は中国戦線を闘う現場に引きずられ、政府は軍に引きずられ、現地軍の行動をつぎつぎに追認した。それは7月に生じた盧溝橋での偶発的衝突事件を、政府と軍中央が希望しないにもかかわらず華北の広範囲での戦闘に拡大し、華北の戦闘を上海に、そして日中の全面戦争に導いた構造そのものだった。
 ドイツの中国駐在大使・トラウトマンを通じた蒋介石との和平交渉も、比較的穏やかな条件で折り合いが付きそうだったのだが、南京を占領したために日本側は要求を吊り上げ、決裂。日本政府は、「爾後国民政府(蒋介石)を対手とせず」と声明を発表し、本音では日本と闘うよりも共産軍と闘いたい蒋介石を、むりやり日本軍との戦争に追いやり、戦争はその後8年間続いた。
 こういう愚かな日本の政治に振り回され、命を落とさなければならなかった中国の民衆も日本の兵隊も、つくづくかわいそうだと言わねばならない。
 そして日本の政治的意志決定力の致命的弱さは、昭和前期に限られるものではなく、そのDNAは現在まで脈々と受け継がれているのではないかという怖れが、筆者の頭から離れない。

▼もうひとつ思うのは、のちの太平洋戦争で無惨な形で明らかになる日本軍の兵站軽視の思想や、捕虜や投降兵を無視する考え方が、すでに南京への進撃段階で如実に表れていることである。
 南京城の内外でなぜ大虐殺が行われたのか、という問題について、論者の考えは一致している。南京城一番乗りの手柄欲しさに、日本軍各部隊は兵站を軽視して将兵の尻を叩き、兵隊たちは「徴発」と称して中国人の食糧や財産を強奪することを許された。「徴発」が認められることで強姦への心理的規制は弱まり、強姦殺人や証拠を隠滅する放火がまかり通る事態となった。
 また日本軍部隊の指揮官は、「大体捕虜はせぬ方針なれば片端より之を片付くることとなし……」(中島第16師団師団長日記)という考えであり、捕虜収容のための機構も作らず、食糧もなく、要員も配置しなかった。第一線部隊が敵兵を捕虜にしても、引き取ってもらうところもなく、「上級司令部へ問い合わせた場合は、ほぼ例外なく、処刑せよと指導され」たという。(秦『南京事件』)。ここにはハーグ条約のかけらもない。
 兵站を軽視する日本軍は、のちの太平洋戦争で兵士の「6割が餓死」する事態を招き、捕虜を無視する考え方は、兵士に「玉砕」を強い、民間人にも投降より死を選ばせるような悲劇を生み出した。
 中国軍兵士の蛮行のあと日本軍兵士の蛮行を見せつけられたジョン・ラーベが、嘆息して、「ここはアジアなのだ」と日記に書きつけていたことが、印象に残る。

▼現在、「南京大虐殺」をめぐる「論争」はどうなっているのだろうか。
 秦郁彦『南京事件』の増補版が新たに収録した「南京事件論争史」の最後に、オーストラリア人研究者の観察(2005年の論文)が引用されている。
 《左翼陣営の世界的な権威失墜、日本の政治的な保守化を背景に、「大虐殺派」には元気がなく、次の世代(笠原十九司の後継者)が未だに出現していない。これに比べて、「まぼろし派」には大変な勢いがあり、田中正明から東中野修道などへの世代交代に成功した。》
 議論としてはデタラメな「まぼろし派」になぜ「大変な勢い」があるのか、といえば、デタラメを受け入れる(あるいは受け入れたい)市民層がいるからである。そういう市民層が存在するだけでなく、増えているのだろう。中国政府が「歴史問題」を国際政治上の武器として利用するのを見るにつけ、彼らには「まぼろし派」の主張が自分たちの不満を代弁してくれるように見えるのかもしれない。
 秦郁彦が語ったように、21世紀が当面「歴史観の争いになる」ことは、避けられそうもないようだ。しかしだからといって、内輪でしか通用しない「まぼろし派」の主張を振り回すことは、見苦しいだけで何の利益にもならない。
 負の歴史も見つめながら、対立するべきところはしっかりと対立し、対立の中から共通の利益、共同の未来の構築の方向に日中両国の関係を拓いていく、そういう政治的力が求められるのである。

(おわり)

「南京事件」を考える 9 [歴史]

▼洞富雄は「南京事件」について日本で初めて研究書をまとめ、日本軍によって虐殺された中国軍民は「20万人以上」、と主張した。洞を中心に「南京事件調査研究会」が1984年に組織され、藤原彰や本多勝一、江口圭一、笠原十九司、吉田裕などが参加し、中国での現地調査や生き残り証人からの聞き取り調査などを精力的に実施した。
 洞富雄の『決定版・南京大虐殺』(1982年)は「犠牲者数の推定」という1章を立て、「虐殺」の規模の検討に充てている。しかし論理の明晰な議論が行われているとは言いがたく、結論も明瞭ではない。
 洞は、民間人犠牲者数を調査した「スマイス調査」の結果を、「その方法に問題がある」として、資料的価値を認めない。そうなると民間人の犠牲者数推計に利用できる資料はほとんど存在しないことになるのだが、洞は当時南京で埋葬した死体の数を活用しようと試みる。
 南京のおびただしい遺棄死体について、「紅卍字会」南京分会が4万3071体を埋葬したという記録があり、東京裁判で法廷証拠として採用された。「紅卍字会」とは、貧民のための医療、学校、孤児院、埋葬などを行っていた道教系の慈善団体で、日本軍が依頼し、会では200人の労働者を雇って埋葬の仕事にあたった。会の活動は日本軍や国際委員会の資料、当時の新聞記事で確認が取れる。
 東京裁判で採用された資料には、もうひとつ「崇善堂」による埋葬記録があった。13年4月8日以前に城内の遺棄死体7548体を埋葬し、4月9日から5月1日の23日間に城外の遺棄死体10万4718体、合計11万2266体を埋葬した、というものである。
 しかしこの「崇善堂」という団体の活動については、日本軍や国際委員会などの資料で確認がとれず、当時の新聞記事にも記載がなく、洞も「崇善堂埋葬隊の名の見えていないのが、不審である」と書く。
 だがいっそう「不審」なのは、「崇善堂埋葬隊」によって埋葬されたという厖大な死体数である。23日間に埋葬した数10万4718体という、「紅卍字会」の活動記録と比較してとても信じられない数字について、洞自身も、「だれしもいちおう疑問符をつけたくなる」数であることを認める。しかし洞は理由を示さぬまま、次のように言う。「数字にやや誇張はあるかもしれぬが、これを虚構の資料と断じてはならない」。

 「紅卍字会」と「崇善堂」の埋葬死体数は、合計すれば15万5千体となる。東京裁判ではこの15万5千という埋葬死体数を有力な根拠として、「南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は20万人以上」という判決文がつくられた。
 洞も言う。「この15万5000体埋葬という数字が信ぜられるとすれば」、これ以外に市民自身の手で埋葬したものもあるし、揚子江に投棄された死体や池やクリークに投げ込まれたまま未処理のもの、「揚子江を渡河退却中に日本軍の掃射で全滅したもの」などを加えれば、「総数20万人以上」という数字は、「必ずしも誇張でないことがわかる。」

