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能登・金沢の旅 [旅行記]

▼先週末、能登に行った。一年に一度、仲間たちといっしょに旅をする今年の旅行先である。
 「のと里山空港」は、緑の木々で覆われた山の中だった。羽田からここまで約1時間、空港から輪島の街までバスで20分である。東京から陸路を来れば半日以上かかる辺鄙な場所だが、新しい交通手段の出現は、地図をすっかり書き換えてしまう。
 バスは「輪島駅」に着いた。以前は鉄道駅だったのだが、2001年に廃線となり、今は駅舎は「道の駅」となり、「観光案内センター」などが入っている。集合時間まで時間があったので、輪島の街を歩いてみた。
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 地方都市では、シャッターを閉じた商店街や、駐車場になった商店跡地を見ることが、いまでは普通である。しかしこの町では、「輪島駅」前で閉店したホテルを見かけた程度であり、寂れた感じのする場所は見かけなかった。黒色で光沢のある瓦屋根の民家や商店が多く、電線の地中化が進んでいることもあり、街並みはしっとりと落ち着いて見えた。
 昼飯は寿司屋で、「のどぐろ」の握りを注文した。「のどぐろ」の身を軽く火にあぶって握ったもので、1カン500円だったが、脂が乗っていてさすがに美味かった。
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 2時に全員11人が集合し、タクシー会社のマイクロバスに乗り、まずキリコ会館に行った。キリコという音からガラス細工を連想し、あまり魅力を感じなかったのだが、運転手が勧める言葉に素直に従って、立ち寄ったのである。キリコとは、この地方のお祭りで神輿のお供として担がれ、練り歩く、直方体の行燈のようなものである。行燈の四面には文字や絵が描かれ、「ねぶた」の武者絵を連想するが、「ねぶた」の絵は山車に乗せて引っ張り、キリコは神輿と同様に人間がかつぐ。大きなものではひとつを100人で担ぐこともあるという。  
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 有名な白米千枚田は、稲刈りが終わっていた。丘の斜面につくった小さな不定形の水田が、海に向かって続いている。いまは土地の農家だけでなく、「賛助会員」のような制度をつくって維持しているらしい。正確には1004枚なのだと、運転手は言った。
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 上時国家(かみときくにけ)は、平清盛の義弟が平家の滅亡後、許されてこの地に流され、子孫が周辺の村々を大庄屋として束ねてきた、その館である。入母屋茅葺の巨大な民家で、建てられたのは180年前・天保時代だという。

 日が暮れてきて、最後に伝統的な手法で塩を作っている小屋を覗いた。砂浜に海水を撒いて少しずつ濃縮し、それを煮詰める方法をとる小屋は、道に沿っていくつかあったが、われわれが覗いたのは、垂らした「すだれ」の上から海水をかけて濃縮し、それを煮詰めて塩にする手法をとっている、という説明だった。

 翌日は輪島漆芸美術館を見学し、朝市を見、皆でいっしょに昼食を取って別れた。

▼仲間はその後、和倉温泉や片山津温泉に泊まる者や、白川郷に出て泊まる者などいろいろだったが、筆者は特別なあてもなく、金沢に泊まることにしていた。輪島からバスに2時間以上揺られ、金沢駅に着くと、駅前は観光客でごった返していた。
 筆者は、金沢に来るのが3度目のせいか、街のおおよその見当はついていたし、特に訪れたい所もなかった。時間を考え、バスで「ひがし」の茶屋街を見に行き、早めにホテルに入った。
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 翌日は、金沢21世紀美術館を見に行った。芝生の中に構えることなく、ガラスと白色パネルで造られた建物があり、敷地のあちこちに置かれた「現代アート」の作品は、子どもたちの手ごろな遊び道具となっていた。現代アートの目指すひとつの方向として、人がそこに「参加」することによって完成する作品、というような言葉をよく耳にするが、それは例えばこういうようなものなのだろうか、と思った。
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 伝統的な絵画や彫刻は、あくまでも完成形であり、ひとびとはそれを「観賞」することが求められる。それとは違う「アート」と人間の関係を、素直に示し受け容れる場として、21世紀美術館の建築と展示は示唆に富んでいた。「まちに開かれた公園のような美術館」をコンセプトにした、妹尾和世+西島立衛(SAANA)の作品だという。
 城や武家屋敷や伝統的な家屋群が特徴づける古風な金沢の街に、超現代的な建築は意外にマッチする。21世紀美術館がそうであるし、新しい金沢駅の建物もそうであろう。
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【金沢駅】
 犀川を見に行った。曇り空がようやく晴れ、秋の陽に郊外ののどかな風景が心地よかった。
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 武家屋敷の雰囲気を残す長町を歩き、近江町市場を覗き、兼六園を回り、小松空港から帰京した。
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ハワイ旅行 3 [旅行記]

▼四日目は少しのんびりしようと、A夫妻とY君と4人でカイルア・ビーチに出かけた。アラモアナ・センターでバスを乗り換え、そこまではたいへん順調だったのだが、うっかりカイルアを乗り過ごし、終点から引き返す羽目となった。
 カイルア・ビーチはオアフ島東部の海岸で、ワイキキから車で30分の距離である。その美しさは全米有数のものという話だったが、たしかに浜辺の樹々と白砂とエメラルド色の海のつくりだす素朴な景色は、いつまで眺めていても見飽きることがない。
 浜辺の砂は、砂というより粉というべききめの細かさで、手ですくってみてその感触に驚いた。
 海の上にたくさんのカイト(凧)が舞っていた。

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【カイト(凧)に引っぱられる力でボードを水上スキーのように走らせている人が何人もいた。日本に帰って調べてみたら、カイト・ボードと呼ばれるスポーツらしい】

▼軽い昼食を浜辺近くの食堂で済ませ、バス停まで10分ほど歩いた。途中で「トランプ」と書かれたポスターを見た。大きな字の「トランプ」の下に、少し小さな字で「ペンス」とあり、「アメリカを再び偉大にする」と書かれていた。これが今回の旅行中に見た唯一の大統領選挙のポスターだった。
 もう少し歩くと、住宅の新築工事をやっていた。かなりの豪邸と言える大きさで、プールも備えられていた。だが、一年を通じて温かなハワイの美しい海辺近くで、なぜプールが必要なのか、不思議に思った。
 アメリカ人の「高級住宅」の観念が、彼らを縛っているのではないか、と考えた。「高級住宅」であるかぎりプールは備わっていなければならず、プールがなければ住宅に高い値を付けることができない、といったわれわれには理解できないアメリカ人の「常識」が、そこに介在しているように思った。

