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『ソ連獄窓十一年』6 [本の紹介・批評]

▼前野茂は1945年の秋に満洲の通化で八路軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡され、3年近く経ってようやく「判決」が出された。日本で判事の職にあった前野は、ソ連がどのような法律により自分を裁こうとしているのか、その論理はどの程度正当なものであるのかについて、強い関心を懐いていた。その結果は、予想をはるかに超えたデタラメなものであり、前野は驚愕と憤激の渦のなかで呆然となった。
 そもそもレホルトブスカヤ監獄の一室で言い渡された「判決」自体、その内容以前に形式としても、とても判決とは呼べるようなしろものではなかった。前野が下士官二人に両腕をとられ、デスクの前に立たされると、デスクの向こうの男は前野に名前と生年月日を確認したあと、引き出しから紙を取り出し、読み上げた。そして「わかったか」と、ロシア語で聞いた。「まるで分らない。通訳が必要だ」というと、「通訳の必要なし」と言い切り、両手の指で二十五という数字と格子の形をしてみせ、「わかったか」ともう一度聞いた。
 《……二十五年の禁固というおそろしい重刑に処するのに、公判も開かず、書面審理で片づけてしまうとは、なんという乱暴さ、なんという人権無視であろうか。恥ずかしくもなく、こんなことができるものだ。(中略)ことに通訳もつけないで、言葉のわからぬ外国人に対し、手真似で判決の宣告をするとは何ごとか。これが厳粛な刑事裁判の判決言い渡しと言えるだろうか。これでは第一、どういう機関によって裁判がなされたのか、軍法会議なのか、普通裁判所なのか、そしてまた、どういう事実が認定され、どんな法条が適用されたかも不明である。さらに、上訴が許されるのか許されないのか、許されるとして、どうしたらよいのか。いかに裁判が「政策遂行のための強硬手段」であるとはいえ、これではあまりに乱暴であり、無茶というものだ。……》
 デスクの向こうの男は前野に紙片を突き付け、署名するよう要求した。前野は、今ここで署名を拒んでもどうなるものでもないと、それ以上抵抗する気力も失せ、言われるままに署名をした。

▼前野茂が「判決」後に連れて行かれたのは、モスクワから鉄道で5~6時間の距離にあるウラジミール監獄だった。帝政時代から政治犯の収容所になっていた歴史の古い監獄である。
 入れられたのは、5~7人を収容する雑居房だった。起床時間や就寝時間、食事の時間が規則で決められ、便所と散歩に一日2回ずつ連れ出されるのはレホルトブスカヤ監獄と変わらなかった。また、食事の絶対量が少ないために飢えに苦しみ、寒さに震える生活も、変わりはなかった。
 しかし定められた行事以外に時間をどう使うかは、囚人の自由だった。黙って座っていようと寝台に横になって眠ろうと、読書をしようと書きものをしようと勝手だった。監獄の図書室には、文学書やマルクス・レーニン・スターリンの著書が揃い、新聞も読めた。囚人どうし喋ることも自由だったし、破れ物をつくろうために番兵に要求すれば、針と糸を手に入れることもできた。
 家族などから金の差し入れがあれば、10日に一度、必要な物品を買うこともできた。
 前野はロシア語の勉強をすることにした。同房の日本人にロシア語のできる男がいたので、まず初歩的な文法を彼から学び、その男が他所の房に移ったあとは、ロシア人やフィンランド人から教えを受けた。朝夕一枚ずつもらう便所紙に白紙の部分が多いときは大事に保管しておき、それに文字と意味を書きつけた。一カ月もするとロシア語の単語と意味を書き込んだ紙が十数枚になったので、黒パンを練って作った糊で張り合わせ、単語帳に仕上げた。
 しかしこの努力の結晶は、月に一回行われる「点検」で没収されてしまった。前野は必死になって抗議し、同房のロシア人も同情して前野に代わって弁明してくれたが、その単語帳の紙が便所用であるというだけの理由で、聞き入れられなかった。便所の紙は便所で使用するために支給しているのであり、これを監房に持ち帰り、他の用途に利用するのは違法であるというのである。
 しかし見つかれば没収されると分かっていても、当時の前野にとって単語帳は絶対必要なものであり、やめることはできなかった。幾度か没収が繰り替えされた後、金のあるロシア人に主食の黒パンを提供してノートを買ってもらうという方法を思いつき、ついに数冊のノートを手に入れた。これにアルファベット順に単語を書き入れ、手製の露和辞典ができあがった。
 前野は学習を始めて1年後に、曲がりなりにも新聞の国際欄の簡単な記事を、読むことができるようになった。しかし会話の方は、一向に進歩しなかった。