▼東京裁判は「虐殺」の「規模」を議論する場ではなく、「虐殺」があり、被告・松井石根が有罪であることを示すだけで事は済んだ。しかし「南京事件」の研究は、当然そこにとどまるわけにはいかない。いつ、どのようにして行われた虐殺だったのか、どれほどの規模の虐殺だったのか、可能な限り歴史的事実を明らかにしなければならない。「崇善堂」によって埋葬されたとされる死体数がもし「信じられない」とすれば、「15万5000体埋葬という数字」も「信じられない」ことになり、「総数20万人以上」という犠牲者数の根拠が大きく揺らぐことになる。
 「南京事件調査研究会」では南京で中国側の研究者と交流しながら、この問題についても調査したようだが、新たな成果は得られなかったようである。1999年に「研究会」が出版した『南京大虐殺否定論・13のウソ』という論文集を見ると、「崇善堂」という団体が埋葬活動を行った事実は確認できたとしつつ、埋葬死体数については、「記録に厳密さを欠くところがあったように思う」、「今日の埋葬記録が当時のそれを正確に反映しているかどうかは残念ながら判断材料がない」としている。
 「今日の埋葬記録が当時のそれを正確に反映しているかどうかは残念ながら判断材料がない」というのは、分かりにくい表現だが、東京裁判に提出され現在残されている埋葬記録は、埋葬活動時の記録を10年後に整理して作成されたものであり、それを「正確に反映」しているかどうか分からない。「正確に反映」せず、誇張されたものである可能性もあるが、「判断材料がない」というのである。
 また「崇善堂」についての記述は、日本軍の文献や国際委員会の文献に出てこないことも事実であり、「崇善堂埋葬隊が日本軍に認知されていたかどうかも今のところ不明というしかない。今後の資料発掘に待ちたい」、としている。
 要するに、「研究会」以外の論者は「崇善堂の埋葬記録は使えない」としているのに対し、笠原十九司たち「研究会」のメンバーは歯切れ悪く、正しい記録だとは言えず、かといって洞のように「虚構の資料と断じてはならない」と断言することも出来ずにいるのである。

▼このブログを書くために、南京事件関係の書物を20冊ほど読んだ。一方に20万人、30万人の虐殺があったと主張する者がおり、他方に事件は「まぼろし」だ、「虚構」だ、と主張する者がいるということが気になったのだ。
 人のいない地球の片隅でひっそり生じた出来事ではない。万を超す人々の前で、万を超す人間の「虐殺」が行われたのかどうかという巨大な「事実」に関して、どうしてそのような正反対の主張が生じるのか、はなはだ不思議であり興味を引いたのである。
 関係書籍に目を通した結論を先に言えば、虐殺規模を確定するための資料が決定的に不足するなかで、論者たちが「事実」の究明もさることながら、政治的、党派的利害を常に意識して主張を組み立て、主張は即、日中間の国際政治の利害に関わる問題であることが、極端な「論争」を生み出したのである。どのような歴史問題にも政治的利害に基づく思惑はついて回るだろうが、「南京事件」に関してはそれが極端なのだ。
 とくに「まぼろし」派の論者は、自分の結論に合う都合のよい資料のみを取り上げ、都合の悪い資料は無視し、場合によっては資料を改竄したり(田中正明)、資料の意味を歪めて部分引用したり、なんの根拠もなく妄想を書きつらねる(東中野修道)など、研究者としてデタラメな態度が露骨である。しかし彼らはデタラメを指摘されても、痛痒を感じないだろう。彼らにとって大事なのは事実の究明ではなく、「南京事件」を「虚構」と主張したい自分の熱い思いであるからだ。
 彼らの世界は仲間内で閉じられており、彼らは見たいものだけを見、聞きたいものだけを聞く。

(つづく)

「南京事件」を考える 8 [歴史]

▼「虐殺」の規模に関連して議論が避けられない問題に、「戦時国際法」に関わる問題がある。日本軍が南京で捕虜にした中国軍兵士を大量に処刑し、また武器と兵服を捨て民間人のあいだに逃げこんだ兵士を「便衣兵」として狩り出し、兵士であるかどうか確認する手続きもなく処刑した事実をめぐり、「まぼろし派」が「戦時国際法」に違反しないと主張したからである。
 「戦時国際法」とは具体的には「陸戦の法規慣例に関する条約」(1907年)(いわゆるハーグ陸戦条約)であり、日本も批准している。戦争自体は避けられない場合も、その惨害をできるだけ軽減するために、戦争に関する慣例を条約として成文化し、交戦者の行動の規範として定めたものである。
 具体的な内容は、条約付属書として「規則」に示されている。たとえば「俘虜」については、人道的に取り扱われるべきこと、その所有物は兵器や馬、軍用書類を除いて依然俘虜のものであること、俘虜を労務者として使役することができるが、将校は除かれること、俘虜には糧食、寝具、衣服を支給すべきことなど、ヨーロッパ社会の慣例を基礎とした規定が並んでいる。(余談だが、筆者はこの規定を読んで、映画「戦場に架ける橋」で捕虜の英国軍将校が、日本軍指揮官の命ずる労役に服することを頑強に拒否する場面を思い出した。)
 また、「規則」は「禁止事項」として、「敵国又は敵軍に属する者を背信の行為をもって殺生すること」、「兵器を捨て又は自衛の手段尽きて降を乞える敵を殺傷すること」、「助命せざることを宣言すること」を明確に定め、禁じている。(23条)
 したがって南京においても、投降兵や捕虜の処刑が違法なことは明らかであり、武器と軍服を捨て民間人のあいだに逃げこんだ兵士を、摘発するのはよいとして、「便衣兵」だから法の埒外だとして兵士が勝手に処刑することも、違法といわねばならない。

 以前に取り上げた田中正明『南京虐殺の虚構』のなかに、従軍記者だった前田雄二(同盟通信)の戦後の著作から引用した部分がある。
 《翌日(12月16日)新井と写真の祓川らといっしょに軍官学校で「処刑」の現場に行きあわせる。校舎の一角に収容してある捕虜を一人ずつ校庭に引きだし、下士官がそれを前方の防空壕の方向に走らせる。待ち構えた兵隊が銃剣で背後から突き貫く。悲鳴をあげて濠に転げ落ちると、さらに上から止めを刺す。それを三カ所で並行してやっていた。》
 この捕虜が、どのような経緯で捕らわれた者たちか分からないが、あるいは翌17日の松井司令官入城式を前に徹底して行われた、「便衣兵」狩りの捕虜だったかもしれない。
 前田雄二も田中正明も、「便衣兵」なら「戦時国際法によって保護されず、処刑して当然」と思い込んでいるようだが、本来の「便衣兵」とは兵隊の服を着用せずにゲリラ活動を行う戦闘者のことである。戦意を失い、ただ生き延びるために民間人の服(便衣)を着て民間人のあいだに逃げ込んだ人々を、ゲリラ活動を行う戦闘者と同一視することは適当でないし、軍事裁判の手続きなしの処刑を正当化することは、さらにできないはずだ。

 日本軍が南京で行った行為をなんとか免罪したいと、田中正明や東中野修道たち「まぼろし派」が「戦時国際法」を持ち出し、ひねりだす理屈の多くは、「規則」の無理な読解・曲解に拠るものであり、取り上げるに値するようなものではない。
 
▼「南京事件」の「規模」の問題に話を戻す。この問題について、筆者の力では自分の回答を用意することはできない。しかし「大虐殺派」と「中間派」の推計の差がどこから生じるのか、おおよその見当はつくように思う。
 まず中国軍兵士の「虐殺」を、「大虐殺派」の笠原が「8万人」とし、「中間派」の秦が「3万人」としている点である。
 笠原は「8万人」の内訳を表にしているので、具体的に検討することができるのだが、たとえば12月13日の欄に、「5000~6000」、「約2000」、「約1万」と人数が並び、「長江渡江中殺戮」という説明がついている。12月13日の日中から夜にかけて、総崩れの中国軍は揚子江を渡って逃げようと南京城を脱出し、揚子江南岸から小舟や筏で流れの中に漕ぎだした。それに対して日本軍が砲射撃を加え、海軍も軍艦からサーチライトで水面を照らし機銃掃射し、敵の殲滅をはかったのである。
 「5000~6000」は歩兵38連隊の戦果、「約2000」は歩兵33連隊の戦果、「約1万」は海軍の戦果として、それぞれ報告されているものだが、笠原はこれらをすべて「虐殺」にカウントする。なぜなら「12月13日早朝に南京城は陥落し、南京攻略戦の直接の戦闘は決着がつき、南京防衛軍も完全に崩壊してしまっていた。したがってその後の中国兵は、戦闘員を人道的に保護するために、投降を勧告し、捕虜として収容すべき存在だった」と、笠原は考えるからである。「日本軍が徹底した殲滅戦を強行したために、投降兵、敗残兵を殺戮したのは、同条約に違反する不法行為であり、虐殺行為であった。」
 しかし逃げる敵兵への攻撃を、ハーグ陸戦条約違反の不法行為と主張できるかどうかは、かなり微妙だと思う。勝負がついた後の無用な殺生を忌む心は、日本武士道、西欧騎士道に共通するものであろうが、総力戦時代の戦争はそういう美学をつねに許容するものではない。上の戦闘行動を国際法違反だと主張し、死者を「虐殺」にカウントすることは、かなり難しいのではないか。

