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「靖国」を考える 6 [政治]

▼日本人は68年前のあの戦争から、何を学んだのだろうか。
 戦争はイヤだ、もうコリゴリだ、という感想にとどまり、それで終わるとすれば、莫大な犠牲、亡くなった多くの命に見合わないあまりにも貧しい「学習」成果といわざるを得ない。先に戦後日本を特徴づける「平和主義」という言葉を使ったが、「主義」というには知的な検討を欠いた素朴な思いにとどまっており、「思い」というにはあまりにも堂々と主張されすぎたように思う。
 また、日本はヨーロッパの植民地になっていたアジアを解放した、日本は悪くない、と言いたがる人々に、不都合な事実を直視できない精神のひ弱さを見て取ることは容易である。どちらもあの戦争の貴重な体験から、何ほどのことも学ばなかったという点では同罪というべきだろう。



 自分の戦争体験を手放さず、あの戦争の意味を執拗に考え続けた人のひとりに、吉田満がいる。
 大正12年生まれの吉田は学徒出陣で海軍に入隊、昭和20年に「大和」に乗艦して沖縄特攻作戦に参加した。「大和」は撃沈されたが吉田は生還し、戦後、『戦艦大和ノ最後』を発表する。小林秀雄は「たいへん正直な戦争経験談だと思って感心した」と感想を述べ、三島由紀夫は「感動した。日本人のテルモピレーの戦を眼のあたりに見るようである。」と書いた。日本銀行に勤めながら、自分たちの世代の戦争体験の意味を言語化する文章を書きつづけ、昭和54年に肝不全で亡くなった。亡くなる直前に病院のベッドの上で書いた絶筆「戦中派の死生観」に、次の一節がある。



 《「故人老いず生者老いゆく恨かな」菊池寛のよく知られた名句である。「恨かな」というところに、邪気のない味があるのであろうが、私なら「生者老いゆく痛みかな」とでも結んでみたい。戦死者はいつまでも若い。いや、生き残りが日を追って老いゆくにつれ、ますます若返る。慰霊祭の祭場や同期会の会場で、われわれの脳裏に立ち現われる彼らの童顔は痛ましいほど幼く、澄んだ眼が眩い。その前でわれわれは初老の身のかくしようがない。
彼らは自らの死の意味を納得したいと念じながら、ほとんど何事も知らずして散った。その中の一人は遺書に将来新生日本が世界史の中で正しい役割を果たす日の来ることをのみ願うと書いた。その行く末を見とどけることもなく、青春の無限の可能性が失われた空白の大きさが悲しい。悲しいというよりも、憤りを抑えることができない。》



 吉田満が靖国神社について、どのような考えを持っていたのか筆者は知らない。靖国神社で戦死した同期の慰霊祭を行う戦中派の人々は少なくなかったが、彼も「いつまでも若い」戦死者を追悼するために、靖国に詣でることを例としていたかもしれない。
 「国家の運命に殉じた人々にたいして、その思想の価値について議論することなく無条件にぬかずくという態度に、私は共感を禁じ得ないし、共感を持つことを悪いこととは思えない。」と鶴見俊輔は書いている。「戦争の目的を信じて国家に殉じたものへのたやすい忘却は、敗戦直後の平和思想を上滑りする性格のものにした。」とも書いた。(『平和の思想』1968年)。昔年の若者たちが、よく闘った仲間の慰霊に靖国神社に詣でることは、けっして貶められるべきことがらではない。
 しかしそのことと国家の指導者が「公式に」参拝することとは、意味も性格もまったく異なる。国家の指導者の参拝は、靖国神社への公式の評価であり、その歴史観、戦争観への肯定的評価なのであり、亡くなった人々への追悼の意味だけだと言い逃れるわけにはいかない。

