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奈良の旅3 [旅行]

▼晴れ。旅行会のメンバーは8時半にホテルを出、橿原神宮前駅から近鉄線に乗り、壷井八幡宮に向かった。羽曳野市壷井という土地は、「源氏」の祖先・源頼信が館を構え、いわゆる「河内源氏」発祥の地といわれる所である。
 平忠常の乱(1028年)が起きたとき、「追討使」に任命された源頼信は、前任の平直方とともに乱を平定した。直方は、頼信の嫡男・頼義の武芸に感服し、自分の娘を嫁がせ、その持参金として相模国・鎌倉の領地と屋敷を贈った。これが関東に源氏が進出するきっかけとなり、その後東北地方で起きた前九年の役や後三年の役の活躍により、源氏の東国武士の棟梁としての地位は確固たるものになった―――。

 壷井八幡宮や源頼信らの墓というきわめてマイナーな場所を訪れることにしたのは、メンバーの中に強い希望があったからだが、電車の駅からかなり遠いところにあるため、平均年齢が70歳代後半という一行の年齢を考えると、少々無茶だったかもしれない。
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DSC04313.JPG【壷井八幡宮への階段と神殿】
 上ノ太子駅で降り、歩くこと20分。ようやく壷井八幡宮に着いた。そのあと源頼信、頼義、義家の源氏三代の墓を見ようと山道を歩きはじめたが、道はしだいに狭くなり、あちこちに斜面の崩れた跡が補修されずに残っているような状態で、結局途中で引き返さざるを得なくなった。羽曳野市の「トレイル」の標識が道のところどころに埋め込まれていたが、最近は通る人もないらしく、標識は半ば土に埋もれており、とても山歩きを楽しむような環境ではない。
 近くに仁徳天皇陵に次ぐ大きさだという応神天皇の前方後円墳があるので、それを見る予定だったのだが、それを飛ばして富田林の寺内町へ急ぐことにした。

▼寺内町(じないまち)とは、中世後期から近世前期に一向宗(浄土真宗)の仏教寺院を中心に形成された自治集落である。堀や土塁で囲まれ、信者や商工業者が集住した。寺内町という呼称は、街の全域が寺の境内と見なされたことから生じたもので、寺院の境外に形成された門前町とはその意味で異なる。
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 富田林の寺内町は、織田信長に対して逆らわない姿勢を貫き、石山本願寺のように滅ぼされずに済んだ。現在は江戸時代以降の町家約40軒が、昔の姿で残されている。
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 ボランティアのガイドの方に町の中を案内してもらったが、近鉄線の富田林駅から徒歩で十分以上かかるという距離感が、寺内町が昔の姿で残る大きな要因となったという。もし線路がもう少し近くを走り、駅が近ければ、寺内町の民家は近代的な商店に変貌していたことだろう。それは昨日の飛鳥の里の景観にも通じることで、「人知を超えた幸運」というほかない。
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DSC04334.JPG【旧杉山家住宅】
 旧杉山家住宅という造り酒屋の建物の内部が、公開されていた。江戸時代のもので、富田林の寺内町でも最古の建築物とされる。明治の終り頃、堺の与謝野晶子たちとともに活躍した明星派の歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)は、この杉山家の長女だった。露子が結婚した相手は彼女が歌を詠むことを嫌い、文筆活動を禁じたので、明星派の歌人としての露子の活動はそこで終る。しかし彼女が昭和に入ってから詠んだ歌や書き残した「自伝」は、熱心な研究者の手によってまとめられ、出版されている。
 ガイドの説明によれば、杉山家住宅は昭和五十年代に売りに出されたが、そのとき関わった不動産業者がこの建物の価値に気づき、市に保存を働きかけ、重要文化財として保存されることになった。それが富田林の寺内町全体の保存のはじまりだったという。

(おわり)

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奈良の旅2 [旅行]

▼快晴。朝食を済ませ、8時少し前にホテルを出、奈良の大仏を見に行った。奈良公園に入ると、シカの姿があちこちに見えた。 DSC04248.JPGDSC04253.JPG  やがて東大寺の南大門が遠くに見え、その下で修学旅行の中学生の団体がいくつも、まだ早い時間であるにもかかわらず、記念写真を撮っている。外国人観光客の姿も多く見られた。  京都ではいま、許容量を超えて観光客が押し寄せる「オーバーツーリズム」の問題が騒がれているが、東大寺や奈良公園の規模は雄大で、多くの観光客を呑み込んでびくともしないようだ。今年は東大寺を開いた良弁僧正の生誕1250年にあたるということで、生誕祭の準備を進めていたが、寺の見学に少しも支障はない。 DSC04264.JPG DSC04271.JPG DSC04286.JPG DSC04290.JPG  大仏殿を出て、少し高台にある二月堂へ行った。二月堂の縁側から寺の建物のはるか向こうに、奈良の市街が見えた。二月堂裏参道を通って東大寺の外に出、バスで近鉄奈良駅に出た。 ▼昼過ぎに、橿原神宮前駅の近くのホテルに旅行会のメンバーは集合した。4年ぶりだが、参加者13人の全員が変わりなく元気なのは、なによりである。  荷物をホテルに預け、飛鳥の里をめぐる「かめバス」に乗り、飛鳥寺に行った。仏教の受容や天皇家の皇位継承をめぐって対立していた蘇我氏と物部氏が、最終的に曽我馬子が物部守屋を滅ぼす形で決着し、馬子が戦勝記念に建てたのが飛鳥寺である。日本最初の本格的な寺院とのことで、鞍作鳥(止利仏師)が造った高さ3メートルほどの飛鳥大仏を本尊として安置している。 DSC04296.JPG 【飛鳥大仏】  飛鳥寺の裏の田の端に、蘇我入鹿の首塚と称する遺跡があった。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足等によって切り殺された入鹿の首を埋めたといわれる遺跡だが、自分の屋敷のあった甘樫丘(あまかしのおか)を300メートルほど先に見る位置にある。 DSC04298.JPG DSC04300.JPG  飛鳥の地は、千四百年前は都であったが、現在は「明日香村」である。都が奈良北部(平城京)へ京都へ東京へと移る中、飛鳥の里は眠り続け、世の中の発展から取り残され、そのおかげでわれわれは、千四百年前とそれほど変わらないであろう田園風景を目にすることができるのだ。    今回、奈良を旅行するにあたり、筆者は幾冊か関連の図書を読んだが、不思議に思ったひとつは飛鳥時代の「宮」が長くても二十年と少し、短ければ十年と少しで転々と移転していることだった。  「飛鳥時代」は政治史の時代区分ではなく、文化史の区分だとも言われるが、少なくとも推古天皇が592年に豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、710年に元明天皇が平城京に都を移すまでの120年間、宮殿はだいたい飛鳥の地にあり、政治の中心地だった。難波豊崎宮(孝徳天皇)や大津宮(天智天皇)など、飛鳥の外に宮殿が移されたこともあったが、多くは現在の「明日香村」の狭いエリア内で移転が繰り替えされた。  当時の宮殿が、国家統治の施設というより、天皇の個人的な住家であったからかもしれないが、その頻繁な引っ越しは現代のわれわれには理解しがたい。    蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳に行き、天武・持統天皇陵に立ち寄って、ホテルへ戻った。 DSC04308.JPG 【天武・持統天皇陵。持統天皇は天武の皇后で、亡くなる前に、火葬にして夫の天武天皇と一緒に埋葬されることを希望したという。】 (つづく)
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奈良の旅 [旅行]