▼つぎに殺害された民間人の数だが、秦は1万人と推計しているのに対し、笠原は推計結果を示さず(あるいは示すことができず)、「南京事件において十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」という結論にいきなりジャンプする。
 「十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上」という数は、「中国軍民」の犠牲者の数である。笠原は中国人兵士の犠牲者数は示したが、民間人の犠牲者数は示せない。それなのに軍民合わせた総数を、どうして示せるのだろうか。
 このことは、笠原の頭の中ではじめに犠牲者全体の規模が固まり、それを横目で睨みながら中国軍と民間人の犠牲者数を試算し、民間人については結局満足できる試算ができなかった、という事実を示している。そしてこのことは笠原が、洞富雄を中心に結成された「南京事件調査研究会」のメンバーであることと関係する、と筆者は想像する。

(つづく)

「南京事件」を考える 7 [歴史]

▼さて、「南京事件」の論争の焦点、「虐殺」の規模の問題に話を進めたい。
 南京城とその周辺地域は、日本軍の昭和20年の敗退までの約8年間、日本軍の支配地域であったから、「事件」の調査などは行われなかった。したがって「事件」についての論争が80年代以降盛んになり、指揮官や兵士の日記などがいくつも発掘されたが、事件の「規模」については乏しい資料をもとに推計するしかない。
 「南京事件」とは、中国人兵士と民衆の不法な殺害だけでなく、略奪、放火、強姦など横行した残虐行為の総体を問題にするわけだが、主として不法な殺害の規模をめぐって論争がなされてきたので、以下、その整理をしてみようと思う。
 
 中国軍兵士の死者については、日本軍各部隊の作成した「戦闘詳報」や「陣中日誌」が基礎資料となる。「戦闘詳報」には敵の動きと日本軍の行動が記され、戦闘参加将兵数、死傷者数、消費弾薬量、敵の死者数、捕虜の数、鹵獲した武器の数などが附表に記入されている。
 「戦闘詳報」の記録は戦果を過大に報告する傾向があるといわれ、(「実数の二~三倍にふくらむのは当時でも常識とされていた」秦郁彦『南京事件』)、戦後焼却されたものも多く、公開されていないものが少なくない。しかし欠けている部分があったとしても戦闘の状況を知ることは、「事件」全体を理解する上で欠かせない。
 民間人の被害者数については、日本側のデータはまったく欠けている。空襲で死んだ者、戦闘の巻き添えで死んだ者、南京城の日本軍占領後に兵士と誤認されて処刑された者、日本軍兵士による略奪・強姦ののち殺された者など、いろいろな形で多くの民衆が殺害されたのだが、スマイス調査などわずかな資料から推計するしかない。

▼「大虐殺派」と呼ばれる笠原十九司は「虐殺」数について、「南京事件において十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上の中国軍民が犠牲になったことが推測される」と主張する。(笠原『南京事件』1997年)。いっぽう「中間派」と呼ばれる秦郁彦は、約4万人と推計する。(秦『南京事件』増補版 2007年)
両者の推計はどこが違うのか、推計の内訳を比較しながら見てみることにする。

 笠原は対象期間を昭和12年12月4日前後から翌13年3月28日までとし、秦は12月2日から翌13年1月末までとする。12月4日前後とは日本軍の南京への進撃が開始された時期であり、翌年3月28日は日本軍の傀儡である「中華民国維新政府」が成立した日である。要するに治安が回復した時期ということで、「1月末」とそれほど大きな違いはないだろう。
 笠原は対象区域を「南京城区とその近郊6県を併せた行政区としての南京特別市全域」とする。南京城区は山手線の内側に相当する面積だが、「南京特別市」は東京都と神奈川県、埼玉県を併せた広さだという。一方秦は、「南京城内とその郊外」としており、「その郊外」がどの程度の広さなのかは不明である。
 南京城区の人口だが、笠原は次のように推定する。37年3月末には102万人の人口だったが、日本軍の空爆のために脱出する者が相継いだ。しかし中国軍の「清野作戦」の犠牲になった周辺地域の農民が難民として流入し、また日本軍の進撃を逃れて移動してきた農民も多く、「南京攻略戦が開始されたときに南京城区にいた市民は40~50万人だった」。
 一方秦は、「国際委員会スマイス博士のいう20~25万人という推定が比較的信頼できる」という。
 中国軍の兵力について、笠原は15万人と推定するのだが、戦闘兵11万~13万以外に防御陣地工事に動員された軍夫や雑役を担当した少年兵、輜重兵などの非戦闘兵がいたと見ている。
 これに対し秦は10万人説を採用する。当時の日本軍は10万と見ており、中国側や外国人居住者は5万人と見ていた、《台湾の公刊戦史が記すように「当初は10万、落城時は3.5万~5万」とするのが実態に近いかもしれない。》そして戦闘直前にかき集められた多くの民兵がいたことも認め、これが中国側の主張する兵力数に含まれているかどうかは確かでない、という。

▼中国軍兵士の死者の数について、笠原は総勢15万人のうち約2万人が戦闘中に死傷、約4万人が南京を脱出して再結集し、約1万人が逃亡ないし行方不明、残り約8万人が捕虜、投降兵、敗残兵の状態で虐殺されたと推定する。
 秦は総勢10万人のうち戦死者が3万人、南京脱出に成功した者3万人、捕虜として生存した者1万500人、捕らわれて殺害された者3万人と推定している。(増補版による修正)

 住民の犠牲者の数については、金陵大学の社会学教授で安全区国際委員会の事務局長を務めていたルイス・スマイスが調査をした結果が残されている。スマイスは昭和13年3月から6月の期間に、学生を使って南京市内と郊外6県のサンプリング調査を行った。
 筆者はその調査結果を読んでいないのだが、それによると南京城内での民間人の殺害は3250人、拉致されて殺害された可能性が高い者が4200人、農村部での殺害は2万6870人と算定されているらしい。(笠原本に拠る)
 しかしこの調査結果も使いながら、どのように住民の犠牲者数を算出したのか、笠原も秦も上記の書物で詳しい説明をしていない。それでも秦は、「スマイス調査(修正)による一般人の死者二万三千」とし、その2分の1から3分の1、つまり1万2千人から8千人が日本軍による虐殺と試算する。秦はこの住民の犠牲者数(8千~1万2千人)と捕らわれて殺害された中国兵3万人を併せ、最終的に虐殺数を3万8千人~4万2千人と推定した。
 (増補版では、住民の犠牲者数は中間値を取って1万人とし、虐殺数は計4万人、ただしこの数字は「最高限」で「実数はそれをかなり下回るであろう」と付言している。)
 いっぽう笠原本には、住民の犠牲者数について定量的な検討や説明はない。スマイス調査のサンプルには、「犠牲の大きかった全滅家族や離散家族」が抜けており、「犠牲者数はまちがいなくこれ以上あったこと、および民間人の犠牲は城区よりも近郊農村の方が多かったという判断材料になる」と述べられるだけである。そして叙述は突然、中国軍民の犠牲は「十数万以上、それも二十万人近いかあるいはそれ以上」と推測される、との結論に飛躍する。

(つづく)


「南京事件」を考える 6 [歴史]