▼前野がウラジミール監獄で見知った囚人は、ロシア人やソ連邦内の諸民族だけでなく、日本人、中国人、朝鮮人、ドイツ人、トルコ人、ギリシャ人、フィンランド人、オーストリア人、ポーランド人、フランス人、アメリカ人等々、国際色豊かだった。前野は彼らの人柄や逮捕の原因、房の中での人間関係などいろいろ書き留めているが、それらはすべて割愛する。彼らが等しく待ち望んでいたのは、新たな戦争がアメリカとソ連の間に勃発することだった。米ソ間の戦争が勃発し、ソ連の政権がひとたまりもなく瓦解し、ソ連における全政治犯の囚人が解放されることを期待していた。
 もちろん戦争の途上、ウラジミール監獄の囚人たちがソ連の政権によって皆殺しにされる危険性は、多分にあった。解放の可能性は1%かもしれない。しかしそこには1%の可能性はある。このままではただ死を待つのみで、1%の可能性すらない。《溺れる者は藁をも掴むの諺がある。哀れな囚人たちはこうして万死に一生を求めて、米ソ戦争の勃発を一日千秋の思いで待ち望んだのであった。》
 1950年6月25日の新聞を手に取ったとき、囚人たちは「期待に胸躍らせて手を取り合い、躍り上がって快哉を叫んだ」。南北朝鮮軍の衝突が報じられていたからだった。囚人たちは非常な期待を持って事の成り行きを注視していたが、北朝鮮全土が国連軍によって占領されるという時期になっても、ソ連軍は動こうとしなかった。代わりに中国義勇軍が参戦し、北朝鮮の国連軍を押し戻したことが報じられ、囚人たちは驚いた。

 1952年9月、日本人囚人が集められ、監獄副長の少佐から、月1回家族に手紙を送ることが許可されることになった、と告げられた。ただし、こちらでの生活については一切書いてはならないと、少佐は付け加えた。
 ほんとうかな?また騙されるのではないか?という思いが、まず前野の頭に浮かんだ。まったく予期していなかったことで、夢でも見ているようで、容易に信じることができなかった。
 《ほんとうの歓びが湧きあがって来たのは、少佐の部屋を出て、階段を途中まで降りたころであった。私は(同房の)前田氏を顧みて笑いかけた。彼の顔も笑いに溶けきっていた。》

(つづく)

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「ソ連獄窓十一年」5 [本の紹介・批評]

▼レホルトブスカヤ監獄の独房では、居眠りすることも許されなかった。
 朝食の水っぽい黒パンを食べ、白湯を飲み干すと、途端にもう空腹を覚え、その瞬間から次の食事の来るのをひたすら待つことになる。次の食事までの時間をどう過ごすかは、大問題だった。
 読む本も話し相手もなく、紙もペンもない。大股に歩けば4歩で済む獄房内の散歩は、すぐに飽きるし何よりも腹が減る。ぼんやり寝台に腰かけていると、眠気が襲ってくるが、居眠りしているのを覗き穴から見つけると、番兵は鉄の扉を持っている大鍵で連打する。そのすさまじい大音響に、前野は幾度も飛び上がった。
 眠っている間だけが救いであり、楽しみであり、夜がひたすら待ち遠しかった。
 前野は、午前中は窮乏のどん底にいるであろう妻子が生きていく方策を考え、妻や子どもとの楽しい団欒を夢想することにした。そして午後は、新日本の再建の方策を考えることに没頭した。疲れてくると小机にタオルを広げ、大匙を筆代わりにして習字の稽古の真似をしたが、番兵はタオルや大匙を点検して、合点の行かぬ顔をしていた。

