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『ソ連獄窓十一年』補遺2 [本の紹介・批評]

▼「満洲国」がつくられたのは、なによりも日本陸軍の軍事的な必要からだった。しかし日本社会のなかにそれに先立って、満洲で「民族協和」「王道楽土」の理想を実現したいと考える思想や運動が生まれ、それらは関東軍の軍事的思惑と時には重なり、時には対立するような形で進行した。「民族協和」「王道楽土」の理想は言葉としては美しく、観念として崇高だが、それがいかなる形で実現し、あるいはしなかったのかを、「満洲国」の現実のなかで確認しなければならない。
 『キメラ』(山室信一)は同じ問題意識に立って、満洲国の現実がどのようなものであったのか調べているので、その記述を少し見ていきたい。

 山室は、「満蒙開拓団」に提供するために満洲国で開拓用地の買収にたずさわった男の手記を、取り上げている。男は「五族協和」「王道楽土」の理念に惹かれて満洲に渡り、大同学院を卒業してこの仕事に就き、戦後(1971年)その体験を振り返った。
 「土地に執着する農民の意欲を踏みにじり、号泣、跪拝しての哀願を圧殺して買収を強行し、二束三文の買収価格を押しつけなければならなかったとき、これではたとえ開拓団が入植したとしても、むしろ禍を将来に残すことを憂えるとともに、自己の行為に罪の意識を抱いた。」
 また満洲国最高検察庁がまとめた『満洲国開拓地犯罪概要』には、次のような吉林省の農民の証言が載せられているという。
 「行く処もない吾々に対し、十一月か十二月のころ家屋を渡せというのは、間接的に吾々は殺されたる気がする。実に哀れなものだ。」(朝鮮人農民)
 「匪賊は金品を略奪するも土地までは奪わず。満拓は農民の生活の基たる土地を強制買収す。土地を失うは農民として最も苦痛とするところなり。」(中国人農民)
 「十一月か十二月のころ」という言葉は、満洲の冬の厳しい寒さを念頭に読まなければならない。これらの記述や資料から、われわれは日本人の入植という満洲国建国のもっとも基礎的な部分で、土地の強制的な買収が行われ、民族協和ならぬ民族間の対立原因をなしていた事実を知る。
 敗戦時に27万人を数えた開拓民が入植したとき、その土地の多くは未開拓ではなく既墾地だったから、それはそこで働いていた現地の農民を立ち退かせた跡だったはずである。満洲の農地所有者の多くは都市に住んでいたから、彼らにとって農地の買収は金の問題に過ぎなかっただろうが、耕作に従事していた農民にとっては、生活基盤を一瞬にして失う問題だった。

▼満洲国では1940年に徴兵制を採用し、1942年には兵役に服さない壮年男子に、国家に対する勤労奉仕を義務付けた。徴兵と勤労奉仕を両輪として国民を錬成し、国家への忠誠を調達しようとしたのである。
 また1942年に、「一つ、国民は建国の淵源、唯神の道に発するを思い、崇敬を天照大神に致し忠誠を皇帝に尽くすべし」「一つ、国民は忠孝仁義を本とし民族協和し道義国家の完成に努むべし」等の5箇条の「国民訓」を制定し、学校で朗唱させた。
 学校儀礼は次のような構成だった。まず国旗掲揚があり(学校によっては日章旗も掲揚された)、建国神廟、日本の皇居、帝宮を遥拝し、日本軍の武運長久と戦没英霊のための黙禱、そして校長が先導して「国民訓」の朗唱と訓話、最後に建国体操――。
 こうした「国家意識の注入」は、はたしてどの程度の成功を収めたのだろうか?