▼占領3日後には南京市内はすっかり落ち着きを取り戻し、日本兵が路傍で中国人の床屋に髪を切らせる平和な風景が見られたという新聞報道について、どう考えるべきだろうか。
 田中正明のあとを引き継ぎ、「まぼろし」説を精力的に広める活動をしている東中野修道という学者は、12月15日の安全区について、路上に食料品を売る者や床屋が店を広げている様子が「井家又一上等兵の日記」に記されている、と言う。
 《つまり、南京陥落三日目の12月15日には、安全地帯は避難民が商売ができるほど、文字通り安全となっていたのである。》と東中野は書く。(『「南京虐殺」の徹底検証』 平成10年)
 井家(いのいえ)又一の日記は彼が手帳に書きつけたもので、偕行社が発行した『南京戦史資料集』に収録されているので読むことができる。井家は、避難民の中から敗残兵を捕える「残敵掃蕩」のために、「安全区」へ出かけている。
 避難民は日の丸の旗をこしらえて家屋ごとに掲げていた。どの家屋も避難民で一杯で、井家たち兵士が入っていくと避難民は「恐る恐る笑ふ。又上手もする」。井家は、「哀れ敗残国民として全く同情に値するものと想う」(12月15日)と書く。また、「市街の何処に行けど日ノ丸の旗は掲げられている。肩に荷いて歩く物でさえ旗を手に持って歩く奴も居るし、又腕に巻きつけている奴も多数あるのである」(12月16日)と記している。

 南京陥落三日目の12月15日に、路上で食料品を売る者や床屋が店を広げていたことは事実である。しかしそのことが、「安全区」が「文字通り安全」であることを示しているわけではないことも、事実であろう。それは、家屋がみな日の丸の旗を掲げ、荷を担いで歩く者さえ日の丸の旗を手に持っているという事実が、日本軍への親近感や歓迎の意を示しているわけではないことと、同様である。
 日の丸の旗は何よりも、中国人民衆の日本軍への恐怖感を示している。つまり家屋も路上も「人の鈴なり」(井家日記)の難民区で、その鈴なりの民衆相手に食べ物屋や床屋が店を広げる光景と日本軍への深い恐怖感は、同時に存在したと読むべきなのである。

▼中国人民衆の恐怖感の由来を、民衆の側から記録したのが「ラーベ日記」だとすれば、「井家日記」はそれを日本軍兵士の側から記録したものの一つである。以下、長くなるが、「井家日記」を引用する。(文章としておかしいところもあるが、短時間に書きつけた日記に付き物の瑕瑾であり、実状は伝わってくる。)

 《………午前拾時から残敵掃蕩に出ける。……午後又出ける。若い奴を三百三十五名捕えて来る。避難民の中から敗残兵らしき奴を皆連れ来るのである。全く此の中には家族も居るであろうに。全く此を連れ出すのに只々泣くので困る。手にすがる。体にすがる全く困った。……/揚子江付近に此の敗残兵三百三十五名を連れて他の兵が射殺に行った。》(12月16日)

 《醤油と砂糖の徴発に出かけ難民の家に行き箱から蓋を取った釜の中を見、引出の中を開き色々と中をさがすのだ。難民の見ている前でやるのだから彼等とて恐ろしい日本兵の事何もする事も出来ずするままである。……/畠の中で、葱、人参、菜葉を取って、籠迄取ってきて難民に洗はし掃除迄皆やらすのだ。残飯は皆難民にあたえるので彼等は嬉々として我々の下に働くのである。手榴弾を取って来て池の中に投げ又魚を取る。全く悪い事の出来得るかぎり働くのである。》(12月19日)

 《夕闇迫る午後五時大隊本部に集合して敗残兵を殺に行くのだと。見れば本部の庭に百六十一名の支那人が神明にひかえている。後に死が近くのも知らず我々の行動を眺めていた。百六十余名を連れて南京外人街を叱りつつ、古林寺付近の要地帯に掩蓋銃座を至る所に見る。日はすで西山に没してすでに人の変動が分かるのみである。家屋も点々とあるのみ、池のふちにつれ来、一軒家にぶち込めた。家屋から五人連をつれてきては突くのである。うーと叫ぶ奴、ぶつぶつと言って歩く奴、泣く奴、全く最後を知るに及んでやはり落着を失っているを見る。戦にやぶれた兵の行先は日本人軍に殺されたのだ。針金で腕をしめる。首をつなぎ、棒でたたきたたきつれ行くのである。中には勇敢な兵は歌を歌い歩調を取って歩く兵もいた。突くかれた兵が死んだまねた、水の中に飛び込んであぶあぶしている奴、中に逃げる為に屋根裏にしがみついてかくれている奴もいる。いくら呼べど下りてこぬ為ガソリンで家屋を焼く。火達磨となって二・三人がとんで出てきたのを突殺す。/暗き中にエイエイと気合をかけ突く、逃げ行く奴を突く、銃殺しバンバンと打、一時此の付近を地獄の様にしてしまった。終わりて並べた死体の中にガソリンをかけ火をかけて、火の中にまだ生きている奴が動くのを又殺すのだ。後の家屋は炎々として炎えすでに屋根瓦が落ちる、火の粉は飛散しているのである。帰る道振返れば赤く焼けつつある。/向うの竹藪の上に星の灯を見る、割合に呑気な状態でかえる。そして勇敢な革命歌を歌い歩調を取って死の道を歩む敗残兵の話の花を咲かす。》(12月22日)

▼当時の新聞紙面は、軍当局が発表した戦況報告や華々しい武勇伝、戦場美談のたぐいで埋められ、南京占領時には慶祝ムード一色、日本軍の恥部に触れた記事はほとんど見られない、と秦郁彦はいう。秦はその理由を、検閲制度の徹底に求める。
 「従軍記者のレポートは、まず出先陸軍報道部の検閲を受け、本社のデスクでチェックされる仕組みになっていた。たとえ紙面に載せてみても、内務省図書課(憲兵が常駐)の検閲に引っかかれば、報道禁止、責任者の処分となるのは目にみえていた。」(『南京事件』)
 田中正明は、「120人もの従軍記者や特派員カメラマンのだれ一人として目撃した者もおらず、噂を聞いた者すらいないということは、いったいどう解釈したらいいのか」と、カマトトぶった反語で日本軍の無実を主張するが、これは設問自体が間違っている。正しい問いは、「120人もの従軍記者や特派員カメラマン」たちはなぜ、見聞きしたであろう日本軍の不祥事や兵士たちの非行を記事にしなかったのか、できなかったのか、という風に立てなければならない。
 検閲の存在はもちろん大きく、彼らが記事を送ったとしても没にされただろうし、海外特派員が欧米新聞の報道を転載紹介する形で本社に送った原稿さえ、紙面には載らなかった。しかしもうひとつ新聞報道を制約した要素として、早期の南京占領=戦争終了を望む国民の強い期待があり、記者たちは国民の期待に沿った記事を送るように自らを規制した、という面もあったのだろうと筆者は考える。
 いずれにしても当時の日本で「南京事件」の報道がなかったことを、事件が存在しなかったことの証明とするわけにはいかないのである。

(つづく)

「南京事件」を考える 5 [歴史]

▼ジョン・ラーベの日記(『南京の真実』)から、南京城を占領した日本軍の行状に触れた部分に絞って、いくつか抜き出してみよう。
 以下は、南京陥落の日(12月13日)から松井石根司令官の入城式(12月17日)の翌日までの記述である。

12月13日 日本軍は昨夜、いくつかの城門を占領したが、まだ内部には踏み込んでいない。
………本部に戻ると、入り口にすごい人だかりがしていた。留守の間に中国兵が大ぜいおしかけていたのだ。揚子江をわたって逃げようとして、逃げ遅れたのにちがいない。われわれに武器を渡したあと、彼らは安全区のどこかに姿を消した。………
 日本軍は十人から二十人のグループで行進し、略奪を続けた。それは実際にこの目で見なかったら、とうてい信じられないような光景だった。彼らは窓と店のドアをぶち割り、手あたりしだい盗んだ。食料が不足していたからだろう。ドイツのパン屋、カフェ・キースリングも襲われた。また、福昌飯店もこじ開けられた。中山路と太平路の店もほとんど全部。なかには、獲物を安全に持ち出すため、箱に入れて引きずったり、力車を押収したりする者もいた。………
 元兵士を千人ほど収容しておいた最高法院の建物から、四百ないし五百人が連行された。機関銃の音が幾度も聞こえたところをみると、銃殺されたにちがいない。あんまりだ。恐ろしさに身がすくむ。………