 同じようなことは、アメリカの政治にも言えるのではないか、と筆者の考えは勝手に進んだ。アメリカほど資産格差、所得格差の激しい国で、なぜ格差是正、所得の再分配の主張が堂々と出てこないのだろうか。なぜ、「茶会」のような逆向きの運動ばかりが、盛り上がるのだろうか。ヨーロッパや日本の政治では考えられないことである。
 アメリカでは伝統的に「自助・自立」を尊ぶ精神が強いから、というのが予想される回答だが、その「自助・自立」が動かすべからざる一種のイデオロギーとなって、アメリカ人の思考を縛っているのではないだろうか。そしてそのイデオロギー支配のもとで追い詰められた人びとが、出口のない状況を打ち破ってくれるものとして「アンチ既成政治家」に期待しているのが、「トランプ現象」なのではないか。………

(不幸なことに、アメリカ社会の「政治」に対する憤懣は臨界点に達していたらしく、「トランプ大統領」を生み出してしまった。同時に行われた議員選挙を通じて共和党は上下両院の多数を制したから、本来なら大統領の政策を実行できる条件が整ったわけだが、ハイパー・ポピュリストのトランプの政策に、議会の賛同を得られるものは多くはないだろう。
 また国際政治に関心も経験もなく、最も不向きな性格の人間がアメリカ大統領になることで、世界が不安定化し、既成秩序を破る側を喜ばせることは避けられないだろう。困ったことである。)

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【浜辺近くの食堂に、オバマ大統領が立ち寄った時の写真が飾ってあった】

▼帰りのバスの終点、アラモアナ・センターで3人と別れ、土産をいくつか買い、ホテルに帰った。
 夜、われわれの部屋に10人ほど集まり、軽く飲んで旅行の打ち上げ。参加者は皆それぞれ満足そうな面持ちだったが、筆者もひと仕事無事に終える満足感に浸った。
 〈ハワイ〉という体験も悪くはなかった、と思う。それが予期した以上に充実した時間となったのは、旧友たちと一緒に過ごした時間だったからであろう。

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▼帰りの航空機の座席は一番後ろの列だった。客室乗務員の作業スペースとトイレの近くなので、頻繁に人が横の通路を通る。
 ひどい席になりましたな、と隣の男が声をかけてきた。機内は肌寒いのに半袖のTシャツ姿で、かなりの年配のように見えた。お一人ですか?と話を向けると、ハワイが好きでよく一人で行くのだと言った。
 ………でももう飽きた。いま76歳ですが、買いたい物もないし、食事も油っこくて美味くない。日本食が一番………
 ………初めてハワイに行ったのは1ドル360円の時代だった。外貨の持ち出し制限がありましてね、あまり買い物をして帰ると日本の税関で捕まってしまう。ガイドが、ギャンブルで儲けたと申告すればよいと知恵を付けてくれた………
 ………泳ぐのが好きなんで、プールで泳いで、あとは一日ホテルの窓から外を眺めていました………

「もう飽きた」という彼のつぶやきには、もう十分遊んだからという思い以外に、自分の老いが重ねられていたかもしれない。見ず知らずの男の言葉には、どこか胸に響くものがあった。
 芭蕉の名句をもじって一句が頭に浮かんだ。

 おもしろうてやがて哀しき布哇かな

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(終)


ハワイ旅行 2 [旅行記]

▼飲茶の店で昼食をとり、ワイキキへ戻ることにした。筆者は途中でバスを降り、一人でマキキ教会を見に行った。
 曇り空からときどき細かな霧状の雨が降った。傘を開く間もなくすぐに上がり、日が差しはじめるのだが、またすぐに霧状の雨にもどり、これが何度も繰り返される。土地の人間はこれを「シャワー」と呼び、天候の良い7、8月でもよくあるのだという。
 マキキ教会を建てた奥村多喜衛牧師は19世紀末にハワイに渡り、半世紀以上のあいだ日系人の社会的精神的指導者として活動した人物である。(奥村多喜衛については昨年ブログに書いたので、以下を参照。)
http://www7b.biglobe.ne.jp/~yyosino917/biblio-okumura.html#okumura

 奥村が故郷の高知城を参考にして建てた「聖城マキキ教会」は、すぐにわかった。入口が閉まり、人けがなかったので、「シャワー」を避けながら写真を撮り、引き上げることにした。

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【教会に城の建築はふさわしくないという批判に対し、奥村牧師は聖書・詩篇の「神はわが避難所、敵から守る堅固なやぐら」という言葉を示し、反論したという】
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【マキキ教会と道路を挟んでマッキンレー高校がある。その敷地内のアメリカねむの木】

 夕方、海辺の高級ホテルのバーで旅行参加者が顔を合わせた。浜辺で打ち上げられる花火を見た後、場所を変えて食事。ビーフ・ステーキを食べるが、可もなく不可もなくといったところか。
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【高級ホテルのプールサイドから日没時の海を眺める】
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【ミス・ハワイのコンテストが終ったあとか?バーへ向かって歩いていると美女たちが現れたので撮らせてもらった】

▼三日目はパール・ハーバーへ行くことを予定していた。朝の時間を節約するために、ホテルの下に入っている食堂で朝食。クリームとイチゴが乗ったパン・ケーキを頼んだが、ふわふわしていてとても不味い。どのガイドブックにもパン・ケーキは、ハワイの名物のようにでかでかと写真入りで紹介されているのだが、どうしたものか。
 A夫妻はO君の車で半日ドライブに出かけ、筆者はY君と二人でバスに乗った。しかし途中で財布を忘れてきたことに気づいた。
 前の晩、ズボンの尻ポケットから出したような記憶があるが、それからベッドサイドのテーブルの上に置いたのか、部屋の金庫に入れたのか、まるで覚えがない。ドル札はポケットに持っているので今日の行動に支障はないが、心配を抱えながら半日を過ごすのも気持ちの良いものではない。今ならまだ、室内の掃除は取り掛かっていないだろう。そう考えて、引き返すことにした。
 Y君と別れ、部屋に戻ったが、財布はテーブルの上にも金庫の中にもなかった。探し回った末に、洗面用具を入れている小さなバッグを覗くと、なぜかその中にあった。年寄りの物忘れと突飛な行動には、我ながら苦笑するしかなかった。

▼結局筆者は、予定より1時間半遅れてパール・ハーバーに着いた。ここにはアリゾナ記念館や戦艦ミズーリ記念館、潜水艦や航空機の博物館などがあり、一帯が公園のようになっている。
 アリゾナ記念館は、1941年12月7日早朝の日本海軍の攻撃とその後の戦闘で亡くなった人びと2400人を追悼する施設である。戦艦アリゾナはその時沈没したアメリカ戦艦のうちの1隻であるが、今もなお乗組員1200人の遺体を残したまま真珠湾の海底に沈み、記念館はその船体の真上に建てられている。
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【白い記念館の真下、水面下2.5メートルのところに戦艦アリゾナが沈んでいる】