▼9月の終りに奈良へ行った。
 30年以上前に年に一度、一緒に旅をする仲間ができ、日本各地を回ってきたのだが、この3年間は「新型コロナ」のために旅行会は休止だった。今年は4年ぶりの再開=再会というわけである。仲間との再会の場所は、今年は飛鳥の里と決まったが、筆者は一日早めに奈良へ行き、ひとりで少し歩いてみることにした。
 筆者はこれまでに、ほとんど奈良を訪れたことがない。母親が和歌山の出身だったから、和歌山のその実家には、子どものころから何度も夏休みに行っていた。奈良に近い、高野山にも行ったことはある。しかし奈良には中学か高校の修学旅行で行ったきりであり、それは60年も前の出来事だから、具体的な記憶は何も無いに等しい。大仏も法隆寺も、実際に観たことはなかった。

▼近鉄奈良駅に昼前に着き、歩き始めてじきに猿沢池が目の前に現れた。どことなく既視感のある風景に見えたが、自分が実際に見た60年前の記憶があるはずがなく、写真やTVの映像で観たものが頭に入っているのに違いない。池の近くのホテルに荷物を置き、来る途中で目についた興福寺に行ってみることにした。
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【猿沢池。祭りがあるらしく、池の周囲に提灯を巡らしてあった。】
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 興福寺の境内には修学旅行で来たらしい小中学生の団体が幾組もおり、記念の集合写真を撮っていたが、寺は十分な広さがあるのでそれが少しも邪魔にならない。しばらく境内の雰囲気を楽しんだ後、国宝館に入った。
 目当ての一つは阿修羅像である。少年の姿をした三面六臂(3つの顔と6本の腕)の像はたいへん有名だから、筆者ももちろん知っていたが、実物を実際に見る機会があるとは思っていなかった。たまたま奈良へ行くことになり、ホテルの近くの興福寺に置かれていると知って、にわかに見たいという意欲が起きたのである。
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【館内は撮影禁止のためネットから得た阿修羅像の写真】
 実物は150㎝ほどの高さで、他の仏教の守護神7体と一緒に、「八部衆立像」の一つとして展示されていた。阿修羅はインド神話では戦闘の神であり、激しい怒りの形相で表現されるというが、興福寺のものは華奢な腕と身体の少年の姿で造られている。奈良時代の像の作者に、現代の芸術家のような「個性的」な表現を求める意識があったはずはなく、どのようにして怒りの阿修羅像が静謐な少年の像に転換されたのか、その謎はきわめて興味深いと思った。
 もう一つ驚いたのは、木彫だとばかり思っていた像が、「脱活乾漆造」という作り方でつくられていると説明があったことである。
 説明によると、木組みの上に粘土で像の形をつくり、その上から麻布を捲いて漆で固める。それを幾度か繰り返し、外形ができたところで背後の一部を切り開いて窓を開け、ここから粘土を外に掻き出す。穴をふさぎ、木くずと漆を混ぜた材料で表面を調整し、彩色や箔をほどこして完成。木組みが像の補強となっている。
 完成した像は重さ15㎏と軽量だから、火事や騒乱のような場合に容易に運び出すことができ、それゆえに現代まで残った、という説明だった。
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【昼食の柿の葉寿司。サケとサバの押し寿司を柿の葉で包んでいる。有名だがそれほど美味いものでもなかった。】

▼午後、法隆寺へ行った。近鉄奈良駅からバスで1時間、斑鳩の里にある。バスを降りたのは筆者一人、寺についてからも観光客はわずかで、誰にも邪魔されずにのんびりした気分を味わうことができた。
 法隆寺は、7世紀初めに聖徳太子が建立した寺である。一度焼けるが、8世紀初めに再建され、世界最古の木造建築物として世界文化遺産にも登録されている。
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【上:南大門から中門へ 下:中門とその内側の五重塔】
 南大門をくぐり、歩いていくと中門がある。回廊で囲まれた空間の中、中門から見て左に五重塔、右に金堂が置かれているのだが、高さのある塔とボリュウム感のある金堂が若干左の方に寄って、視覚上の絶妙なバランスをとって配置されているのだと、事前に読んだ建築の書物には書かれていた。
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【左:五重塔 右:金堂 手前:中門の庇 奥:講堂】
 ついでに建築のウンチクを少し披露すると、5階建てに見える五重塔にも2階建てに見える金堂にも、各階の床が張ってないのだそうだ。つまり建築基準法の上では、五重塔や金堂は、平屋の扱いとなる―――。
 西院伽藍を駆け足で見たあと、東院伽藍の夢殿を見、帰路はJRの電車に乗って帰った。
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【上:東院伽藍への道 下:夢殿】