 1945年8月17日、つまり日本の降伏が伝えられ、満洲国皇帝溥儀の退位と満州国解消が決定した日、建国大学助教授の西元宗助のもとに朝鮮人と中国人の学生が別れの挨拶に訪れた。彼らはそれぞれ、次のように語ったという。
 朝鮮人学生:「先生はご存じなかったでしょうが、済州島出身の一、二のものを除いて、われわれ建大の鮮系学生のほとんどが朝鮮民族独立運動の結社に入っておりました。しかし先生、朝鮮が日本の隷属から解放され独立してはじめて、韓日は真に連携できるのです。私は祖国の独立と再建のために朝鮮に帰ります。」
 中国人学生:「先生、東方遥拝ということが毎朝、建大で行われました。あの時われわれは、どのような気持ちでいたか、ご存じでしょうか。われわれは、そのたびごとに帝国主義日本は要敗――必ず負けるようにと祈っておりました。……私たちは先生たちの善意は感じておりました。それだけに申し訳ないと思っております。しかし先生たちの善意がいかようにあれ、……満洲国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権のほかのなにものでもなかったことは、いかんながら明らかな事実でした。」
 満洲国の国立大学の学生という知的エリートの発言内容から、国民一般の意識を測ることは無理かもしれない。しかし彼らの発言が、国民一般の意識から乖離していたという証拠もない。「国民訓」を朗唱させたり、東方遥拝をさせたりという、いかにも「日本式」のやり方は、筆者の眼にもアホらしく感じられ、とても日本人以外の民族の納得と共感を得る方法だったとは思えない。
 この建大の学生の逸話の中に、満洲国の為政者が期待した国民意識の育成は見事に失敗を露呈している、と読むべきなのだろう。しかし建国大学の教育は、こうした批判的知性を育んだことによって、十分成功したということもできるだろう。

 山室信一は次のように書く。《満洲国を存続させようと努力した日本人が、そもそも「悪意」をもってそれに関わったとは私には思えない。それは日本人である私の僻目に違いないであろうが、人びとはみな、それぞれの場で、それぞれの仕方で満洲国に対して自分なりに「善意」を懐いていたように思われる。》
 筆者も山室の考えに賛同する。日本人の唱える「五族協和」は、山室が指摘しているように、互いの存在を認め合って「協和」するのではなく、日本人が他の民族に文明と規律を教え込むという意味のスローガンだった。異質なものの共存を目指すのではなく、日本人の考える規律へ服従させることをもって、協和の達成された社会とみなすものだった。一言で言えば、当時の日本人の満洲諸民族や日本民族への考え方は、きわめて独善的なのだが、その独善性を自覚できないほど「善意」だったということなのかもしれない。前野茂や武藤富雄や、その他多くの満洲国で活躍した日本人官僚たちは、その「善意」と「独善性」によって迷うことなく満洲国の建設に打ち込み、多くのことを成し遂げたのであった。

▼最後に関東軍の責任について一言して、この稿を終わりたい。
 前野茂は『ソ連獄窓十一年』の中で、ソ連軍が満洲に侵攻して来たとき、関東軍がその家族を鉄道でいち早く逃がしたことを、強く批判している。それはまったく正当な批判である。
 太平洋戦争の戦況悪化とともに多くの部隊が満洲から南方へ引き抜かれ、1941年7月の関特演当時70万の「無敵関東軍」を誇った戦力は、1945年にははるかに低下していた。ソ連軍から満州の日本人をどうやって守るか、現地死守か早期引き上げか、満洲国政府と関東軍は協議していたが、結論を出せないうちにソ連軍の満洲侵攻となったのである。非常事態に対処する計画をつくらず、満洲国政府にもつくらせなかったことは、まずもって批判されなければならない。
 そして満洲国の国防を全面的に委託された立場にもかかわらず、侵攻してきたソ連軍にまともな応戦をせず、その結果、開拓民をはじめ多くの満洲在住の日本人を無防備なままソ連軍の暴力の前に晒し、多くの悲劇を生み出した責任は、きわめて重大である。
 ソ連およびソ連軍について甘い理解を持っていた結果、六十万人近い抑留者を出したことについても、関東軍は責任を免れない。
 その無思慮、無能力、無責任は、時代を超えて、あらためて考えるに値するテーマだと思われる。

 (おわり)

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『ソ連獄窓十一年』補遺1 [本の紹介・批評]