 モスクワに来るまでの取り調べは、北朝鮮や極東というソ連からいえば僻陬の地で行われたために、調査官や通訳の質が低く、こちらの主張が理解されないことが多かったのではないかと、前野は考えていた。ソ連の首都には学問教養のある調査官がそろっているだろうから、今度こそ満州国の司法制度について正しく理解してもらわなければならない。そう考えて前野は、呼び出しを今日か明日かと待っていた。しかし前野の期待は見事に裏切られ、なんの音さたもない単調な日々が過ぎていった。
 食糧不足や運動不足、それに精神的な重圧が重なって、前野の健康は急速に衰え、精神力も低下し、闘志の薄らいでいくのを自覚した。両脚の膝から下がむくみ、指で押すと深くへこんだ。毎日の散歩に出るのも苦痛になったが、散歩を休むことは認められず、途中で立ち止まったりしゃがみ込むことも許されない。監視の兵に脚のむくみを見せ、「ドクトル、ドクトル」と訴えたが、なんの効果もなかった。
 ある日ふと、自分の訴えたのが散歩へ誘導する兵で、任務が異なるため効果がなかったのかもしれないと思いつき、監房の看守兵にドクトルが必要だと訴えてみた。すると30分ほどして女医が現われ、聴診器を胸に当てて簡単に診察して帰っていった。あまりにも簡単な診察なので、これでは薬さえくれるかどうか怪しいものだと思っていると、その後の食事は量質ともにガラリと変わり、薬も処方され、前野は九死に一生を得る思いだった。

▼病人用の食事が支給されるようになったころ、やっと取り調べが始まった。
 昼食が配られる直前に呼び出され、尋問は夜7時ごろまで続けられた。独房に帰ると冷え切った昼食のスープと粥が待っていて、これを食べ終えるとすぐに夕食が配られる。そして夜9時になり、もうすぐ就寝だと思っていると、迎えの下士官が扉を開ける。夜呼び出されると、12時を過ぎなければ帰してもらえない。ろくな尋問のない場合でも同じであり、これは彼らが「夜勤特別手当」を稼ぐためにやっていることだと、前野は確信した。
 尋問の内容は、これまで行われたものの繰り返しに過ぎなかったが、違いはこれまでとは比較にならないほど強引に、彼らの思う方向にもっていこうとすることだった。満州国の性格やその司法制度について前野が説明すると、調査官の大尉は「ナンセンス!」と言って机をたたき、「そんなことを言うなら、今すぐに中国に引き渡してやる。中国に引き渡せば、あなたは長春の広場で首を斬られるだろう」と脅した。
 相手はこちらの主張を聞く気などまるでなく、自分の意にかなう供述を得るためには、中国に引き渡すとか懲罰室に入れるなどと脅迫することも厭わない。こうした人間にかかっては助かる道はないだろうと、半ば自暴自棄の気持になり、前野は言いたいだけのことを言うことにした。
 「それは結構だ。中国に対しては私も責任を感じている。しかし貴国に対しては、何ひとつ害悪行為をしていないし、またしようと思っても出来ない職についていた。それなのに貴国は私を捕らえて、犯罪人扱いする。それは他国への内政干渉ではないか。中国に渡したいのならそうしてくれ。しかし私は、現在の正当政権である蒋介石政府に引き渡されることを要求する。」
 すると大尉は、「モスクワにはたくさんの中国共産党員がいる。電話ひとつ掛ければ、すぐ彼らは駆けつけて、あなたはこの世から消されてしまうだろう」と言った。

 調査官と前野の対立のひとつは、「裁判の独立」の問題だった。前野が司法行政の目標として、そのためにどれほど努力したかを説明しても、調査官は理解しようとしなかった。
 前野は、それではソ連では裁判というものをどう考えているのかと、反問してみた。答える必要はないと拒否されるかと思ったら、大尉は冷笑を浮かべながら、「裁判とは国策遂行のための強硬手段である」と言い切った。いみじくも、よくぞ言ってくれた、と前野は思った。《この短い言葉の中に、この国の性格、この国における裁判の本質が、遺憾なく表現されているではないか。プロレタリア独裁・共産党専制の国における裁判は、まさにそういうものに違いない。そうだということは、この国には人権保障は存在しないということを意味することになる。》
 こうした観念で育てられ、凝り固まった頭には、「裁判の独立」などまったくばかばかしい話に違いない、と前野は納得した。

