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パレスチナの戦争2 [政治]

▼前回、話を急ぎすぎ、端折りすぎたので、もう少し丁寧にパレスチナの歴史をたどることにする。(急いだことには理由があるのだが、それには後で触れる。)

 まず、パレスチナ問題の出発点である「ナクバ(大惨事)」についてである。高橋和夫の講義には、イスラエル人やパレスチナ人などたくさんの人々へのインタビューが、取り入れられている。
 イスラエルの独立戦争を特殊部隊の隊員として戦い、現在、平和活動家として活動する高齢の男性は、独立戦争の勝利の見通しが持てた時点で、アラブ人をパレスチナから追い出す秘密の意思決定が、指導者の間でなされたようだと言う。戦争勝利後イスラエルは、領土とした村や町からアラブ人を武力によって追放し、抵抗する者は殺し、建物を破壊した。追放され、難民となった者の数は75万人とされる。
 アラブ人が追放された土地は収用され、ヨーロッパから移住してきたユダヤ人に分け与えられ、破壊された村や町は植林で緑の野山に変わった。しかしさすがにアラブ人追放の歴史は、イスラエルの歴史の恥部であり、その事実を知る市民は多くはないらしい。
 「記憶」という名の団体をつくって活動をしているイスラエルの若い女性が、インタビューで次のように語っていた。「ナクバ」に関する知識を広めることが、自分たちの活動の目的である。多くのユダヤ系イスラエル人はナクバを知ることを恐れている。「敗者のことはほっておけ、知りたくない」という反応もある。だが大勢の市民が関心を示すということも事実だ。パレスチナは、子供のころ聞かされたような無人の土地ではなかった。イスラエル人とパレスチナ人の和解を成立させ、パレスチナ難民の帰還をなんらかの形で可能とするべきである、と。
 彼女の団体では、「ナクバ」に関わった兵士から体験を聞く会を催し、証言を集める活動を行っている。

▼1967年の第3次中東戦争はイスラエル軍の奇襲で始まり、イスラエルは6日間で圧勝し、シリアのゴラン高原やヨルダン領のヨルダン川西岸地区、エジプトのシナイ半島を占領した。
 第4次中東戦争は、エジプトやシリアが奪われた領土を奪還するために1973年にイスラエルを奇襲した戦争で、アラブ側は緒戦は有利に作戦を進めたが、勝利することはできず停戦に至った。
 ペルシャ湾岸諸国は石油価格の引き上げを宣言し、いわゆる「オイルショック」が発生、「油断」を突かれた日本政府は、アラブ寄りの方針を打ち出して石油を確保しようとした。
 その後ニクソン政権やカーター政権が、中東地域の平和維持のためにいろいろ働きかけるが、目立った大きな出来事としては、エジプトのサダト大統領がイスラエルのベギン首相とのあいだで平和条約(1979年)を結んだことが挙げられるだろう。しかしサダトは「アラブの大義」の裏切り者として、1981年に暗殺されてしまう。

 エジプトと平和条約を結ぶことで、中東におけるイスラエルの軍事力は圧倒的となった。1982年、イスラエル軍はレバノンの首都・ベイルートに迫り、ここを拠点に活動していたPLO(パレスチナ解放機構)を包囲した。
 アラファト率いるPLOは、以前、ヨルダン川西岸地区で活動していたが、第三次中東戦争(1967年)でイスラエルに占領された後は、東岸地区(ヨルダン領)に移った。しかしPLOの存在に危機感を抱いたヨルダンは、1970年9月に武力で弾圧し(「黒い九月」と呼ばれる)、PLOはレバノンの首都ベイルートに拠点を移していたのである。イスラエルのレバノン戦争は、このPLOの壊滅を狙ったものであり、アラファトとPLOは、遠いチュニジアに撤退せざるを得なかった。
 レバノンにはパレスチナ難民のキャンプがあったが、PLOの去ったあと、ここをレバノンのキリスト教系の民兵組織が3日間襲撃し、三千人以上の虐殺を行った。イスラエル軍が打ち上げた照明弾が襲撃の合図だったといわれている。

 それまでの中東戦争は、イスラエルが生き延びるために選択の余地のない戦争だと国民に理解されていた。しかしこのレバノン戦争はそうではなく、イスラエルにとって有利な秩序をつくるためのものであり、イスラエル軍の中に戦争を拒否する人々を生み出した。
 パレスチナ難民のキャンプ襲撃・虐殺事件については、その真相究明を求める集会がテルアビブで開かれ、40万人が参加した。

▼イスラエルの面積は日本の四国ほどの大きさで、人口は834万人である。一方、パレスチナ人が住むヨルダン川西岸地区は日本の三重県と同じぐらいの面積で、人口は280万人、ガザ地区は東京23区の6割ぐらいの面積で人口は170万人、併せて450万人が暮らしている。
 ガザ地区の人口の過半数は、イスラエル独立戦争で土地を追われ、難民として逃れてきた人たちであり、ヨルダン川西岸地区には難民もいるが、もともとそこで暮らしていた人も多い。
 経済状態を見ると、イスラエル人の年間所得は36,991ドル(2014年)だが、パレスチナ人の年間所得は2,720ドル(2013年)で、1割にも満たない。
 ヨルダン川西岸地区とガザ地区で、パレスチナ人の「自治」が行われているわけではない。ヨルダン川西岸地区はA地域、B地域、イスラエルの支配地域の3種類に分けられ、イスラエルの支配地域が圧倒的に広い。面積的に一番小さいA地域は、いちおうパレスチナ人の自治区となっているが、イスラエルの支配地域のなかに点在するだけである。それより広いB地域は、行政権はパレスチナ人にあるものの、警察権はイスラエルの手に握られている。
 各地域は10メートルほどの高いコンクリートの壁で囲まれ、パレスチナ人は移動する際にイスラエルの検問所を通らなければならない。パレスチナ人はここで手荷物検査など、屈辱的な体験を強いられる。
 イスラエルの支配地域ではイスラエル人の入植地が増え続けている。
 
(つづく)

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