12月15日 朝の十時、関口鉱造少尉来訪。少尉に日本軍最高司令官にあてた手紙の写しを渡す。/十一時には日本大使館官補の福田篤泰氏。作業計画についての詳しい話し合い。電気、水道、電話をなるべくはやく復旧させることは、双方にとってプラスだ。このへん、氏はよく承知している。この問題に関しては我々、もしくは私が役に立てるだろう。/昨日12月14日、司令官と連絡が取れなかったので武装解除した元兵士の問題をはっきりさせるため、福田氏に手紙を渡した。
 「南京安全区国際委員会はすでに武器を差し出した中国軍兵士の悲運を知り、大きな衝撃を受けております。………我々はこれらの兵士たちにありのままを伝えました。我々は保護してはやれない。けれども、もし武器を投げ捨て、すべての抵抗を放棄するなら、日本からの寛大な処置を期待できるだろう、と。/捕虜に対する一般的な法規の範囲、ならびに人道的理由から、これらの元兵士に対して寛大なる処置を取っていただくよう、重ねてお願いします。捕虜は労働者として役に立つと思われます。できるだけはやくかれらを元の生活に戻してやれば、さぞ喜ぶことでありましょう。」

12月16日 いまここで味わっている恐怖に比べれば、いままでの爆弾投下や大砲連射など、ものの数ではない。安全区の外にある店で掠奪を受けなかった店は一軒もない。いまや略奪だけでなく、強姦、殺人、暴力がこの安全区の中にもおよんできている。外国の国旗があろうがなかろうが、空家という空家はことごとくこじ開けられ荒らされた。………/たったいま聞いたところによると、武装解除した中国人兵士がまた数百人、安全区から連れ出され、銃殺されたという。そのうち、五十人は安全区の警察官だった。兵士を安全区に入れたというかどで処刑されたという。/下関(シャーカン)へ行く道は一面の死体置き場と化し、そこらじゅうに武器の破片が散らばっていた。交通部は中国人の手で焼き払われていた。挹江門は銃弾で粉々になっている。あたり一帯は文字どおり死屍累々だ。日本軍が手を貸さないので死体はいっこうに片づかない。安全区の管轄下にある紅卍字会(民間の宗教的慈善団体)が手を出すことは禁止されている。

12月17日 二人の日本兵が塀を乗り越えて侵入しようとしていた。私が出て行くと「中国兵が塀を乗り越えるのを見たもので」とかなんとか言い訳した。ナチ党のバッジを見せると、もと来た道をそそくさとひきかえして行った。/塀の裏の狭い路地に家が何軒か建っている。この中の一軒で女性が暴行を受け、さらに銃剣で首を刺され、けがをした。………アメリカ人のだれかがこんなふうに言った。「安全区は日本兵用の売春宿になった。」当たらずといえども遠からずだ。昨晩は千人も暴行されたという。金陵女子文理学院だけでも百人以上の少女が被害にあった。いまや耳にするのは強姦につぐ強姦。夫や兄弟が助けようとすればその場で射殺。見るもの聞くもの、日本兵の残忍で非道な行為だけ。

12月18日 最高司令官がくれば治安がよくなるかもしれない。そんな期待を抱いていたが、残念ながらはずれたようだ。それどころか、ますます悪くなっている。塀を乗り越えてやってきた兵士たちを、朝っぱらから追っ払わなければならない有様だ。なかの一人が銃剣を抜いて向かってきたが、私を見るとすぐにさやをおさめた。/中国人が1人、本部に飛びこんできた。押し入ってきた日本兵に弟が射殺されたという。言われたとおりシガレットケースを渡さなかったから、というだけで!………/危機一髪。日本兵が二人、塀を乗り越えて入り込んでいた。なかの一人はすでに軍服を脱ぎ捨て、銃剣をほうり出し、難民の少女におそいかかっていた。私はこいつをただちにつまみ出した。もう一人は、逃げようとして塀をまたいでいたので、軽く突くだけで用は足りた。………

▼上に抜き出したものは実際の記述の6分の1程度にすぎないが、大体の様子はわかる。
 日本軍による中国軍捕虜の銃殺が市内のあちこちで行われたこと、兵士たちの無秩序な掠奪、強姦、殺人が横行していたこと、それでも「ヨーロッパ人に対してはまだいくらか敬意を抱いて」いて、国際委員会のメンバーが無法の現場で制止すると日本兵はこそこそ逃げ出したこと、とくにラーベの「ナチ党の腕章」は効果があったこと、などが記されている。
 このラーベ日記の「証言」は、前回示した田中正明の本に登場した旧軍人の「証言」と、真っ向から衝突する。東京裁判に宣誓口供書を提出した脇坂部隊長は口供書の中で、「当時南京における日本憲兵の取締りは厳重をきはめ、如何に微細な犯罪も容赦しませんでした」と述べているし、畝本正己・独立軽装甲車小隊長は「軍全体は健全で、軍紀厳正な精鋭軍であった」と主張しているからである。
 しかしこの証言の「矛盾」は、容易に解くことができる。ラーベ日記が当事者の行動と見聞を時間を置かずに記録したものであるのに対し、元軍人たちの証言は事件の10年後、あるいは50年近く経ってからの「意見」に過ぎない。ラーベ日記は他の国際委員会メンバーの残している記録などと突き合わせることで、資料としての価値を確認することができるのに対し、元軍人たちの「意見」は「個人的な思い」以上の価値を持つものではない。

 秦郁彦は『南京事件』(昭和61年)で次のように言う。 《軍紀取締りに当るべき憲兵の数が不相応に少なかった。……南京占領直後に城内で活動していた正規の憲兵は、両軍合わせても30名を越えなかったと思われる。その不足を補うために一般兵から臨時の補助憲兵を集める予定にしていたが、実際の配置は1週間近くおくれた。これでは効果的な取り締まりを期待するのは困難というより、不可能に近かったであろう。》
 また笠原十九司は上海派遣軍の「質」について、『南京難民区の百日』(1995年)で次のように書いている。 《上海派遣軍は当初、軍部・政府に不拡大方針の意図があったため、一時的な派遣軍とされ、……現役の兵役を修了した予備役兵と5年4カ月の同役を修了した後備役兵の兵隊が多く派遣された。したがって兵士としては比較的高齢であり、多くが結婚して家庭をもっていた。……そうした彼らが上海戦終了後、所期の作戦目標が達成されたとして、妻子の待つ日本への帰還を待ち望んだのは当然であろう。しかし、南京攻略戦の開始は、彼らの期待を無惨にも打ち砕いた。そして、十分な休養も準備もないままに、補給を無視した南京進撃の強行がつづいた。そのために兵士が自暴自棄的になり、軍紀が弛緩し、退廃するのも無理からぬものがあった。》
 
 歴史家である秦郁彦や笠原十九司の仕事の質と、「南京虐殺」が「虚構」であることを主張したい田中正明の仕事の質を、比べるつもりは初めからない。ただ、一見確実な証言証拠に基づくように見えるが実は「虚構」である主張が、どのようにして作られるのか、南京事件を「虚構」とする主張を注意して見ていくと、見えてくるのである。

(つづく)

「南京事件」を考える 4 [歴史]

