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気になる言葉 気に入らない言葉 その2 [ことば]

▼ひと月ほど前、NHKの「100分de名著」という番組をたまたま見た。いろいろのジャンルの有名な書物を取り上げ、内容を紹介しつつ、男女二人の進行役が研究者から説明や関連する話を聴きだすという趣向の番組だった。
 筆者が見たときは、「名著」に中原中也の詩集を取り上げていた。「100分de」というのは、1回25分間の番組4回でひとつの書物を取り上げる、というところから来ていると後で気がついた。
 中原中也の詩の「研究者」には、作家の太田治子と詩人の佐々木幹郎が起用されていて、太田はスタジオで質問者に答え、佐々木幹郎はビデオでの出演で、もっぱら詩の構造や構成について説明する役割だった。太田治子は太宰治の娘である。
 進行役が「太宰治と中原中也は交流があったんですか?」と、太田治子に質問した。太田は、「太宰の方が中也さんより二つ年下で、共通の友人がいて飲み屋で顔を合わせたりしたこともあったようです」と語り、「中也さんはカラミ酒で、太宰はオロオロする役回りだった」と説明した。
 太田はこういうことも言った。「太宰はいつも死のう死のうと思っていた。中也さんは生きようとしていた人。私は中也さんの方が好きですね」。

▼太田治子の、「中也さん」という「さん付け」に、引っかかりを覚えた。太田は、太宰治についても一度は「太宰さん」と呼び、さすがに「身内」を「さん付け」ではおかしいと思ったのか、その後は「太宰」で通したが、中原中也については終始「中也さん」だった。
 以前、このブログに書いたことであるが、芸能人、スポーツ選手、作家などを「呼び捨て」にする慣習は、彼らを蔑んでそうするのではない。彼らが「有名人」であると認め、その抜きんでた能力を認めるところから来るのであり、当世風の言い方をするなら、彼らが「セレブ」であると認めたことの証が「呼び捨て」なのである。「さん付け」するのは、彼らを個人的な人間関係の中に引き下ろすことを意味し、失礼なことなのだ。
 しかし近年、なぜか他人への敬意は「さん付け」で示すという薄っぺらな言葉の理解が日本社会に蔓延し、言葉に敏感であるはずの「作家」まで、「中也さん」「中也さん」と唱える仕儀となった。

 この「さん付け」の猛威は、どこまで行くのだろうか。中原中也が「中也さん」なら、中也から長谷川泰子を奪った相手は小林秀雄「さん」であろう。小林も、「カラミ酒」仲間の青山二郎や河上徹太郎も、見ず知らずの女性から「さん付け」でうわさされるなら、地下でどんな顔をするだろうか。
 もし樋口一葉の才能と生涯への敬意が「一葉さん」となるなら、同時代人である漱石、鴎外も、「漱石さん」「鴎外さん」となるのが道理。もう少しさかのぼって西鶴や近松も「西鶴さん」、「近松さん」となり、「清少納言さん」「紫式部さん」という呼び方が生まれるのも、時間の問題かもしれない。

▼NHKはこういう事態をどう見ているのか、聞いてみたいと思った。だが、「中也さん」「中也さん」と唱えていたのは太田治子であり、NHKのアナウンサーではなかった。NHKの番組内のことではあったが、彼らは直接回答する立場にはいない。
 そこで替わりに、日頃NHKニュースを聞いて違和感を感じている言葉の使い方について、質問することにした。視聴者の質問に答えるセクションも完備されているようなので、メールを送った。

 ≪最近、「Aさんの死体が発見された」というニュースを伝えるとき、「警察はAさんが事件に巻き込まれたものと見て捜査している」と、アナウンサーは原稿を読み上げます。しかしAさんは竜巻に巻き込まれたわけでもなく、テロリストの自爆事件に巻き込まれて死んだわけでもなく、つまりAさんが死んだ(殺された)こと自体が「事件」なのであり、それ以外に「事件」があるわけではないのです。なぜ「事件に巻き込まれた」などと言う奇妙な表現をNHKは使うようになったのですか?
 また、もし婉曲話法のおつもりなら、なぜ客観的に事実を伝えるべき場面に婉曲話法を導入するのか、お考えをお聞かせください。≫

 翌日、NHKからメールで回答があった。

 ≪お問い合わせの件につきまして回答いたします。
 「事件に巻き込まれた疑いがある」などの表現は、その人物が死亡している場合、殺害されたかどうかなど、死因が不明な段階で使用しています。
 「事件」は何者かの故意による「事件」≒「犯罪」という意味合いで使っており、「死んだこと自体」を「事件」とはとらえていません。
 ただ、ご指摘のように、報道にあたってはできる限り客観的な事実を伝えるべきだと考えています。
 今後も取材を尽くし、表現の研鑽も積んで参ります。
 ご理解をいただければ幸いです。≫

