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「政治」の不在 [政治]

▼「パレスチナの戦争」について、筆者のとりあえず述べたいことは前回で一応終えたのだが、肝心のことにはなにも触れていない。つまり目下の喫緊の課題である「休戦」あるいは「停戦」のこととか、パレスチナの人々が生きていく最低限の環境をどのように保障するかという問題について、何ひとつ自分の考えを述べていない。
 述べなかった理由は明らかである。絶え間ない空爆や銃撃、破壊され瓦礫と化した街、瓦礫の下に埋もれた多くの死体や負傷者という現実の前で、どのような言葉も議論も無力であるからだ。イスラエルとパレスチナの「二国家共存」以外に問題の解決法はないと多くの人々が考え、それが正しい道筋だとしても、それが目下の緊急事態を打開する力を持つわけではない。
 米国はイスラエル擁護の姿勢を変えず、国連決議は実効性を伴わず、国際社会は無力をさらけ出している。しかしその中で、パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し、停戦を求める声が世界で拡大している。イスラエル政府は世界に広がる反イスラエルの感情に苦慮し、攻撃を続けることが人質解放につながると弁明したり、民衆を「人間の盾」に使うハマスを非難したりするが、苦しい立場にあることは変わらない。ここに辛うじて、筆者はささやかな希望を見る。
 イスラエルの「極右」といわれる政治勢力は、パレスチナ全土をイスラエルの領土にしたい、そのためにパレスチナ人をシナイ半島(エジプト領)にでも追い出したいと希望している。彼らは、ガザのパレスチナ人が今回の「戦争」でどれほどの犠牲を出そうと、おそらく意に介さないにちがいない。しかしその「極右」勢力を含むイスラエル政府は、そのような「本音」を表に出すことはできず、非難の声の広がりに苦慮している。少なくともここには、言葉の通じる共通の場が存在するのであり、共通の場を拡げていくことが問題の解決に繋がっていくと一筋の期待を抱くことができる。
(ロシアによるウクライナ侵略に救いがないのは、一つにはロシアの指導者の語る言葉が、国際社会で語られる言葉とまったく噛み合わない点にあるように思う。)

▼イスラエルの閣僚でエルサレム問題・遺産相の男が地元ラジオのインタビューで、「ガザに原爆を落とすべきか」と問われ、「それも一つの選択肢だ」と述べたという。また彼は240人の人質について、「戦争に代償はつきもの」と発言したという。
 ネタニヤフはこの「極右」の閣僚の、閣議などへの出席を当面凍結する措置をとり、「イスラエルと軍は、非戦闘員に被害を出さぬように、国際法の高い基準のもとに行動している」と弁明したと報じられた(11/7)。
 イスラエル社会の「右傾化」は、ラビン首相の暗殺とネタニヤフの政権奪取以降、進行した。西岸地区のイスラエルの支配地域にユダヤ人入植地が建設され、彼らを守るという名目でイスラエル軍兵士たちが任務に就く。国際法違反だという国際社会の批判に耳を貸さずに入植地は増え続け、それは社会の「右傾化」をさらに促進する。
 昨年末の国会議員選挙では、パレスチナに融和的でかっては政権を握っていた労働党は、定数120のうちのわずか4議席と惨敗した。今回の「戦争」でイスラエル社会はさらに「右傾化」し、高橋和夫の講座にインタビューの形で登場していたような、パレスチナ人との融和や共存によって平和を作り出そうと考える人々に、非難の砲火が向かうことにならないだろうか。
 パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し停戦を求める声が、世界で拡大していることについて、それこそハマスの戦術に乗るものだと反発する主張を耳にすることがある。ハマスは武力でイスラエル軍に勝てるはずがなく、そのことを彼らは十分承知しているのに攻撃を始めた。彼らはパレスチナの人々を戦渦に巻き込むことによって、イスラエルの残虐性を世界に訴えることを狙っており、それが彼らの目的であり、戦術であるからだ。だからイスラエル批判のデモをし、批判の声を上げることは、ハマスの戦術に乗せられている以外のなにものでもない。―――
 しかしハマスの戦術に乗ることを批判する発言者が、イスラエルの入植地が年々拡大し、その過程で入植者がパレスチナ農民のオリーブの樹を伐り、家屋を破壊し、抵抗する人々を殺害している現実に言及することはない。(昨年1年で200人以上殺害と研究者は言う。)また「天井のない監獄」といわれる、高い壁で囲まれた狭い空間に押し込められたパレスチナ人の、抑圧された希望のない生活に言及することもない。
 
▼むき出しの力と力がぶつかり合い、互いに相手を殲滅しようとする。力の強い者は自分の主張を通してすべてを取り、相手には一物も与えず、不満にはさらに力を加えて抑えつける。われわれの見せられているそういう光景は、「中東」というかの地の苛酷な政治風土に因るのだろうか。その光景を一言で表現するなら、「政治」の不在ということである。
 「政治」とは何かという問いに答えることは難しい。「戦争」さえ「他の手段をもってする政治」とされるぐらいだから、その広がりはわれわれの日常の人間関係から戦争に至るまで広大無辺と言ってよく、権力や物理的強制力、利益配分や秩序などに着目した多くの定義がある。しかしそれは学者に任せておけばよい。筆者がここで「政治の不在」と呼んだのは、相手と妥協し、協調して安定した秩序を作り出すことが、目先の利益を総取りし、相手の不満を力で抑圧するよりももっと大きな利益であると判断し、周到に実現する力が存在しないということである。
 イスラエルの独立戦争以来パレスチナの土地で繰り広げられた戦いは、第4次中東戦争(1973年)以降は「政治解決」に向かう条件が存在した、と筆者は思う。「オスロ合意」(1993年)は、イスラエルの長期的利益のためにリーダーが決意した重い政治的決断だった。

 いまなぜパレスチナに「政治」が不在なのか。それはパレスチナ人の利益を代表する国家が存在せず、またイスラエルの側に長期的利益を考える勇気あるリーダーが存在しないからだと言える。
 自分たちの利益を代表する国家が存在しないとき、パレスチナの人々はイスラエルという国家の前に、裸の個人として立たされる。相手と自分のあいだに圧倒的な力の差があるとき、イスラエルはパレスチナの個人の訴えを無視して、好き勝手なことができるし、相手に何らの譲歩をする必要を感じない。高い壁を作り、その中にパレスチナ人を閉じ込めておけば、自分たちは不都合な現実を見ないで済む。彼らの不満は力で容易に押さえつけることができ、つまり存在しないことにできたのだ。
 そういう圧倒的な力の不均等が、超大国アメリカがイスラエルの側に立つことによって固定化され、「政治の不在」が永続化されてきたというのが、パレスチナのここ三十年の歴史だった。

 「パレスチナの戦争」の勃発直後、BSフジの「プライムニュース」という番組に参加した高橋和夫が感想を問われ、「研究者たちは、皆、絶望しています」と絞り出すような声で言った。その時の高橋の表情が、忘れられない。

(この稿終わり)


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パレスチナの戦争3 [政治]

▼ハマスの奇襲によって始まった「パレスチナの戦争」は先週で1か月が過ぎ、パレスチナ住民の死者は1万人を超えた。爆撃機とミサイルによる絶え間ない攻撃によって、ガザの建物の多くが瓦礫と化した。10月下旬からはイスラエル地上部隊がガザに侵攻し、水も食糧も薬品も燃料も枯渇しつつある住民たちは、病院や学校などにかろうじて避難しているが、そこにもミサイルは落ち、死者と負傷者は増え続けている。住民を支援する国連施設で働く国連職員の死者も、100人を超えた。
 10月7日のハマス奇襲は、イスラエルの想定を完全に覆すものだった。ハマスは大量のロケット弾を撃ち込んでイスラエルの防空網を破り、越境した戦闘員は千人以上のイスラエル市民を殺害し、200人を超える人質を連れ去った。
 市民の殺害の方法も残虐だったと報じられている。米国のブリンケン国務長官は議会上院の公聴会で次のように証言した(10/31)という。
 「私はイスラエルを訪れ、ハマスの残虐行為について多くの証言を聞いた。例えば、家族4人で朝食をとっているところにテロリストが乱入し、拷問を加えた末に全員を射殺した。父親は、子供たちが見ている前で眼球をくりぬかれた。母親は乳房を切り取られた。娘は脚を切断された。息子は指を切断された。その後テロリストは4人を射殺し、その食卓で食事をとった」。ホラー映画のようなおぞましい場面を見ていた人間が、よくぞ無事に現場を抜け出し、証言したものだと感嘆するが、そのほかにも現場に到着した兵士や警察官、救急隊員、検視官などが、手を縛られたまま焼かれた女性や子供の黒焦げの遺体を見たと、証言をしているようだ。
 イスラエルはガザ地区への報復攻撃を、自衛権に基づく正当な行動だと主張する。しかし無抵抗の市民の殺害が許されないこと、受けた被害と均衡の取れない、十倍、二十倍の報復が正当化されないことは、「国際法」以前に人間の良識の範囲であろう。
 しかしネタニヤフ首相は停戦にも休戦にも応じようとはしない。ハマスを殲滅し、ガザ地区を占領した後、イスラエルの統治下に置くことを公言している。
 唯一イスラエルの行動を左右する力を持つ米国は、イスラエルの側に立ち、その影響力を強く行使しようとはしない。ガザ市民の死者は今後も増え、街はさらに破壊されるであろうことは確実だが、いつどのような形でそれが止むのかは、何も見えない。
 この戦争の行方を決める決定的な要素は、イスラエル国内の世論であろう。市民の戦争支持は今のところ揺らいでいないようだが、ネタニヤフ首相の支持率は30%を切る状態だという。国難発生ともなれば、「一致団結」「挙国一致」でたちまちまとまる国に住む者として、とても不思議な気がするが、どうやらこの辺りが戦争の行方を決めるカギなのかもしれない。

