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「靖国」を考える 7 [政治]

▼宗教施設ではない新たな「追悼・平和祈念施設」を設けるべきだとする報告書に対し、次のような反対意見があったという。いささか長くなるが、靖国批判の活動をする人たちの議論の問題点を見るために、紹介する。



 ―――国による追悼は、どんな形でも必要ない。本当に追悼したいならばそれぞれの個人や宗派が、それぞれの場所でそれぞれの形で行えばいい。自分たちは「反戦」という立場で結集している。靖国問題を解決できればいいというのではなく、どうしたら戦わない世界が実現するか、という視点で考えなければならない。
 ―――国家が追悼施設をつくるということは、どこまで行っても国家が基準である。国のために死んだ者、尽くした者のみが、国家によって追悼され、慰撫されるというのは、「靖国」の論理構造そのものだ。つまり新追悼施設は「第二の靖国」に他ならない。
 ―――報告書は「国家としては歴史や過去についての解釈を一義的に定めることはしない」として戦争責任に対する言及を避けているが、過去の侵略戦争と植民地支配に対する真摯な反省と謝罪なしには、いかなる「追憶と希望のメッセージ」も意味を持ちえない。
―――国家による戦没者の追悼は、国家のために死ぬこと、国家のために殺すことを、国家が最高の価値として国民に強要することになる。(以上、『戦争と追悼』菅原伸郎編著2003年 に拠る。)



 「靖国問題」を論じた書物の中で高橋哲哉も「報告書」にふれ、「歴史認識」を曖昧にしていることや、「侵略戦争と植民地支配に対する一片の反省」もない点を批判している。そして次のように主張する。(『靖国問題』2005年)
 国家が軍事力を持つかぎり、国のために死んだ兵士の「追悼」は、彼らに「感謝と敬意」を捧げ彼らを国民の模範へと高める「顕彰」行為となる。つまり「追悼」するという行為が、国民を新たな戦争へ向かわせる行為となる。
 新追悼施設が新たな戦死者の受け皿とならないための条件は、国家が軍事力を実質的に廃棄することだが、日本は現在軍事力を保持している。だから《まずなすべきは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。》―――

▼戦没者を追悼する公共的な空間をつくって欲しい、つくるべきだという、人びとのささやかな希望に比べるとき、上のような「批判」はおよそ不当な難癖のように見える。
 批判者の真面目さを疑うわけではないが、真面目であればあるほど新追悼施設は過剰な期待を背負わされ、その期待に応えないと非難され、「第二の靖国」に過ぎないと烙印を押される。



 新追悼施設を「どうしたら戦わない世界が実現するか」という視点で考えなければならないという発言は、分かったようで分からない主張である。「戦わない世界」とは戦争のない世界という意味だろうが、戦争は現実政治の世界のできごとであり、追悼は個人の「魂」の世界に属する営みである。
 戦争の発生を抑えられるかどうかはまずもって現実政治の動きにかかるのであり、「追悼」とは直接何の関係もない。「戦争」を国民の意思の問題に還元しようとする傾向は、課題の巨大さ複雑さに比べてあまりにも安易であり、軽率である。



 「過去の侵略戦争と植民地支配に対する真摯な反省と謝罪」を強調する言説にも、同様の錯覚と思い込みを感じる。過去の侵略戦争と植民地支配については種々の検討と反省がなされるべきだが、その「謝罪」は基本的には現実政治のレベルで行われるものである。侵略といい植民地支配といい、国家と国家のあいだで生じた問題は国家のあいだで解決しなければならないのであり、平和条約を締結し賠償を支払うという散文的な政治過程を通じて処理するしか方法はない。
 国家間の問題を個人の良心の問題であるかのごとく擬制し、個人で「責任」を引き受けたり「謝罪」することが可能であるかのように説く言説は、まやかしというべきである。



 高橋哲哉の言う「まずなすべきは国立追悼施設の建設ではなく、この国の政治的現実そのものを変えるための努力である。」にいたっては、「ジェジェジェ!」という以外に言葉がない。それは戦死者の追悼というささやかな希望を抱く人びとに、日本が「非武装」国家でないことを理由に永遠の「お預け」を言いわたす行為だと言えよう。彼の視野には戦死者の姿はどこにもない。