 見学は、数十人ずつ見学者が集まったところで、まず当時の国際政治や日本軍の攻撃の様子を説明する20分ほどの映画を見せ、そのあと海軍のシャトルボートに乗せて記念館まで運ぶ。記念館の中に見学者を入れることもあるようだが、われわれの回は周囲を回っただけで桟橋に戻った。
 戦争へ至る歴史とハワイでの戦闘をもの語る資料館を、ゆっくりと見て回った。真珠湾攻撃がどのように行われ、それに対し米軍側がどのように行動し、あるいは行動できなかったか、事実を客観的に述べるというスタイルで一貫しているように見えた。
 「真珠湾攻撃」と一言で言われるが、日本海軍の攻撃はハワイにある6か所の飛行場に対しても行われ、それらの総称として「真珠湾」が使われていることを、筆者は初めて知った。
また、山本五十六の主導した航空機主体の攻撃戦術が、それまでの戦艦主体の海戦の常識を一変させたとも述べられていた。
 真珠湾攻撃によりアメリカの太平洋艦隊は壊滅的打撃を受けたが、日本軍の損失は潜水艦と飛行機併せて65人の戦死者を出しただけだったこと、しかし米海軍は6カ月後のミッドウエーの海戦に勝利し、戦争の帰趨を決定したことなどが、淡々と説明されていた。
 「卑怯な不意打ち」などという言葉はなく、日本の爆撃機の「大胆な攻撃 bold attack」、山本五十六の「大胆不敵な冒険 daring gamble」といった、敵を称賛するかのような表現が使われていることが、印象に残った。
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【戦死者の名前が刻まれている】

▼スタートが遅れたために、すでに12時をかなり回っていた。戦艦ミズーリ記念館にも行く予定だったが、それは取りやめワイキキに戻った。高級ホテルの浜辺のビーチ・バーでビールを飲み、遅い昼食をとった。

 あとで顔を合わせたY君の話では、彼はアリゾナ記念館には行かず、戦艦ミズーリ記念館と航空機博物館に行ったのだという。
 ミズーリ号の名は、筆者は降伏文書の調印が行われた場所として知っているだけだったが、戦艦として沖縄海戦に出撃しており、特攻機の攻撃を受けている。特攻機のほとんどは敵艦に到達する前に撃ち落されたが、一機だけ体当たりに成功したものがあった。ミズーリの指揮官は戦闘終了後、その飛行士を礼をもって弔うよう指示し、四散した遺体を縫い合わさせ、水葬にしたという。
 ミズーリ記念館にはその飛行士の写真も展示してあった、とY君は感銘を受けたという面持ちで言った。

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【ワイキキビーチ。10月末でも日光浴や海水浴の人出は結構ある】
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【ワイキキビーチ】

▼夕方、旅行参加者全員が集合する夕食会を、米軍専用といわれるホテルのビーチ・バーで持った。ハワイ在住のO君が手配してくれたのである。全員で13名、中に4組の夫婦があり、初めての顔と久しぶりの顔が入り混じり、会は和やかに盛り上がった。しかし生憎の「シャワー」に見舞われたので、会場を別の場所に移して食事をとった。

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【ムードたっぷりなビーチ・バーだったが、あいにくのシャワーで退散】

 夕食会終了後、O君夫妻が自宅に呼んでくれたので、全員喜んでお邪魔することにした。アラワイ運河の近くの彼の家まで、徒歩で幾らもかからなかった。
 高層マンションからの夜景は、素晴らしかった。窓を開けておくと気持ちの良い風が通り、エアコンはあるが夏も冬も使ったことがない、とO君は言った。彼はすでに米国籍を持ち、日本国籍も持っているらしい。「レンホウさんと一緒」と、日本の最近のニュースにも明るいところを見せた。

(つづく)

ハワイ旅行 1 [旅行記]

▼先週から今週にかけて、初めてハワイに行った。4泊6日、定番の観光旅行である。
 筆者はこれまで「常夏の島・ハワイ」に、わざわざ出かけるほどの魅力を感じたことがなかった。また、どこへ行っても日本人客でいっぱいという話を聞くと、それだけで意欲は削がれ、以前家族がハワイに遊びに出かけた際も、口実を設けてひとり日本に残ったりした。「志操堅固」と言えば聞こえは良いが、ずいぶん頑なだったのである。
 2年ほど前、ハワイで高校のクラス会を開こうと思いついた。ハワイには同級生のO君が住んでいるし、2年後には高校卒業50年になる。呼びかけたところ10人ほどが手をあげ、今回の旅行となったのである。

 「現地集合、現地解散、現地の行動は自由、ただし全員参加の夕食会を持つ」ということにしたので、幹事として気も楽だったし、実務上も楽だった。
 ホノルル空港に午前9時前に着いた。顔写真を撮ったり指紋を取ったりという、他の国では見られない厳重な入国審査に少し時間を取られた。それとも一連のテロ事件以降、ヨーロッパ諸国でも煩雑な審査手続きが導入されているのだろうか。
 ワイキキへ行く途中でアラモアナ・センターに立ち寄り、バスの時刻表と4日間乗り放題のチケットを手に入れ、正午にホテルのロビーで仲間4人と落ち合った。他の仲間は一日早く到着したり、別のホテルに泊まったりしている。
 昼飯を食べに行き、ビールを飲んでやっと一服。その後、ダイヤモンドヘッドへ行った。
 ダイヤモンドヘッドはオアフ島の南東部にある230mほどの「山」である。古い火山の噴火口を囲む外輪山のうち一番高いところが頂上であり、周囲には海と平地しかないから眺望は著しく良い。曇り空からときどき日が差した。

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【ダイヤモンドヘッドから望む太平洋】
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【ダイヤモンドヘッドからワイキキの街を望む】
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【噴火口の中の登山道。左右はススキの原のように見えるが、ススキではない。その奥が外輪山。】
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【アメリカねむの木が、噴火口内の駐車場のわきで巨大な枝を広げていた】

 夜、ハワイ在住のO君にわれわれが無事付いたことを知らせ、明日からの行動の予定を打ち合わせる。時差ボケ解消のために、早々に寝た。

▼ハワイ二日目の朝、同部屋のY君はゴルフに出かけたので、A夫妻と3人で小一時間ほど散歩した。ホテルから1ブロック南へ歩くとカラカウア通りに出、その先の高級ホテル群の向こうは砂浜と青い海である。朝の海岸には人影も少ない。