▼10月24日、国連のグテーレス事務局長は安全保障理事会で、「どんな紛争でも民間人の保護が重要だ」と強調した。その上でイスラエルやハマスを名指しせずに、民間人を「人間の盾」として使うことや、百万人以上の人々に避難所も水も燃料もないガザ南部に避難するように命じ、そのうえで南部を爆撃し続けることは、民間人の保護に反すると非難した。
 また、10月7日のハマスによるイスラエルの攻撃について、「何もない状況で急に起こったわけではない」と言い、「パレスチナの人々は56年間、息の詰まる占領下におかれてきた。自分たちの土地を入植によって少しずつ失い、暴力に苦しんできた。経済は抑圧されてきた。人々は家を追われ、破壊されてきた。そうした苦境を政治的に解決することへの希望は消えつつある」と述べた。
 同時に、パレスチナの人々が怒っているからといって、ハマスによるおぞましい襲撃が正当化されるわけではない。またおぞましい襲撃を受けたからと言って、パレスチナの人々に対する集団的懲罰が正当化されるわけではない」とも主張した。(以上はBBCニュース10/25から引用。)
 イスラエルはこの発言に猛反発し、事務総長の即時の辞任を求めると国連大使が旧ツイッターに投稿した。

 グテーレス事務総長のこの発言は、穏当なものであろう。2007年、イスラエルはテロの防止などを理由にガザ地区に分離壁を建設し、ガザ地区への人と物の出入りは厳しく制限されるようになった。パレスチナ側は地下にトンネルを掘り、エジプトから生活物資を密輸して対抗した。地下のトンネルはその後も延長され、今では300~500キロメートルの長さと言われ、ハマスがイスラエル軍に抵抗する基地となっている。

▼「パレスチナの戦争」の初回に、第三次中東戦争以降の歴史を後回しにして、「オスロ合意」について触れた。イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人が互いの存在を認め、共存していくためには、互いの「国家」を認め合わなければならない。イスラエルの独立戦争と建国以来、続いてきた両者の対立が、ついに1993年に解消に向かう「合意」に至ったことを、まず強調しておきたかったからである。
 何が「合意」をもたらしたのか。高橋和夫は、「インティファーダ」の影響が大きかったのではないか、と言う。「インティファーダ」とは、1987年にヨルダン川西岸地区とガザ地区で起きたパレスチナ民衆のイスラエルに対する抗議運動だが、すでにPLOはチュニジアに撤退し、物理的な力を何も持たない中で、若者たちはイスラエル兵に石を投げ、タイヤを燃やしてイスラエルの占領に抗議する意思を示した。この抵抗運動がイスラエルのラビン首相に、PLOとの交渉を決意させたと高橋は考えるが、妥当なところかもしれない。
 筆者は他に、世界が冷戦終結の余韻に浸っていた1993年という時代の雰囲気や、1991年のイラク戦争の結末も、ラビンの決断に影響していたのではないかと思う。
 そしてラビン首相が第三次中東戦争時のイスラエル軍の参謀総長であり、つまり救国の英雄として国民から厚く信頼されていたからこそ、劇的な政策転換も可能となったのだろう。
 しかし既述の通り、ラビンは1995年にユダヤ原理主義の男に暗殺された。その翌年行われた選挙で、ラビンの後継者ペレスの率いる労働党がネタニヤフ率いる右派政党リクードに敗北し、二国家建設の「合意」プロセスは頓挫する。ネタニヤフは、ハマスとパレスチナ自治政府の分裂の状態を維持することがイスラエルの利益だと考え、パレスチナ側の分裂を策し、それを和平交渉を進めない口実として利用したからである。
 ネタニヤフが数次にわたって長期間、政権を維持する背景には、イスラエル社会の「右傾化」があるのではないかと筆者は推測する。

▼ウクライナ戦争で傷ついた国連の権威と力は、パレスチナの戦争でさらに傷を深めた。国連が地域紛争解決のために力を発揮できない状態が、続いているのだ。
 米国もパレスチナの戦争で、その行動や発言の身勝手さを世界に示し、道義的権威を失墜させた。しかし安定的な国際関係では軍事力や経済力以外に、秩序を維持する説得力ある論理や道義的権威の存在が欠かせない。国際秩序の揺らぎは、ウクライナの戦争や台湾問題の行方にも暗い影を落としている。

(この稿おわり)

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パレスチナの戦争2 [政治]

▼前回、話を急ぎすぎ、端折りすぎたので、もう少し丁寧にパレスチナの歴史をたどることにする。(急いだことには理由があるのだが、それには後で触れる。)

 まず、パレスチナ問題の出発点である「ナクバ(大惨事)」についてである。高橋和夫の講義には、イスラエル人やパレスチナ人などたくさんの人々へのインタビューが、取り入れられている。
 イスラエルの独立戦争を特殊部隊の隊員として戦い、現在、平和活動家として活動する高齢の男性は、独立戦争の勝利の見通しが持てた時点で、アラブ人をパレスチナから追い出す秘密の意思決定が、指導者の間でなされたようだと言う。戦争勝利後イスラエルは、領土とした村や町からアラブ人を武力によって追放し、抵抗する者は殺し、建物を破壊した。追放され、難民となった者の数は75万人とされる。
 アラブ人が追放された土地は収用され、ヨーロッパから移住してきたユダヤ人に分け与えられ、破壊された村や町は植林で緑の野山に変わった。しかしさすがにアラブ人追放の歴史は、イスラエルの歴史の恥部であり、その事実を知る市民は多くはないらしい。
 「記憶」という名の団体をつくって活動をしているイスラエルの若い女性が、インタビューで次のように語っていた。「ナクバ」に関する知識を広めることが、自分たちの活動の目的である。多くのユダヤ系イスラエル人はナクバを知ることを恐れている。「敗者のことはほっておけ、知りたくない」という反応もある。だが大勢の市民が関心を示すということも事実だ。パレスチナは、子供のころ聞かされたような無人の土地ではなかった。イスラエル人とパレスチナ人の和解を成立させ、パレスチナ難民の帰還をなんらかの形で可能とするべきである、と。
 彼女の団体では、「ナクバ」に関わった兵士から体験を聞く会を催し、証言を集める活動を行っている。

▼1967年の第3次中東戦争はイスラエル軍の奇襲で始まり、イスラエルは6日間で圧勝し、シリアのゴラン高原やヨルダン領のヨルダン川西岸地区、エジプトのシナイ半島を占領した。
 第4次中東戦争は、エジプトやシリアが奪われた領土を奪還するために1973年にイスラエルを奇襲した戦争で、アラブ側は緒戦は有利に作戦を進めたが、勝利することはできず停戦に至った。
 ペルシャ湾岸諸国は石油価格の引き上げを宣言し、いわゆる「オイルショック」が発生、「油断」を突かれた日本政府は、アラブ寄りの方針を打ち出して石油を確保しようとした。
 その後ニクソン政権やカーター政権が、中東地域の平和維持のためにいろいろ働きかけるが、目立った大きな出来事としては、エジプトのサダト大統領がイスラエルのベギン首相とのあいだで平和条約(1979年)を結んだことが挙げられるだろう。しかしサダトは「アラブの大義」の裏切り者として、1981年に暗殺されてしまう。