▼前野の健康はなかなか回復しなかった。毎晩のように呼び出されるので、就寝の合図があっても安心して毛布の中に入ることができない。調査官さえ、どこが悪いのか、と心配するほどの衰弱ぶりだった。あとから考えても、この時期に死ななかったのが不思議だと前野は思い、ソ連のやり方への強烈な敵愾心だけが自分を支えていたのだろうと思った。
 1948年の年が明け、数日たったころ、前野は監房を移動させられた。新しい監房は独房ではなく、入っていくと二人の男がおり、一人は近衛、もう一人は中村と名のった。近衛は元首相近衛文麿の子息・文隆で、中村は新京日本領事館の副領事だった。それまでの独房生活が苦しかっただけに、それから三人で過ごした6ヶ月の生活は、長いソ連抑留生活の中で最も楽しいものだったと、前野は想い起す。
 近衛文隆は召集されてから関東軍に配属され、終戦当時は満洲東部国境駐屯野戦砲兵隊の中隊長だった。あけっぴろげで物事にこだわらず、包容力があり、話し上手・聞き上手だった。プリンストン大学に留学し、父文麿総理の秘書官を務め、父の代理として中国各地の軍を慰問して回った経験があるだけに、話題は豊富で、貴族階級の特異な生活習慣や父文麿総理の性格など、話はいくら聞いても聞き飽きなかった。
 彼はその身分が判明するとすぐにモスクワに送られ、近衛家と天皇家の関係を詳細に調べられたり、関東軍の対ソ作戦計画を全面的に知っているという前提で細菌戦の準備について執拗に尋問されたりした。さらには「ソ連のために働く」ことを慫慂され、拒絶すると煙草の支給を止められたり、食事を減らされたり独房に入れられたりしたという。
 それでも若いだけに将来に対する見方は一番楽天的で、「あなたをすぐに日本に帰すわけにはいかない。もう少し監獄にいてもらう」と検察官に言われた「もう少し」を、長くて半年あるいは1年であり、それ以上のはずはないと考えていた。前野は、そんな生易しいものではないと思ったが、悲観論を述べるのも憚られ、黙っていた。

 1948年の6月初旬、前野は監獄の二階の一室に呼び出され、禁固25年を言い渡された。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』4 [本の紹介・批評]

▼前野茂ら6人が、山形少佐が乗せられたのと同じ箱車で移動させられた「ノボリコニスク将官収容所」は、小規模な収容施設だった。日本軍捕虜の将官を収容する目的でつくられたもので、最近まで関東軍の将官と満州国軍の将官二十数名が当番兵を従えて収容されていたとのことだった。
 ここには日本人三十余名、中国人約二十名、ドイツ人四名が収容されていた。日本人の大部分は、ハルビンなど満洲に置かれた領事館の職員であり、中国人の大部分は汪兆銘政権の下で北朝鮮の領事館で仕事をしていた職員、ドイツ人もハルビンと大連で逮捕されたドイツ領事館の下級職員だった。12月初めには新京の日本大使館と領事館の職員二十余名も加わった。
 彼ら外交機関の職員は、ソ連軍が自分たちを一般市民以上に保護するだろうと期待していたが、ソ連にしてみれば外国の外交機関職員はすべてスパイにほかならず、タイピストもお茶くみの女子事務員も全員逮捕されたというわけだった。
 外務省や満州国外交部の職員に対する尋問が、年を明けた47年2月から再開された。彼らの行っていたソ連についての情報収集が尋問の対象とされたが、それについてソ連が刑事罰を科すことができると考える者は一人もいなかった。外交機関の職員が駐在する国で情報収集し、本国に送ることは当然の職責であり、どの国でもやっていることである。無条件降伏した国の職員だからといって、それを捕らえて刑事処分に付するなどということは、常識上考えられない。もしそれらの人びとの行為を、戦争犯罪として処罰の対象にしようとするなら、それは連合国によって設けられた特別法廷で行うべきものであり、ソ連の国内法の対象として裁かれるべきものではない―――。

▼47年4月になり、前野茂の尋問がようやく再開された。中尉の肩書を持つ調査官は、前野がどのような方法で裁判を指導したのかと訊いた。前野はその質問を、満洲の裁判組織をいかに近代化し、いかに裁判官の質の向上を図ったかという意味に取り、説明を始めると、調査官は苦々しげに言葉をさえぎり、そんなことは聞いていないと言った。「あなたは司法部次長として、満洲のあらゆる裁判を重く重くと指導したに違いない。その指導の方法を尋ねているのだ。それが分かっていながら、ことさら関係のない話をする。あなたは嘘つきだ」。
 前野が、満州国では「裁判の独立」が尊重されていたことを説明すると、調査官は、以前の取り調べであなたは、「あらゆる司法機関は自分に隷属していた」と言い、調書に署名しているではないかと言った。驚いた前野は、署名に至った事情を説明し、満州国の司法制度の説明に努めたが、調査官は疑わしそうな表情で前野の顔をにらむばかりだった。
 次に調査官は、日本軍部のソ連攻略計画に側面から協力していたという視点から、前野を追求した。
 前野は答えた。満州国が日本軍部の方針の下に建てられたものであったとしても、満州国で働いた日系官吏がすべて日本軍の目的のために仕事をしていたと考えるのは誤りである。われわれはもっと大きな理想の実現のために、すなわち満洲の地に理想的な文化国家を建設するという理想のために挺身した。そうした理想があったからこそ、公正な司法制度の確立や裁判の独立のために力を尽くしたのであり、理想がなければ裁判の独立も、意味を失うであろう―――。
 調査官は終始苦々しい顔をして聞いており、上の前野の陳述は少しも調書に取らなかった。

