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パレスチナの戦争3 [政治]

▼ハマスの奇襲によって始まった「パレスチナの戦争」は先週で1か月が過ぎ、パレスチナ住民の死者は1万人を超えた。爆撃機とミサイルによる絶え間ない攻撃によって、ガザの建物の多くが瓦礫と化した。10月下旬からはイスラエル地上部隊がガザに侵攻し、水も食糧も薬品も燃料も枯渇しつつある住民たちは、病院や学校などにかろうじて避難しているが、そこにもミサイルは落ち、死者と負傷者は増え続けている。住民を支援する国連施設で働く国連職員の死者も、100人を超えた。
 10月7日のハマス奇襲は、イスラエルの想定を完全に覆すものだった。ハマスは大量のロケット弾を撃ち込んでイスラエルの防空網を破り、越境した戦闘員は千人以上のイスラエル市民を殺害し、200人を超える人質を連れ去った。
 市民の殺害の方法も残虐だったと報じられている。米国のブリンケン国務長官は議会上院の公聴会で次のように証言した(10/31)という。
 「私はイスラエルを訪れ、ハマスの残虐行為について多くの証言を聞いた。例えば、家族4人で朝食をとっているところにテロリストが乱入し、拷問を加えた末に全員を射殺した。父親は、子供たちが見ている前で眼球をくりぬかれた。母親は乳房を切り取られた。娘は脚を切断された。息子は指を切断された。その後テロリストは4人を射殺し、その食卓で食事をとった」。ホラー映画のようなおぞましい場面を見ていた人間が、よくぞ無事に現場を抜け出し、証言したものだと感嘆するが、そのほかにも現場に到着した兵士や警察官、救急隊員、検視官などが、手を縛られたまま焼かれた女性や子供の黒焦げの遺体を見たと、証言をしているようだ。
 イスラエルはガザ地区への報復攻撃を、自衛権に基づく正当な行動だと主張する。しかし無抵抗の市民の殺害が許されないこと、受けた被害と均衡の取れない、十倍、二十倍の報復が正当化されないことは、「国際法」以前に人間の良識の範囲であろう。
 しかしネタニヤフ首相は停戦にも休戦にも応じようとはしない。ハマスを殲滅し、ガザ地区を占領した後、イスラエルの統治下に置くことを公言している。
 唯一イスラエルの行動を左右する力を持つ米国は、イスラエルの側に立ち、その影響力を強く行使しようとはしない。ガザ市民の死者は今後も増え、街はさらに破壊されるであろうことは確実だが、いつどのような形でそれが止むのかは、何も見えない。
 この戦争の行方を決める決定的な要素は、イスラエル国内の世論であろう。市民の戦争支持は今のところ揺らいでいないようだが、ネタニヤフ首相の支持率は30%を切る状態だという。国難発生ともなれば、「一致団結」「挙国一致」でたちまちまとまる国に住む者として、とても不思議な気がするが、どうやらこの辺りが戦争の行方を決めるカギなのかもしれない。

▼10月24日、国連のグテーレス事務局長は安全保障理事会で、「どんな紛争でも民間人の保護が重要だ」と強調した。その上でイスラエルやハマスを名指しせずに、民間人を「人間の盾」として使うことや、百万人以上の人々に避難所も水も燃料もないガザ南部に避難するように命じ、そのうえで南部を爆撃し続けることは、民間人の保護に反すると非難した。
 また、10月7日のハマスによるイスラエルの攻撃について、「何もない状況で急に起こったわけではない」と言い、「パレスチナの人々は56年間、息の詰まる占領下におかれてきた。自分たちの土地を入植によって少しずつ失い、暴力に苦しんできた。経済は抑圧されてきた。人々は家を追われ、破壊されてきた。そうした苦境を政治的に解決することへの希望は消えつつある」と述べた。
 同時に、パレスチナの人々が怒っているからといって、ハマスによるおぞましい襲撃が正当化されるわけではない。またおぞましい襲撃を受けたからと言って、パレスチナの人々に対する集団的懲罰が正当化されるわけではない」とも主張した。(以上はBBCニュース10/25から引用。)
 イスラエルはこの発言に猛反発し、事務総長の即時の辞任を求めると国連大使が旧ツイッターに投稿した。

 グテーレス事務総長のこの発言は、穏当なものであろう。2007年、イスラエルはテロの防止などを理由にガザ地区に分離壁を建設し、ガザ地区への人と物の出入りは厳しく制限されるようになった。パレスチナ側は地下にトンネルを掘り、エジプトから生活物資を密輸して対抗した。地下のトンネルはその後も延長され、今では300~500キロメートルの長さと言われ、ハマスがイスラエル軍に抵抗する基地となっている。

▼「パレスチナの戦争」の初回に、第三次中東戦争以降の歴史を後回しにして、「オスロ合意」について触れた。イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人が互いの存在を認め、共存していくためには、互いの「国家」を認め合わなければならない。イスラエルの独立戦争と建国以来、続いてきた両者の対立が、ついに1993年に解消に向かう「合意」に至ったことを、まず強調しておきたかったからである。
 何が「合意」をもたらしたのか。高橋和夫は、「インティファーダ」の影響が大きかったのではないか、と言う。「インティファーダ」とは、1987年にヨルダン川西岸地区とガザ地区で起きたパレスチナ民衆のイスラエルに対する抗議運動だが、すでにPLOはチュニジアに撤退し、物理的な力を何も持たない中で、若者たちはイスラエル兵に石を投げ、タイヤを燃やしてイスラエルの占領に抗議する意思を示した。この抵抗運動がイスラエルのラビン首相に、PLOとの交渉を決意させたと高橋は考えるが、妥当なところかもしれない。
 筆者は他に、世界が冷戦終結の余韻に浸っていた1993年という時代の雰囲気や、1991年のイラク戦争の結末も、ラビンの決断に影響していたのではないかと思う。
 そしてラビン首相が第三次中東戦争時のイスラエル軍の参謀総長であり、つまり救国の英雄として国民から厚く信頼されていたからこそ、劇的な政策転換も可能となったのだろう。
 しかし既述の通り、ラビンは1995年にユダヤ原理主義の男に暗殺された。その翌年行われた選挙で、ラビンの後継者ペレスの率いる労働党がネタニヤフ率いる右派政党リクードに敗北し、二国家建設の「合意」プロセスは頓挫する。ネタニヤフは、ハマスとパレスチナ自治政府の分裂の状態を維持することがイスラエルの利益だと考え、パレスチナ側の分裂を策し、それを和平交渉を進めない口実として利用したからである。
 ネタニヤフが数次にわたって長期間、政権を維持する背景には、イスラエル社会の「右傾化」があるのではないかと筆者は推測する。

▼ウクライナ戦争で傷ついた国連の権威と力は、パレスチナの戦争でさらに傷を深めた。国連が地域紛争解決のために力を発揮できない状態が、続いているのだ。
 米国もパレスチナの戦争で、その行動や発言の身勝手さを世界に示し、道義的権威を失墜させた。しかし安定的な国際関係では軍事力や経済力以外に、秩序を維持する説得力ある論理や道義的権威の存在が欠かせない。国際秩序の揺らぎは、ウクライナの戦争や台湾問題の行方にも暗い影を落としている。

(この稿おわり)

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