▼すでに述べたように靖国神社には戦後、民間の一宗教施設として国家とのつながりを手放す道と、宗教性を手放すことで公共的施設として残る道の選択肢があり、靖国は前者を選んだ。また、祭神の顕彰よりも、慰霊を通じて平和への思いを新たにする場所として捉えなおそうとする志向も、戦後の一時期存在したが、大東亜戦争肯定、東京裁判否定という戦前と変わらない姿に落ち着いた。「A級戦犯合祀」の経緯についても、すでに触れた。
 靖国神社が独自の歴史観による主張を持ち、彼らが否定する戦後の憲法によって護られている以上、靖国とは別に公的な慰霊施設を創ろうという考えも生まれる。
 政府は1963年から毎年8月15日に、全国戦没者追悼式典を日本武道館で行っている。追悼の対象を軍人軍属に限定せず、空襲犠牲者など民間の犠牲者にも広げ、宗教的儀式を伴わない形式での式典である。
 また国は「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」を1959年に設立した。戦後の遺骨収集によって戦跡地から持ち帰られた遺骨のうち、引き取り手のない数十万体を収めた合葬の墓である。当初は外国の無名戦士の墓に見られるように、安置されているのが一部の遺骨であっても全戦没者の象徴として受け止め、国が戦没者を追悼する際の中心的施設とする考えもあったというが、靖国神社の地位が危うくなるとして反発があり、そのような扱いの施設とはなっていない。(三土修平『靖国問題の原点』)
 小泉内閣は首相が靖国参拝を行う一方、官房長官の諮問機関をつくり、「追悼・平和祈念のための施設の在り方」についての報告を受けた。「国際平和の構築へと積極的な一歩を踏み出そうとしている今日、21世紀の日本は国家として平和への誓いを内外へ発信」するために、宗教施設ではない追悼・平和祈念施設を設けるべきだ、とする内容である。その施設は、個々の死没者を慰霊・顕彰する靖国神社とは趣旨や目的が異なり、また千鳥ヶ淵戦没者墓苑とも異なるとされた。
 この報告書については、靖国神社こそ追悼の中心と考える人々から批判の声が上がっただけでなく、靖国神社に批判的な人々のあいだでも賛否が分かれる結果となった。

 
 
(つづく)


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コメント 5

三土修平

「靖国」を考えるのご連載が始まって以来、興味深く拝読させていただいております。主要参考文献三点の中に拙著を挙げていただいているのが、まことに光栄です。赤澤史朗さんは高校の1学年上級生で、親しい交流はなかったものの、顔は知っていましたので、彼の本は刊行後すぐに拝読しました。バランスのとれた本でした。鶴見俊輔が1968年にそういう発言をしていましたか。フォローしておくべきでした。ご高論もいよいよ佳境に入ってきた感じですね。戦後平和主義の上滑りと、虚勢を張った大東亜戦争肯定史観の跋扈は、ローマ神話にいう「ヤヌス」の二つの顔なのかもしれません。なお、今年出した拙著『靖国問題の深層』では、戦犯刑死者上野千里軍医という人の遺書を引用しておきましたが、ああいうものこそ、どんな立場の人にも読んでもらいたいです。
by 三土修平 (2013-11-11 18:46) 

渡辺卓 (当blog開設者)

三土修平さま
コメントありがとうございました。
「靖国」を考えるは、いい年齢していつまでも「判断停止」というわけにもいかないだろうと、自分の頭の整理のために始めた作業です。ご著書からのベタの引用も多いお粗末な内容で、著者の方に読まれていたとは、お恥ずかしい限りです。「問題」の構図を理解するうえで一番役に立ったのが『靖国問題の原点』でした。

赤澤氏は学生の頃の知り合いでした。顔を合わせればヤア、ヤアと挨拶し、短い立ち話をする程度の仲でしたが。
しかし彼の著書を読むのは『靖国神社』が初めてです。しっかりした文章で書かれた良い本、という印象でした。 

ご著書『靖国問題の深層』はこれから読もうと楽しみにしています。
by 渡辺卓 (当blog開設者) (2013-11-14 08:46) 