▼前回まで8回にわたり『ソ連獄窓十一年』を取り上げたが、内容紹介を主とし、筆者の考えや批評を積極的に述べることは控えた。前野茂の苛酷な体験について何か述べようとすると、その原因となった「満洲国」についても触れねばならず、筆者にはその用意がないように思えたからだ。
 現在、中国や台湾では、「満洲国」は「偽満洲国」ないし「偽満」と呼ばれ、そのすべては日本の中国侵略と植民地支配に関わるものとして、全否定の対象となっているという。前野茂は、(ソ連ではなく)中国の政権からそのように批判される余地があることを、十分自覚していた。しかし自分と自分の同僚である「満洲国」の官僚たちが、「満洲」(中国東北部)の人びとの福祉の向上のために懸命に働いたことは、胸を張って主張できると思っていた。
 《……桓仁を出てしばらく行くと、大きな峠にさしかかった。峠の上からは桓仁盆地が一目で見渡せる。コンクリートの桓仁大橋がよく見える。こんな山奥に立派な橋がかけられ、険しい大きな峠に平坦な広い道が設けられている。満洲国は夢のごとく消えてしまったが、これらの建設は満洲国十三年の業績を示すものとして、久しく後世に残るのではあるまいか。あの国は日本帝国主義の所産だ、として批判されるであろうけれど、あの国の建設にしたがっていた日本人の中には、ほんとうに原住民の福祉を考え、相携えて東洋人のための理想国をつくろうという理想と熱意を持っていたものもたくさんいたのだ。世がひとたび変わればその人々も追われ、捕らわれ、殺されてゆくのだ。……》
 通化で八路軍に捕えられた前野が、通化から桓仁へ、さらに寛甸へと車で連行されたときの思いである。橋や道路の建設だけではない。匪賊を討って治安を回復させ、近代的な法秩序を確立しただけでなく、教育制度を整備し、近代的な工業を移植・発展させ、統一的な通貨制度をつくりあげた。「満洲国」にたずさわった人びとが使命感を持って懸命に課題に取り組み、短期間に大きな仕事を成し遂げたことは確かである。

▼前野茂と同様、東京地裁の判事をしていた武藤富雄は、満洲国で人材を求めていると聞き、招聘に応じた。武藤は司法部門の仕事のほか、満洲国の広報担当の責任者として活躍し、昭和18年に日本政府の情報局第一部長として招かれ帰国。終戦の際退官し、日米会話学院の創設、銀座の書店・教文館の経営、キリスト教系大学の理事長や学院長を歴任した。その武藤は、次のように書いている。
 《私たち日系官吏は、……白人の勢力の下にあって苦しんでいるアジア人を彼らの束縛から解放し、諸民族の協和による理想国家の建設を行うことを志したもので、これを満洲の地にあって実現しようとしたものである。/私たちは「征服者」としてではなく、「奉仕者」として満洲国建設に当たったと信じている。/私たちは満州を植民地としてではなく、現地住民と一体となり、複合民族国家として自立する理想国家を建設しようとしたのである。》(『私と満州国』武藤富雄 文藝春秋 1988年)
 武藤のこの本に名前が挙げられている笠木良明が率いた大雄峯会や、日本留学の中国人が多く関わった満洲青年連盟など、満洲に民族協和の「理想国家」を建設しようという若者たちの運動が、「満洲国」建国以前に盛んに行われていた。それらの運動は「満州国」がつくられ、整備されていく中で潰されるのだが、「満洲国」で働いた官吏の中にも共通の思いが流れていたと、武藤は言うのだろう。

▼日本と満洲(中国東北部)の関わりは、日露戦争後に結ばれたポーツマス条約にはじまる。日本は旅順と大連の租借権をロシアから引き継ぎ、ロシアの経営していた東支鉄道(満州鉄道)のうちの旅順・長春間を譲り受け、鉄道とその付属地を守備するために関東軍を駐留させることになった。「満蒙」は「十万の生霊、二十億の国帑(こくど=国庫金)によってあがなわれた土地」であり、日本は「特殊権益」を持っているということが、日本国内でしきりに言われた。だがそれは国家としての統合を進め、帝国主義諸国に蚕食されている国の権利を回復しようとする国民党政権や中国民衆のナショナリズムと、正面から衝突するものだった。
 日本が満蒙を支配することは、軍事的な観点からも必要とされた。第一次世界大戦後の世界は「総力戦」の時代となり、国家は長期戦、大消耗戦に耐えられなければならず、日本は自給自足圏形成のための兵站基地として、資源豊富な「満蒙」を領有することが欠かせないと考えられたのである。
 「満蒙」が植民地朝鮮と接しているために、ソ連や中国がそこに勢力を持つならば、日本の朝鮮統治が危うくなるという強迫観念もあった。
 中国人は国家意識が希薄であり、日本軍が満洲の封建軍閥を打倒し、諸民族の楽土を建設するなら、それは日本の存立上必要であるだけでなく、中国人自身の幸福でもある、といった議論が、日本の満蒙領有を正当化するために盛んになされた。