▼「事件に巻き込まれる」とは、他所の事件、他人の事件と関わり合いが生じ、その結果自分も罪に問われたり、損害を受けたりすることを言う。「紛争に巻き込まれる」とか「喧嘩の巻き添えを食う」という表現があるが、紛争や喧嘩とは本来無関係な人間が、何かの原因で関わり合いが生じてしまう、それが「巻き込まれる」なのだ。
 NHKの回答は、「巻き込まれる」という表現の奇妙さには何も答えていない。
 「警察は、Aさんが殺害された可能性があるとみて捜査している」と言えば、日本語としてずっと自然で正確な表現になるし、かってはNHKニュースもそういう表現を使っていたはずだ。近年になり、なぜ「巻き込まれた」などという奇妙な表現を、わざわざ使うようになったのか。
 そういう趣旨の質問を再度送った。今度は回答がなかった。

 言葉の専門家であるNHKが、「事件に巻き込まれた」という表現の不自然さに気づいていないはずはない。不自然を承知で使用しているということは、それが婉曲な表現で望ましいと考えているからなのだろう、と筆者は考える。
 しかし言葉としての自然さや正確さを犠牲にして、婉曲な表現を選びたがるNHKの心理には、不健康なものを感じる。不快な現実と向き合うことをできるだけ避け、「丁寧」「婉曲」に現実に接するなら面倒は起こらない、といったような微妙な「弱さ」である。
 ここに顕れているNHKの心理と、「さん付け」をしたがる世の中の心理は、「無難」であることを最上の価値とする同じ地下茎で繋がっているように見える。


プロとアマチュア [ことば]

 ▼いつ、どこで読んだ話か覚えていないので、内容の確かめようがないのだが、次のような話だったと思う。
 
 新聞や雑誌に囲碁対局の観戦記事を書く記者は、筆が立つだけでなく囲碁の腕前も相当なものでなければならない。戦いの要点が分かり、それを解説役の棋士に質問し、専門的な説明を読者に分かるように伝えることが仕事だからだ。
 ある記者は、プロになろうかどうしようかと、真剣に悩むほどの実力の持ち主だった。悩んだあげく、関西棋院の橋本宇太郎九段に相談したところ、「それでは打ってみてあげよう」ということになった。
 打ち進んで五〇手目ぐらいになったとき、橋本九段はパタリと石を置いて言った。「これだけ打てれば十分ですよ。わざわざプロになって苦しむことはない……。」



 橋本九段の言葉は、含蓄に富んでいる。あなたはアマチュアとしては十分強いが、プロとして生きていくのは難しいよ、というのが直接のメッセージだろうが、プロの世界は生半可な覚悟で近づくべきところではない、という警告の意味も含まれているにちがいない。
 また、プロの苦しみや厳しさとは無縁に囲碁を楽しめる、アマチュアの境遇をうらやむ気持ちを読み取ることも、あるいは可能かもしれない。



 ▼インターネットが普及し、誰もが情報発信する手段を手に入れた。だが、誰もが情報発信できることが、これまで情報にかかわるプロであった新聞記者や書籍の編集者たちの仕事を、脅かしているらしい。
 アマチュアが「新鮮な感覚」で、プロを上回る質の情報を提供するようになった、というわけではない。情報の量が厖大に膨れ上がる中で、人々が情報に対する感度と切実さを鈍らせ、情報を得るために以前ほどお金を割かなくなってきた、ということである。
 新聞社は記者を自前で育て、情報の真偽と軽重を見分け、適切に社会に提供することを仕事としてきた。書籍や雑誌の編集者は、書き手を発掘し育てるとともに、情報をふるいにかける役割を果たしてきた。プロによって書かれプロによって選択された情報が、読み手のもとに届いたのである。
 しかし社会に流通する情報量が厖大になり、その圧倒的な部分がプロではない普通の人々によって発信されるようになると、読み手の側の力量がきわめて大切になる。読み手である普通の人々をサポートするプロの役割が、より必要とされる社会となったということである。しかし現実に進行しているのは、逆の事態であるらしい。



 「出版プロデューサー」の山田順という人が次のようなことを言っている。
「ネットの世界では調べ抜き、考え抜いたプロの発信する情報も、素人の情報もまったく同列です。ツイッターでは、有名人の発言を何百万もの人が追いかけ、ほとんど検証もされていない情報がマスメディア並みの影響力を持ってしまいます。」
 「電子書籍や電子新聞の価格が下がることで、出版社や新聞社のビジネスモデルは成立しなくなり、作家や編集者、記者の多くが失業するでしょう。質の高い作品や情報をつくり流通させるという社会の重要な機能は失われ、残るのは不特定多数の人々による、信頼性も質も保証されない大量発信だけです。」(朝日新聞2011.5.17)