くみ

初めまして。上野千里さんの検索でたどり着きました。
約20年程前に三笠書房というところから出版された「小さな感動のおすそわけ」の中に入っていた上野千里軍医さまの詩を読み、深く感動して折に触れ友人知人に紹介し、2006年から始めたブログでも「悲しみのつきぬときこそ」というタイトルで紹介し、三年前には川瀬葉月さんというシンガーソングライターに依頼して、ライムライトの曲に乗せて若干詩を編集して「ライムライト〜みんなへ」というタイトルで歌って頂いております(YouTubeで観られます)。今年の2月に久しぶりに検索した所、取り上げていらっしゃる方が少し増えてコメントをさせて頂きながら情報を集めておりました所、つい先日Akemiさまのブログで6月に靖国問題の深層が出版されたと知り、すぐに購読しました。著者の三土さまがコメントされていらっしゃるので恐縮ですが、上野さまのことだけを知りたく、そこの部分を号泣しながら読ませて頂きました。30年前に亡くなった父(大正12年生まれで満州に行きましたが、到着してすぐに測量士の資格保持者4人だけが日本に帰るよう命令があり、他の方達がその後レイテ島で玉砕した事を後年知ったそうです)と同郷である事、同じ中尉というポストだという事など、私には何かしらのご縁を感じています。
お坊さんの講話にも取り上げられているそうですし、「維摩経」という本の中でも取り上げていらっしゃるそうで、遺族会の編纂した「世紀の遺書」共々、高価な本の中に収録されているので本当ならNHKで特番が組まれてドキュメンタリーで放送してもいい程の素晴らしい方なのにどうしてあまり知られていないのか不思議でした。しかし、靖国問題の深層の中にあえて取り上げられた事の、その「深層」を思うとき、戦争を知らない者ばかりの平和ボケした現代の日本において、911、311後に露呈した国際的利権構造とそれを守る政府や官僚やマスコミの隠蔽体質と誤魔化しは、唯一点「組織を守る事が自らを守る」という事のために、組織に属さない者たちの命や財産を奪っても何とも思わない人間達がいつの時代も、どんな時もこの地上に巣食っているのだということを悟らされましたが、先の戦争の時代に巻き込まれた上野さまも、自分の命と引き換えに偽ってでも部下と上司を守るという公的な責任と立場を貫いたからこそ、あの誰もが何とか生き延びるために偽ってでも得ようとしたその中で一際輝いているのだと、ただしそれが組織を守る事や忠誠を誓う事の掲揚や啓蒙にならぬよう注意深くあらねばならぬと思う今日この頃です。
父の兄は昭和31年になってようやくシベリアから抑留しましたが、県庁に勤められても夜な夜な絶叫で目をさます毎日だったとかで、母は「弟には言うな」と、彼の背中にある深く刻まれた無数の深い傷跡を見せられたそうです。シベリアでの凄まじい試練に耐えたその伯父は、テレビで放映した「トラトラトラ」を観ていて心臓麻痺で急死しました。
今また憲法まで変えて(自民党の党の綱領には憲法改正が初めからずっとあります)戦争の出来る国にしようという組織的な大きな動きが現実に進行中ですが、憲法前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」という誓いの言葉全てを「世界遺産」として心に刻みたいと思います。
by くみ (2013-11-21 08:37) 

くみ

すみません。伯父は31年にシベリア抑留から解放されたの間違いです。

伯父は満州でかなり高いポストにいたから「もはや戦後ではない」年まで解放されなかったと後で知りました。シベリアに行けたのも、まだマシだったと話していたそうで、ソ連が侵攻してきた時に、満州の現地の中国人たちが、捕虜となった日本軍兵士の中で自分たちを虐待した者達を「指差し」するのだそうで、指差しされた者はその場でソ連兵士や中国人に惨殺されたそうです。伯父はそういう事をしなかったせいか、数人の中国人が証言してくれてシベリア送りになったのだそうです。
名前が残っている者達をはるかにうわまわる無数の人々が非情で無惨な戦争の犠牲者です。
沖縄の平和の礎に刻むように、どこかに生きたしるしを遺してさしあげたいです。
by くみ (2013-11-21 08:58) 

三土修平

くみさん。
川瀬葉月さんの歌をYouTubeで聴かせていただきました。くみさんが企画なさったのですか。人脈がおありなのですね。

靖国がらみのNHKスペシャルとしては、2005年8月13日に放送された『靖国神社―占領下の知られざる攻防』が出色でしたが(DVDが入手可能です)、あの番組を手掛けた中村直文さんを中心とする取材班に再結集していただくなら、すぐれた国際的機動力を生かして、上野千里さんの事件の実相に迫る番組を制作してもらえるかもしれません。
by 三土修平 (2013-12-02 16:30) 

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