 エジプトと平和条約を結ぶことで、中東におけるイスラエルの軍事力は圧倒的となった。1982年、イスラエル軍はレバノンの首都・ベイルートに迫り、ここを拠点に活動していたPLO(パレスチナ解放機構)を包囲した。
 アラファト率いるPLOは、以前、ヨルダン川西岸地区で活動していたが、第三次中東戦争(1967年)でイスラエルに占領された後は、東岸地区(ヨルダン領)に移った。しかしPLOの存在に危機感を抱いたヨルダンは、1970年9月に武力で弾圧し(「黒い九月」と呼ばれる)、PLOはレバノンの首都ベイルートに拠点を移していたのである。イスラエルのレバノン戦争は、このPLOの壊滅を狙ったものであり、アラファトとPLOは、遠いチュニジアに撤退せざるを得なかった。
 レバノンにはパレスチナ難民のキャンプがあったが、PLOの去ったあと、ここをレバノンのキリスト教系の民兵組織が3日間襲撃し、三千人以上の虐殺を行った。イスラエル軍が打ち上げた照明弾が襲撃の合図だったといわれている。

 それまでの中東戦争は、イスラエルが生き延びるために選択の余地のない戦争だと国民に理解されていた。しかしこのレバノン戦争はそうではなく、イスラエルにとって有利な秩序をつくるためのものであり、イスラエル軍の中に戦争を拒否する人々を生み出した。
 パレスチナ難民のキャンプ襲撃・虐殺事件については、その真相究明を求める集会がテルアビブで開かれ、40万人が参加した。

▼イスラエルの面積は日本の四国ほどの大きさで、人口は834万人である。一方、パレスチナ人が住むヨルダン川西岸地区は日本の三重県と同じぐらいの面積で、人口は280万人、ガザ地区は東京23区の6割ぐらいの面積で人口は170万人、併せて450万人が暮らしている。
 ガザ地区の人口の過半数は、イスラエル独立戦争で土地を追われ、難民として逃れてきた人たちであり、ヨルダン川西岸地区には難民もいるが、もともとそこで暮らしていた人も多い。
 経済状態を見ると、イスラエル人の年間所得は36,991ドル(2014年)だが、パレスチナ人の年間所得は2,720ドル(2013年)で、1割にも満たない。
 ヨルダン川西岸地区とガザ地区で、パレスチナ人の「自治」が行われているわけではない。ヨルダン川西岸地区はA地域、B地域、イスラエルの支配地域の3種類に分けられ、イスラエルの支配地域が圧倒的に広い。面積的に一番小さいA地域は、いちおうパレスチナ人の自治区となっているが、イスラエルの支配地域のなかに点在するだけである。それより広いB地域は、行政権はパレスチナ人にあるものの、警察権はイスラエルの手に握られている。
 各地域は10メートルほどの高いコンクリートの壁で囲まれ、パレスチナ人は移動する際にイスラエルの検問所を通らなければならない。パレスチナ人はここで手荷物検査など、屈辱的な体験を強いられる。
 イスラエルの支配地域ではイスラエル人の入植地が増え続けている。
 
(つづく)

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パレスチナの戦争 [政治]

▼ウクライナの戦争に続いてもう一つ、パレスチナで戦争が10月7日に勃発した。筆者は目を背け、耳を塞ぎたい気持ちで毎日を過ごしている。
 ウクライナ戦争はまだよかった。ロシアによる侵略行為に驚き、国際秩序に及ぼすその影響について強く憂慮したが、自分の立ち位置に迷いはなく、国際社会が分かりやすい態度表明をしていることも救いだった。ウクライナ軍が欧米からの武器の支援を得て善戦し、戦況が悪くない点でも希望が持てた。ウクライナ軍がロシア軍を押し戻し、プーチンのロシアが得るものもなく、侵略の代価ばかりが巨大な請求書を突き付けられることで、この古典的な悲劇が幕となる可能性について考えると、これからの世界にも希望が持てるような気がした。
 しかしパレスチナの戦争は違う。出口のない密室の中で、殺したり殺されたりの緊張が極限まで高まり、破裂し、多くの無辜の民が毎日殺されているのに、世界は有効な手を差し伸べることができない。イスラエルとハマスの圧倒的な力の差により、戦いの今後はイスラエルの指導者の手に握られ、彼は、一般市民の犠牲が大きくてもハマスを根絶するまで戦いをやめないと公言している。
 またパレスチナの戦争は、ウクライナの戦争への関心を薄れさせ、米国からの武器援助を妨げるという意味でも、筆者の心配は募る一方である。

▼筆者のパレスチナ問題の理解は、次のようなものである。(以下の記述は、BSの「放送大学」で聞いた高橋和夫の講座「パレスチナ問題」(2016年)に、全面的に拠っている。)

 現在、イスラエルという国家があるパレスチナという土地は、かってはオスマン・トルコの領土だった。オスマン・トルコは宗教的には寛容で、ユダヤ教徒やキリスト教徒の自治を認めていたから、20世紀の初めまで各教徒が共存していた。
 オスマン・トルコは第一次世界大戦で、ドイツの側に立って参戦した。大英帝国はアラブの指導者フセインに、独立を支持することをエサにトルコに対して反乱を起こすよう働きかけ(フセイン・マクマホン協定)、またシオニストに対してはその協力を得るために、ユダヤ人の建国を認める旨の約束をした。(バルフォア宣言)。そしてフランスとは、アラブのトルコ領を大戦後に山分けにする秘密協定を結んだ。(サイクス・ピコ協定)。戦争終結後、国際連盟が発足し、パレスチナは英国が統治を委任される土地となった。
 パレスチナには農業を営む少数のユダヤ人とアラブ人が棲み、互いの交流はないまま共存していた。英国の委任統治下ではパレスチナへ移住するユダヤ人は増えず、移住が爆発的に起こるのは、第二次世界大戦の終結後である。
 ナチの強制収容所で6百万人のユダヤ人が殺された事実が明らかになり、世界に衝撃を与えた。ユダヤ人に対して負い目を追うヨーロッパ社会は、1947年の国連決議によってパレスチナを二つに分割し、半分をユダヤ人に与えると決定した。ユダヤ人はこの決議を受け入れたが、アラブ人は受け入れなかった。国連決議後、アラブ連盟諸国とユダヤ人の戦いが起こった。(第一次中東戦争と呼ばれる。)
 戦争はアラブ側有利に進んだが、やがて武器がソ連やヨーロッパからユダヤ側に届きはじめ、形勢は逆転し、イスラエルは1948年5月に独立を宣言した。そしてイスラエルの領土内に住むアラブ人を、国外に追放した。このとき家と土地から追われたアラブ人は75万人に昇り、これが現在にいたる「パレスチナ難民」のはじまりである。この追放を、アラブ人はアラビア語で「ナクバ(大惨事)」と呼ぶ。
 第一次中東戦争の結果、パレスチナの北部と南部、その間を結ぶ地中海沿いの土地はイスラエルの領土となり、アラブ人の土地はガザ地区とヨルダン川西岸の二か所となった。国連はその結果を承認したが、アラブ側は認めなかった。
 (以下の地図は、1948年のイスラエルの独立戦争(第一次中東戦争)以後のものである。白っぽいところがイスラエル領。戦争前と比べ、北部のアラブ人地域が消え、ガザ地区とヨルダン川西岸地域も小さくなっているが、現在よりははるかに大きい。)
パレスチナ.png

▼現在のパレスチナ問題を考える上で大きな影響を及ぼしているのは、第三次中東戦争と呼ばれる1967年の戦争である。
 1967年にエジプトなどアラブ諸国とイスラエルの軍事的緊張が高まり、6月5日朝、イスラエルはアラブ諸国の空軍基地を奇襲し、これを壊滅させた。獲得した制空権の下で、イスラエル軍は地上戦でもアラブ諸国の軍を打ち破り、エジプト領のシナイ半島、ヨルダン川西岸地域(ヨルダン領)、シリア領ゴラン高原を占領し、6日間で戦争に完勝した。歴史的にパレスチナと呼ばれていた土地のすべてを、イスラエルが支配するようになった。
 講師の高橋和夫は、この戦争の勝利がイスラエル社会に与えた影響として、アラブ人との間の土地問題をどう解決するかについて、イスラエル人のあいだのコンセンサスが崩れたことを指摘する。安全保障上の理由から、イスラエルの安全が確かになるまで占領地を保有するという考え方は、それまでもあった。しかし神学上の理由から、パレスチナの土地は本来ユダヤ人のものだという主張が強まり、これが問題の解決をいっそう難しくしたのである。