 ホテルでは町の銭湯と提携して無料の利用券をくれたので、夜、食事かたがた街に出、銭湯で疲れをいやした。この日の歩数は1万9千7百歩だった。

(つづく)

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熊本・阿蘇・由布院・別府の旅3 [旅行]

▼この日は鉄輪(かんなわ)の「ホテル風月」に泊まる予定だった。チェックインしてしばらく休憩し、それから高崎山のサルを見に行った。
 高崎山は、別府から車で15分ほどの距離にある高さ六百メートルほどの山だが、ここに棲むニホンザルが餌付けされ、彼らの生態を間近に見られる「自然動物園」となっている。高崎山の名前は、ここでサルの生態の観察研究をした京大の伊谷純一郎の名前とともに、筆者は以前から聞いていたが、それが具体的にどこであるかは知らなかった。今回の旅行を思いついてから、別府のすぐ近くであることを初めて知り、旅行計画に組み入れたのである。
 タクシーで4時過ぎに到着し、坂道を登っていくと、思い思いに時間を過ごしているサルの姿があちこちに見られた。

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【最初に眼に入ったサル2匹。組み伏せているのではない。ノミを取っているところ?】
DSC04132.JPG【そろそろエサの時間だと広場に向かうサルたち】
 さらに坂道を上ると広場があり、そこにたくさんのサルたちがエサを求めて集まっていた。飼育員がリヤカーで小麦を撒くと、サルの群れは小麦を得ようと一斉に動いた。
DSC04133.JPG【サルの群れ】
DSC04140.JPG【小麦を拾っては喰い拾っては喰い】
 5月から8月がサルの出産シーズンだということで、今は子ザルが多い時期だと、飼育員が説明していた。

DSC04157.JPGDSC04159.JPGDSC04172.JPG【子ザルの世話をする母ザル】
DSC04155.JPG【寝そべるオスザルとその一家】
 ときどきエサの取り合いでサル同士の争いが起こるが、それは皆おばさんザルなのだそうだ。オスは序列があってそれにしたがうから、エサの争いもない。序列は力の強弱よりも、群れに入った順序によってきまる、いわば年功序列だ、という説明だった。
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 サルとは視線を合わせないように、と飼育員が見物客に注意した。視線を合わせると、サルは敵意を感じ取り、攻撃してくることがあるとのことだった。


 翌日の午後、東京で抜けられない会合があるので、こちらをできるだけ早く発たなければならない。別府の街をゆっくり散策したいところだが、それができない。それで高崎山の帰りに別府の有名な銭湯を駆け足で見て回り、ホテルに戻った。
DSC04182.JPG【竹瓦温泉。入浴料300円也】

 夜はホテルでバイキング料理。台湾や韓国からの観光客が、客の半分ぐらいを占めているように見えた。

▼翌朝、バスで大分空港に向かう。10時20分発の便で羽田に12時過ぎに到着。八王子での会合には1時間ほど遅れたが、大事な部分にはなんとか参加できた。
 まずは無事に終わってよかった、と思った。疲れが無いように感じるのは気が張っているからで、少し疲労はあるようだ、しかし久しぶりの旅行を終えた満足感で気分は高揚している、というのが正直な観察、感想だった。

(おわり)

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熊本・阿蘇・由布院・別府の旅2 [旅行]

▼翌日は晴れ。朝食後、8時少し前に通町筋から九州横断バスに乗る。阿蘇駅前に9時20分着。タクシーで米塚、草千里ヶ浜、中岳火口と回る。
 溶岩と火山灰の土地のため樹木は生育せず、見渡すかぎり草原が続き、春に枯草を野焼きしたあと赤牛や馬を放牧していると、運転手が説明してくれた。たしかに杉林の場所もあるが、基本的には丈の低い緑の草におおわれた大地が、阿蘇の独特の景観を造り上げている。
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【米塚。約三千年前の噴火で造られた。高さ80mの山頂には火口の跡があるそうだ。】


DSC04043.JPG 【草千里ヶ浜】 DSC04044.JPGDSC04068.JPG
【草千里ヶ浜。観光客を馬に乗せている。】

 中岳は、一般の観光客が火口をのぞき込むことができる世界でも珍しい活火山だということだが、火山活動が活発なため、今年の3月末まで近づくことが制限されていた。突然の噴火から人びとを守るために、シェルターがいくつも造られていた。
DSC04047.JPG【シェルターの中には10人分のヘルメットが置いてある。】 DSC04053.JPG
【中岳火口】

 阿蘇駅に戻り、駅の食堂でうどんの軽い昼食。空が次第に暗くなり、昨日と同様のスコールが来た。ときどき稲妻が光り、雷鳴がバーンと大きな破裂音を立てる。14時にまた九州横断バスに乗り、16時半に由布院到着。「ゆふいん山水館」に泊まる。
 由布岳を眺めながら入る野天風呂に満足。夕食の豊後牛が美味。

▼翌朝目が覚めると、朝霧が由布岳を隠していたが、やがて良い天気になった。朝食後、由布院駅前のバス乗り場に向かう。大分県出身の磯崎新が設計したという由布院駅の駅舎を少し見物してから、別府行きのバスに乗る。
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【上:由布院駅。下:駅のインフォ―メンションセンター。早朝なので開いていなかったが、由布院映画祭のポスタ―などが見えた。】
 