▼しかし「満蒙領有」という石原莞爾をはじめとする関東軍の主張に、陸軍中央は反対だった。陸軍中央は、「満蒙」をシナ本土政府から分離独立した地域とする「独立国家承認」案を採用し、関東軍もそれに従った。
 1931年(昭和6年)9月18日、関東軍は柳条湖事件を起こし、それをきっかけに中国東北部(満洲)各地の都市を占拠した(満洲事変)。そして地域ごとに地域政権や「自治委員会」を立ち上げるように働きかけ、中央政府からの分離独立や自治を宣言させ、これを統合して新たな政府をつくりあげるという方式で、「満洲国」建国に向かった。
 1932年(昭和7年)3月1日、「満洲国」が誕生。「満洲国」の政治の中心として「執政」を設け、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が「執政」に就いた。

 新国家の諸法制を起案した関東軍の国際法顧問に、関東軍の板垣参謀が与えた基本指針は三つだった。満洲は完全な独立国とすること、日本の言うことを聞いてもらうこと、国防は日本に任せてもらうこと。以上の三条件が満たされるのであれば、帝国でも王国でも共和国でも、なんでもよろしい――。
 このため溥儀は関東軍本庄司令官宛ての書簡で、満洲国が国防と治安維持を日本に委託し、その経費を負担する等のほか、満洲国の幹部に日本人を任用し、その選任・解職には関東軍司令官の推薦・同意を要件とすることを約束した。それは要するに、満洲国が関東軍司令官の“内面指導”下に入るということを意味する。「完全な独立国でありつつ、日本の言うことを聞いてもらう」という矛盾を矛盾としない方法が、この“内面指導”だった。
 『キメラ』(山室信一 中公新書 1993年)という書物に「満洲国官吏の機関別員数と日系占有率」という表が載っているが、1935年に中央、地方併せて幹部職員の45.8%が日本人であった。日本語の使用と日本型の事務処理を前提にすれば、満洲国幹部に日本人が多数採用されることは自然なことだったにちがいない。(以上の満洲国建国に関する記述は、主として『キメラ』(山室信一)に拠る。)

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』8 [本の紹介・批評]

▼翌日の早朝、作業隊の代表は、日本の議員団を抑留者全員で迎えたいから作業は休みたいと、ラーゲル当局に申し入れた。ラーゲル当局はこれを拒否し、日本議員団の来所は絶対にない、と断言した。そして朝食が終わり作業の時間が来ると、いつもどおり合図の鐘を鳴らした。しかしいつもの場所に集まる抑留者は、一人もいなかった。
 あわてた当局は作業隊幹部を招集し、その不法をなじった。作業隊幹部たちは、あらためて日本議員団との会見を要求し、議員団来訪の事実を隠し会見を妨害しようとするソ連側を、強く非難した。全員処罰の脅しが効果がないことを知り、議員団来所の事実を隠しておけないことを悟った当局は、「日本議員団が来所することは聞いており、歓迎準備を命じられていることは事実だが、まだ来所の日時について通知を受けていない。来所の日時が決まったら、必ず全員で会見できるようにするから、今日は作業に出てくれ」と言った。
 「われわれはこの十年間、あなたがたに騙され続けてきた。見え透いたゴマカシを信じるわけにはいかない。」
 「それでは議員団が来所しなかったら、君たちはどうするつもりだ?」
 「今日来なければ明日、明日来なければ明後日、われわれは会えるまで作業を拒否するだけだ。」
 ソ連側はついに作業隊の要求を呑み、作業の休みを宣言した。作業隊幹部はさらに議員団との会見の進め方についても、抑留者側の計画を容認させた。