▼パレスチナ問題の一つの画期は、1993年のオスロ合意だった。ノールウェーで秘密裏に進められていたイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)との交渉がまとまり、調印式が米国のホワイトハウスで行われた。クリントンが間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が合意文書に署名し、握手を交わした。
 合意のポイントは、PLOとイスラエルの相互承認であり、ガザとエリコ(ヨルダン川西岸地域)で、アラブ人の自治を先行して実施することであり、その他の問題は交渉により1999年までに解決することだった。
 この合意は、テロ組織とは交渉しないと主張してきたイスラエルのラビン首相が、PLOを承認することを決意することにより実現した。ラビンは1967年の第三次中東戦争の時の参謀総長であり、国民的な人気を持つ政治家であった。
 しかしオスロ合意は、二つの事件によって阻まれる。1995年11月のラビンが暗殺され、翌年5月に行われた選挙でラビンの後継者として「平和」を訴えたぺレスが、右派政党リクードのネタニヤフに敗れたからである。

(つづく)

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リベラルの終り?3 [政治]

▼第二次世界大戦後、西欧諸国が採用したのは、ケインズ主義にもとづく経済運営と「福祉国家」政策だった。戦災からの復興と経済成長、そして福祉国家を目指して、西欧諸国も日本も邁進した。また共産主義陣営と政治的、軍事的に対立する自由主義陣営では、貿易を活発に行うために自由貿易制度を整備したから、資源の乏しい日本もその恩恵にあずかり、経済の高度成長を実現できた。
 しかし六〇年代から七〇年代にかけて西欧諸国、特に英国は、持続的な物価上昇(インフレーション)に悩まされることになる。この物価上昇は景気が停滞している時にも続き、「スタグフレーション」と呼ばれた。
 英国ではマーガレット・サッチャーが首相となり(1979~1989年)、国有企業の民営化を進め、労働組合に強硬な姿勢で臨み、規制緩和と緊縮財政の政策を採った。米国ではロナルド・レーガンが大統領に就任し(1981~1989年)、大規模減税と軍備増強、規制緩和と福祉削減の政策を行った。
 日本では中曽根康弘が首相に就任し(1982~1987年)、「増税なき財政再建」のスローガンを掲げ、日本電電公社の民営化(→NTTの誕生 1985年)や国鉄の分割民営化(→JRの誕生 1987年)を行った。
 サッチャリズムやレーガノミクス以降の、「規制緩和」、「民営化」、「小さな政府」等の政策を指して、一般にネオリベラリズム(新自由主義)と呼ばれるが、先進諸国の経済政策は多かれ少なかれ「新自由主義」の性格を持つものとなった。

▼「新自由主義」の経済政策は英国経済を復活させ、八十年代、九十年代の通信技術やコンピュータの発達は、自由な英国市場を活性化させた。そしてその一方で、時代の変化に乗れない多くの人びとが取り残され、貧富の格差が拡大し、社会の分断が進んだ。
 日本でも九十年代から二十一世紀初頭にかけて、企業が金融危機に伴う不況を乗り越えるために新規採用を手控えたことが、「就職氷河期」といわれる時代を生み出した。八十年代に「新自由主義」的思想の下につくられた「労働者派遣法」が九十年代末に改正され、労働者の「派遣」が原則自由化されたために、企業は雇用を景気の調節弁として使うことが容易になり、「派遣労働者」を増やした。「非正規雇用」で働く労働者の割合は、やがて日本の全労働者の3割を超え、「就職氷河期」で「正社員」として就職できなかった若者たちの多くが、不安定な「非正規雇用」を続けることを余儀なくされている。
 二十一世紀初頭に首相となった小泉純一郎(2001~2006年)は、「聖域なき構造改革」を謳い、「新自由主義」的改革を進めた。だが彼が、貧富の格差が拡大する日本社会の現実と将来を、どれだけ理解していたか疑問と言わねばならない。
 不安定な「非正規雇用」のまま年齢を重ね、結婚できない若者たちが生み出されることで、日本の「少子化」問題はより深刻化し、日本の将来に暗い大きな影を落としている。

▼「維新」(彼らは「大阪維新の会」とか「日本維新の会」とか名乗っているので、一括して「維新」という。)がどのような政策を主張しているのか、ネットを見ると「維新八策2021」という政策集が載っていた。それを項目としていくつか挙げるなら、次のようなものである。「議員定数や議員報酬を3割カットする身を切る改革」、「減税と規制改革」、「セイフティネットの構築と大胆な労働市場・社会保障制度改革」、「幼稚園から大学までの教育無償化」、「地方分権と地方の自立」、「世界に貢献する外交、安全保障」、「憲法改正」等々。
 全体として、「新自由主義」的改革を主張しているのだが、それらが日本の直面している課題に応えるものなのかどうか、筆者にはかなり疑問である。
 まず現代日本という国家についてだが、「維新」の政治家がいかに「大きな政府」に抵抗感があったとしても、国民生活の保障を政府の義務として引き受け、担っていくのでなければ、政治の役目は果たせない。そのためには、より多くの税を政府の手に集めなければならず、これまで先延ばしにしてきた膨大な国家債務の問題にも、正面から取り組まなければならない。
 「維新」は、「減税」を主張し、「増税のみに頼らない成長重視の財政再建」などという、安倍晋三が9年間試みて成功しなかった政策を掲げている。だが増税をきれいごとの理屈でごまかす者を、国民はどこか信頼できないと感じていることを、知るべきである。

 また人材面でも問題がある。小選挙区制の下では、自民党から立候補できない政治家志望者が、「維新」に流れ込むケースが多いようで、悪く言えば「維新」は“二流・三流の政治家志望者”の受け皿となるという面が、例えば東京などでは強かったように思う。
 4年前愛知県で開かれた「表現の不自由展」に対し、その展示内容を批判する人びとは「不自由展」を後援した愛知県知事を非難し、リコール運動を展開した。しかし集められた署名の大部分が偽造されたものであることが発覚し、リコール運動の事務局長が逮捕されたが、それは「日本維新の会」愛知5区の支部長の男だった。
 大規模な署名偽造事件はその事務局長「個人」の問題として処理されたようだが、経過を見ればそうとばかりも言えない気がする。リコール運動を表面に立って推進したのは、美容整形医の高須某や名古屋市長の河村たかしだったが、「表現の不自由展」の展示内容に対し、「維新」の松井一郎代表と吉村洋文大阪府知事も非難の声を上げている。リコールを成功させなければならないという空気が運動事務局を強く支配し、それが事務局長を暴走させたのだろうと筆者は推測する。
 「表現の不自由展」の展示は、「天皇」や「少女慰安婦」という熱くなりがちのテーマに関わるものを含んでいたのだが、それが生み出した騒動は、「維新」の人と思想の質を露呈させるものとなった。

 なぜ「日本維新の会」は「期待する野党」として現在人気があるのか、という初めの問いに戻る。
 5月末のFNNと産経の合同世論調査では、回答者の属性については何も触れていないので、「日本維新の会」に期待すると答えた人が年寄りなのか若者なのか、男なのか女なのか、その辺はわからない。
 「維新」は何かやってくれそうだという期待があるとか、大阪府の吉村洋文知事の人気が反映しているとか、政治解説者はいろいろ言うが、実際そうなのか?