 前野に対する尋問は3週間続き、最後に次の事実を認めるかと言って一通の文書を通訳を通じて前野に読み聞かせた。満州国の司法部の官吏だった時代に多くの中国人を圧迫する法律を立案・公布・施行し、監獄運営の責任者として中国人民主主義者を収監し、さらに裁判所、検察庁を指揮して民主主義者に対する刑罰を重く重くと指導した、云々。
 前野は思う。かりに事実がこの通りだったとして、中国政府がこの事実を取り上げ、問題にすることは理解できる。しかしソ連はまったく無関係ではないか。これらの事実はソ連の法律とどう関わるのか、まるで理解できない―――。
 前野は、読み聞かされた事実はソ連の国内法の罪に当たるのか?もしそうだとすれば法の条文を示してほしい、と言った。調査官の答えは、ソ連刑法第58条4項に該当するというものだったので、その法文を読んでほしいと、さらに要求した。
 「日本資本主義を援助した行為を処罰するのです。」
 「それは他国に対する内政干渉ではないか。そんなバカげた法律などありえない。」
 「あなたとこの点について議論するのは無駄である。当方が読み聞かした事実について認めるのかどうか、返答すればよい。」
 前野は議論をあきらめて事実の認否に話を移し、それまでの主張を繰り返したが、いくら説明しても理解されない憤懣から、声は自然に大きくなった。

▼5月の半ば、前野茂は例の囚人を運ぶ箱車でハバロフスクまで連れて行かれ、ここからシベリア鉄道の囚人車両に乗せられ、モスクワに護送された。起訴されたのかどうか不明だったが、「モスクワで再調査する」ということらしい、と前野は考えた。
 19日間の囚人車両の過酷な旅の果てに前野が連れて行かれたのは、モスクワの町はずれにあるレホルトブスカヤ監獄で、政治犯未決監獄として有名なところだった。入れられたのは間口3メートル、奥行き5メートル、天井までの高さ4メートルほどの独房で、入口は鉄板でおおわれた分厚く重い扉であり、部屋の片隅に水洗便器が置かれ、他の隅にラジエーターを囲む頑丈な木の箱があり、箱の穴を通して暖められた空気が出てくる仕組みになっていた。
 午前5時起床、午後10時就寝、その間囚人はベッドに腰かけることは差し支えないが、ヨコになることや眠ることは許されなかった。食事は朝6時ごろから8時ごろまでの間に一日分の黒パン600グラムと角砂糖1個、白湯が食器に半分ぐらい支給された。昼食は正午から午後2時の間にひしゃく1杯のキャベツのスープと雑穀の粥が大さじ2杯ぐらい、夕食は6時から8時の間に昼と同様の量のスープだった。
 散歩は1日10分から20分、風呂は十日に一度。前野はこの監獄で6か月間、独房生活を強いられた。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』3 [本の紹介・批評]