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 朝食後、バスでダウンタウンへ向かった。
 州政府庁舎とかっての王宮・イオラニ・パレスの間に、リリウオカラニ女王の像が立っている。白人農園主たちのクーデタ(1893年)によって幽閉され、地位を追われたハワイ王朝最後の女王である。
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【リリウオカラニ女王像。後ろはバンヤンBanyanの樹】
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【イオラニ・パレス】
 イオラニ・パレスの中を、女性ガイドが日本語で説明しながら案内してくれた。リリウオカラニ女王の兄のカラカウア王は明治14年に国賓として日本を訪れ、明治天皇と会い、王女と皇族の婚姻を申し込んだという。婚姻は実現しなかったが、もし実現していたらその後のハワイの歴史は大きく変わったのではないか、と彼女は言った。
 彼女の示唆は、もしハワイが日本領であったなら、日本軍の真珠湾攻撃は起こりえなかったということだったが、もしそうだったとしたら米軍の真珠湾攻撃が起こっただろう、と思った。
 戦前の日本が中国大陸の既得権益にしがみつくかぎり、米国との利害の衝突は避けられず、日米戦争も避けられなかったにちがいない。もしそのような状況が起こったなら、「ハワイ」は「沖縄」になった可能性が高いのではないか、などと筆者の「歴史のイフ」は不吉な方にばかり流れ、苦笑した。

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【ハワイを統一し王朝を建てたカメハメハ大王像。後ろは王宮として建てられた建物で、現在はハワイ州の最高裁判所として使用されている。】

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【バスの前部には自転車を2~3台積めるようになっている。前輪がなかなか枠から外れないので 運転手(左)が降りてきた。】

(つづく)

長崎の旅 2 [旅行記]

▼軍艦島クルーズを終え、昼食を有名料亭で取った。来年また会う約束をして、会はここで解散。
筆者はそのあと路面電車に乗り、浜口町駅で降り、長崎原爆資料館へ行った。見学の観光客や中学生の団体で、かなりの人出だった。原爆投下後の荒涼たる市街の写真や黒焦げになった屍体の写真、爆風やその後の火災の熱で飴のようにひん曲がった鉄骨や閃光によって焼き付けられた物や人の影など、原爆被害の巨大さが展示されていた。
 展示物のなかで、家族を失った男の作った俳句が、その家族の写真とともに掲示されているのが強く印象に残った。

・炎天、子のいまわの水をさがしにゆく
・この世の一夜を母のそばに、月がさしている顔
・とんぼう、子を焼く木をひろうてくる
・ほのお、兄をなかによりそうて火になる
・あわれ七カ月のいのちの、はなびらのような骨かな
・炎天、妻に火をつけて水のむ
・なにもかもなくした手に四まいの爆死証明
・虫なく子の足をさすりしんじつふたり

 作者は松尾敦之。萩原井泉水に師事し、定型にとらわれない自由律俳句を志し、勤務先の長崎の食糧営団で原爆投下に遇う。建物の窓ガラスや扉が爆風で飛び散ったが、松尾自身は怪我することなく負傷者の手当てに回り、夕方火災の中を自宅へ向かう。家屋が倒壊し、木や電線が道路を塞ぐなか、ようやく訪ねあてた家は見る影もなくつぶれ、家族の姿はなかった。
 その夜、庭の壕の中で発見した長男と、翌日発見した妻はまだ命があったが、次男と次女は死んでいた。その長男も翌日に亡くなり、妻も五日後に亡くなり、松尾は被爆で顔と両手に傷を負った長女と二人残された。
 幸せそうに写っている家族の写真が松尾の俳句と重なり、無言のうちに原爆体験の悲惨を伝えていた。

 松尾敦之の『原爆句抄』は72年に上梓されたと書かれていたので、館内の売店に立ち寄った。 『原爆句抄』は見えなかったが、『松尾あつゆき日記』(2012年)という新書版の本があったので購入した。原爆投下の昭和20年8月9日から翌21年6月9日までの松尾敦之の日記を、編者が新かなづかいに直し、解説を付けて出版したものだった。編者・平田周が松尾の長女の息子であることを知り、生き残った長女が被爆にもかかわらず結婚し子供を産んだ事実に、ホッとしたものを覚えた。
 
 原爆資料館の見学のあと、原爆投下の中心地を見に行き、永井隆記念館にも立ち寄った。この日は長崎市にもう一泊することにした。
DSC02401.JPG【原爆投下中心地】
DSC02405.JPG【平和公園】

▼翌朝、バスで佐世保に向かった。ガイドブックで初めて知った九十九島(くじゅうくしま)の景色を、ぜひ見たいと思ったからである。
 佐世保駅構内の観光情報センターに立ち寄り、女性の係員に九十九島を見に行きたい旨を伝えた。女性は、景色を見るのに適当な場所の名前とそこへの行き方、バスの利用の仕方など丁寧に教えてくれた。彼女からバスの1日券を買い、指示された停留所で待つと、展望台の一つ、「展海峰」行きのバスはじきにやってきた。
 終点の「展海峰」で降りるとき運転手に確認すると、バスの折り返しの出発まで20分ほどの余裕があった。海を見下ろせる展望台に上り、多島海の美しさを眺めた。
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 折り返しのバスに乗り、途中で降りて15分ほど歩き、「船越展望所」へ行った。海に最も近い位置から九十九島を眺められるのがここだということだが、観光客はひとりもいなかった。
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 30分ほどさらに道路を歩き、「パール・シー・リゾート」に出、昼食をとった。ビールを飲みながら、短い時間に極めて効率よく目的を達成することができたという、満足感に浸った。
 食後、多島海をめぐる遊覧船に乗った。「………九十九島と申しますが、実際には208の島があります。人が住んでいるのはそのうちの4島でございます………」というようなアナウンスがあった。
 
▼ホームページ「多摩川のほとりから」を3年ぶりに更新し、旅行の記録、映画や書物の感想、時事評論のたぐい27本を新たにアップロードした。
 まだアップロードしていないものも多いが、いずれ時間の余裕のできたときに作業をしたい。
 ホームページのURLは  http://www7b.biglobe.ne.jp/~yyosino917/  です。


長崎の旅 [旅行記]

▼長崎に2泊3日の旅行をした。筆者は友人たちと、1年に一度日本各地を旅する会をつくっていて、今年は旅先が長崎だったのである。会のメンバーは全国に散らばっており、旅行地を決めて現地で顔を合わせ、また各地へ戻っていく。
 会がつくられたのは25年以上前である。つくられた当時はメンバーは皆現役の働き手だったが、いまでは大半が年金生活者となり、亡くなった者も何人かいる。
 旅行に細君同伴で参加する者も多くなった。今年の参加者は13人だったが、そのうち10人はカップルで、単独参加はわずか3人に過ぎなかった。