▼日本では、「日本社会党」やその流れをくむ「立憲民主党」が「リベラル」と呼ばれる。
 しかし「リベラル(liberal)」や「リベラリズム(liberalism)」は、「自由主義」の形容詞形と名詞形であり、「立憲民主党」にふさわしい性格規定とは言えない。なぜなら「立憲民主党」は、「自由」の価値を十分に活用する社会を創るよりも、「自由」を制限しても“落ちこぼれ”が出ないようにすることに賛成する政党、というイメージだからだ。現在、「リベラル」という字義に最も近いのは、「新自由主義」的主張を政策の基調とする「維新」であろう。
 しかしそういった字義談義はともかく、「維新」への期待が「立憲民主党」への期待を凌駕するという事態は、政治的な地殻変動と見るべきものだと筆者は考える。
 現在、若い世代で「自民党」支持が高く、「立憲民主党」は年齢の高い層で支持が増える傾向にあることが世論調査で判明している。この事実は、「日本社会党」から「立憲民主党」までを支えてきた「戦後民主主義」が、戦後世代とともに消えていこうとしているのではないか、ということを予感させる。
 近づく総選挙にどのように対応するべきなのか、「立憲民主党」内部の混迷が伝えられるが、それは単に選挙戦術だけの問題ではなく、拠って立つ足元の地盤が液状化している問題として、考えなければならないのだと思う。

(おわり)

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リベラルの終り?2 [政治]

▼「メモ」の内容をもう少し続ける。
 《―――どのような業界にも業界特有の発想や用語があるように、教育関係者のサークルの中にも特有の発想や言葉、言い回しがある。それらは一般に「思考の経済」に役立つのだが、外部世界との距離の自覚を欠くとき、ややもするとバランスを欠いた奇妙なものになりがちだ。
 世論の批判を浴びて文科省がなし崩しに撤回した「ゆとり教育」がそれであるし、教師が児童・生徒の「目の高さ」で授業を行うといった言い回しや、「命を大切にする教育」というスローガンも、そのもっともらしさが逆に首を傾げさせる。外部の現実世界との健康な距離感と緊張感が必要なのだ。それが失われ、サークル内部のみが現実世界となるとき、教育サークルは古いイデオロギーが糖衣状のきれいな言葉に包まれて生息するガラパゴス島となる。
 ルポの中に、「子どもたちが家庭で放置されるケースも多く、荒れの低年齢化が進んでいる。そのため小中学校の教員の多くは生活指導に労力と時間をとられ、授業準備の時間が取りにくい状況が続いている」という市教組執行委員長の発言や、「小学校入学時、多くの児童は家庭でしつけや基本的生活態度を身につけておらず、言葉の遅れもありがちだ」という市立A小教員の言葉がある。その原因は、家庭の貧困のため親が労働で手いっぱいで、子どものしつけにまで手が回らないことと、ひとり親家庭、両親のいない家庭の多さにあるとされているが、要するに大阪の教育の現実が危機的であることが指摘されている。
 先の「府民討論会」で、橋下知事が新しく教育委員に任命した小河勝は、自分の教員としての体験を踏まえ、子どもにとって「分かること」「できること」が、いかに大切であるかを語っている。
 基礎が身につかないまま学年が進み、授業が分からなければ子どもたちは荒れる。自分は、子どもたちの「荒れ」に直面していろいろ工夫し、基礎に戻って教え、トレーニングを繰り返し、彼らの躓きをなくしていく努力をしたところ、劇的な効果が見られた。彼らは、「自分も分かる」ということを実感すれば、「自分にも未来がある」と感じられるようになる。そこからやる気や意欲が生まれる―――。
 要するに、子どもたちに学力をつけることの大切さを説くのだが、当然と思えるこの考え方は、おそらく「全国から最も高く評価されてきた大阪の教育」とは、言葉の上では微妙に、そして実践においては大いに、異なるのではないだろうか?》

▼筆者の「メモ」はまだまだ続くのだが、この辺でやめる。
 筆者は全国政党としての「日本維新の会」を少しも評価しないが、彼らが大阪の市民から支持されたという一面は、認めなければならないと思う。そしてその理由は、上に紹介した筆者のメモからうかがえるように、もっともらしい理屈をつけて擁護されてきた行政の仕組みや慣行や既得権を、橋下と「維新」がかなり強引に「改革」したところから来ているのではないか、と想像している。
 そして橋下徹によって批判の対象とされた「大阪の教育」、「全国から最も高く評価されてきた大阪の教育」とは、少しトッピな物言いに聞こえるかもしれないが、「戦後民主主義」の理想や期待や主張の“なれの果て”ではないかというのが、筆者の腰だめの見当なのである。

 「戦後民主主義」という漠然とした言葉を持ち出す以上、筆者は最低限の説明を加えておく責任があるだろう。
 昭和20年の敗戦によって日本の支配者たちは自信を失い、民衆は日々の生活の困難に直面する一方で、大きな解放感を味わっていた。彼らは古い社会の仕組みや人間関係を、より民主的で平等な仕組み、自由で進歩的な関係に変えることの中に、新しい社会を思い描いた。現実は日々の食事にもこと欠くほど貧しかったが、力を合わせれば自分たちは新しい社会を創り出せる、懸命に働けばやがて豊かな未来が訪れるだろうと、希望を持つこともできた。戦争が無いということが、長いあいだ戦争とともに生きてきた国民として、ありがたかった―――。
 そういう戦後の平均的日本人の「思い」の総称が「戦後民主主義」であり、それを政治勢力として一番体現していたのは、「日本社会党」だったのではないかと、筆者は考える。もちろん日本社会党の中に「労農派マルクス主義」が脈々と流れ、路線闘争を繰り返していたことを見ないわけではないが、しかし「戦後民主主義」という「思い」の下支えがなければ、政治的な力として彼らが保守党に対抗できるはずがなかった。
 「戦後民主主義」は若者たちには常識であり、時とともに新しい世代は増加し、古い世代は退場する。時間の流れに対する信頼感が、「戦後民主主義」の基底に存在した。

▼しかしどのように優れた理念、どのように清新な「思い」であったとしても、それが現実社会で制度化され、数十年という時間が経てば、安易な方向に変形されるのは自然なことである。「自由」も「平等」も「民主主義」も、それ自体は立派な理念だが、現実の社会では関係者の利害が反映され、一部の政党や労働組合の既得権擁護のスローガンに堕落していたとしても、いっこうに不思議はない。教育が「自由」や「進歩」の阻害物に転化していたり、「平等」だけが度はずれに強調されたり、もっともらしい理屈や約束事が積み重なって、息苦しく身動きできないような現実が生じていたのかもしれない。
 多くの大阪府民が「喝采の声を上げた」のは、「橋下劇場」の盛り上げ方が巧みであったこともあるだろうが、やはり「大阪の教育」の現状に強い不満を持っていたからであり、そうした現実を生み出した教員組合をはじめとする勢力に、強い不信感を懐いていたからであろう。
 問題は、「教育」だけではない。かって日本の支配勢力に対し、新しい社会の理想や理念を主張した「戦後民主主義」勢力は、攻守所を換え、美しい言葉で飾られているが実態は不合理な現実を、より若い世代から攻められ、批判された。それが15年前に大阪で起こった橋下徹+「維新」の現象の意味だったと、筆者は理解している。

(つづく)

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リベラルの終り? [政治]

▼衆議院の解散・総選挙がこの7月か、遅くとも9月にあるだろうと、TV番組で政治解説者がしゃべっている。総理官邸の赤いカーペットの上で、身内を集めて忘年会だとはしゃいでいた岸田首相の長男兼秘書官は、批判を浴びて事実上更迭されたが、これも解散・総選挙をにらんだ首相の準備の一環なのだそうだ。
 5月末に行われたFNNと産経の合同世論調査では、岸田内閣の支持率や広島サミットの評価などを質問したあと、どの野党に期待するかを聞いている。正確に言えば、「現在の国会の野党の中で、どの政党に最も期待しますか」という質問だが、その回答は次のようだった。
 立憲民主党:15.7%
 日本維新の会:29.2%
 国民民主党:5.1%
 共産党:3.2%
 れいわ新選組:3.3%
 社会民主党:0.4%
 政治家女子48党:0.6%
 参政党:1.6%
 期待する野党はない:35.2%
 その他(「わからない」「言えない」):5.7%

 この回答で目を引くのは、やはり日本維新の会への期待が高く、現在の野党第一党の立憲民主党のほぼ倍の期待度を示している点だろう。日本維新の会の馬場代表も、「来るべき衆議院選挙で野党第一党の議席を得ることが次の目標」だと発言している。
 日本維新の会の何がそれほど期待を集めるのか、逆に、立憲民主党はなぜ国民の期待を集められないのか、そのことは選挙という政党選択の問題を越えて、日本の戦後思想の問題として考える価値があるように思う。

▼戦後政治史の上で、自民党以外に「保守」を名乗る政党が誕生したことは、「新自由クラブ」や「日本新党」をはじめいくつもある。「日本維新の会」がその中で特異なのは、大阪という地域にしっかり根を下ろしていることである。というよりも、そのそもそもの発生が、大阪府知事になった橋下徹が自分の考える府政改革を進める上で、自分を支持してくれる政治勢力を必要とし、2010年に「大阪維新の会」を結成したところから始まるのだ。
 「維新」は今でも大阪が地盤であり、大阪におけるその勢力は他の政党を圧している。そのことは大阪府民、大阪市民が、橋下徹の始めた大阪府政、大阪市政の改革を肯定的に評価し、支持したということを示している。もちろん支持や評価ばかりでなく、強い反発や非難が橋下徹の「改革」に浴びせられたのだが、それらを乗り越えて橋下の「維新」は、大阪で根を下ろしたわけである。「改革」の何が、大阪人の支持を得たのか。