▼田中正明の主張を、あと少しだけ続ける。
 田中は南京攻撃に参加した日本軍の規律について、当時の軍将校の証言を並べ、軍紀は厳正に保たれた精鋭軍だったと述べる。

 「当時(占領後=筆者註)南京における日本憲兵の取締りは厳重をきはめ、如何に微細な犯罪も容赦しませんでした。」「私は十二月十五日、南京城内巡視の際、難民区(安全区)の実情を視察したいと考へましたが、憲兵が厳重に警備して居って部隊長と雖も特に許可がなければ立ち入りは禁ぜられてあると云って拒絶され、遂に内部を視察することを得ませんでした。その時もその後も私は難民区内で日本軍の不法行為があったことを聞きませんでした。」(東京裁判での脇坂部隊長の宣誓口供書)
 「当時〈下克上〉の風潮で、司令官の云うことなど聞かず、下部の将兵が勝手なことをしたのではないかと「虐殺論者」はいうが、そのようなことは絶対にない。若しそうだとするなら、あのような見事な完璧にちかい南京包囲作戦などできるはずがない。……一部将兵に過剰な行為があったかもしれないが、軍全体は健全で、軍紀厳正な精鋭軍であった。」(畝本正己・独立軽装甲車小隊長の論文 昭和59年)
 だから、《日本の兵隊がトラック3台を連ねて、金陵大学の女生徒を廊下に並べて強姦ゲームをしたとか、難民区内に押し入って寝具や食糧を掠奪したなどという証言がいかに大ウソであるか理解できよう》 というのが、田中の主張である。

 また日本軍兵士の質について、支那事変が拡大し戦線が拡がるにしたがって師団数は増やされ、兵隊も粗製濫造、中年男子まで動員するにいたったが、南京戦当時は《バリバリの現役兵で、畝本氏もいうように文字通り日本の精鋭であった》と田中は考える。

▼田中正明の、「南京虐殺」は「虚構」だとする「証明」はまだまだ続くが、おおよその主張は上に示した。要するに田中は、「南京事件は東京裁判の時点で創作発表された虚妄のドラマ」だとし、「大虐殺」の主張をする人々は、中国政府ないし中国人「証人」の発言を、内容の吟味なしに鵜呑みにしているに過ぎない、と批判するのである。

 「事件」当時南京には、中国人以外に少数の外国人がいた。彼らは南京に「安全区」(あるいは「難民区」)をつくって城内にいる中国人市民を守ろうと奔走し、その記録を残している。
 外国人とは、南京の金陵大学で教える教授やキリスト教会関係者、病院の医師、民間企業の管理者などで、イギリス、アメリカ、ドイツ人、デンマーク人である。彼らは日本軍の南京攻撃を前に各国大使館が館員を引きあげた後も南京に残り、「南京安全区国際委員会」をつくり、南京城内の約8分の1にあたる地域を「安全区」とするよう、中国軍の南京防衛司令長官と日本政府に働きかけた。「安全区」を非武装地帯とし、日中双方から認めてもらうことで、地区の安全を確保しようとする構想である。
 南京防衛軍司令長官は、「安全区」から軍関係者や軍事施設を撤去させると約束した。しかし司令長官の約束のあとも、中国軍が地区内にあらたな塹壕を掘り、軍の電話を引いたりしていたことが、「南京安全区国際委員会」の代表に選ばれたドイツ人ジョン・ラーベの日記に記されている。
 日本政府からの回答は、「安全区の設置に同意できません。ただ軍事上の必要な措置に反しないかぎり、当該地区を尊重するよう努力する所存です」という内容だった。ラーベはこの回答に、「言質を取られないように用心しているが、基本的には好意的だ」と受け止める。

▼ジョン・ラーベ(1882-1950)は事件当時、ドイツのジーメンス社の南京支社長だった。1908年から北京や上海で働き、ほぼ30年間を中国で過ごしていた。第一次大戦後、彼は日記をつけ始め、これに情熱を注ぐようになった。
 ラーベの日記を出版するために編纂した歴史学者で元外交官であるE.ヴィッケルトは、学生時代に南京のラーベ家で数週間を過ごしたことがあり、ラーベを個人的に知っていた。彼によればラーベは素朴で親切で謙虚、人に愛される健全な常識の持ち主であり、ユーモアがあり、実務的能力に富んでいた。中国の芸術にかなり詳しかったが専門家ではなく、政治にはあまり関心がなかったが愛国者であり、ヒトラーが平和を望んでいると素朴に信じていた。
 ラーベはジーメンス社の中国人従業員を守るために南京に残る決心をし、8月15日から始まった日本軍の空爆に備えて自宅の庭に防空壕を掘らせ、空から見えるようにハーケンクロイツの大きな旗を広げた。また委員会として南京市から米や小麦粉を貰い受け、必死で安全区に運び込んだり、「安全区」から中国軍と軍の施設を残らず引き上げるよう南京防衛軍司令長官に抗議に行ったり、「安全区」を市民に知らせる方法について議論したりと、忙しく走り回った。
 南京市の市民たちは空爆以来つぎつぎと市を出て揚子江をさかのぼり、漢口や重慶の方へ移住していき、市内には行くあてのない貧しい人々が残され、「安全区」へと移動した。12月7日には南京市長が姿を消し、国際委員会が「安全区」の行政上の問題や業務をすべて処理しなければならなくなった。ラーベは事実上の「市長代理」になってしまい、「まったくなんてことだ!」と日記に書く。

▼以下、ラーベが異常な情熱のもとに毎日記した日記(『南京の真実』1997年)に拠り、日本軍占領前後の南京城内、とくに「安全区」の状況を見ていくことにする。
 日記は手紙と並んで歴史学上の「一次資料」であり、南京「安全区」を実質的に創り管理していた組織の代表者の日記は、きわめて貴重な資料といえる。
 「南京事件」を「まぼろし」だと主張する者の中には、「ラーベ日記」は「三等資料」だと酷評する者もいるようだが、田中正明の本の内容と「ラーベ日記」の内容を比較検討するなかで、自ずと見えてくるものがあるだろうと筆者は考えている。

(つづく)

「南京事件」を考える 3 [歴史]

▼著者・田中正明は『「南京虐殺」の虚構』の証明を、当時の新聞記事の点検から始める。「朝日」、「東京日日」、「読売」3紙の昭和12年12月から13年2月までの紙面を詳しく点検し、《自主規制や検閲があったとはいえ、この三紙のどのページをくってみても虐殺や暴行の匂いさえも感じられない》と書く。
 たとえば朝日新聞は南京陥落(12月13日)後の状況を、7回にわたる写真特集で伝えた。12月20日の新聞は「皇軍を迎えて歓喜沸く/平和甦る南京」とタイトルを掲げ、4枚の写真(17日撮影)で半ページを埋めているが、1枚目は「兵隊さんの買物」で、露天商で買い物する兵隊を市民が取り巻いている写真である。2枚目は「皇軍入城に安堵して城外の畑を耕す農民たち」、3枚目は「皇軍に保護される避難民の群」と題する写真で、20~30人ほどの市民がぞろぞろ市内に帰ってくる風景である。4枚目は「和やかな床屋さん風景」で、腕に日の丸の腕章をまいた支那人の床屋が、街頭で日本兵の頭を刈っている写真。
 田中は言う。《一方で何十万人という虐殺が行われているのに、他方でこのような和やかな風景が展開されるなど、どうして想像できようか。》
 朝日新聞の22日の写真特集は「きのふの敵に温情/南京城内の親善風景」と題し、「治療を受けている支那負傷兵」や「皇軍将兵の情に食欲を満たす投降兵」(支那人捕虜が大勢ならんでいる間を日本兵が白飯を配給している)など、5枚の写真。
 25日は「南京は微笑む/城内点描」と題して、「玩具の戦車で子どもたちと遊ぶ兵隊さん(南京中山路にて)」、「戦火収まれば壊れた馬車も子どもたちの楽しい遊び場だ(南京住宅街にて)」など4枚の写真である。「支那人の子どもの無心に遊ぶさまを眺めて、兵隊さんは国に待つわがいとし子を偲んでいるのだ」と、特派員は記事を添えている。
 