 土曜日の午後、メンバーは長崎新地のホテルに集合し、長崎観光の定番であるオランダ坂をのぼり、グラバー園へ行った。長崎の外国人居留地にある坂道はどれも「オランダ坂」と呼ばれたのだそうだが、幕末の開港後、長崎を訪れた異国の民は、港を見下ろす丘の上に屋敷を構えたのである。
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【オランダ坂: 長崎は坂の街である。足腰が強くないと暮らすのは大変そうだ。坂の多い街の構造は、昨年訪れた尾道とも共通している】

 そうして建てられた洋館が、現在もオランダ坂や丘陵地の道路沿いに残り、グラバー園にもトーマス・グラバーの家をはじめ、由緒ある洋館が集められ、復元されている。
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 グラバー園を出てから大浦天主堂を見て、ホテルに帰った。
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 夜は思案橋の台湾料理の店で宴会。周辺は市内で一番賑やかな場所だという話だが、人の出はたしかに多かった。

▼翌日は「軍艦島」クルージングに参加した。長崎港の沖合19kmの端島(はしま)が「戦艦土佐」の形に似ているということでこう呼ばれたのだが、もともとはただの岩礁だったという。19世紀の初めに石炭が露出していることが発見され、明治時代に三菱が買い取り、本格的に炭鉱事業に乗り出してから人が移り住むようになり、島は拡張された。掘り出された石炭は福岡県の製鉄所に送られ、日本の近代化を支えた。
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【戦艦土佐はワシントン海軍軍縮条約により、実戦配備に就くことなく沈められることになった。
「長崎ぶらぶら節」という映画を見ていたら、吉永小百合扮する芸者・愛八が、沈められる土佐が可哀想だ、と客の軍人に訴える場面があった。】

 戦後の最盛期(1960年)に島の人口は5千人を超え、社宅や病院、小中学校からパチンコ屋、映画館、スナック・バーの類まであり、たいへんな人口密度だったというが、1974年に閉山。住民は離散し、島は無人の廃墟となった。
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 この日は晴れて、波穏やか、風もない。島に上陸できるのは風速5メートル以内、波の高さ0.5m以内ということに決められているようだが、この日はまったく問題ない。
 船客は3グループに分けられ、ガイドに引率されて説明を聞いた。
 気温30度、湿度95%の地底で石炭を掘る炭坑夫には、三つの風呂が用意されていたという。第一は海水の風呂で、炭坑夫は作業着のまま飛び込み、衣服や身体に付いた粉塵を落とす。第二の風呂も海水で、ここで身体を洗う。第三の風呂は真水で、炭坑夫たちはここで塩気を落とす―――。
 真水はそれほど貴重だったのだ。はじめは船で飲み水を運び、その後6.5kmの送水管を敷設して対岸の半島から送り込んだ。
 電気は、初めは自家発電でまかない、やがて近くの高島炭鉱から送電するようになったという。
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(つづく)

鞆の浦、尾道、呉、広島の旅 3 [旅行記]

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▼「大和ミュージアム」を2時間ほど見たあと、隣接する「海上自衛隊呉資料館」へ行った。こちらの愛称は「てつのくじら館」と言い、現役を引退した本物の潜水艦をドンと正面に飾り、資料館の目印にすると同時に内部を公開している。潜水艦はくじらに似ているといえば、そう見えないこともない。
 展示テーマの一つは、機雷の除去活動についてだった。太平洋戦争の末期、テニアン島を発進したB29は日本の艦船の航路を塞ぐために、太平洋、日本海、瀬戸内海に合わせて1万発以上の機雷をばら撒いたという。終戦後もそれらの機雷は残されたから、航路の安全のために機雷の除去、つまり「掃海」が欠かせず、海上自衛隊がその任務を担ってきた。
 機雷はいろいろな形で進化しており、船がぶつかる衝撃で爆発するもの以外に、音や電波、磁気などに感応して爆発するものがあり、またアンカーとワイヤーでつながれて水中にある種類もあれば、海底に沈んでいる種類のものもある。したがって掃海の方法も、機雷の種類によって使い分けることになるが、日本の掃海技術は多くの経験を積んできたこともあって、きわめて高いらしい。
 もうひとつの展示テーマは潜水艦だったが、こちらはたいした内容ではなかった。
 資料館の正面に飾ってある潜水艦の中に入って見た。乗組員に割りあてられる空間はごくわずかなもので、低い天井の下に3段ベッドがしつらえてあったが、上と下のベッドの間は60㎝も空いていなかった。だが全長70~80mの潜水艦に70~80名の乗組員が乗り込み、さらに極めて多くの機能が詰め込まれるのだから、居住性がワリを食うのも仕方がないことなのだろう。
 
▼太平洋戦争で日本海軍の潜水艦は、大した戦果も挙げられずに終わった。
 その原因は、海軍指導部が海上輸送の確保に関して関心が薄く、敵の海上交通路の破壊という分野に潜水艦を活用しなかったことにある、と言われる。
 ドイツの潜水艦Uボート(Unterseeboot)は攻撃目標を敵の輸送船団に置き、敵の通商破壊に成果を上げた。ドイツ潜水部隊の総指揮官デーニッツは、戦争の帰趨はアメリカとヨーロッパを結ぶ大西洋のシーレーンを破壊できるかどうかにかかっていると確信していたし、チャーチルは一切の部門を挙げて対Uボート戦に力を集中した。
 米国も日本の海上輸送路を破壊することに力を入れ、輸送船舶を沈めるために潜水艦を使い、日本の近海に機雷をばら撒いた。ところが日本の潜水艦は敵の海上交通路の破壊という目的には使われず、艦隊に随行して戦闘に参加することを目的に設計・建造されていたのである。
 米国の太平洋艦隊司令官ニミッツ元帥は、次のように述べたという。
「古今の戦争史において、主要な武器が、その真の潜在威力を少しも把握理解されずに使用されたという稀有な例を求めるとすれば、それはまさに第二次大戦における日本の潜水艦の場合である。」(『日本海軍失敗の研究』鳥巣建之助 単行本1990年)