バスの窓の外に、昨日の阿蘇の景色を思い出させるような草原の野山が広がり、楽しめた。
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 別府駅西口でバスを乗り換え、鉄輪(かんなわ)へ。「海地獄前」で下車し、「地獄」めぐりを開始。
 この地の熱湯や熱泥、蒸気を噴出する活動を、古来「地獄」と称してきたということで、「海地獄」、「鬼石坊主地獄」、「鬼山地獄」、「白池地獄」など、七つの地獄が観光名物となっている。
DSC04106.JPG【海地獄。水が青色。】DSC04108.JPG【鬼石坊主地獄。灰色のあぶくが湧き出ている。】
 「鬼山地獄」では温熱を利用して、大正時代からワニを数十頭飼育している。エサとして1週間に一度、鶏一羽を与えると、ワニはそれを丸呑みしてじっと動かずに消化するのだという。エサを食べるところをぜひ見たかったのだが、残念ながらこの日はエサやりをしないということだった。
DSC04112.JPGDSC04115.JPG【鬼山地獄。ワニの卵は直径15㎝ほどの大きさ。】
 七つの地獄のうち二つは少し離れた場所にあるということで、バスに乗って「血の池地獄」と「龍巻地獄」を見に行った。
DSC04119.JPG【血の池地獄。水が赤色である】

(つづく)

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熊本・阿蘇・由布院・別府の旅 [旅行]

▼7月の下旬、久しぶりで国内旅行をした。本当は、もろもろの仕事が一段落する5月の下旬に行くはずだったのだが、雨模様に加え台風が来るかもしれないと、TVの気象予報士がしきりに言うので、仕方なく2カ月延ばしたのである。
 行先は、熊本、阿蘇、由布院、別府である。はじめに、美味い「馬刺し」を食いたいというという食い物への欲望と、のんびり温泉に浸かりたいという休息への欲求があり、両者を一度に充たす旅行を考えた。まず熊本で馬刺し。それから九州横断バスに乗って別府に行こう。熊本から別府までバスに乗り続けるのも芸がないから、途中で降りて阿蘇山の景色を楽しみ、また途中の由布院で一泊したらよいのでは、と考えた。この行程を3泊4日で回るのは、後期高齢者には少々キツイかなとも思ったが、自分の体力の現在を知るには良い機会だと、考え直した。

▼7月某日、東京は晴れ。調布から空港バスで羽田へ。道路が渋滞で、大丈夫かなと案じているうちに眠りこみ、眼が覚めると羽田の第二ターミナルだった。熊本空港に予定より少し遅れて12時少し前に着き、バスで市内へ向かった。通町筋で下車。熊本は曇りで、直射日光を浴びない分、東京よりも過ごしやすい。「熊本ホテル・キャッスル」に荷物を置いて昼食に行く。「壱之倉庫」という名のビア・レストランで「赤牛丼」を食べる。美味にしてリーズナブルな値段に感激。
DSC04000.JPG〔壱之倉庫〕
 午後、熊本城見学。城の堀に沿って歩いていくと、7年前の地震で壊れて復旧工事の途中という個所もあったが、それらは一部であり、全体に落ち着いた雰囲気が戻っていた。
DSC04013.JPG〔熊本城の未修復部分〕
 緩やかな坂道をのぼると、三層六階の大天守が眼の前にあった。黒々とした外壁におおわれ、全体に「威風堂々」という言葉がぴたりと当たる。黒澤明は映画「乱」を撮るために、寄せ手の軍勢が城を下から見上げる構図の絵コンテを描いているが、それは熊本城をモデルにしたと聞いた。なるほど、と思う。DSC04018.JPG
 城の中は、各階とも普通の展示場となっていた。熊本の城主・加藤家がいつ、どういう理由で細川家に替わったのか、加藤家はどうなったのかは、筆者が長年放置してきた疑問だったが、清正の孫の光正に人望がなく、不行跡も重なり、庄内へ移封されたと説明があった。また、西南戦争の際、谷干城の率いる官軍が2か月間ここに籠城して西郷軍を足止めし、ついに落ちなかったという事件も、熊本城のハイライトとして展示・説明されていた。
 いちばん上の6階まで来て外を見ると、雨がしきりに降っていた。街はスコールに霞んで薄暗く、車は皆ライトをつけ、ときどき雷が光った。小降りになるのを待って、ホテルへ帰った。
DSC04002.JPGDSC04009.JPG〔上:谷干城像 下:加藤清正像〕
 夜は、「馬刺し」を食べに街に出た。どのガイドブックを見ても、馬肉料理の店として特定の3店が紹介されているので、「馬肉」は熊本でも特別の店でしか食べられないらしい、と思っていた。しかしこちらに来てみると、飲み屋の2軒に1軒は、「馬肉出します」の張り紙を出していた。
 予定していた有名店にいちおう行ってみたが、臨時休業の張り紙があり、そこへ行く途中に見かけたこれも有名店の「菅乃屋」に入る。地ビールを呑み、馬刺しと馬肉の握りずしを食べる。馬刺しは、どの部位もさすがに美味。ニギリはシャリが冷たく、感心しなかった。
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(つづく)

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会津の旅 [旅行]

▼『守城の人』について書き継いでいたので、取り上げるのが遅れたが、先月10月18日(金)から20日(日)の3日間、会津地方を旅行した。金曜、土曜の2日間は、むかし或る時或る場所で知り合った仲間たちとの年1回の旅行会で、仲間は全国各地から集まる。旅行会を始めてもう30年ほどになるが、筆者はその事務局を担当している。最後の日曜日は筆者の一人旅で、裏磐梯に立ち寄る計画だった。
 10月18日から20日にかけて、天気は良くない、台風ではないが低気圧が近づいている、という予報だった。今年の台風は関東地方を直撃するものが多く、1週間前の大型の台風19号も東京の多摩川流域の何ヶ所かで浸水被害をもたらしており、福島でも阿武隈川が40ヶ所で決壊したと報じられていた。
 しかし全国に散らばる仲間との年1回の旅行であり、半年前に計画を立て、旅館や料亭の手配を終えてメンバーに連絡しているので、よほどのことが起きないかぎり予定を変えるのは難しい。幸い参加者の年齢を考慮して、初日は貸し切りバスで移動するプランにしたので、雨が降ってもまず問題はない。翌日土曜日の午前中さえ天気が持ってくれれば、旅行会は無事に終わる―――。