 田中は言う。南京は総面積僅か40平方キロメートル、世田谷区の5分の4の広さしかない。その狭い地域に新聞・雑誌・ラジオ・映画等のカメラマンや従軍記者120名が取材に入り、特ダネを競い合っていた。大宅壮一、木村毅、西条八十といった高名な文筆家もその中にいた。
 《東京裁判によると、初めの一週間に児女を含む六万五千人の中国人が虐殺され、日本軍による計画的な放火・略奪・強姦・殺戮の‘悪魔の饗宴’がピークに達し、それが四十日間も続いたと云う。これだけの血なまぐさい大惨劇が連日行われたというのに、120人もの従軍記者や特派員カメラマンのだれ一人として目撃した者もおらず、噂を聞いた者すらいないということは、いったいどう解釈したらいいのか。》

▼著者・田中正明は次に、当時現地にいた人びとの証言を集め、「南京虐殺」が虚構であることを証明する。
 福田篤泰はのちに自民党代議士として防衛庁長官や郵政大臣となったが、当時は南京大使館の外交官補として「国際委員会」からの抗議や苦情に対応していた。
 《………日本軍に悪いところがあったことも事実である。しかし、二十万、三十万の虐殺はおろか千単位の虐殺も絶対にない。あの狭い城内に日本の新聞記者が100人以上も入っていたのである。外人記者も外国の大公使館の人々も見ている。船も外国の艦船が五隻も揚子江に入っている、いわば衆人環視の中である。そんなこと(虐殺)などしたら、それこそ大問題だ。絶対にウソである。宣伝謀略である。……一番の難問題は難民区の中に逃げ込んだ便衣隊をどう摘出するかということであった。委員会では普通の良民がひっぱられたといって訴えてくる。ぼくらは軍に、気をつけてくれと申し入れる。帽子のあとがあるとか、丸坊主だとか、手に銃を持ったタコがあるとか、ともかく数千の敗残兵が難民区に逃げ込み、委員会がこれを許してかくまった。しかも何の識別もしなかった。それがのちのちの問題になったわけである。……便衣隊は戦時国際法の違反であり、即時射殺も構わないことになっている。この処刑問題があっただけで、それも数からいえば千人足らずと思う。》

 当時、同盟通信の従軍記者として前線部隊と行動を共にした前田雄二(日本プレスセンター専務理事)の証言は、次のようなものである。
 《いわゆる‘南京大虐殺’というのは、……主として住民婦女子を虐殺したというものだ。ところが、殺されなければならない住民婦女子は<難民区>内にあって、日本の警備司令部によって保護されていた。そして私の所属していた同盟通信社の旧支局はその内にあり、入城4日目には、私たち全員この支局に居を移し、ここに寝泊まりして取材活動をしていた。すなわち難民区内が私たちの生活圏で、すでに商店が店を開き、日常生活が回復した住民居住区の状況は逐一私たちの耳目に入っていたのだ。こういう中で、万はおろか、千、百あるいは十をもって数えるほどの虐殺が行われるなど、あり得るはずがなかった。すなわち、「捕虜の処刑、殺害」はあったが、それは戦闘行為の枠内で論ぜられるべきものであって、非戦闘員の多量虐殺の事実はなかった。それがさも事実があったかのように伝えられ、教科書にまで記載されるということは見過ごしていいことではない。》

 福田篤泰の証言も前田雄二の証言も顔写真入りで紹介されており、当時現地で活動していた人の言葉としてそれなりの重みを持つ。

▼上の福田証言、前田証言がいみじくも触れている「便衣隊」や「捕虜」の扱いの問題は、「南京事件」の最大の焦点なのだが、詳しくは後で検討することにし、ここでは田中正明がどう弁明しているかを見ておこう。「便衣隊」とは、日本軍の手から逃れるために、軍服を脱いで便衣(平服)に着替えた中国軍兵士を指している。南京軍司令長官・唐生智が12月12日に南京城を脱出したあと、逃げ遅れた兵士たちの一部は武器を捨て軍服を脱ぎ捨て、安全区に逃げ込んだのだ。
 《……悪性の捕虜―――たとえば武器を隠匿して床下や屋根に潜んでいる者、降伏するとみせて逃亡をはかる者、最後まで抵抗をやめないもの、便衣に代えて潜伏している者、………すなわち戦時国際法において捕虜に該当しない敗残兵や便衣隊も相当おり、これらを処刑したことも事実である。》
 《これは戦時国際法に違反する便衣隊や悪質捕虜に対して撮った「応急措置」であり、「虐殺」とは言えない。》

▼田中正明は、中国軍兵士による放火、略奪、破壊、殺戮が日本軍の犯罪とされた、という主張もしている。
 《清野作戦―――または<空室清野作戦>ともいうが、……当時支那軍の敗退時における〈略奪〉と〈焼払い〉は、彼らの常套手段であった。すなわち侵攻してくる日本軍を困憊に陥れるため、家屋を焼き、食糧―――とくに収穫期の米倉や稲架や薪炭貯蔵庫に火を放って焼き、日本軍に宿泊所も食料も与えないという作戦である。上海から南京までの戦闘で、この作戦は徹底してとられた。南京戦もその例外ではなかった。》
 そして南京で指揮官が脱出したあとの中国軍敗残兵が暴徒化し、放火、略奪がいたるところで発生したことを、田中はニューヨーク・タイムス記者の記事や匿名の外国人の日誌を引用して述べている。

(つづく)

「南京事件」を考える 2 [歴史]

▼「南京事件」について語るためには、もう一つ、「論争」の歴史を見ておくことが有意義だろう。「事件」がどのように取り上げられ、問題とされてきたのか、検討に入る前の準備作業として簡単に見ておきたい。

 大半の日本人が「南京事件」について知らされたのは、事件発生後十年近くを経た「東京裁判」を通じてだった。検察側は多くの証人証言と口供書を提出して南京の虐殺を糾弾し、はじめて事件を耳にする日本人は驚愕した。
 裁判の判決は、「南京が占領された後、最初の二,三日の間に少なくとも一万二千人の非戦闘員である中国人男女子供が無差別に殺害され、占領後の最初の一か月の間に約二万の強姦事件が市内に発生した。また、一般人になりすましている中国兵を掃蕩すると称して、兵役年齢にあった中国人男子二万人が集団的に殺害され、さらに捕虜三万人以上が屠殺された」と述べた。被害者の総数は「約十二万人」とされ、また判決文の別の個所では、「後日の見積もりによれば、日本軍が占領してから最初の六週間に南京とその周辺で殺害された一般人と捕虜の総数は、二十万人以上であった」とした。
 事件の責任者として松井石根(いわね)元大将(元中支那方面軍司令官)が死刑にされたが、松井は処刑前、教誨師だった花山信勝に、巣鴨拘置所で次のように語っている。

 「私は日露戦争の時、大尉として従軍したが、その当時の師団長と、今度の師団長などを比べてみると、問題にならんほど悪いですね。日露戦争の時は、シナ人に対してはもちろんだが、ロシア人に対しても、俘虜の取扱い、その他よくいっていた。今度はそうはいかなかった。政府当局ではそう考えたわけではなかったろうが、武士道とか人道とかいう点では、当時とは全く変っておった。慰霊祭の直後、私は皆を集めて軍総司令官として泣いて怒った。その時は浅香宮もおられ、柳川中将も方面軍司令官だったが。折角皇威を輝かしたのに、あの兵の暴行によって一挙にそれを落としてしまった、と。ところが、このことのあとで、みなが笑った。甚だしいのは、或る師団長の如きは「当り前ですよ」とさえいった。従って、私だけでもこういう結果になるということは、当時の軍人達に一人でも多く、深い反省を与えるという意味で大変に嬉しい。折角こうなったのだから、このまま往生したいと思っている。」(『平和の発見』花山信勝 昭和24年)