 それでも日本の潜水艦の、潜水艦ならではの活躍がなかったわけではない。大戦の初期、インド洋からアフリカ大陸の南を回り、大西洋を北上し、英国の哨戒機が監視する中をドイツ占領下のフランスの港に入り、ドイツから「電波探信儀」を受け取るという離れ業を演じた潜水艦もあった。(『深海の使者』吉村昭 単行本1976年)
 また、インド独立の運動家・スバス・チャンドラ・ボースを、亡命先のドイツから日本に招くことが計画された時も、潜水艦は活躍している。ボースはUボートに乗って密かにドイツを離れ、喜望峰の近くで日本の潜水艦に乗り換え、スマトラ沖の島まで運ばれた。ボースはそのあと海軍機で立川飛行場に飛び、「大東亜会議」(昭和18年11月)に「自由インド仮政府」の代表として出席した。

▼昼食に呉名物の「海自カレー」を食べてから、鉄道で広島へ行った。広島駅から路面電車に乗り、原爆ドームを見に行った。青空の下に多くの観光客が来ていて、原爆ドームの説明板を読んだり、カメラを向けたりしていた。
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 川に沿ってすこし歩き、橋を渡って平和記念公園に入り、それから平和記念資料館を見学した。原爆投下後の広島の街の写真や被災者の写真が何枚も掲げられ、また熱によってひん曲がった金具や熱風でボロボロになった衣服などが展示されていた。明るい緑色のジャンパーを着た「ボランティア」の人たちが、見学者に説明役を買って出ていた。
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 平和記念資料館で展示を見ながら、呉の「大和ミュージアム」で流していた太平洋戦争の解説ビデオの中の、半藤一利の言葉について考えた。そのビデオの中で半藤は、インタビューアーから「戦争を語り継ぐ」ことについて話しを向けられ、「………語り継ぐというと妙に英雄的になったりして………」と口ごもり、「それよりも若い人たちに、積極的に受け継いでもらいたい、歴史を勉強してもらいたい………」と語っていた。
 半藤の言った「妙に英雄的になったりして………」の意味は、必ずしも明瞭ではないが、「体験を語ることはそれほど容易なことではない」という意味なら、よく分かる。そして歴史の記憶の伝承は、伝える側ではなく受け取る側の力に懸っている、という趣旨の発言は、問題の要点を突いていると思う。
 「戦争を語り継ぐ」などと気楽に言う向きもあるが、聞く側が熱意をこめて問うことで、体験者も語ることができるのであり、その逆ではない。その体験を聞きたい、その経験を知りたいと欲する若い人々がいて初めて体験者は口を開き、経験は学ばれ、受け継がれるのだ。
 半藤一利(1930年生まれ)は、昭和30年代に「週刊文春」の記者として多くの旧軍人たちの話を聞いて回り、記事を書いた。
 秦郁彦(1932年生まれ)は学生時代から戦争の記録や体験記を読みまくり、旧軍人たちのもとを話を聞きに訪れている。
 「大和ミュージアム」の館長・戸高一成(1948年生まれ)が語るところでは、戸高が大学卒業後に勤務した㈶史料調査会は、会長も上司も連合艦隊参謀という経歴の持ち主で、旧海軍士官のサロンのような職場だった。「毎日の昼食は太平洋戦史の講義のよう」であり、旧軍人や兵士たち数百人の話を聞く機会を得たことは、貴重な体験だったと彼は振り返っている。
 半藤や秦や戸高が話を聞いた旧軍人たちはすでに世を去り、体験を聞き出した半藤や秦の世代も80歳代半ばになろうとしている。しかし幸いなことに、われわれは彼らが記録し、整理し、考察した歴史の記述を持っている。謙虚に学ぶ意欲のある者に歴史は十分開かれているのであり、イデオロギッシュな日本罪悪論にも惑わされず、「東京裁判史観」を批判すると称するイデオロギーにも誤魔化されない力を、それらは与えてくれる。

鞆の浦・尾道・呉・広島の旅 [旅行記]

▼先週の土曜日、仲間といっしょに広島県の鞆の浦と尾道の街を歩いた。仲間とは、年に一度日本各地から集まりいっしょに旅行する友人たちで、メンバーは北海道から鹿児島まで散らばっている。すでに旅行を始めてから25年になり、4半世紀の間には亡くなった者も何人かおり、今では細君といっしょに参加する者も多い。
 東京は雨がぱらつく曇天だったが、新幹線で西に移動するにつれて空は明るくなり、福山駅で降りると雲ひとつない青空だった。
 福山駅前の「釣り人の像」の前で今年の参加者13人が落ち合い、鞆鉄バスに乗った。やがてバスの窓から穏やかな瀬戸の海が見え出し、ちょうど30分で鞆の浦に着いた。

 まず坂本竜馬が宿泊したという枡屋清右衛門宅へ行った。坂本竜馬率いる海援隊が借り入れた「いろは丸」が、長崎で買い込んだ武器弾薬を大阪に運ぶ途中、紀州藩の持ち船と讃岐の沖で衝突して沈没する、という事件が起きた。枡屋清右衛門宅は、その談判をするために鞆の浦にやって来た龍馬や海援隊士が宿泊した屋敷なのだそうだ。
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【龍馬たちは暗殺を恐れて階段のない部屋に泊まったという】
 この事件の処理は長崎奉行に回されたが、紀州藩が政治的に威圧して問題を終わらせようとしたのに対し、龍馬は航海日誌や航路図により事実を確定し、「万国公法」によって解決することを主張、紀州藩に過ちを認めさせたという。

 次に、福禅寺の対潮楼(たいちょうろう)へ行った。「風光明媚」を絵に描いたような景色を見ながら、座敷でしばし休憩。小島の点在する瀬戸内海は、絵になる構図にこと欠かないだろうが、ここの景色も評判どおり素晴らしい。
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 座敷の壁に、幕末の長崎で撮ったという写真が貼り出されていた。撮影者は日本のカメラマン第1号の上野彦馬、写真は外国人の大人と子供を中心に、集合した志士たち50名ほどが横3列に並んでいるものだが、驚かされるのはその顔ぶれである。「判明」したという一人ひとりの名を見ると、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、高杉晋作、勝海舟、坂本龍馬……とオールスター・キャストである。感心して見ていると、説明役のオジサンが、ここに書かれた名前については異論がないわけではない、というようなことを婉曲に言い、一同、なあんだ、という顔になった。
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 港に出ると、「常夜灯」が見えた。鞆の浦の風景として、もっとも絵になる場所である。常夜灯の界隈には江戸期や明治期の建物がいくつも残っていて、風情ある街並みをつくっていた。
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 2時間ほどの街歩きでいいかげん疲れたあと、渡し船で仙酔島に渡り、国民宿舎「仙酔島」に泊まった。

▼翌日も晴天。朝食後、昨日の渡し船とバスに乗り、福山から尾道に移動した。
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【宿泊した部屋の前は浜辺。夏には海水浴客で賑わうという。】