 いつ降り出してもおかしくない曇り空の下、メンバー12人は郡山駅前に昼過ぎに集合し、手配した小型バスに乗って猪苗代湖畔に向かった。郡山から会津の方に行く磐梯西線は動いていたが、東の方に行く磐梯東線は、台風19号による土砂崩れで不通となっていたのを見ても、われわれはついていた、と言うほかない。
 まず野口英世記念館に寄り、復元された生家を覗く。英世が1歳半の時に落ちて大やけどした囲炉裏や、医術開業試験を受験するために上京する際、「志を得ざれば再び此の地を踏まず」と決意を書き込んだ床柱があり、隣接する記念館でその人生と業績を説明していた。
 野口英世と言えば「黄熱病」の研究、と単純に記憶していたが、自分の理解は少し的を外していたらしいと思った。英世はニューヨークのロックフェラー研究所で、黄熱病の研究の前に梅毒の研究をし、その原因がスピロヘータによるものであることを解明した。次の課題が黄熱病で、彼はこれについても南米での研究に基づき、スピロヘータ原因説を立てたのだが、彼の開発した薬がアフリカでは効かないという指摘を受ける。そして研究に訪れたアフリカのガーナで、英世自身が黄熱病にかかり、昭和3年に亡くなった。
 英世はノーベル医学賞の候補に3回挙げられたが、残念ながら受賞を逸したと記念館の説明にあった。たしかに彼は、蚊が媒介するウイルスが黄熱病の原因だ、と突き止めることはできなかった。しかし梅毒スピロヘータの発見だけで、十分な功績ではないかと筆者は思う。少なくとも日本においてそれは、黄熱病ウイルスの発見とは比べものにならない大きな影響を及ぼしたのだから。

▼野口英世記念館から車で5分ほどのところに、有栖川宮が明治41年に造った別邸「天鏡閣」があり、公開されている。猪苗代湖は酸性が強く、プランクトンが発生しにくいため水が澄み、磐梯山などを湖面に映し出すので「天鏡湖」の別名があるのだそうだが、別邸の名もこれに由っている。
 建物自体は、現代のわれわれの眼にはどうというところのない木造の洋館だが、皇族が明治の終わりという時期に、農家が疎らに点在するだけのこの地に別荘を建て、観光開発のパイオニアの役割を果したという点は興味深かった。

 旅行一日目の最後に、「会津武家屋敷」に立ち寄った。幕末の会津藩家老・西郷頼母の屋敷などが再現され、生活調度品も置かれ、当時の上級武士の生活を窺うことができる施設だということだった。
 筆者が旅行前に仕入れた知識によれば、西郷頼母は悲劇的人物であった。松平容保が京都守護職を引き受けることに西郷は反対し、また鳥羽伏見の戦い以降の戊辰戦争で、会津藩が幕府側に立って戦うことに大反対した。しかし西郷の忠言は聴き容れられず、会津藩は新政府軍と戦う。西郷は白河口で戦うが敗れ、鶴ヶ城に籠城する藩士からは拒まれ、榎本武揚らとともに函館五稜郭に落ち延びるが、ついに敗北し、捕虜となる。新政府軍が城を攻囲した日、西郷の屋敷では母や妻、妹、娘ら一族の女21人が自決して果てた。
 明治5年に赦免された後は神社の宮司などの職に就き、晩年は会津若松の裏長屋で暮らし、明治36年、73歳で亡くなった。
 身寄りのなくなった西郷頼母が親戚から養子に迎えたのが、のちに講道館四天王の一人と謳われる西郷四郎だということを、武家屋敷に行って初めて知った。筆者は中学、高校時代に柔道をやり、当時は講道館四天王の名前を全員覚え、西郷四郎の必殺技「山嵐」とはどんな技だろうと、いろいろ思い描いたものだった。
 四天王の一人・富田常次郎の息子の富田常雄が西郷四郎をモデルに書いた小説が、『姿三四郎』である。
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 東山温泉に宿泊。

▼翌日、少し雨がぱらついたが風はなく、観光には支障がないようで、胸をなでおろした。路線バスで飯盛山に行き、山の階段を上り、白虎隊士が自決した場所から鶴ヶ城を眺めた。肉眼では城がどこか、なかなか判らなかったが、当時は他に高い建物もなく、一目でわかったのだろう。
 白虎隊の名は、中国で方位や季節を表わす四神に由来する。白虎隊は16~17歳の少年兵士、その上の朱雀隊が18~35歳で戦力の中心をなし、青龍隊は36~49歳、玄武隊は50歳以上という構成だった。隊はそれぞれ身分により、いくつかの小隊に別れていた。飯盛山まで退却してきたが、城の方角から立ち昇る黒煙を見て落城したものと思い込み、自刃した20名の少年たちは、中流の上の組の隊員たちだった。
 切腹という方法は、介錯という「自殺幇助」が伴わないと、それほど容易には死ねないらしい。飯沼定吉という少年は一人助けられて生き残り、白虎隊の物語を世に伝えた。飯沼は逓信省の技師として明治、大正を生き、昭和の初めに亡くなった。
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 路線バスに乗り、会津藩二十三万石の居城・鶴ヶ城へ行った。現在の城は、戦後再建されたものである。立派な堀沿いに歩いていると、思いがけず陽が差し、青空さえのぞく好天気となり、われわれの「運」の強さに今更ながら驚く。もう少し紅葉が進んでいたら最高だなと仲間と言い交したが、贅沢を言えばきりがない。
 予約していた料亭で昼食を取り、旅行会は解散。

 会津若松駅から磐梯西線に乗り、猪苗代駅で降り、バスで裏磐梯に行く。ネットを見て予約していたペンションに泊まる。呑み比べてみてくださいと日本酒を4種類ほど出され、馬刺しや豆腐の味噌漬けを肴に、いい気分に酔う。隣のテーブルについた夫婦らしき若い男女は、この宿の常連だと言い、冬は近くの檜原湖でワカサギ釣りをするのだと言った。