▼1946年の6月初旬、ウォロシーロフ監獄に三十五、六歳の男が入ってきて、「関東軍参謀・山形陸軍少佐」だと名のった。ハルビン特務機関に長く勤務し、ソ連の対日宣戦布告後、新京在住の軍人家族を輸送する指揮官をつとめ、平壌でソ連軍に逮捕されたと前野に語った。ハルビン在任中、多数の白系ロシア人をスパイとして使っていたが、戦後それらのスパイのほとんどが捕らえられ、禁固20年、25年という重刑に処せられていることを知っていたから、山形は自分も重刑を覚悟していた。
 「自分は25年の判決は覚悟している。しかし落胆する必要は少しもない。われわれの運命は要するに国際情勢の如何にかかっている。国際情勢が日本に有利に展開すれば、25年が5年で釈放されることもあり得る。問題は日本が一刻も早く復興し、国際社会において十分の発言力を持つようになってくれることだ」。
 前野は山形の言葉を聞き、はっと目が覚めるほど新鮮な感銘を受けた。その時まで前野が接した日本人は皆、腹を減らし、過去の思い出と家族の心配にとらわれてその時々を過ごすのが精いっぱいの様子で、帰還したあと国家の復興にどう力を捧げるかということを考え、語り合う者はほとんどいなかった。
 「アメリカはどう出てくるのか。日本の国体をどうしようとするのか」。山形少佐はしきりに祖国の運命を話題にした。「自分は帰国後、すぐに新政党運動を始める」と言って、日本の復興の方策や新しい日本の理想を語ったりした。この生活環境でこれだけの気概と抱負を保持していることに、前野は好感を持ちつつ質問した。
 「あなたほどソ連の事情に通じている人が、軍人家族を引率して平壌からさらに南下せず、あえて平壌にとどまってソ連軍に逮捕されたのはどういうわけか。俊敏で目先の利くあなたらしくないように思われるが」。
 山形少佐は次のように答えた。「日本軍は米軍と熾烈な戦闘を行い、大きな損害を与えてきたので、米軍の日本人に対する恨みはきわめて深く、占領したのち日本人に対して激しい報復手段が取られるものと、関東軍司令部は予想した。一方ソ連軍に対しては、日本は積極的に戦闘を行っておらず、ソ連のほうから条約を無視して仕掛けた戦争であり、開戦後一週間で終了したことから見ても、ソ連軍の日本人に対する態度は寛大だろうと予想した。そこから、軍人家族団に対しては平壌にとどまり、南下しないように命令が出された」―――。
 これが対ソ作戦を最大の任務とし、ソ連研究に莫大な精力を費やしてきた関東軍司令部のソ連観だったのか……。その甘さとあまりの認識不足に、前野はただ呆れるしかなかった。

▼6月下旬、軍法会議が開かれ、山形少佐は護送兵に迎えられて出廷し、帰ってくると法廷内の様子をこと細かに面白おかしく説明した。被告はハルビン特務機関関係の7~8人で、検事の公訴事実の陳述があり、それに続いて裁判長は、公訴事実についての認諾を求めているらしかった。被告がその事実を否認しても認めたとしても、それ以上深い突っ込んだ尋問はなく、二日間で公訴事実の認否に関する供述は終了した。
 普通の国の裁判なら、ここから事実に関する本格的な取り調べが始まり、証拠調べが行われることになるのだが、それまでのソ連のやり方を見ていると、とてもそのような丁寧な手続きを踏む国とは前野には思えなかった。この法廷が開かれる前に、上部機関から結論が下達されていて、法廷における取り調べはまったく形式的なもの、という気がしてならない。とすれば、被告人に対する控訴事実の認否を終えたということは、これで事実調べが終わったことを意味し、いつ判決が下されてもおかしくない、ということかもしれない……。
 前野は山形に自分の心配を伝え、山形は、一応の準備はしておこうと、その夜荷物を整理した。
 翌日は日曜日だったが、護送兵が迎えにやってきた。山形は、判決が出たら自分は本監獄に送られ、ここには帰ってこられないだろう。帰ってこなかったら、判決が出たものと考えてくれ、と言い残して出ていった。
 夕方、便所に行く時間に、全員監房を出て玄関前で二列縦隊に整列し、歩き出そうとしたとき、その出来事が起きた。玄関前の広場の東北の隅に、トラックに鉄の箱を載せたような形の囚人自動車が止まっていたが、《その箱の横っ腹にある鉄扉が猛烈な勢いでゆさぶられ、驚くほど大きな音を発した。皆ビックリしてそちらを振り向いた瞬間、なんとも名状しがたい、ぞっとするような人間の高い叫び声が箱の内から聞こえてきた。/突然だったので、何を叫んだのか分からなくて隣の人になんだなんだと尋ねていると、ふたたび箱の扉がゆさぶられ、今度は明瞭に、
 「山形参謀銃殺!」
という叫びが耳朶を打った。はっとして立ち止まったが、あわてた番兵の叱咤に囚人の隊列は、広場の西南隅にある便所の板囲いの内に追い立てられた。》
 用足しをしながら互いに語り合い、結局、箱のなんらかの隙間からわれわれの隊列を認めた山形氏が、自分に下された判決を伝えようとした「血の叫び」だ、という結論に達した。帰りにまた同様の叫びがあったなら、危険を冒してもこれに答えなければなるまい……。
 便所が終わって囚人たちの隊列が箱車に近づいた時、その扉がふたたび破れんばかりに内側から叩かれ、「山形参謀銃殺!」という叫びが聞こえた。先頭を歩いていた若い日本軍将校が、「わかったぞお! かならず家族に伝えるぞお!」と右手を高く差し上げて叫んだ。するとそれが通じたらしく、箱の中は静かになり、二度と扉は叩かれず、叫び声も聞かれなかった。しかし驚いた番兵は、囚人たちを早々に監房に追い込んだ。
 監房に戻った囚人たちは、だれ一人口をきく者もなく、黙然と座り込んでいた。山形の銃殺は、ソ連が旧日本軍特務機関をいかに憎んでいるかを物語っている、と前野は思った。