 抑留者たちは10時半に野外劇場に集合した。11時を回ったころ、日本の議員団が到着した。立派な服装をし、栄養もたっぷり行きわたっているように見える彼らを見て、《何とも言えないうれしさと誇りが胸にこみ上げてきた。この感じは私だけでなく皆に共通するものであっただろう。抑留者の間からは一斉に割れるような歓迎の拍手が湧き起こった。》
 まず抑留者代表が来訪に対する歓迎と感謝の辞を述べ、抑留者の現況について概括的な報告を行った。次いで議員団長の挨拶と議員たちの自己紹介ののち、抑留者代表の求めに応じて、日ソ交渉の経緯と日本の政治的・経済的状況について、説明報告がなされた。現在、日ソ間で平和条約締結を目指して交渉が行われており、南千島の帰属問題で交渉が難航していること、また日本は終戦直後の混乱から立ち直り、産業は発展し、国民の生活水準は飛躍的に向上したことなどが報告された。
 《それは何よりも嬉しくありがたいことであった。抑留者の中には感激に堪えず、声を放って泣く者あり、ほとんどすべての者が涙で顔を濡らしていた。報告者の声は時として鳴りやまぬ拍手と歓声で中断された。》
 その後、ラーゲル内の視察と患者の慰問を終え、議員団は割れるような拍手と歓呼に送られて帰っていった。

▼日ソ間の国交回復の協議が開始され、抑留者たちは帰国の日も近いと期待していたが、交渉はなかなか進まないようだった。
 ソ連に抑留されていたオーストリア人が帰還し、ドイツ人もアデナウアーとフルシチョフの間に戦争終結宣言がなされたあと、帰還を果たしたことが新聞を通じて知られると、抑留日本人の間に割り切れない気分が漂った。同じラーゲル内の韓国人や中国人も送還され、あとに日本人だけが残ることになると、言いようのない憤懣と焦燥感が抑留者の間に充満した。抑留者たちは早期の解放を求めて、1956年の年明け早々ストライキに入り、作業に出ることを拒否した。
 このストライキは3月半ばに潰されたが、その後抑留者の待遇はあらゆる面で飛躍的に改善された。また作業隊員の大部分は、その労働から実質的に解放された。

 7月下旬、ラーゲル内で前野を含め約十名の「裁判」が行われた。前野に下されたのは、「病状にかんがみて釈放する」という「判決」だったが、彼は感激することもなくこれを受け止めた。それは幸福があまりに大きく、感情がついていけなかったのかもしれないし、そうした判決が出ることは当然だという信念があったためかもしれないと、彼は振り返る。
 8月半ば、前野は他の帰還者百六十名と一緒に鉄道でナホトカに送られ、帰還船・興安丸に乗り、ついに帰国を果たした。1945年に満洲国・通化で八路軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡されてから11年が経っていた。

▼長々と『ソ連獄窓十一年』の叙述を紹介してきた。と言っても、文庫本千二百ページのうちのごく一部に過ぎないが、前野茂の体験の骨格が明瞭になるように努めながら、筆者の関心を引いた部分を中心に紹介してみた。
 筆者は『ソ連獄窓十一年』を、興味深く読んだ。ソ連軍に捕らわれた男の75年前の特殊な体験をつづった本としてではなく、無意識のうちに、現在に重ね合わせて読んでいたからかもしれない。
 筆者はこの本を読みながら、幾度も現在のウクライナの戦争を思った。前野の体験の核にあるものの一つは、ソ連=ロシアを相手にしたときの「言葉の無力」ということだと思われるが、それはウクライナの戦争でも同じではないか、と筆者は思うのだ。
 前野が感じた「言葉の無力」は、彼自身の取り調べ、起訴、裁判に際して、共通の地盤となるべき「法の支配」が存在しないことだった。ソ連における裁判は、調査官がいみじくも前野に言ったように、「政策遂行のための手段」に過ぎず、結論が先にあり、その結論を得るためにのみ調査し、法の解釈や論理を曲げても形式は整え、政治に奉仕するものだった。
 ウクライナ戦争も同じとは、次のことを指している。昨年3月にロシアのラブロフ外相は、ロシア軍のウクライナ侵略の真っ最中にもかかわらず、次のように語った。
 「われわれはウクライナを攻撃していない。ロシアの安全が脅威に晒されているのだ。……ロシアが戦争を望んだことは一度もない。ウクライナ市民は人間の盾にされている。人間の盾として人質になっている民間人を解放したい」。
 この言葉を聞いた世界の人びとは、啞然としてラブロフの正気を疑っただろうが、これに類する発言は、プーチンをはじめロシアの政治指導者によって繰り返されている。世界がつくりあげてきた共通の良識や動かしがたい事実を平然と無視し、手前勝手な議論をしまくるという鉄面皮な態度を見せつけられては、「言葉の無力」を感じるのはやむを得ないだろう。
 彼らの言葉が、政治的な強弁として発せられているのか、それとも頑迷な思い込みによるものなのか、世界の人びとは判断に迷うにちがいない。政治的強弁だとするには、彼らの態度には“うしろめたさ”が微塵も感じられないし、頑迷な思い込みのせいだとするには、彼らに“目覚める”時が訪れる気配は一向に見えないのだから。
 二つの「言葉の無力」は、原因も形も顕われ方も異なるが、言葉への信頼を失わせる点は変わりがない。言葉への信頼が失われるとき、剝き出しの暴力が世界を支配する。