 彼らは次元の異なる問題を一つのサラダボウルに入れて混ぜ合わせ、「責任」や「反省と謝罪」というスパイスを振りかけて追悼する人びとの肩に背負わせることが、「誠実」だと考えているらしい。しかし筆者は、錯綜した歴史の事実を整理し、蒙昧の言説を分別し、現実的に可能な具体案を考えることこそが「誠実」だと考える。

▼「靖国神社に国家の代表者は参拝するべきかどうか」という問いを立てた場合、国民意識の上では戦没者追悼の中心施設は靖国神社であるから、「いろいろ問題はあるにしても、国に殉じた方々を国家の代表者がお参りすることは当然ではないか」という回答に導かれやすい。
 この回答に反発する人々は、大東亜戦争が侵略戦争であったことを理由に、戦死者の追悼自体を拒否し、国家の代表者による追悼を非難することになる。
 しかし上の問いは、問題設定自体に「虚偽」が含まれているというべきだろう。国による戦没者追悼の場所は靖国神社しかないという暗黙の含意の下では、戦没者追悼の必要性を認めるかぎり、自動的に靖国神社への公式参拝を認めることに導かれるからだ。これは論理学でいう「虚偽の二分法 false dichotomy」にほかならない。
 正しい問いは、「『愚かな戦争』を戦い斃れた人びとを、われわれはどう追悼するべきか」というように設定されなければならない。そのような問いならば、われわれは追悼の場所として靖国神社がふさわしいかどうかを自由に考えることができる。
 靖国神社が「愚かな戦争」を支えた戦前の抑圧的社会体制や、批判的思考を封じた天皇制支配イデオロギーを含めて大東亜戦争を肯定する立場に立つ以上、筆者は戦死者を追悼する場所としてふさわしくないと結論付けるしかない。「愚かな戦争」を批判することなしに戦死者が讃えられるなら、彼らは浮かばれないと思う。
 新追悼施設に関する「報告書」の内容は、懇談会内部の賛否両論に配慮した腰の据わらないものだが、靖国神社以外に国民追悼の場所を考えるという方向性は妥当なものと考える。

(つづく)


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三土修平

ご議論はますます佳境に入ってきましたね。私は、高橋哲哉氏の『靖国問題』は、拙著執筆の推敲段階で読み、いちおう多少の言及はしておきましたが、性急に批判することは、あの段階では避けておきました。「7割程度もっともなことが書いてありながら、あとの3割が全体を台無しにしているような本だ」と思いましたけれども。そのときの違和感を文字にしてみると、ご高論に近いものになろうかと思います。あの時点ではご高論ほど突き詰めては考えていませんでしたが。

「戦後平和主義の上滑り」にみられるわが国知識人の弱点は、ほぼ重複する勢力によって担われていた従来の「死刑廃止論」が、21世紀に入ってから「被害者感情」に光を当てる報道に圧倒されて凋落してしまったという現象とも根が同じ感じがします。「国家権力=悪」といった単純すぎる現世的無政府主義思想が、親鸞の「縁がもよおせば人間は何をするかわからない悲しい存在」といった宗教的な根源的自己凝視と安易に野合(仏教者側からみればかえって迷惑な片想い的野合)をして、味方のすそ野を広げようとしたところに、もともと無理があったのではないかと。
by 三土修平 (2013-11-17 19:06) 

渡辺卓(当blog開設者)

三土修平さま
コメントありがとうございます。
拙稿を読み返してみて、靖国派に対するよりも反靖国派に対する方が、自分の言葉がキツくなるのは妙だな、と苦笑しました。
国家権力を悪ととらえる「市民主義」的発想と「死刑廃止論」は同根であり、その凋落も当然だというご意見ですが、小生も、かれらが「悪」を含まない世界を直接的に欲するという点で、相似形の問題のように感じます。
同様の相似形は、近年の「ゆとり教育」の発想とその中止についても言えそうです。
「死刑廃止論」や「教育」については、過去にこのブログで取り上げたことがあります。小生の関心もこの相似形に沿ってあるのかもしれません。
by 渡辺卓(当blog開設者) (2013-11-18 21:56) 

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