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アールヌーヴォーとクリムト [アート・文化]

▼むかし田舎の祖父の家で、「アール・ヌーヴォー」の装丁の本を見た。なんだろうと表紙を開いて目次を見ると、夏目漱石の『漾虚集』(ようきょしゅう)だった。「倫敦塔」、「カーライル博物館」から「薤露行」、「趣味の遺伝」までの短編七編を集めた初期の小品集で、『吾輩は猫である』と同時期に書かれたものである。出版は明治39年(1906年)。「アール・ヌーヴォー」の装丁は、ヨーロッパの最新モードの渡来だったのだろう。
 記憶では、その表紙は女性の顔や長い髪、花びらや植物のつるが、流れるように、また絡み合うように、「アール・ヌーヴォー」独特のスタイルで描かれていたのだと思う。思いがけない発見にすっかり嬉しくなり、その本をもらって帰ったのだが、それからすでに50年近くが経ち、思い立って探してみたが、見つけることはできなかった。
 
 「アール・ヌーヴォー」とひと口に言うが、国によりその呼称もスタイルも違いがあり、また建築、家具、彫刻、グラフィックデザイン、工芸、ファッション等多彩な分野にまたがるということで、明確に言葉によって定義することは案外難しいようだ。この分野の第一人者といわれるニコラス・ペヴスナーの『モダン・デザインの展開』や、S.T.マドセンの『アール・ヌーヴォー』を読んだことがあるが、明確な定義はなかったように思う。
 「アール・ヌーヴォー」という様式は、思いのほか短命だったらしい。一八九〇年代後半にヨーロッパ中に広まり、一九〇〇年にパリで開かれた国際大展覧会で人気は頂点に達した。しかし「この様式が一九〇〇年にパリで博した人気は、その二年後には早くも消え失せていた」(S.T.マドセン)。その後世間の関心はほとんど無いに等しく、『世紀末芸術』(1963年)を書いた高階秀爾によれば、「頽廃」「悪趣味」の代表のように考える雰囲気が強かった、という。
 しかし20世紀の後半に、事情は変わる。いくつもの展覧会が催され、世紀末芸術の再評価がなされ、その源流として「ラファエル前派」やウイリアム・モリスへの関心も強まった。
ユーディットポスター.JPG
▼先日、上野の東京都美術館で「クリムト展」を観た。雨が降っていたのになかなかの人出で、人気の高さを物語っていた。同じ時期に六本木の国立新美術館でも「ウィーン・モダン ―――クリムト、シーレ 世紀末への道」と題する展覧会が開かれているが、ギュスタフ・クリムト(1862~1918年)の没後100年を記念する催しとして、両館の企画がぶつかってしまったらしい。
 都美術館の「クリムト展」で、筆者はクリムトの黄金色に輝く「ユーディット」や「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」を観ることができた。有名な「接吻」や「パラス・アテナ」、「エミーリエ・フレーゲの肖像」はなく、少し寂しい感じが無きにしもあらずだったが、代わりにクリムトの師匠や同僚などの絵を並べていた。クリムトの絵を同時代の作品の広がりの中で示すという意味で、これはこれで悪くなかった。

 ギュスタフ・クリムトは1862年にウィーンの金細工師の家に生まれた。ウィーンの工芸美術学校で学び、弟や友人と工房を作り、建物の壁画や天井画を手掛けた。当時のウィーンはリングシュトラーセを中心とする都市改造の時代であり、劇場や美術館、コンサートホールや大学など、公共建築がつぎつぎと造られ、装飾画の需要がたくさんあった。クリムトは弟や友人とともに、腕の良い職人として壁画や天井画の注文に応じて腕を振るった。
 クリムトは弟の死(1892年)の頃から、単なる職人仕事ではない、自分自身の思いを表現する絵を描くようになる。しかし保守的な観念が支配するウィーンの画壇は、クリムトを受け入れなかった。
 1897年にクリムトは仲間とともに、「分離派(ゼツェッシォン)」(正式名称:オーストリア造形芸術家協会)という組織を立ち上げ、その代表者となる。そしてこの団体の主催する展覧会で、「ユーディット」や「ヌーダ・ヴェリタス(裸の真実)」、「パラス・アテナ」など、金箔を使い工芸的要素を絵画に取り入れた作品を、次々と発表する。クリムトのいわゆる「黄金様式」の時代は、十年ほど続いた。
 クリムトは正式の結婚はしなかったが、14人の子どもがいたという。といってもスキャンダラスな隠し事ではなく、オープンにされたおおらかな関係だったようである。子どもの一人が亡くなったとき、チョークで死に顔をさらさらと描いたスケッチ(「亡き息子オットー・ツィンマーマンの肖像」)が展示されていたが、愛情の伝わってくる作品だった。
 クリムトは多くの女性を愛したが、亡くなった弟の妻の姉、エミーリエ・フレーゲが、生涯を通じた良きパートナーだった。彼女が服飾デザイナーになり、店を持つと、クリムトと「分離派」の仲間が店の設計をし,インテリアを作り、看板や名刺を作った。
 クリムトは1918年に55歳で亡くなった。