 翌日、五色沼周辺を1時間半ほど歩いた。五色沼とは磐梯山の明治21年の噴火で生まれた大小30余りの湖沼群の総称である。
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紅葉は、まだ盛りには少し早かったが、沼のルビー色の水に映えて美しかった。
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 満足して東京に帰った。

(おわり)

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名古屋旅行 [旅行]

▼年に一度、いっしょに旅行する仲間がある。会がつくられたのは30年ほど前で、メンバーは北海道から鹿児島まで、各地に散らばる総勢18人の仲間である。30年のあいだに亡くなった者もあり会員は減ったが、細君同伴で旅行に参加する者が増えたので、毎年の旅行は15名前後の集まりとなっている。昨年は輪島に行き、一昨年は長崎、その前年は鞆の浦と尾道を旅行した。
 今年は、愛知県の篠島という三河湾に浮かぶ島と熱田神宮が、旅の目的地だった。毎年筆者はこの旅行の集まりを利用して、全体の会合が終わった後、ひとりで周辺を周遊することにしているが、今年は会合の翌日に予定が入っていたので、一日早く名古屋に来て、周辺を見て回ることにした。

 筆者はこれまで名古屋周辺を旅行したことがない。東京・大阪間はときどき往復するから、その気になればいつでも名古屋に立ち寄れたのだが、いつでも立ち寄れるという心理が逆に作用して、ここで降りて観光しようという気にさせなかったのかもしれない。いつでも行けるという気安さが、名古屋を「通過駅」にしていたのだろう。これまで名古屋で降りたのは、近鉄に乗り換えて伊勢方面に行った一回だけであり、名古屋を観光するためではなかった。
 はじめに犬山城に行くことにした。名古屋で名鉄に乗って25分で犬山遊園駅に到着。木曽川沿いにブラブラ歩く。じきに前方の小高い丘の上に城が見えた。川を背にした山城である。
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 犬山城の名前は、明治初めの「廃城令」の後も毀されず、使われていた当時の姿をそのまま伝えている城として記憶していた。わりあい近年まで殿様の子孫が個人で所有する城だったという話も聞いていたし、高校時代の国語の教科書の編集者に「成瀬正勝」という名前があったが、この人が殿様の子孫だということも、どこかで耳にしていた。
 城は小さく、現存しているのは天守閣だけだった。しかし天守閣の中の階段は、合戦を考えた造りなのだろうが極めて急勾配で、一段一段のあいだが広く空いている。最上階まで登るのにかなりの筋力を要したが、登りきった時の満足感も強かった。
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 殿様はやはり「成瀬」家で、成瀬正勝氏は11代目の当主だった。全国の大名の禄高が貼り出してあり、成瀬家は三万五千石だった。同様の禄高の小藩は随分と多く、彼らにとって「廃藩置県」は、不満はあっても藩を経営する責任を免除される、ありがたい措置でもあっただろう。

▼城からの帰りは、「城下町」を通って犬山駅に出た。駅近くで昼食を取り、バスで「明治村」に向かった。20分ほどで明治村に到着。
 筆者は「明治村」の名前も出来た(昭和40年)当時から耳にし、F.L.ライトの造った帝国ホテルが取り壊される際、その一部が明治村に来たことも聞いていた。しかし「博物館明治村」の構想が、建築家・谷口吉郎と名鉄の社長だった土川元夫という旧制四高の同級生のあいだで作られ、実現したという話は、今回旅行に行く前に調べるまで知らなかった。
 土川元夫という人物は初めて聞く名前だが、名鉄沿線の観光資源を精力的に開発するなど、積極的な経営を行った経営者だったらしい。いま明治村は、明治時代の建築の野外博物館として、百万平方メートルという広大な土地に六十余点の建物を保存展示している。

 一点一点丁寧に見て回ったのではとても時間が足りないので、「西郷従道邸」、「芝川又右衛門邸」、「呉服座」、「歩兵第六連隊兵舎」、「シアトル日系福音協会」、「帝国ホテル中央玄関」と、駆け足で見て回った。途中で映画の撮影が行われていたが、おそらく映画撮影は明治村の収入源の一つになっているのだろう。
 「帝国ホテル」の建物の中では、喫茶室が営業していた。「帝国ホテル」の建物は明治村の一番奥に置かれていたので、帰りのバスの時間を確かめ、バス乗り場までの時間を計算しつつ、ホテルの中で時間を過ごした。
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 夜は、呑みに出るのに便利なように、名古屋市一番の繁華街といわれる栄のカプセルホテルに泊まった。カプセルホテルに泊まるのは初めてだったが、隅々まで機能的につくられていることに感心した。

▼ホテルで朝食を済ませ、名古屋城に行った。最寄りの地下鉄駅で降りた後、城のまわりを城門まで延々と歩く。昨日の犬山城の小ささに比べ、やはり徳川御三家筆頭の城は大きい。天守閣は修理中で閉館していたが、代わりに本丸御殿の復元工事が終わり、公開されていたので見学した。
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▼昼過ぎに旅行メンバーが名鉄名古屋駅に集合。再会の挨拶を交わした後、名鉄で知多半島を50分ほど下り、河和(こうわ)という駅で降りる。歩いて河和港に移動し、高速船に乗り、30分で篠島に着いた。ホテルで一服したあと島内を散歩。一時間ほどで日が暮れた。
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 篠島は、鯛、フグ、しらすなどの魚が名産品となっている島で、古くから干し鯛(おんべ鯛)を伊勢神宮に奉納しているという。今回の旅行の目的の一つは「美味い魚を食う」ことにあったから、夕食の膳に並んだフグの刺身や焼き魚を堪能して、一同十分満足だった。