▼「南京事件」が日本の社会で次に話題になるのは、日本と中国が共同声明を発表し国交を回復した昭和47年前後の時期である。朝日新聞が本多勝一のルポルタージュ「中国の旅」を連載(昭和46年)して、戦争被害を受けた多数の中国人庶民の体験談を紙面に載せ、洞富雄の研究書『南京事件』が発行された(昭和47年)。
 また本多のルポで触れられた「百人斬り競争」を、虚報だと批判するイザヤ・ベンダサン『日本教について』(昭和47年)や鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』(昭和48年)、山本七平『私の中の日本軍』(昭和50年)が出版された。文芸春秋の雑誌「諸君!」誌上で、本多勝一とベンダサン・山本七平の論争が華々しく行われ、洞富雄は『「まぼろし」化工作批判・南京大虐殺』(昭和50年)を書いて、「百人斬り競争」は虚報ではないと本多を擁護した。
 このときの「論争」は、東京裁判が裁いた「南京事件」全体に関するものではない。
 上海から南京へと攻撃を続行する上海派遣軍の将校二人が、「百人斬り競争」をしたと当時の新聞(東京日日新聞)で報じられ、その記事を根拠に戦後BC級戦犯として国内で逮捕され、南京法廷で死刑にされた。この記事ははたして事実の報道だったのか、それとも戦意高揚のための「創作記事」、つまり「虚報」だったのか、という点をめぐる「論争」だった。
 鈴木明『「南京大虐殺」のまぼろし』は、「南京事件」全体についても触れているが、もっとも力が入っているのは「百人斬り競争」に関する著者の調査であり、事実に執拗に迫る調査の迫力が、読み手を感服させた。大宅壮一ノンフィクション賞を受賞したが、選考委員の中には書名について、「南京事件」全体を「まぼろし」と言っているように聞こえると、問題にする者もいたという。

▼しかし間もなく、「南京事件」全体を「まぼろし」だと主張する議論が、盛んに行われるようになる。
 昭和57年6月、前年の高校教科書検定で文部省が「日本軍の大陸侵略」という記述を「日本軍の大陸進出」に書き改めるよう要求した、というニュースを新聞各紙が報じ、中国・韓国から強い抗議がなされた。やがてそのような事実はなく、誤報であることが明らかになったが、政府は近隣諸国に配慮して教科書の検定を行うとする官房長官談話(宮沢喜一)を発表し、事態の鎮静化を図った。
 この官房長官談話を境に、各教科書が「南京虐殺」の記述を載せはじめたが、それに反発し虐殺を否定する議論と運動も台頭した。
 『「南京虐殺」の虚構』(田中正明 昭和59年)は、「南京事件」は虚構であることをいろいろな角度から「論証」し、「まぼろし」だと主張したい人々から喜び迎えられた書物である。渡部昇一は、「本書を読んで、今後も南京大虐殺を言い続ける人がいたら、それは単なる反日のアジをやっている左翼と烙印を押して良いだろう」と絶賛した。
 著者の田中正明は、奥付の著者紹介によると、明治44年生まれ。大亜細亜協会、興亜同盟の職員を経て応召、大亜細亜協会の職員時代に松井石根の中国講演旅行に同道した、とある。戦後は地方新聞の編集長、世界連邦建設同盟事務局長などの仕事に就き、この本の出版当時は拓殖大学講師、評論家だった。
 『「南京虐殺」の虚構』は、仏教に帰依する松井石根の人柄を叙述するなど、松井の名誉回復を大きな動機として書かれているが、「南京事件」を否定する論理はひととおり網羅されているので、これを使って議論を整理していこうと思う。

(つづく)

「南京事件」を考える 1 [歴史]

▼前回、オスマン・トルコ帝国時代に起きた「アルメニア人虐殺」について、トルコ政府は「歴史認識」を改め、「ジェノサイド」を認めるように求めるドイツ連邦議会の決議への違和感を述べた。なぜ100年前の「歴史」に属する事件を、直接の関係者でも関係者の子孫でもない者が「政治」の場に持ち出すのか理解できない、それは「政治の劣化」ではないのか、という疑問を述べた。
 しかし「政治の道徳化」あるいは「道徳の政治化」とも評すべき動きは、わかりやすい正義の実現を求める大衆の心性を背景に、世界各地でいっそう加速されそうな勢いである。秦郁彦は、「21世紀は歴史観の争いになるのではないかと予想している」という。

 《………サミュエル・ハンチントンが二十一世紀は文明間の争いになると予言しています。………ハンチントンの説はともかく、私はこの21世紀はとりあえず歴史観の争いになるのではないかと予想しています。歴史観で争うのは、血を流して殺し合うよりはいいという考え方もあろうかと思いますが、そう単純なものではない。歴史観の争いは決め手がないので、結局は権謀術数、お互いに足を引っ張り合ってとめどもない複雑な政治的論争になる。その時に、損をするのは良心的な人、気の弱い人で、人を国に置き換えても同じことが言える。政治のリーダーがしっかりしていない国はどうしても分が悪いのです。》(『現代史の対決』秦郁彦 2003年)

 秦の発言は「南京事件」に関する講演(2000年)でマクラとして述べられたものであるから、そのことを念頭に置く必要があるが、その後の国際政治の動きを見ると、気のきいたアフォリズムとして聞き流すことも難しい。日韓、日中の政治対立の半ば以上は、領土問題という古典的な利害の争いではなく、歴史観、歴史認識の対立という形を取って現れているからだ。
 筆者はこのような傾向を、「政治の劣化」として愚かしい唾棄すべきことと考え、歴史は歴史の領域に置くべきだと強く思うが、そう主張する以上、歴史は歴史として可能な限り事実を究明する必要があるだろう。
 「南京事件」については日本国内で、歴史の考証を専門とする学者だけでなく、民間の研究者の研究、南京攻略に関わった元軍人や兵士の証言、まったくのシロウトの野次馬的発言まで、山のような文献がある。南京で大量の虐殺が行われたという説から南京虐殺は「まぼろし」だという説まで、主張が対立し互いに内輪で盛り上がっている構図は、「従軍慰安婦」問題とも似かよっている。
 筆者は新たな見解を述べる新資料も力もあるわけではないが、過去になされた発言を整理し、どこで、どのようにして、歴史の事実認定が分かれるのかを見てみたいと思う。

▼「南京事件」について語るためには、事件に至るアウトラインを押さえておく必要がある。関係事項を年表風に記せば、次のようになる。

 昭和12年7月、盧溝橋事件。北京郊外の盧溝橋付近で日本の駐屯軍と中国軍が衝突。日本は戦火の拡大を恐れつつ、「一撃を与えれば中国側は折れ、有利な停戦に持ち込める」という主戦論に引きずられ、陸軍の増派を決定。
 8月に上海で海軍陸戦隊と中国軍が交戦。中国国民政府は「自衛戦争」を宣言し、日本は「……支那軍の暴戻を膺懲し以て南京政府の反省を促す為、今や断固たる措置をとるの已むなきに至れり。……然れども帝国の庶幾する所は日支の提携にあり……固より亳末も領土的意図を有するものにあらず……」という政府声明(8月15日)を出した。
 11月、上海派遣軍の杭州湾上陸によりようやく上海を占領する一方、日本はドイツの駐中国大使トラウトマンを通じて、蒋介石との和平工作を進めた。参謀本部は上海派遣軍に上海付近に留まることを命じたが、派遣軍(第十軍)は「全力をもって独断南京追撃を敢行す」と決めた。南京は上海から400キロ揚子江の上流にあり、1927年(昭和2年)から国民政府の首都となっている。派遣軍は南京に向けて進軍し、蘇州、無錫、句容など周辺都市をつぎつぎに占領する。
 12月1日、大本営は南京攻略を命令。
 12月7日、蒋介石夫妻、南京を脱出して漢口へ移る。
 12月8日、南京市長ら南京を脱出。
 12月8日、南京衛戍司令官・唐生智将軍宛の降伏勧告
 12月10日、南京総攻撃開始
 12月13日、南京陥落
 12月16日、難民区掃討
 12月17日、南京入城式
 12月18日、慰霊祭
昭和13年1月16日 近衛首相「蒋介石を相手にせず」の声明

(つづく)

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