▼クリムトより20歳若いシュテファン・ツヴァイクは、世紀末のウィーンの生活と時代の空気について、次のように書き残している。

 《……私が生まれ教育されたのは、情熱の世紀ではなかった。それは、明らかな階層と落ち着いた推移とを持つ秩序づけられた世界であり、性急さのない世界であった。》
 《……われわれの時代では、四十代の人は三十代のように見えるようにあらゆる努力をし、六十代の人は四十代のようになろうとするのに反して、……あの安定の時代には、前に進もうとするあらゆる人は、年よりも老けて見えるためのありとあらゆる仮装を試みなければならなかった。》
 《若々しさ、自負心、不敵さ、好奇心、青春の生命欲は、「堅実さ」の感覚だけを持つあの時代では、いかがわしいものとされていた。》
 《……従順に、自由主義的な市民層に数十年のあいだ支配をゆだねていた大衆は、突如として不穏になり、組織化して、彼ら自身の権利を要求した。まさに世紀最後の十年間に、政治が鋭く急激な突風を伴って、快適な生活の凪の中に闖入した。新しい世紀は、新しい秩序、新しい時代を欲した。》(『昨日の世界』)

 クリムトや彼の仲間が「分離派」の運動を始めたのは、そういう時代だったのである。
筆者は長いあいだ、ウィーンの「分離派」の運動が、「アール・ヌーヴォー」の活動の中に含めて解釈されていることに、解せない思いを持っていた。
 ウィーンの「分離派」の表現や志向は、「アール・ヌーヴォー」とは対蹠的なところがあるからだ。「アール・ヌーヴォー」が曲線を多用する装飾を特徴とするなら、「分離派」のデザインはより直線的であり、幾何学的であり、装飾を排除することを志向した。
 しかしツヴァイクが書くように、安定と秩序を至高のものとする「旧世界」が厳として存在し、それに対する若々しい反発と反逆という補助線を引くなら、「アール・ヌーヴォー」もウィーンの「分離派」も、ともに線のこちら側であることは変わりがない。先に、「アール・ヌーヴォー」の明確な定義がないと書いたが、19世紀末にヨーロッパ各国と米国でいっせいに生まれた「新世代の自己主張」という大きな共通点に眼を向けるなら、様式上の違いなどささいな問題なのかもしれないと、考え直した。

▼アール・ヌーヴォー様式は、なぜ短時間で飽きられ、見捨てられたのか。研究者のひとり(S.T.マドセン)は次のように言う。
 20世紀は「機械の時代」であり、機械の時代にふさわしい美の形態や基準を示すことが求められていたのだが、「アール・ヌーヴォー」はその要求に応えられなかった。それは「芸術家個人」の様式であって、「機械の時代」の大量生産に適したシンプルなデザインを求める、時代の要請に応えるものではなかったからだと。
 20世紀の「機械の時代」に対応し、鉄筋コンクリート、ガラス、合成樹脂などの新素材を縦横に用いた現代様式が、1920~30年代に広まった。研究者によって「アール・デコ」と呼ばれるこの様式は、ウィーンの「分離派」と極めて近いように見える。

(この項おわり)

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松本竣介 [アート・文化]

▼先日、世田谷美術館に行った。車を高速道路の下の駐車場に置き、砧公園の中に入った。
 冬の公園は風もなく、穏やかな日差しが広い園庭を包んでいた。平日の午前10時という早い時間のせいか、ひとの姿もまばらだった。
 園庭のあちこちに林が点在し、十数人の幼児がドングリを拾ったり、歓声をあげながら付添いの大人と追いかけっこをしたりしていた。近くの保育園の園児たちのようだ。
 若い母親が、乳母車をゆっくりと押して散歩する姿も見える。
 芝生の中の小路を300メートルほど歩くと、林の奥に美術館はあった。内井昭蔵の設計ということだが、公園の自然に包まれ、ことさら目立とうとしない姿が好ましく感じられた。
 美術館の背後に見える隣地の市場の建物が目障りだったが、これは美術館の後に造られたものらしく、建築家としては如何ともしがたいところだろう。