 翌朝、島に来た時と逆のコースで名鉄線に乗り、熱田神宮に行った。
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▼昼食を名古屋駅近くのうなぎ屋でとった。今回の旅行を企画したあと、名古屋名物の「ひつまぶし」を皆で食べようと、うなぎ屋をネットで調べて予約の電話をかけたのだが、どの店も申し合わせたように、「予約は受けません」という返事だった。店頭に並んでください、というのである。「食べログ」の口コミを見ても、「30分で入れてラッキーだった」とか、「待ち時間のあいだに熱田神宮の見学をしてきた」といった言葉が並んでいる。予約を受けますとあっても、1万円以上するコースの場合、といった条件が付いている。
 メンバーに事情を話すと、そういう高飛車な態度はいかにも名古屋根性だという。名古屋根性はともかく、なぜ予約を受け付けないのか、その強気の態度が解せなかった。そうした穏やかでない体験のあとに、ようやく見つけた予約可能の店だっから、10パーセントの部屋代がかかることなど、問題でなかった。
 貸し切りの一室に通され、着物姿の若い仲居さんたちが笑顔で迎えてくれた。畳の間だったが、椅子席になっているのも嬉しかった。茶碗にしゃもじでよそい、一膳目はそのまま食べ、二膳目は薬味を加え、三膳目はお茶づけにして食べる、という珍しさも好評だった。一同満足し、来年を約束して別れた。
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(この項おわり)

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松永安左エ門 [旅行]

▼十日ほど前、箱根に行った。年に一度、箱根の定宿で囲碁を楽しむ集まりを仲間と続けているが、だいたい年末のこの季節になる。昨年は少し遅かったので、紅葉は終わりに近く、裸の樹々も見られたのだが、今年はちょうど見ごろで、快晴の青空の下、紅や黄や緑の葉が陽光に映えて美しかった。
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 小涌谷の駅からひと気のない道を、紅葉を眺めながら坂道をぶらぶら登る。風もなく、陽光に照らされている場所は温かだが、日陰に入ると途端に寒さが身体にしみこんでくる。
 筆者の囲碁の成績は、残念ながら今年は振るわなかった。しかしのんびり湯につかる時間は、なにものにも代えがたい。
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[宿の裏手の紅葉]
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[宿の前の原] 

▼翌日も穏やかな晴天。帰途、箱根登山鉄道を箱根板橋駅で途中下車し、松永安左エ門が晩年を過ごした屋敷を見に行った。辻井喬の大平正芳を描いた小説『茜色の空』を読んでいたら、そこに名前が出てきて、そういえば松永の屋敷が小田原市の記念館になっていると、人から聞いたことを思い出したのである。
 松永安左エ門(明治8年~昭和46年)は戦前、電力事業にたずさわり、戦後は戦中の統制経済下につくられた特殊法人「日本発送電」を分割民営化し、九電力体制を創りあげる上で力のあった実業家である。60歳になるころ(昭和10年ごろ)から茶道を本格的に嗜むようになり、論語の「六十にして耳従う」から採って「耳庵」と号した。
 所沢に柳瀬山荘を建て、熱海や伊豆の堂が島にも茶室をつくり、ここに茶事を嗜む財界人などを呼んで茶会を催した。
 松永記念館でもらった「略年譜」には、昭和10年は12回以上の茶会、11年は28回以上、12年は38回以上、14年は12回以上、15年は26回以上、17年は8月までに32回以上の茶事あり、と書かれている。

 松永安左エ門は戦後、所沢の柳瀬山荘と収集した古美術品を東京国立美術館に寄贈し、小田原市に「老欅荘」を建てて転居した。別荘名は、敷地の一角に立つ樹齢400年の欅(けやき)の樹にちなんで付けられたものである。以後、松永はここで過ごし、昭和46年に96歳で亡くなった。
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 「老欅荘」の建物自体は、なんの変哲もない木造平屋の建築である。茶室らしき部屋が二つあった。いくらか高台の土地に建てられているので、以前は座敷から小田原の海が遠くに眺められたというが、今は見えない。傾斜のある庭の小路は歩きやすいものではなく、九十を超えた老人には危険だったのではないか、と思った。
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▼「略年譜」によれば、松永が茶会に招いた財界人には、益田孝(鈍翁)、根津嘉一郎(青山)、原富太郎、(三渓)、小林一三(逸翁)、高橋義雄(箒庵)、野崎広太(幻庵)、藤原銀次郎(暁雲)などの名前がある。
 益田孝は三井物産の設立に関わり、三井財閥の大幹部だった男だが、この小田原に別荘を構えた草分けでもある。「掃雲台」と名づけた別荘を明治の末から造りはじめ、大正の初めに三井を退くとともに、ここに移り住んだ。松永より30歳近く年長で、茶の道における大先達であり、昭和13年に亡くなった。
 根津嘉一郎は、東武鉄道をはじめ広く鉄道事業を手掛けた実業家であり、原富太郎は、富岡製糸場など製糸業を発展させた横浜の実業家、小林一三は阪急・東宝グループの創設者、高橋義雄、野崎広太は三越の社長などを務め、藤原銀次郎は王子製紙を経営した事業家である。
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 茶会はお互いに招き招かれるものだから、松永も彼らの茶会に呼ばれれば、出かけたのだろう。かなりの頻度、かなり親密な交わりといってよい。
 茶会に出るということは、財界の有力者との親睦や情報交換という、実利的な意味もあったかもしれない。しかし茶事自体に大きな魅力がなければ、温泉もなく酒も出ない席に、彼らがはるばる出かけることはなかったであろう。一服の茶を味わい茶器をめでる茶事が、多くの財界人をそれほど魅了したという事実は、現在では人びとの理解を超えているのではないだろうか。
 現代人が多忙で無教養になったのか、昭和前期の財界人は教養があり、風流をめでる心の余裕があったのか、わからない。筆者も彼らの頻繁な茶会を知るにつけ、不思議な気持ちが増してくる。

▼松永の「老欅荘」のすぐ近くに、山縣有朋の別荘だったという「古希庵」があり、明治時代の政商・大倉喜八郎の別荘「山月」もあった。しかし「古希庵」は現在、茅葺の門構えと庭園の一部を残すのみで、敷地には損保会社の研修施設が建っている。「山月」は、堂々とした門柱が残っているが、ロープが張られ、敷地内立ち入り禁止となっていた。
 益田鈍翁の「掃雲台」はすっかり姿を消し、何の痕跡も残っていないらしい。