(おわり)

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『ソ連獄窓十一年』7 [本の紹介・批評]

▼1953年3月初め、スターリンが死んだ。続いて内務大臣ベリヤが、政府転覆を企てたという容疑で逮捕され、処刑された。スターリンの死より少し前から、外国人の囚人に対する取り扱いは少しずつ寛大になっているように感じられ、支給される食糧にも改善が見られた。7月半ばになり、前野は初めて家族からの手紙を受け取った。
 前年の9月に家族へハガキを書いて、返事がいつ来るか、クリスマス頃になるか、あるいは正月になるかと、首を長くして待っていたが、ついに返事は来なかった。2月になっても来ない。妻子の運命について、不吉なことがあとからあとから頭をよぎった。
 すると監獄当局に呼び出され、モスクワから次のような注意が届いたので、伝達すると言って、監獄副長の少佐が紙片を読み上げた。文字は必ず楷書ではっきり書くこと、文章はできるだけやさしく簡単に書くこと、食品の名前はなるべく書かぬこと―――。
 ソ連に良い日本語通訳が少ないことを身にしみて分かっていながら、自分はなんと馬鹿なことをしたのだろう、と前野は悔やんだ。文字は楷書で、文章はできるだけやさしく書いたつもりだった。しかしあれも書きたい、これも書きたいと、虫眼鏡が必要なほど小さな字でいっぱいに書き込み、日本のなつかしい食べ物を思い出して、それを送ってほしいと書きいれたから、検閲する通訳陣はたちまち音を上げてボツにしたのだ。こうして連続5回、前野の手紙は握りつぶされていたのだった。
 注意を受けて、前野は全文20字の電報のようなハガキを書いた。その返事が届いたのである。家族は皆元気で、東京に残していた長男は東大の助手として働いていること、満洲で別れたとき三歳と二歳だった娘は小学校4年生と3年生になり、生まれていなかった男の子も1年生になったこと、妻は女学校の英語教師として働いていること、などが書かれていた。
 中風で半身不随になり、監獄の病院のベッドに横になっていた前野は、寝たままハガキを高く差し上げ、思わず「万歳!」と叫び、「ざまあみろ!スターリン!」と大声をあげた。
 《ついに私は勝ったのだ!この瞬間、心からそう思った。》