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▼松本竣介展はなかなか充実した内容で、楽しめた。
 中学生の時の風景画や自画像から、36歳で亡くなるまでの作品を、基本的には制作年代にしたがって並べているのだが、その中でテーマ別の展示も併用していたので、分かりやすい。
 初期の作品はルオー風の太い線の縁取りを持つ建物や人物像で、初めて二科展で入選した「建物」(1935年)も、同様の作品である。
 その後、烏口で引いたような黒く細い線で描いた風景や人物の上に、色彩を施したような絵をしきりに描くようになる。「街」(1938年)、「都会」(1940年)はそのスタイルで描かれた100号大の絵だが、線で描かれた下絵の部分は、建物も人物も無国籍的で、作者の心象風景を組み合わせたもののように見える。
 竣介の絵は1941年ごろを境に変化する。「画家の像」(1941年)、「立てる像」(1942年)、「五人」(1943年)、「三人」(同年)など具象的な人物像を描く一方、「Y市の橋」の連作や「鉄橋付近」、「運河風景」など、画家の心惹かれた具体的な風景を精力的に描き出した。
 この太平洋戦争開始以降の時期が、画家のもっとも豊かな制作時期となったということは、面白い。
 戦後の展示は数も少なく、小品が主だった。描いた作品自体、少ないのかもしれない。画材も手に入りにくかっただろうし、画家の体調も良くなかったということもあるのだろう。



 松本竣介は「都会の風景」や「建物」、「運河」、「橋」などに、心惹かれるものを感じ、それを幾度も独特の静かな色と構図で表現した。彼の絵は、見る者の「心の奥深くに語りかけてくる」ものを持つが、それが何かははっきりとは分からない。

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▼松本竣介は1912年に東京で生まれた。父親の仕事の関係で2歳で岩手県花巻に移り、小学校3年の時に盛岡に転居している。「理解力抜群、よく勉強し、いつもにこにこしていた。」(『求道の画家 松本竣介』宇佐美承 1992年)
 しかし一番で合格した盛岡中学校の入学式当日に、脳脊髄膜炎にかかり、一命は取り留めたが聴覚を失った。父親は息子にカメラと現像・引き伸ばしの機器一式を買い与え、東京の学校に進んだ兄は油絵具一式を弟に送った。
 竣介は盛岡中学でもあいかわらず成績優秀だったが、絵を描くことに熱中し、学校に絵画倶楽部を創った。そして17歳の春、中学を3年修了でやめて東京に出、画学校に入学した。
 学校は太平洋画会研究所といい、谷中にある私塾だった。ここで仲間たちと刺激しあい、画論をたたかわせる日々を送る。
 1935年に二科展に「建物」を出品し、初入選。
1936年に結婚して新宿区下落合に住む。妻といっしょに「雑記帳」という名の雑誌を月刊で発行し、自分で文章もカットも描いた。雑誌は財政難で14号で廃刊となったが、多くの画家や詩人、小説家などが、依頼に応じて寄稿している。
 そのご妻は、「主婦の友社」で記者として働き、家計を支えた。
 戦争が激しくなるとともに、仲間の絵描きたちは招集されて戦地に赴いたが、竣介は耳が聞こえないため招集を免れた。
 1945年4月13日の空襲で、池袋一帯は焼け野原となったが、竣介の借りていた家は焼け残った。
 戦後、家に焼け出された友人たちが住み込むなかで、竣介は制作を再開した。やがて体を病み、1948年に気管支喘息による心臓発作のため、自宅で亡くなった。
 しかし《岩手の新聞をのぞいてどの新聞もその死を報じはしなかった。全国の新聞は五日後の太宰治の情死を連日センセーショナルに報じた。松本竣介は前途有望の少壮画家だったとはいえまだ無名だったのだ。》(『求道の画家 松本竣介』宇佐美承)

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▼上の宇佐美承の本の中に、竣介の妻が問われるままに語った言葉が採録されている。面白い一節があったので、紹介して本稿を閉じる。



 《とにかく欠点を探すのがむずかしい人でしたが、ひとつ、人からいやだと思われる面を持っておりました。亡くなった洲之内徹さん、このかたはたいへんなコレクターで、竣介の絵も大好きでいらしたのですが、(中略)「あのキンキン声のタテマエ論が大きらいだ。絵ではあんなに繊細なのに、あんなに静かに、しかも説得力をもって人の心の奥深く語りかけてくるのに、ひとたび文章を書くと、どうしてこんなしゃちょこばったタテマエ論者になってしまうのか」とおっしゃり(ました)。
 その洲之内さんと(中略)雑談中にふと、ああ、竣介はこういう雑談ができなかったんだわ、それでタテマエ論が多くなったんだわと気づいて、あれこれ申しました。
 つまり竣介のばあい、会話は筆談でございますから相手からは要旨しか伝わってまいりません。その上に活字で得た知識が加わります。そんなわけで竣介のコミュニケーションには雑談の要素がなかったのでございます。また耳が聞こえませんでしたから、自分の言葉の反応を確かめたくて、つい話し方も気負ってしまい、一方的になってしまうのでございます。洲之内さんにそんなことを申し上げました。》


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