 松永安左エ門は昭和29年、80歳のときに欧米視察旅行へ出かけた。82日間の長旅だった。英国では、アーノルド・トインビーに会った。親交のあった鈴木大拙から『歴史の研究』を教えられ、その要約版を読んで感銘を受けたからだった。トインビーと歓談し、翻訳権を得て、『歴史の研究』の翻訳が松永最晩年のライフワークとなった。
 翌々年松永は、来日したトインビーを老欅荘に招き、茶事を行った。小泉信三や谷川徹三が陪席したという。


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鞆の浦・尾道・呉・広島の旅 2 [旅行]

▼翌日も晴天。ホテルをチェックアウトしたあと尾道駅の周辺を散歩し、駅の南側の呉港に行った。
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 手前には江田島や広島港などへ行くフェリーボートの桟橋があり、斜め前方には造船所のクレーンが林立するのが見える。左手は海上自衛隊の駐屯地らしく、小型の艦船が係留された岩壁の横の広場で、隊員たちが駆け足や整列する姿が遠くに見えた。
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 9時過ぎに「大和ミュージアム」に入る。正式名称は「呉市海事歴史科学館」だが、これほど展示内容の情報を伝えない名称も珍しい。
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 「大和」は「戦艦大和」のことであり、戦艦大和に関する資料の展示とこの戦艦を生み出した呉市の歴史の解説が、「大和ミュージアム」の展示の2本柱である。2005年4月に開館したというから、今年はちょうど10年目に当たり、入場者は1000万人をすでに突破したという。この日は月曜日なのに、入館者でなかなかの賑わいだった。
 展示室の入り口を入ると、太平洋戦争に関する簡単な解説をビデオで流していた。五百旗頭真(いおきべ・まこと)と半藤一利へのインタビューがその中に含まれており、「大和ミュージアム」の太平洋戦争への見方が、五百旗頭や半藤の歴史観に連なるものであることを示している。

 明治政府は海軍の施設として横須賀に鎮守府を設置したが、西日本にも鎮守府を設けるべきだという声が高まり、選ばれたのが当時の呉村だった。呉には海軍工廠もつくられ、呉の街は海軍とともに発展した。戦艦大和もこの呉海軍工廠で建造された。
 しかしそのため、太平洋戦争では米軍による徹底的な空襲の対象となり、街は廃墟と化した。現在呉の街を歩くと、道路は広く整然と整備されているのだが、これは空襲で壊滅したからこそ可能となったのだろう。
 館内には戦艦大和の10分の1の模型が展示されていた。全長263メートル、最大幅38.9メートルの史上最大の戦艦は、日本がワシントン海軍軍縮条約を破棄したのち、対米戦争の主力として建造された。竣工したのは昭和16年12月16日、つまり対米宣戦布告の8日後だったが、建造を秘密にするため、竣工式は関係者だけでひっそりと行われたらしい。
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▼呉港に停泊していた戦艦大和は昭和20年4月、片道の燃料だけを積んで沖縄に向け出発し、4月7日、米軍艦隊の爆撃機や潜水艦の猛攻を受け、屋久島の西方200㎞の地点で沈没した。乗員3332名中生存者は269名、竣工からわずか3年半だった。
 戦艦大和と同型の戦艦が「武蔵」の名前で造られたことは、吉村昭の『戦艦武蔵』に詳細に記述されている。こちらは三菱の長崎造船所で大和よりも5カ月ほど遅く起工され、昭和17年8月に竣工した。そして昭和19年10月、レイテ沖海戦で米軍の空爆により沈没、竣工からわずか2年2か月だった。
 太平洋戦争において艦隊同士の戦闘はほとんどなく、戦闘の主役となったのはそれまで補助兵力とされていた航空機や潜水艦だった。米艦の持たない口径46センチの巨大な砲を誇る大和と武蔵だったが、大艦巨砲主義の時代がすでに終わっていたことを、両戦艦の短い生涯が如実に語っている。

▼吉村昭の『戦艦武蔵』(単行本:昭和41年刊)について、一言記しておきたい。
 吉村は友人・泉三太郎(ロシア文学者)から、昭和39年に「武蔵」の建造日誌の写真コピーを譲られた。吉村はいろいろな迷いを持ちつつも資料を読み込み、関係者に取材し、「武蔵」の建造準備から起工、進水、艤装、竣工を経てレイテ沖の海戦で沈没するまでを、作品にまとめた。
 吉村昭は純文学の作家であり、この『戦艦武蔵』執筆中の昭和41年に小説「星への旅」で太宰治賞を受けたのだが、『戦艦武蔵』のあとは作風ががらりと変わった。綿密な取材と調査にもとづく「ノンフィクション」が、吉村の執筆する世界となった。
 『戦艦武蔵』を書いたことが吉村にとって大きな事件であったことは、吉村が取材経過を記した『戦艦武蔵ノート』(単行本:昭和45年刊)からも読み取れる。調査を進めながら、「とうてい自分には書けないという意識と、文学に対する私の考えからも、書くべきではないという気持が強かった」と吉村は振り返るが、それでも彼は自分を鼓舞し、疲労困憊の末に書きあげた。

 『戦艦武蔵』は、膨大な人力と資材を投入して造り上げた「海の城」が、想定した戦闘を行えぬまま1千名以上の人命とともに沈没するまでを、建造過程に重心を置いて描き切った「悲劇」である。徹底した事実調査と硬質な文体が、困難な主題の作品化を可能とした。
 また、「戦艦大和」については奇跡的に生還した海軍少尉・吉田満が、その最期の出港から戦闘、沈没までを、叙事詩ともいうべき『戦艦大和ノ最期』に書き残している。
 「大和」や「武蔵」に結晶した人間の営為は、これらの文学作品に描かれることで、はじめて記憶される形を持った。

(つづく)

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