▼この年の12月、日本人戦犯千二百数十人がナホトカから日本へ送還されたという記事が新聞「プラウダ」に載ったのを、前野は目にした。
 翌年(1954年)の9月、前野は6年間過ごしたウラジミール監獄を出され、シベリア鉄道で1か月近くかけて東部へ送られ、ハバロフスクの戦犯収容所(ラーゲル)に入れられた。このラーゲルは、東西約百メートル、南北約二百メートルの広さを持ち、有刺鉄線を上に張り巡らした高さ4メートルの外壁で囲まれ、外壁の四隅には望楼があり、小銃を持つ番兵が絶えず見張っていた。レンガ造りのバラックと呼ばれる建物が4棟あり、ここに囚人が居住し、他に衛兵所、食堂、浴場、病院、洗濯場、便所、野外劇場、麻袋修理工場などが、独立した棟としてあった。
 新入所者がラーゲルに着くと、まず医者が診断し、「重労働に適する者」、「軽労働に適する者」、「病弱者であるが軽労働は差し支えない者」、「あらゆる労働を免除すべき病弱者」、「即時入院が必要な病人」に分類した。前野は「あらゆる労働を免除すべき病弱者」に入れられた。
 ラーゲルは囚人に強制労働を課し、収益をあげる経営体だった。ラーゲルの建設費も維持費、つまり囚人たちの生活費や職員の俸給も、囚人たちの稼ぎによって賄われる仕組みだったと、前野は書く。囚人たちは朝6時の鐘で起床し、7時半にはトラックに詰め込まれて建設作業の現場へ送られ、近場なら5列縦隊を組まされて徒歩で作業現場へ連れて行かれた。道路をつくり、工場やアパートを建設することが主な仕事だった。
 この構外作業がラーゲルの最大の収入源だった。仕事を発注した事業体からラーゲルに、その労働の量と仕事の成績に応じて金が支払われ、ラーゲルはそこから経費を差し引いた残りを収益とした。ハバロフスク市内最大の広場や大道路の建設、市内の病院、学校などの新しい建築は、すべてこうして造られたものだと前野は聞かされた。
 構内の軽作業としては、食堂やバラックの清掃、構内清掃、便所掃除、洗濯作業、風呂場勤務などがあった。

▼このラーゲルには、監獄とは比較にならぬ広範な自由があった。収容者は、外部との接触は厳しく制限されているものの、構内ではいつどこへでも自由に出かけられ、誰といつ会い、何を話そうと自由だった。また花壇があり、収容者は花を愛でることができ、青葉の下で清浄な空気を満足するまで吸うことができることも、前野には大きな喜びだった。
 収容者は約1千名だったが、その八割は日本人であり、日本語を喋れることも嬉しかった。収容者たちは週1回の映画の上映を楽しみにするほか、演劇、演芸、音楽会などの催しものを盛んに行っていた。『収容所から来た遺書』(辺見じゅん著)で知られることになった、山本幡男(はたお)が中心の俳句の集まり「アムール句会」も、収容者の文化活動の一つだった。野球や相撲も盛んで、手製のグラブやボール、バットもなかなか立派なものだった。
 しかしラーゲルには監獄と同様、「スパイ」の問題はあった。またシベリア・デモクラ運動と呼ばれ、ソ連を正義とする立場に立って収容者を告発、密告する運動が、一部で行われていた。「反動は日本に帰すな」、「反動は白樺の肥料にせよ」のスローガンが掲げられ、前野の知り合いも幾人か、「つるし上げ」の犠牲となった。

▼1955年の夏、日本の代議士十数名がソ連政府の招待でモスクワを訪れたことが、新聞に載った。議員団はフルシチョフ、ブルガーニンと日ソ国交回復や抑留者送還問題を話し合い、両者の話し合いの内容が詳細に公表されていた。ロシア語を読める者は貪るようにそれを読み、ただちに日本語に訳されて食堂の壁に貼り出された。
 そうこうしているうちにラーゲリに砂や小砂利が幾台ものトラックで運び込まれ、広場や道路に撒かれ、全バラックの清掃が抑留者に命じられた。汚く曇っていた窓ガラスはピカピカに磨き上げられ、ロシア人の看護婦長は装飾用のカーテンを徹夜で縫っていた。抑留者たちは、これはよほど偉い人が来るに違いないと直感した。
 ある日リーダー格の男がバラックの大部屋で、皆さんと協議したい、と声を張り上げた。
 「諸般の状況を総合して判断すると、明日、日本の訪ソ議員団がわれわれのラーゲルを訪問するのは間違いない。しかしラーゲル当局はこれを否定し、われわれに明日作業に出るよう要求している。当局が議員団と抑留者を接触させまいと企んでいることは明白で、彼らは議員団がわれわれから抑留生活の真相を聞くことを恐れているのだ。そこで明日とるべき行動を決めておきたい。代表者を決めて議員団と会うようにすべきなのか、それとも全員が作業を拒否して議員団を歓迎するべきなのか。もし全員が作業を拒否したら、当局の厳しい処罰を覚悟しなければならないが、どうか?」。
 全員で作業を拒否することが、瞬時に満場一致で決定された。集会はさらに収容者を代表して議員団に挨拶や質問をする代表を選び、作業隊の幹部が他のバラックと協議するために出ていった。

(つづく)

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