 筆者は、大阪という土地も人も行政についても、直接的には何ひとつ知らない。ぼんやりそんなことを考えていたら、橋下「改革」について過去に一度だけメモを取ったことが思い出された。ノートを探したところ、幸いにも見つかったので、その一部をここに掲載したい。
 このメモをとった時、筆者は橋下の「改革」について何ひとつ知識を持たず、雑誌『世界』のルポルタージュをたまたま読み、その感想をメモしたのだった。何がきっかけでそのルポを読み、メモまで残したのか、なんの記憶もないのだが、ことによると当時、橋下知事の「教育介入」がマスメディアで大きな話題になっていたのかもしれない。
 メモを転記すると、次のようなものである。

▼《『世界』2008年12月号に載っていた「ルポルタージュ 橋下知事の教育介入が招く負のスパイラル」を、たまたま読んだ。橋下の「教育介入」を一方的に批判する出来の悪いルポだが、皮肉な意味で多少得るものがあったのでメモしておいた。

 ルポの終わり近くに、次のような一節がある。
 「……橋下知事は……自らの狭い実体験に基づいた「思い」にこだわり、……「府民の声を聞く」と言っては対立の構図をつくり上げているようだ。この「橋下劇場」の手法によって、多くの府民は喝采の声を上げ、……」
 ルポは橋下知事の「思い」について何も触れていないから、読者は何も知ることができない。しかし橋下の「教育介入」が不当だと批判しようとするなら、この「思い」は重要なポイントであり、きちんと取り上げなければ話は始まらない。また「多くの府民」が橋下の行動に「喝采の声を上げ」ている、という点も重要だ。橋下が教職員組合や教育委員会などを批判したところから、この騒動は始まった。 橋下はなぜ「教育介入」をしたのか、なぜそれに府民は喝采の声を上げるのか、教職員組合や教育委員会のこれまでの活動は批判に値するのか、それとも批判する橋下や府民の側に誤りがあるのか。大阪の教育が上手くいっていないとすれば、原因はどこにあり、どのように改善すべきなのか―――。これらの疑問がルポルタージュの出発点にならないとすれば、そもそも書く意味などどこにもないだろう。

 幸いわれわれはインターネットで大阪府教委のホームページを開き、「大阪の教育を考える府民討論会」(第1回10/26、第2回11/24)の記録を読み、橋下知事の「自らの狭い実体験に基づいた『思い』」を知ることができる。橋下はこんな発言をしている。「自分の通った大阪の中学はいわゆる『同推校』(同和教育推進校?)で、そこではまず競争の否定から入る。競争をしてはいけない」。高校は地元の高校を受験するようにという運動が行われていて、地元でない高校を受験しようとした橋下は、「なぜお前は地元の高校に行かないのか」と、その理由を言わされた。――
 「実体験」というものは体験者固有のものであり、「狭い」に決まっている。その体験から得られた「思い」が偏ったものなのか、それとも広がりをもつものなのか、が問題の要点である。中学生・橋下が感じとった「思い」の中には、大阪の教育では生徒の学力向上がおろそかにされている、という考えも含まれていたに違いない。そしてそれは多くの府民の喝采が示すように、広がりをもつものだったと言ってよいだろう。
 ルポには次のような発言も載せられている。「……これまで全国から最も高く評価されてきた『大阪の教育』、障がい者や貧困家庭を地域や学校で支えながら行ってきた教育……」
 橋下や多くの府民が、このままではだめだと考える「大阪の教育」が、一方では「これまで全国から最も高く評価されてきた」という、この落差の大きさ。繰り返すが、この落差に不思議を感じ、ここから出発するのでなければ批評という行為は成り立つはずがない。このルポルタージュは出発点の姿勢において、問題を語る資格を欠いている。》

(つづく)

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安倍晋三の死6 [政治]

▼前回、安倍晋三の外交は成果を上げたと書いたが、もちろん成果が上がらなかったものもある。拉致問題をめぐる北朝鮮との交渉や、北方領土をめぐるロシアとの交渉である。
 外交交渉は水面下で行われる部分が大きく、とくに北朝鮮を相手にする場合はそうであろうから、国民には多くの場合、なにも動いていないように見えるものだ。だが北朝鮮との間では現在時点の判断として、建設的な合意に向けてなにも進んでいない、と見るしかないだろう。
 ロシアとの外交交渉は、もう少し国民の眼に見える場所で行われてきた。歯舞、色丹、国後、択捉の4島をロシアは日本に返還し、平和条約を締結するという1956年以来の課題だが、安倍はこの課題に、それまで以上にロシアの経済利益に訴えかけるアプローチをとった。
 2019年9月、ロシアの主宰する「東方経済フォーラム」で安倍首相はプーチンを前に挨拶し、「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている。行きましょう、プーチン大統領。ロシアの若人のために。そして日本の、未来を担う人びとのために」と呼びかけた。「同じ未来」とは、もちろんウクライナのことではない。極東ロシアの未来のことであり、日本とロシアが人の交流を進め、共同経済活動を進めていくなら、未来は明るい。自分はプーチン大統領と27回も会い、幾度も食事を共にしてきた。平和条約を結び、両国国民が持つ無限の可能性を解き放とう。歴史を一緒につくろう、と安倍は呼びかけたわけである。
 しかしプーチンは、安倍の呼びかけに応じることはなかった。安倍が平和条約交渉のハードルを下げてみせたのに対し、ロシアは領土問題では一歩も引かない態度を強く押し出し、交渉の条件はスタート地点よりもさらに後退した。90年代のロシアの混乱期に、一挙に交渉を進められなかった日本外交の敗北であり、安倍の対ロシア外交の失敗だった。

▼政治家・安倍晋三を論じるなら、政治・外交面だけでなく、「アベノミクス」についてどう評価するかを明確にしなければならない。しかし日銀の超低金利政策が継続中であり、これをどうするかという超難問を抱えているせいか、「アベノミクス」を過去形で語ることもできず、歯切れのよい議論は見られないようだ。
 「アベノミクス」は、「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」という3本の矢から構成される、という説明が一般になされてきた。そして「異次元の金融緩和」は円安を生むことで、初めの1年数カ月の間は日本経済に刺激を与えたが、第3の矢である「成長戦略」につながることなく、近年は日本の賃金の安さや低生産性、日本経済の停滞が議論の中心になっている。
 「アベノミクス」を支持してきた「リフレ派」の学者たちは、「アベノミクス」が十分な成果をあげられなかった理由に、消費税の引き上げを挙げる。2014年の5%から8%への引き上げ、そして2019年の8%から10%への引き上げが消費を冷え込ませ、これから改善しようとする日本経済を停滞させる大きな原因となったというのである。
 筆者はその説明に、納得しなかった。日本の企業の内部留保は右肩上がりで増え続け、2021年度末にはついに516兆円を記録した。職員の給料を上げることもせず、事業へ投資することもせず、株主に配当として支払うこともない金を、企業はただ溜め込んでいる。1997年の金融危機が企業行動に決定的な影響を与えたと言われるが、ひたすら守りを固めるだけの企業経営が、日本経済の長期停滞を招いている元凶であることは明らかではないか、というのが筆者の直感だった。消費税の税率引き上げも影響したであろうが、何よりも大きいのは現金を握っていれば安心だという企業経営者のリスク忌避傾向であり、デフレマインドの蔓延なのだ。