 尾道駅構内にある観光案内所で地図をもらい、「古寺めぐりコース」を歩いた。コースの標識に従って持光寺、光明寺、宝土寺を通り、千光寺新道に出ると、道は急坂となり、まっすぐ石段を登る。まことに尾道は、寺と墓地、急坂と石段の街である。
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 五百羅漢の群像のある天寧寺まで歩き、ロープウエイで千光寺山の展望台に登った。尾道の街が眼下に広がり、その向こうの河のように見えるのは瀬戸の海(尾道水道)、向こう岸は向島(むかいしま)だと説明板にあった。
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 帰りは、尾道ゆかりの人物の句碑などが点在する「文学のこみち」を下り、千光寺に出、山を降りた。
 昼食ののち、尾道駅で解散。筆者は電車で呉へ移動した。

 呉は筆者にとって、最近まで映画「仁義なき戦い」の舞台というだけの街だったのだが、せっかく広島まで来たのに1泊で帰るのはもったいない、「どこぞ寄る所はないじゃろうか」と思い、立ち寄ることにしたのである。
 ホテルに入ったのはすでに夕方に近かったので、「大和ミュージアム」に行くのは翌朝に回し、駅で手に入れた観光案内のビラで知った「潜水艦をもっとも間近に見られる」公園に、行ってみることにした。
 駅前からバスに乗り、その名も「潜水隊前」というバス停で下車する。夕暮れの公園には、カメラを持った観光客が幾人も来ていた。目の前の海は海上自衛隊が占有しているようで、埠頭は立ち入り禁止となっていたが、潜水艦が4隻浮かんでいるのが見えた。
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(つづく)

台湾旅行 7 [旅行記]

▼話が「台湾旅行」からかなり逸れたので、そろそろ終わりにしようと思う。



 台湾旅行から帰り、李登輝『台湾の主張』(1999年)、小谷豪冶郎『蒋経国伝』(1990年)、司馬遼太郎『台湾紀行』(1994年)、金美齢『私は、なぜ日本国民となったのか』(2010年)を読んだ。それらのいずれもが、期せずして「国家」や「政治」を考えさせるものだったのは、主題としての「台湾」の経てきた厳しい歴史によるものだろう。



 1970年代初頭の台湾は、国際的孤立を深めていた。国連の中国代表権問題で北京政府に敗れ、国連からの脱退(1971年)を余儀なくされ、米国はニクソン大統領が中国を電撃的に訪問(1972年)して北京政府を事実上承認し、日本は日中共同声明を発表(1972年)して、台湾政府と断交した。
 台湾海峡の向こうには、軍事的威嚇をためらわない強権的政権があり、国内には独裁体制の敷いた戒厳令のもと、無力な国民がいた。
 1972年に首相ポストに就いた蒋経国は、台湾政治の枢要ポストに「被支配者」である「本省人」を多数配置するという破天荒な人事を行い、また若手を抜擢して大規模な経済建設事業に取り組んだ。60年代の台湾も経済的には順調に発展していたが、蒋経国が73年から開始した港湾や鉄道、南北高速道路、桃園国際飛行場などの「十大建設事業」の成功は、台湾を先進国に押し上げた。
 蒋経国はこれらの過程で確固としたリーダーシップを発揮し、国際的孤立化で動揺する人心を鎮め、掌握することに成功した。



 国際的孤立と国内的対立の危機に直面した独裁政権が、強権的手法をいっそう強めることで乗り切ろうとする例は、歴史上数多く見ることができる。朝鮮半島の北半分を占拠する独裁政権が選択した道もその例であり、国を閉じ、独裁者への思想的忠誠を強制し、国民の不満を恐怖政治で抑え込むことで政権の存続を図った。
 台湾の政権も同じ危機的状況にある分裂国家として、同様の政治的選択をしても不思議でない条件下にあった。しかし指導者は国を開き、国民が生き生きと働くことで経済が発展し、政治活動を徐々に自由化することで国内の対立を解消する道を選んだ。
 台湾と北朝鮮の二つの独裁政権の置かれた条件や環境の違いはいろいろあるだろうが、もっとも大きな違いは国家指導者の意思と能力であり、その違いが二つの国民の運命を大きく分けた。

▼蒋経国について少し調べてみようと思ったのは、現在の豊かで民主的な台湾社会を創りだすうえで、その優れた指導力が不可欠だったと知ったからだが、また彼が若い時に「革命」を学ぶためにソ連に渡り、辛酸をなめた人間だと知ったからである。李登輝は次のように書いている。



 《蒋経国は、父親の蒋介石総統と宋美齢との結婚後、ソ連に奔って共産主義を学ぼうとした。(中略)革命を学びに行った蒋経国は、期待とは裏腹に、共産主義ソ連で非常に苦労することになった。シベリアに抑留されて、思想的にも精神的にも非常な圧迫を受けた。この体験が、蒋経国と父親の蒋介石との大きな違いとなっていると思う。》



 蒋経国は1925年16歳の時に、他の留学生とともに上海から船に乗り、ウラジオストック経由でモスクワに行った。モスクワの大学で2年間学び、他の留学生仲間は次々と帰国していったが、彼は帰国を許可されず、赤軍に入る。ソ連政府は彼を中央軍事研究学院に入学させた。
 1930年に学院を卒業し、再度帰国願いを申請したが許されず、その後、モスクワ郊外の電気工場や農村で労働者として働き、病気で倒れる。病気回復後はウラル地方の金鉱掘りに送られ、そこの工場の女子工員と結婚した。
 1936年12月に「西安事件」が発生し、中国国民党軍は共産党軍との内戦を停止し、抗日民族統一戦線が結成される状況となり、ソ連政府は蒋経国の帰国を許可した。彼は妻子とともに翌年3月、12年ぶりの帰国を果たす。
 帰国後の蒋経国は国民党の青年教育に関わり、また県長として地方の行政にたずさわり、蒋介石の欠かせぬ部下として多方面に活躍を開始する。

▼蒋経国が、1949年から1951年にかけて台湾全土で猛威を振るった「白色テロ」に責任がないわけではない。というよりも、1950年に台湾政府の情報と治安の責任者の地位に就いた彼は、白色テロの責任をまさに負うべき立場にある。
 しかし台湾を政治的危機から救い、経済の建設事業に取り組み、政治の民主化、自由化を進めたのも彼だった。副総統に李登輝を就け、自分の亡きあとに政治の民主化、自由化がいっそう進展するような態勢を創りだしたのも、蒋経国だった。
 台湾の戦後の歴史を知ることで、すぐれた政治指導者の存在により国家と社会が大きく変化する姿を見ることができる。それは過酷な政治とは無縁だった戦後の日本人の思考から、すっぽり落ちてしまった盲点を照らしだす。