 ▼社会にとってプロフェッショナルな機能は必要なものであり、大切に育て維持していかなければならない、と考える。それは囲碁の世界であろうと、言論の分野であろうと同じことだ。
 だが囲碁の世界でアマチュアが、逆立ちしても足元にも寄れないプロの力を理解しているのに比べ、言論・情報の分野ではややもすると、プロの役割を軽視しがちなのではないか。素人の発信する情報の目新しさや肯定面に視線を向け、そこにとどまる議論が多いように感じる。
 しかし、プロによって考え抜かれた情報もごみの山に等しい情報も等価で並んでいる世界など、悪夢に等しい。
 プロにはより優れたプロであってほしい。そしてわれわれ素人は、そのプロの腕を鑑賞できる良きアマチュアでありたい、と思う。



 もともとアマチュアamateurというフランス語は、「素人」という意味で使われる以上に「愛好家」という意味で使用される言葉である。「私は音楽が好きだ」という場合に、フランス語では「私は音楽のアマチュア=愛好家である(Je suis amateur de musique.)」という言い方をするのだと、むかし教師から教わった。



 私は囲碁のアマチュアであることの幸運を、十分に味わいたい、と思う。


めくら判 [ことば]

▼ 先日、BSフジの「プライムニュース」で、東日本大震災への政治の対応について政治家や学者を呼んで議論していた。
 福島第一原発の事故をめぐり、監督官庁である原子力安全・保安院や原子力安全委員会の責任について話題が及んだとき、自民党の加藤紘一が次のような発言をした。
 「᠁᠁原子力安全委員会の委員は国会の承認事項ですから、われわれ政治家みんなに責任があるんです。みんなめくら判を押していた᠁᠁」
 発言が終わらないうちに司会の女性アナウンサーが何ごとか口を挟んだが、言葉が重なり合って聞き取れなかった。スタジオの前後の様子から、彼女は加藤の言った「めくら判」という言葉を聞いて、あわてて反応したらしいと推測された。



▼「差別用語」の問題を、そのそもそもからここで議論するつもりはない。だから、「めくら」という言葉の使用を控えるというテレビ局の方針を、いちおう合理的だと仮定してもよい。だがその方針を「めくら判」にまで拡げるのは、いささか非常識で滑稽なことではないだろうか。
 「めくら判」は、決裁文書や趣意書の内容を吟味せずに承認・同意のハンコを押すことである。「めくら」、つまり言うところの「目の不自由な人」とは、まったく何の関係もない。



 何の関係もない言葉にメクジラを立て、さも関係があるかのように理屈をこねくり 、自粛してみせる。一見もっともらしいが、実態は臆病な事なかれ主義であり、言葉をなりわいとしながら日本語に対する責任と愛情を欠いている。
 真偽のほどは知らないが、「盲滅法」や「片手落ち」、「つんぼ桟敷」なども同様に禁句リストに載せられ、マスコミ業界では使えないと耳にしたこともある。



 ▼何の関係もないことがらの間に理屈を無理やりこねて因縁を付け、どうオトシマエつけるんだ、と凄むのがヤクザの仕事だそうだ。
 作家の安倍譲二がヤクザ組織に加わっていた若いころ、兄貴分にこう叱られたという。
「ヤクザというのはな、テレビコマーシャルひとつだって、お前みたいにニタニタしながら気を許して見てちゃいけない。どう考えたってイチャモンのつけようがないものに向かって、無理に無理を重ねた理屈をつけて、人さまの懐をエサにして生きる。それがヤクザというもんだ。」(『極道渡世の素敵な面々』)
 かの兄貴分は、マスコミ業界の自粛・禁句リストを知れば何と言うだろう。カタギでもこれぐらい頑張っているのだから、お前たちはもっと根性入れてやれ、とでも言うだろうか。



▼ 前後左右どこから見てもバカらしいものを含む禁句リストが、問答無用で定着しているらしいマスコミ業界に対し、日本語を母語とする者としてやはり一言言っておくべきだろう。マスコミ業界は、原発問題にしろ何にしろ「情報公開」「説明責任」を言い立てるが、自分たちがどのような禁句・言いかえリストを作っているのか情報を公開し、その合理的理由を説明する責任がある、と。
 放射線の被害は目に見えず、長期にわたって蓄積され人体に影響を及ぼすものであるが、同様に愚かな事なかれ主義の影響も蓄積され、健康な文化に否定的な影響をを及ぼすことは避けられない、と思う。


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