▼安倍元首相のスピーチライターだった谷口智彦という人(現在、慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授)が、元首相の死去のすぐあとに「アベノミクス」を振り返る文章を書いているので、それによって政権の内側ではそれをどう考えていたのか、見てみたい。(『日経ビジネス』7/12 「アベノミクスの光芒と無念」) 谷口が語るところを要約すると、次のようになる。
 「アベノミクス」の第3の矢は「民間投資を喚起する成長戦略」だったが、肝心かなめの民間投資が出てこなかった。法人税を米国並みに下げたり、機関投資家の圧力がかかりやすいように新しい基準を導入したりと、いろいろやってみたが、「押しても引いても日本企業は変わらなかった」。「経営者たちに遍在する日本の将来それ自体に対する根深い不信」が、問題の核心だと気付いた首相官邸の政策チームは、「アベノミクス2.0」ともいうべき「第2版」を2016年に打ち出した。
 それは「第1版」が短期的刺激策だったのに比べ、超長期の政策提案だった。希望出生率を1.8に高めることを目標に、教育コストや託児費用の軽減、老親介護経費の低廉化など、「現役世代に未来への期待を抱かせ、少しでも子供をつくりたくなるよう誘導しようとする政策」だった。労働に疲弊しては未来を想うゆとりもできないから、「ワーク・ライフ・バランス」を重んじる政策を考え、正規雇用、非正規雇用の賃金格差や男女の賃金格差を埋めるべく、同一労働同一賃金の徹底を図る政策も進めた。また女性の活躍にも、期待を託した。しかし日本の岩盤既得権益層のために、政策の実現は阻まれた。
 「日本には2種類の岩盤既得権益層がある。一つは莫大な医療費を費消する高齢者層。もう一つは絶対にクビを切れない正規雇用者。つまり、すぐ明日の私たちと、今日の私たち」だと谷口は言う。「消費税を上げた安倍氏は、増収分を若者に振り向けることで、『明日の自分』への闘いに挑みつつあった。民主制下で最も困難であるに違いない闘いに」。―――

 安倍政権の中枢は、日本企業に蔓延したデフレマインドの問題をよく理解し、彼らなりの精一杯の対応をしたことは、谷口智彦の文章からよくわかった。しかし日本の経済社会システムが今後も続くという信頼感がなければ、企業や家計は安心してお金を使おうとはしない。企業は収入を、将来への投資や労働者への分配に回さず溜め込み、賃金が伸びなければ消費も増えない。それが日本経済の現状なのだ。「アベノミクス」はそういう日本経済を、ついに改革するに至らなかった。

▼TVの安倍晋三を回顧する番組で、五百旗頭真が、「安倍首相はどの外国要人と会っても“位負け”しない」と語っていた。“位負け”しない自信は、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三と続く三代の家系が自然につくりだすものだ、というような説明だったが、直接安倍晋三に接したことのない筆者に、その当否はわからない。
 筆者はこの連載(「安倍晋三の死」)の第1回で、「安倍晋三という人間に、筆者は少し引っかかるものを感じ、それはその『政治』にも影を落としていたと思う」と書いた。さらに、「安倍晋三は身内や親しいものに優しく、厚遇する。しかしその反面、自分への批判には神経質に反応し、批判者を潰そうとする。『なるほど、そういう見方もあるか』と余裕をもって批判を受け止め、自分の考えを批判によってさらに磨くという態度は見られない」とも書いた。ここから導かれるのは、安倍晋三の性格は人間的に弱いのではないか、という判断である。
 モリ・カケ・サクラ問題は、安倍のこの「弱さ」が生み出した問題だと、筆者は考える。行政に不適切な行為があれば行政の長として、自分や自分の妻に適切でない点があれば一人の市民として、それを率直に認めて謝れば済む話である。それができず、不自然な弁明を続けた末、議員の数を頼んで押し通すのは、人間的弱さの表れと考えるほかない。
 筆者は、安倍政権が成し遂げた外交・安全保障面の成果を評価するが、モリ・カケ・サクラ問題に象徴される低次元の嘘や誤魔化し、行政機関に与えた巨大な負の影響についても、きちんと評価しなければならないと考えている。

(おわり)

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安倍晋三の死5 [政治]

▼さて、前回、安倍晋三の政治について論じようと思いつつ、議論は「国葬」問題の方に流れてしまい、中途半端に終わった。あらためて安倍政治について、とくにそれが長期政権となった理由について、考えるところを述べてみたい。
 筆者は、安倍政権が長期間継続したのには、少なくとも三つの理由があったと考える。
 第一に、官邸に集めた優秀なスタッフが、安倍の信頼にこたえて懸命に働き、内閣を支え続けたことが挙げられる。もちろんどの内閣でも官邸に集められた官僚たちは、一生懸命働いたであろうが、安倍政権の場合、とくに彼らの力を引き出し、活用したように見える。
 総理・総裁に権力が集中する政治の仕組み自体は、90年代からはじまる「政治改革」の成果として、第二次安倍内閣の以前から存在した。しかし5年半の小泉政権を引き継いだ第一次安倍内閣以降、一年交代の短命政権が六代(安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田)も続き、そのあとの第二次安倍内閣が7年半の長期政権になったことは、制度論で説明することは不可能である。
 民主党政権の3年数カ月があまりにも酷く、その落胆が安倍政権への支持となったという側面はあっただろう。安倍首相は答弁の際、「悪夢のような民主党政権時代」と揶揄したことがあったが、民主党政権時代の混乱、内紛、官僚の離反、政策の右往左往はたしかに酷かった。
 だが、野党についてのマイナスの記憶だけで、安倍政権が長期間続くはずがない。安倍政権が「女性活躍」、「働き方改革」、「一億総活躍社会」といったスローガンを掲げ、時代の課題に意欲的に応えようとしたことは、認めなければならないだろう。その政策の評価はさまざまであろうが、野党のお株を奪うような側面を持っていたことは否定できない。

▼第二に挙げるべきは、安倍晋三が強い(イデオロギー的)主張を持ちながら、それを生の形で打ち出すのではなく、あるときは戦術的に後退し、あるときは妥協しつつ、実益をとることを選んだことである。それは、短命に終わった第一次安倍内閣の時の経験から、安倍が学んだことかもしれないが、米国をはじめとする国際社会との関係を改善し、信頼を築く上で有効に働いた。
 第二次安倍内閣がスタートしたとき、安倍首相は、国内では金融緩和政策が奏効して国民の期待を集めたものの、国際的には「歴史修正主義者」として懐疑の眼で見られていた。2013年の暮、靖国神社を公式参拝すると、中国、韓国は反発し、米国は、「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望している」と、異例の表明を行った。
 しかし2015年4月、安倍首相が米国議会の上下両院合同会議で行った演説は、幾度もスタンディング・オベイションに中断される大きな成功を収めるものとなった。その内容は外務省のサイトで全文を読めるが、なかなかユーモアに溢れ、巧みに米国人の心をつかむ優れたスピーチだったと思う。
 その中心に置かれているのは、「戦後日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に」歩んだこと、日本は今後も「国際協調主義にもとづく積極的平和主義」の道を歩むこと、日本と米国は「民主主義」によって結ばれた関係であり、「太平洋からインド洋にかけての広い海を、自由で法の支配が貫徹する平和の海にしなければならない」といった主張である。それは安倍晋三に向けられているさまざまな疑念や懸念を払拭するのに十分な、正攻法の力強いメッセージだった。
 韓国の朴槿恵政権は、安倍首相が米国議会の上下両院合同会議で演説することを阻止しようと、盛んに米国政府に働きかけ、韓国系の市民団体は、「演説反対」の新聞広告を出したり、米議員数十人に直訴したりと、精力的に運動を展開した。しかし演説後、韓国国内でも、「歴史認識問題を重視する韓国外交」は、方向転換を模索するべきだという声が増えた。

▼同じ年の8月、安倍首相は戦後70年の「談話」を発表した。筆者はこれを当ブログで論じたことがあるので(2015年8月21日~9月18日)、ここでは詳しくは触れないが、安倍は過去の戦争について、「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明した。それは、米国政治の中枢にあった「安倍首相は東京裁判に異を立てる立場ではないか」という懸念を払拭するものであり、米国政府は直ちに「談話」を歓迎する旨、発表した。
 安倍のサポーターである日本の保守派は、東京裁判を否定する「民族派」と米国主導の秩序を肯定する「親米派」が混在するが、彼らも概して「談話」を肯定的に評価した。

▼最近、次のような新聞記事を読んだ。(2022年8月17日「毎日新聞」)。「靖国神社に祭られているA級戦犯を分祀したい」と安倍が言っているという話を耳にした野口武則という記者は、確認に走った。
 安倍と親交の深い元外交官に当たると、冗舌だった語り口が急に慎重になり、「僕は言えない。でもあなたがそう書くなら止めません」と言ったという。《口の堅い警察官や役人の取材で、このやりとりは「イエス」の意味だ。》
 また、安倍政権で複数の有識者会議に関わった学者は、匿名を条件としたものの、「実は分祀したいと思っている、と安倍さんから何度も直接聞いた」と、あっさり認めた。ただ、安倍首相は、「靖国が抵抗するので、自分からは言い出せない」とも話したという。
 野口記者は、「表では強硬な主張で保守ポピュリストのように振る舞う一方、実際は実現可能な政治を戦略的に探るリアリストだった。こうした懐の深さが、最長政権を維持できた一因と言える」と書いているが、筆者も同様の意見である。