 
 李登輝は司馬遼太郎との対談で、蒋経国が自分を後継者にしたかったかどうかは「はっきりしない」と言っている。(司馬遼太郎『台湾紀行』1994年)
 「あの政治状況の中で、もし蒋経国さんがおくびにでも出せば、おそらく私はたたきつぶされていたかもしれない。私だって、だれを次の総統にするかなどということはいわない。私が選挙にでるかどうかも言わない。蒋経国さんも、そういう考慮をしていたと思います。」



(終)


台湾旅行 6 [旅行記]

▼李登輝の「政治」について、話を続ける。
 
 台湾における国民党の独裁的な権力体制を改め、民主的な政治体制を創りだすためには、1949年に施行した戒厳令を解除するとともに、憲法を凍結し総統に独裁権を許している1948年施行の「動員戡乱(かんらん)時期臨時条款」を廃止する必要があった。
 戒厳令の解除は、蒋経国のもとで1987年に行われた。しかし「臨時条款」の廃止は、手続き的にはるかに困難な課題だった。なぜなら「臨時条款」は40年前に国民大会で決定されたのだが、その国民大会の構成員がその後改選されずに万年議員として存続していたからである。
 「臨時条款」を廃止すれば、万年議員たちはその地位を降りなければならない。彼らに「臨時条款」の廃止を求めることは、《「あなた方の墓穴を掘ってください」と頼むことに等しかった。》《どう考えても説得するのは不可能なことだった。しかし、その不可能なことを実現しなければ、台湾は独裁制からは抜け出せないのである。》



 《私は国民大会の代表の人たちを一人ひとり訪問して、「リタイアしてください。ついては退職金を出します。」「国家のために、一つ考慮してください。情勢はここまできているのです」とお願いして歩いた。六百人以上の代表に直接出向いてお願いした。》(『台湾の主張』李登輝 1999年)



 当時、総統は国民大会で選出する決まりになっていたから、李登輝は自分を選んでくれた議員にむかって、「墓穴を掘る」ように頼んで回ったわけである。その努力は功を奏し、1991年に国民大会で憲法改正案が通り、「臨時条款」は廃止された。
 総統を国民の直接選挙で選ぶことが可能となり、李登輝は1996年に国民の選挙で選ばれた最初の総統となった。

▼台湾政治の特殊事情の説明に、いささか紙面を割きすぎたかもしれない。しかし李登輝の発言と行動を追っていけば、台湾の政治の民主化がけっして幸運な偶然や思いつきに由るのではなく、緻密な思考と用意周到な準備、そして忍耐強い地道な活動を通してもたらされたものであることが分かる。



 李登輝は、政治家に必要なのは「大きく太く」ものごとを押さえる信念に裏打ちされた力を持つことだと言う。そして「政治」とは彼にとって、さまざまな課題の重要性を正しく見極め、実行に当たっては忍耐強く時間をかけて人びとの理解を得るように努めることであった。
 李登輝は「政治」を蒋経国から学んだと書いている。
 彼は国務大臣として、重要な会議ではいつも積極的に政策を提案するようにしていたが、蒋経国は会議の議長として彼の提案を聞きながら、やがて自分の結論に持っていくために話し始める。李登輝は自分の提案と蒋経国の出した結論の差を考えることによって、政治というものを学んだ。なぜ蒋経国がそのような結論を出したのか、自分の提案に何が欠けていたのかが理解できた。



 《私は蒋経国のもとで六年間国務大臣を務めた。蒋経国が議長の会議は緊張の連続だったが、同時に私の「政治の学校」でもあった。もし、私が理論家だけではなく政治家として成長したとするなら、「蒋経国学校」の六年間がものをいっていると思う。》(同上)

▼李登輝はで日本について次のように語っている。

 
 《台湾が日本の植民地だったということに、きわめて神経質になっている日本人も多い。他国を植民地として経営するという行為は得策でもないし、国際道義的にも誉められたことでないのは確かである。しかし、そのことばかりに拘泥しても日本の将来に益することは少なく、また台湾にとってありがたいことではない。
 中国大陸は、戦争中の日本の行為について、これからもことあるたびに問題化するだろう。それは、大陸の戦略で、投資を含めた日本からの援助を引き出す目的があるからだ。しかも、日本は歴史認識がからんだ問題になると、中国大陸にわざわざ伺いを立て、その結果、なんらかの交換条件が引き出されてしまうのである。》(『台湾の主張』1999年)



 《戦前の日本は、もちろん多くの問題はあったが、それなりに日本の主張というものを行ってきた。極東でいち早く西欧列強に対峙したという誇りもあった。ところが、戦前・戦中の失敗を経て、戦後になると、対外姿勢に過度の弱さがつきまとうようになってしまった。
 ことに中国大陸にたいしては、あまりにも遠慮が過ぎるようになっている。なんでも「イエス」で受け入れる。》(同上)



 この『台湾の主張』は、李登輝がまだ現役の総統職にあった時に書かれ発表されたものであるから、その点を頭において読む必要があるかもしれない。しかし彼が日本に対して語る率直な「忠告」は、異例ではあるが、親しい間柄だからこそ示された好意的な批判として受け止めるべきものと思う。
 李登輝は日本外交が中国政府に対して示す過度の「遠慮」の具体例を挙げているが、ここでは別の事実を彼の発言の傍証として、一つだけ挙げておこう。



 李登輝は2000年の総統選挙で立候補せず総統職を降り、国民党主席の座も退き、2001年に「心臓病治療」のために来日を希望した。しかし中国政府は、「李登輝氏は引退後も一つの中国、一つの台湾の運動を陰で操っている。私人ではない」という理屈で反対し、それが公けになるという「事件」があった。
 中国政府が反対すること自体は、べつに不思議ではない。問題は日本側の対応であり、内閣官房も外務省も自民党内も訪日推進派と反対派に分かれ、対立が鮮明に顕れた。結局、当時の森総理が「人道的配慮からビザを発給する」ことを決定し、「事件」は終わった。
 元外務次官の村田良平は、訪日に反対した外務官僚と政治家の実名を挙げて批判しているが(『なぜ外務省はダメになったか』2002年)、「事件」は李登輝の上の発言が事実であることをまざまざと示したといえるだろう。
 そして政治家やマスコミの謳う「日中友好」が、どのような日本側の「努力」によって維持されている関係であるか、その情けない実態を世間に知らしめた事件でもあった。



(つづく)


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