▼上の出来事は、「ウォロシーロフ野戦監獄」でのひとコマである。前野茂は「野戦監獄」について説明していないのでよくわからないのだが、判決の下った囚人が収容される本格的な「監獄」ではなく、容疑者を取り調べのあいだ入れておく一種の留置場のようなものらしい。
 ウォロシーロフ監獄にはさまざまな囚人が来ては、また他所に連れて行かれた。前野のような旧満州国の幹部もいれば関東軍の将校もおり、満洲や北朝鮮からたくさんの日本人、中国人、朝鮮人が送り込まれてきた。満洲や北朝鮮から連れてこられた中国人や朝鮮人には、八路軍や北朝鮮の共産党に邪魔な存在となった人びとが、「反ソ陰謀」を企てたとして逮捕されたケースが多く、北朝鮮から送られてきた日本人には元警察官が多かった。
 ソ連の国営農場で労働を強制されていた日本軍の捕虜が脱走し、捕まって送り込まれたケースも三件あった。彼らの話を聞き、前野はソ連の日本軍捕虜に対する考えをはっきりと理解した。「要するに、これは捕虜ではなく奴隷である。ソ連軍は満洲その他の占領地で多くの物を奪っただけでなく、人間を拉致して、酷烈な労働を強制しているのである。」
 ソ連の市民が二人、同房になった。ヨーロッパ戦線でドイツ軍の捕虜となり、米軍に解放され、米国経由でソ連に送還された男で、ウラジオストックの職場で米国の見聞談を話したのが密告され、「資本主義に与して米国の宣伝をした」として逮捕されたのだった。
 彼らは山形少佐のように、判決が出されてどこかへ連れ出される場合もあっただろうが、裁判もなく、それどころか尋問すらなく、他所に移される場合も多かったようだ。中国人の一人が当直将校の巡回の際に抗議するのを、前野は見た。
 「速やかに取り調べを実行し、罪があるなら罰するがよく、罪がないならただちに釈放せよ。ここに連行されてすでに半年になるのに、まだ一度も呼び出しがない。厳重に抗議する。」

 前野は1946年8月末に、「ウォロシーロフ野戦監獄」から10キロの距離にある「ノボリコニスク将官収容所」に移された。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』2 [本の紹介・批評]

▼前回、前野茂は、「12月の末、ソ連軍に引き渡され、朝鮮の平壌に移動させられた」と書いたが、正確に言うと、安東でソ連軍に引き渡されたあと鴨緑江を渡り、対岸の朝鮮・新義州の拘置所に入れられ、その後に平壌に移された。朝鮮に侵入したソ連軍の行動と朝鮮北部の状況を、前野は新義州の同房者などから聞いた情報をもとに記録しているので、少し記しておこう。

 日本が降伏し、ソ連軍が朝鮮に侵攻したとき、朝鮮では元のままの政治体制で占領者を迎えようとした。満州における情報を入手した憲兵や警察官は、荷物をまとめ、家族を連れて南下しようとしたが、朝鮮総督府は現状不変更を指令し、警察官には現場にとどまって治安維持の任務にあたるよう命令した。
 ソ連軍が進駐して来ると、平安北道知事は大宴会を催してこれを歓迎したが、ソ連軍が真っ先に実行したのは、総督府の官吏の追放と憲兵、警察官の逮捕だった。知事をはじめ日本人警察官全員と司法機関の長は平壌に連行され、在職中にソ連のスパイを検挙、起訴、裁判した疑いのある者は、留置場または監獄に入れられた。
 ソ連軍はまた、地方政治は民主主義の原則にしたがって朝鮮人が自由かつ自主的に行うべきだと宣言し、政党を組織しようとする者は組織幹部の名と主義綱領を書面で提出するように指示した。朝鮮人は喜んで、われもわれもと自由主義的政党や民族主義的政党をつくり、幹部名や綱領等を占領軍に提出した。ソ連軍はこうして占領地内の有害分子の人名と所在をはっきりつかむと同時に、共産党を育成、強化することに力を注いだ。そして時期を見て、共産党支配に有害と認められた人びとを反ソ親日反動分子として、あるいは親米分子として、逮捕していった。