▼第三に挙げるべきは、「時代」である。世界的に「民主主義」が揺らいでいる時代に、安倍晋三が思い描くグランドデザインは、野党よりも適合的だったことである。
 安倍首相は、「強い(イデオロギー的)主張を持ちながら、それを生の形で打ち出すのではなく、あるときは戦術的に後退し、あるときは妥協しつつ、実益をと」ったと筆者は書いたが、戦略的に重要なことがらについては、慣例を破り反対を押し切っても強引に実現した。「集団的自衛権の行使容認」を可能にする法整備を行い、自衛隊と米軍の協力関係をいっそう強化し堅固にするように図ったが、それは法論理上はもちろん問題があるが、「時代」の要請に応えるものだと言えた。
 安倍首相は外交面では、米国が本来行うべき世界の秩序構築について、積極的に提案し行動した。米国が国内事情からTPPに関われないときに、それを積極的にまとめ上げたのは安倍晋三の功績であるし、「自由で開かれたインド・太平洋地域」というヴィジョンを掲げたことは、米国の対中国政策の大転換を思想的に支援する役割を果した。

(つづく)

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安倍晋三の死4 [政治]

▼安倍晋三の政治について、もう少し続ける。
 安倍の「国葬」問題を取り上げたTVの討論番組で、ある評論家が次のような発言をしていた。
 「吉田茂は戦後日本の方向を、軽武装・経済専念の方向に定めたが、安倍は吉田路線から新しい路線に転轍した。安倍元首相は日本の外交・安全保障の問題を、本当に理解し変えることができた唯一の政治家だった」。つまり安倍晋三は、吉田茂と同様、日本の針路に関わる大きな決定をした、国葬に値する存在だという趣旨だった。

 『朝日新聞政治部』(鮫島浩 2022年)という本によると、1999年、政治部に新たに配属された鮫島など若手記者に対し、政治部長・若宮啓文は次のような訓示を与えたという。「君たちね、せっかく政治部に来たのだから、権力としっかり付き合いなさい」。
 「権力って、誰ですか?」と怖いもの知らずの鮫島が聞くと、若宮政治部長はしばし黙ったあと、「経世会、宏池会、大蔵省、外務省、そしてアメリカと中国だよ」と、静かに簡潔に答えたという。
 その後20年以上日本の政治を眺めてきた鮫島は、この若宮部長の発言を幾度も想い起し、すぐれた眼力による的を射た回答であると思う。
 《日米同盟を基軸としつつ対中国関係も重視するのが経世会や宏池会が牛耳る戦後日本外交の根幹だった。政治家やキャリア官僚は日頃から在京のアメリカ大使館や中国大使館の要人と接触し独自のルートを築く。政治記者を煙に巻いても米中の外交官には情報を明かすことがある。政治記者ならアメリカや中国にも人脈を築いてそこから情報を得るという「離れ業」も必要だ。国際情勢に対する識見を身につけた上で、米中の外交官が欲する国内政局に精通し、明快に解説できないようでは見向きもされない。》(『朝日新聞政治部』)

 すこし話が横道に逸れたが、筆者の注意を惹いたのは、若宮政治部長の回答の中に清話会が入っていなかったという点だった。

▼もうひとつ、鮫島の語るエピソードを紹介する。鮫島は清話会の町村信孝の担当になり、初対面のときに、やや挑発的に挨拶した。「町村さんは通産官僚出身で、文部大臣など要職を歩んでこられたエリートですね」。すると町村は、顔を真っ赤にして激昂し、こうまくし立てたという。
 「何を言っているんですか!私は自民党の同期で政務官になったのがいちばん遅かった。いちばん出世が遅かったのですよ。なぜだかわかりますか!私が清話会だからです。日本の政治はずっと、経世会が牛耳ってきたんです。経世会は最初に宏池会に相談する。その次に社会党に根回しする。社会党がNHKと朝日新聞にリークする。我々清話会はNHKと朝日新聞の報道をみてはじめて、何が起きているかを知ったのです。これが日本の戦後政治なんですよ!わかりますか」
 しかし2001年に小泉政権が誕生し、清話会が一転して自民党を牛耳るようになる。そして現在、自民党の各派閥の国会議員は、清話会(安倍派)が94人、経世会の後身である茂木派は54人、麻生派が50人、二階派が40人、宏池会(岸田派)が40人等々であるといわれる。
 傍流であった清話会が主流となり、二位の派閥の二倍近い規模を持ち、隆盛を誇るにあたって、安倍晋三が長期間首相であり、自民党総裁であったことは大きく影響したことであろう。だが日本社会のかなり深い部分が変わり始めており、その政治面への反映が、右派といわれる清話会の隆盛として現われたと見るべきなのかもしれない。
 年代別の投票行動を調査すると、18歳~30歳代の自民党支持が顕著に高い。日本社会の変容が安倍政権を生み、長期にわたって支えてきたのか、それとも安倍政権の政策が日本社会の変容を加速したのか、そのあたりの因果関係は不明だが、安倍の政策は国際秩序が大きくきしむ時代の動きに、わりあい適合していたように見える。

▼さて、安倍晋三の「国葬」問題である。日が経つにつれて国葬の反対者が増え、国葬賛成者を上回り、岸田総理は国会の閉会中審査に出席して「丁寧な説明」をし、質疑に応じることを余儀なくされた。それでも「説明が足りない」という声が、圧倒的に多いらしい。

 日本は、ひとの功績を認めたり、称揚したり、つまり個人を目立たせることに、極めて消極的な社会ではなかろうかと、筆者は常々思っている。「ノーベル賞受賞」など、外部の権威が認めてくれた場合は、喜んでその人の功績を讃えるが、自分から進んで人を認めることに積極的ではない。さらに言えば、個人の名前を出して互いに認め合うよりも、匿名の気楽さや無責任さのなかに、居心地の良さを感じる程度が高い社会ではないかと感じている。
 昔、必要があって短期間だが英字紙を読んでいた時期があったが、記事の作り方が日本の新聞と大きく違うことに気がついた。英字紙の記事には、必ずどこそこの誰々さんという具体的な名前の市民が登場し、その誰々さんの顔が見えるように話がまとめられる。一方日本の新聞では、具体的な個人名は省かれることが多く、仮名が用いられることも多い。
 その代り日本の新聞記事に必ず載っているものは、「年齢」であり、匿名であろうと仮名であろうと、年齢だけは記される。一方、英字紙の記事の場合、年齢が載っている割合は、それほど高くなかったように記憶する。
 こういう社会の慣習の違い、あるいは社会の雰囲気の違いは、社会的功績のあった有名人の名前を、公共の施設に付けることが当然と受け止められる社会と、それをとんでもないと排除する社会の違いを生み出す。以前、イタリアを旅行したとき、近代イタリアを統一したエンマニュエル1世やその宰相だったカブールの名前を付けた大通りが、多くの町にあるのを見て驚いた。日本で言えば、明治天皇大通りとか、西郷隆盛通りということになるが、これはとても考えられないことだろう。
 パリの国際空港はシャルル・ドゴール空港だし、ニューヨークの国際空港はジョン・F・ケネディ空港だが、東京国際空港(成田)をシンゾー・アベ空港に改称しようという提案には、安倍の熱烈な崇拝者もしりごみすることだろう。
 こういう、ひとの功績を認めたり称揚したり、個人を目立たせることに、臆病で消極的な社会において、「国葬」をどう考えるべきなのか。

▼日本で「国葬」の非生産的な議論が行われている最中、エリザベス2世の逝去(9/8)のニュースが伝えられた。日本の多くの人々はニュースを聞いて、女王の国葬のことを反射的に思い浮かべたに違いない。筆者もその一人であり、そのとき思ったのは、「国葬」が国民から支持されるのに欠かせないのは、故人への「親しみ」や「敬愛」の念なのだろうということだった。
 理屈ではないのだ。国民の間に自然に生まれる「親しみ」や「敬愛」の念の対象となり、国家のまとまりを象徴し体現するのが現代の王族の存在理由なのだが、エリザベス2世はその任をよく果たしたのではないだろうか。
 ひるがえって安倍晋三の「国葬」だが、もともと無理な設定だったように思われる。上に見たように日本人の国民性は、個人の称揚を潔しとしないところがあり、安倍個人をこの例外とする理由はなかったし、政治家・安倍晋三は国民の「親しみ」や「敬愛」の対象でもなかった。
 岸田文雄の浅知恵は、安倍晋三の霊魂を、かえって悩ませ、迷わせているように見える。

(つづく)

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