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リベラルの終り?2 [政治]

▼「メモ」の内容をもう少し続ける。
 《―――どのような業界にも業界特有の発想や用語があるように、教育関係者のサークルの中にも特有の発想や言葉、言い回しがある。それらは一般に「思考の経済」に役立つのだが、外部世界との距離の自覚を欠くとき、ややもするとバランスを欠いた奇妙なものになりがちだ。
 世論の批判を浴びて文科省がなし崩しに撤回した「ゆとり教育」がそれであるし、教師が児童・生徒の「目の高さ」で授業を行うといった言い回しや、「命を大切にする教育」というスローガンも、そのもっともらしさが逆に首を傾げさせる。外部の現実世界との健康な距離感と緊張感が必要なのだ。それが失われ、サークル内部のみが現実世界となるとき、教育サークルは古いイデオロギーが糖衣状のきれいな言葉に包まれて生息するガラパゴス島となる。
 ルポの中に、「子どもたちが家庭で放置されるケースも多く、荒れの低年齢化が進んでいる。そのため小中学校の教員の多くは生活指導に労力と時間をとられ、授業準備の時間が取りにくい状況が続いている」という市教組執行委員長の発言や、「小学校入学時、多くの児童は家庭でしつけや基本的生活態度を身につけておらず、言葉の遅れもありがちだ」という市立A小教員の言葉がある。その原因は、家庭の貧困のため親が労働で手いっぱいで、子どものしつけにまで手が回らないことと、ひとり親家庭、両親のいない家庭の多さにあるとされているが、要するに大阪の教育の現実が危機的であることが指摘されている。
 先の「府民討論会」で、橋下知事が新しく教育委員に任命した小河勝は、自分の教員としての体験を踏まえ、子どもにとって「分かること」「できること」が、いかに大切であるかを語っている。
 基礎が身につかないまま学年が進み、授業が分からなければ子どもたちは荒れる。自分は、子どもたちの「荒れ」に直面していろいろ工夫し、基礎に戻って教え、トレーニングを繰り返し、彼らの躓きをなくしていく努力をしたところ、劇的な効果が見られた。彼らは、「自分も分かる」ということを実感すれば、「自分にも未来がある」と感じられるようになる。そこからやる気や意欲が生まれる―――。
 要するに、子どもたちに学力をつけることの大切さを説くのだが、当然と思えるこの考え方は、おそらく「全国から最も高く評価されてきた大阪の教育」とは、言葉の上では微妙に、そして実践においては大いに、異なるのではないだろうか?》

▼筆者の「メモ」はまだまだ続くのだが、この辺でやめる。
 筆者は全国政党としての「日本維新の会」を少しも評価しないが、彼らが大阪の市民から支持されたという一面は、認めなければならないと思う。そしてその理由は、上に紹介した筆者のメモからうかがえるように、もっともらしい理屈をつけて擁護されてきた行政の仕組みや慣行や既得権を、橋下と「維新」がかなり強引に「改革」したところから来ているのではないか、と想像している。
 そして橋下徹によって批判の対象とされた「大阪の教育」、「全国から最も高く評価されてきた大阪の教育」とは、少しトッピな物言いに聞こえるかもしれないが、「戦後民主主義」の理想や期待や主張の“なれの果て”ではないかというのが、筆者の腰だめの見当なのである。

 「戦後民主主義」という漠然とした言葉を持ち出す以上、筆者は最低限の説明を加えておく責任があるだろう。
 昭和20年の敗戦によって日本の支配者たちは自信を失い、民衆は日々の生活の困難に直面する一方で、大きな解放感を味わっていた。彼らは古い社会の仕組みや人間関係を、より民主的で平等な仕組み、自由で進歩的な関係に変えることの中に、新しい社会を思い描いた。現実は日々の食事にもこと欠くほど貧しかったが、力を合わせれば自分たちは新しい社会を創り出せる、懸命に働けばやがて豊かな未来が訪れるだろうと、希望を持つこともできた。戦争が無いということが、長いあいだ戦争とともに生きてきた国民として、ありがたかった―――。
 そういう戦後の平均的日本人の「思い」の総称が「戦後民主主義」であり、それを政治勢力として一番体現していたのは、「日本社会党」だったのではないかと、筆者は考える。もちろん日本社会党の中に「労農派マルクス主義」が脈々と流れ、路線闘争を繰り返していたことを見ないわけではないが、しかし「戦後民主主義」という「思い」の下支えがなければ、政治的な力として彼らが保守党に対抗できるはずがなかった。
 「戦後民主主義」は若者たちには常識であり、時とともに新しい世代は増加し、古い世代は退場する。時間の流れに対する信頼感が、「戦後民主主義」の基底に存在した。

▼しかしどのように優れた理念、どのように清新な「思い」であったとしても、それが現実社会で制度化され、数十年という時間が経てば、安易な方向に変形されるのは自然なことである。「自由」も「平等」も「民主主義」も、それ自体は立派な理念だが、現実の社会では関係者の利害が反映され、一部の政党や労働組合の既得権擁護のスローガンに堕落していたとしても、いっこうに不思議はない。教育が「自由」や「進歩」の阻害物に転化していたり、「平等」だけが度はずれに強調されたり、もっともらしい理屈や約束事が積み重なって、息苦しく身動きできないような現実が生じていたのかもしれない。
 多くの大阪府民が「喝采の声を上げた」のは、「橋下劇場」の盛り上げ方が巧みであったこともあるだろうが、やはり「大阪の教育」の現状に強い不満を持っていたからであり、そうした現実を生み出した教員組合をはじめとする勢力に、強い不信感を懐いていたからであろう。
 問題は、「教育」だけではない。かって日本の支配勢力に対し、新しい社会の理想や理念を主張した「戦後民主主義」勢力は、攻守所を換え、美しい言葉で飾られているが実態は不合理な現実を、より若い世代から攻められ、批判された。それが15年前に大阪で起こった橋下徹+「維新」の現象の意味だったと、筆者は理解している。

(つづく)

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