 共産党は行政の実権を掌握すると、地主の土地を没収して小作人に分配し、総督府時代の村長や警察官、一般市民でも日本の政策に協力して表彰されたような者を逮捕し、処刑した。地主たちは持てるだけの財産を持って三十八度線を越え、南に逃げていった。
 前野は、在留日本人に対して北朝鮮政権が行った施策について、「人道を無視した残虐な復讐」であり、その「窮境は聞くだけで息苦しくなるほどのものだった」と書いている。
 まず日本人の居住する家屋を、敵の財産であるという理由で没収した。このため家を失った新義州の日本人は、当局の指定した空き倉庫に収容され、土間にむしろを敷いて寝起きすることを余儀なくされた。彼らの動産は数個の行李と夜具のみ、所持することを許された。お金は全部貯金するよう強制され、毎月一定額だけ引き出して使うことが認められたが、昂進するインフレの前に無力であり、仕事を求めれば道路掃除や便所の汲み取りなど下級の筋肉労働以外になく、その賃金は朝鮮人の三分の一以下と決められていた。日本女性の売春の代価も三分の一以下とされ、日本人は餓死寸前の状態にまで追い込まれている、と前野は書き留めている。

▼1946年1月下旬、前野茂は新義州から平壌の監獄へ鉄道で移された。そして2月10日になり、平壌からウラジオストック近くのウォロシーロフ市まで大型双発機で運ばれ、ここの野戦監獄に入れられた。
 監獄での生活は、次のようなものだった。午前6時起床。白樺の小枝を束ねたホウキで房内の掃除。7時ごろから1日分の黒パン(各人600g)と白湯が支給される。昼食は午後2時から3時までの間に雑穀のスープと木製スプーン一杯の雑穀の粥。夕食は6時から7時までの間に雑穀のスープ。野菜がぜんぜん支給されないことが不安だった。砂糖が1日25グラム支給されたので、前野はそれを3,4日分溜めておいて口に含んだり、粥に入れてプディングのようにして食べたりした。
 朝夕2回、便所の時間があり、兵士の指示の下、野外の便所に集団で向かう。大きな堀の上に碁盤の目のように板が渡されていて、一度に数十人が並んで用を足す。周囲は、満洲から分捕ってきたベニヤで囲ってあったが、寒いときや雨天の時はたいへんだった。しかしこれが、囚人が外気に触れられる唯一の機会だった。
 日本人の囚人にとって不可解なのは便所の紙を与えてくれないことだった、と前野は書いている。囚人は犬同様、尻を拭く必要がないとでも考えているのだろうか、と不思議に思っていたが、ある時看守の兵士が囚人といっしょに並んで用をすませ、紙を使わないで立ち去ったのを見て、ようやく紙をくれない理由が呑み込めた。前野は房から外に出るたびに紙くずを拾い、用足しに使うことにした。
 食事と掃除の時間を除いて囚人たちは何もすることがなく、毎日の最大の仕事はシラミ退治と雑談だった。

▼ソ連軍の前野に対する取り調べは新義州の留置場から始まったが、取調官が他国の事情に無知であったり、通訳に法律の素養がまったくなかったりして、容易に進まなかった。
 前野は、文教部次長の職にあったのは1か月に過ぎず、それまでは司法部次長として満州国の司法行政の分野で腕を振るった法律の専門家である。満洲に渡る前、日本では判事の職にあった。司法部次長の仕事の内容は法律で定められており、隠す必要もないため、取り調べには率直に語る姿勢で臨み、在職中に立案した法律などについて説明した。
 取り調べのあと供述内容は調書にまとめられ、通訳がそれを読み聞かせ、署名を求められる。ウォロシーロフ監獄での調書には、満州国官吏としての前野の業績が大ざっぱに書かれたあと、最後に「司法部次長の下に全司法機関が所属していた」と読み聞かせられたので、それはどういう意味かと前野は質問した。
 「一般司法機関が司法部に所属していたというのは行政的な意味では正しいが、裁判は外部の力から完全に独立しており、司法部大臣もこれに干渉することは許されなかった。調書の最後の部分がこのことに反する意味なら、署名はできない」。
 取調官の中尉は、前野の言ったとおりのことが書かれているので心配する必要はないと言い、ロシア語の読めない前野は確認するすべもなく、署名せざるをえなかった。
 しかし後になって、「満州国の一般司法機関だけでなく、軍事司法機関もともに司法部次長の指揮下に属していて、その裁判も司法部次長の命令で自由に変更され、決定されていた」と記載されていたことが判明した。前野はこの記載の訂正のために、四苦八苦させられることになる。

(つづく)

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