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今年も12月になった [思うこと]

▼今年も12月になった。毎年この時期には喪中はがきが届くのだが、今年はこれまでになく多いような気がする。もちろん本人のものはまれで、多くは兄や姉、義兄や義姉が亡くなったので、今年は新年のあいさつを遠慮するという趣旨のものである。
 「親の喪中」というのは、われわれ団塊の世代の場合、もう多くはない。今年届いた中で一通だけあったが、ご母堂が百歳で亡くなったとのことだった。もし亡くなるまで元気で暮らし、百歳でコロリと亡くなったのだとしたら、実に目出たいことと言わなければならないだろう。
 野生動物は老いない、という話を聞いたことがある。サケは卵を産み、精子を振りかけると、オスもメスもそこで死ぬのだそうだ。生殖を済ませるまでは現役バリバリだが、役目が終わると直後に脳が委縮し、ホルモンが出なくなり、死んでしまう。野生のチンパンジーのメスも、閉経後すぐに死んでしまうのだという
 縄文時代、日本人の平均寿命は15歳だったと何かで読んだ記憶がある。平安時代は30歳、明治時代は43~44歳、昭和25年(1950年)でもそれは、男:58歳、女:62歳だった。「生殖の役目が終わるとすぐ死ぬ」というほどではないが、それでも「老後」の期間は短く、「老後」の心配をする必要はほとんどなかったのである。
 ところが現在(2021年)、日本人の平均寿命は男:81.47歳、女:87.57歳だという。平均寿命は、乳幼児の死亡率が下がればそれだけ伸びる仕組みになっているから、寿命の伸びは割り引いて考える必要があるが、それでも戦後の70年間に約25歳も寿命が延びたことは驚くに値する。凡夫が戸惑いを感じたとしても、いっこうに不思議はないのだ。
 少し前まで、ひたすら仕事に打ち込んできた男が「定年」となり、仕事から解放されたあとの空虚な時間を持て余すという話が、「老後」の一つの定番の形だったが、最近はあまり聞かないように思う。「定年」を延長し、「老後」も働くというスタイルが急速に普及したことが一つの理由だろうが、高齢者の面々がそれぞれ「老後」を工夫して過ごしている結果なのだろう。
(なお、日常生活において介助や介護を必要としない期間を示す「健康寿命」は、男:72歳、女:74歳だということをどこかで聞いた。周囲の元気な年寄りを見ると、この「健康寿命」は5~6歳先に伸ばした方が良いように思うが、考え方自体は生かすべきものである。)

▼12月は1年を振り返る月なのだが、あいにくウクライナもパレスチナも戦争の真っ最中であり、今後の見通しさえ立たず、とても1年を振り返るような余裕はない。
 ウクライナ軍は、6月初めの「反転攻勢」開始から半年が過ぎたが、世界が期待するような戦果を出せず、苦しんでいる。ロシアが占領しているウクライナ南部のザポリージャ州に攻め入り、占領地を東西に分断することで補給路を断とうとしているが、攻勢は計画通りに進んでいない。制空権をロシアに握られている中で、ロシア軍が敷いた地雷原を突破し、その後ろで守りを固めている敵の部隊を打ち破ることは、極めて困難なことのようだ。
 10月にパレスチナで戦争が勃発すると、筆者が恐れたとおり、ウクライナ戦争に対する世界の関心はかなり低下しているように見える。米国やNATO諸国の “支援疲れ”もあり、ウクライナへの武器援助がいつまで続くか、そしてウクライナ国民の忍耐がいつまで続くか、という大きな心配を抱えたまま、戦争は年を越そうとしている

 パレスチナの戦争は、イスラエルとハマスが「人質交換」をするために11月24日から7日間の「休戦」が行われたが、12月1日、イスラエル軍は攻撃を再開した。イスラエル軍はガザ南部の都市に対して激しい空爆を行い、地上軍も攻め入り、パレスチナ人の死傷者は増え続けている。しかしイスラエルの国防省は、ハマスが民間人を「人間の盾」として使っていることを非難し、ハマスの掃討のためには民間人の死傷者が出ることもやむを得ないと述べている。
 この戦争はいつまで続くのだろうか? そしてテロルを実施したハマスを掃討するためには、パレスチナの民間人の犠牲は本当にやむを得ないのか? 国際法はどのように定めているのだろうか?
 
▼戦争に関する近代的な法は、ナポレオン戦役のあとに作られた。1814~1815年のウィーン会議は、国家の間で戦われる戦争についてのルールを再建し、このルールは1914~1918年の第一次世界大戦においても、陸戦遂行の実際を支配した。しかしそれは正規軍同士の戦闘に適用されるものであり、戦闘員と非戦闘員の区別や敵と犯罪者の区別、戦争と平和の間の明確な区別を前提としていた。
 ナポレオン軍はスペインに侵攻し、政府軍を撃破したあと各地のゲリラに悩まされたが、古典的な戦争法ではゲリラのような非正規の存在は、存在の余地がなかった。
 しかし内戦や植民地戦争、大衆蜂起、義勇兵などさまざまな現象が現れるその後の歴史のなかで、古典的なヨーロッパの戦争法規は修正を余儀なくされる。カール・シュミットはゲリラを含む非正規の闘争者を一括して「パルチザン」という呼称で論じているが、1907年にハーグで締約された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」は、非合法的な抵抗運動者や地下活動家に一定の条件の下で「交戦者」としての資格を与えるようになった。「交戦者」と認められるなら、彼らは正規の戦闘力として取り扱われ、正規の戦闘員の権利と特権を享受する。彼らの闘争行為は違法ではなく、彼らが捕虜ないし負傷者となった場合は、捕虜及び負傷者として特別に待遇されることを要求できるのだ。 
 「交戦者」として認められる一定の条件とは、簡単に言えば、
・指揮官の指揮下にあること
・遠方から認識できる徽章を有すること
・公然と兵器を携帯すること
・戦争の法規慣例を順守して行動すること
とされた。敵がこれらの条件に合致するかどうかによって、軍隊の行為が正当な自衛の措置であったか、それとも違法な「虐殺」であったかを分けることになる。
 1937年の「南京事件」で「虐殺はなかった」と主張する論者が、日本軍の殺戮した中国人は民間人の間に紛れ込んだ便衣隊であり、保護すべき捕虜ではなかったと弁明するのは、その一例である。

(つづく)

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