SSブログ

日本の1970~90年代とサブカルチャー2 [思うこと]

▼「サブカルチャーの時代・日本篇」は、他にもいろいろな事象を素材に取り上げ、70年代を語ろうとしている。担当ディレクターは、自分のよく知る日本の同時代であったからこそ、「アメリカ篇」のように何本かの映画の「分析」だけで、もっともらしく「時代を語る」わけにはいかなかったのだ。
 高度経済成長が日本社会に及ぼした影響はきわめて大きく、人びとの服装や食べ物、家や街並み、職業や生活スタイル、人間関係や家族形態まで、広く社会を変えた。いま古い写真を見ていると、東京に高速道路が出来、新幹線が走り、オリンピックが開催された1964年辺りを境に、日本の社会が別の国かと感じられるほど大きく変わったことに気がつく。
 高度経済成長の裏側で大気汚染や水質汚濁などの公害問題が拡がり、中東戦争に発する「オイルショック」(1974年)は「狂乱物価」を生み、スーパーマーケットにはトイレットペーパーを求めて長蛇の列が出来るという、混乱ももちろんあった。だがそれから五十年が過ぎたいま、70年代に感じられるのは、負の側面も含めた高度経済成長の巨大な影響力であり、当時騒がれた「ロッキード事件」などの政治問題は、ずっと小さくなる。

 もうひとつ、筆者が「サブカルチャーの時代・日本篇」を見ていて気付いたのは、「時代の空気」とか「時代の気分」というものが、個人によって違うというあたりまえのことだった。「時代の空気」などと気軽に言うが、存在するのは個々人の感じ方や気分でしかない。しかし同時に個々人の感じ方や気分を越えて、「時代の空気」が集合的に実在するということも、また確かなのである。
 番組は「日本篇」に、日本映画を研究する外国人2人と当時の日本社会についてコメントする日本人2人を登場させているが、そのうちの一人である林真理子の発言が筆者には面白かった。彼女は山梨県で育ち、大学入学で東京に出てきたのだが、地方にいたとき東京はどのように見え、上京後それがどう変わり、あるいは変わらなかったのか、そういう自分の体験を率直に話し、体験を通して「時代」を語っていた。
 たとえば林は、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969年)について述べる。当時山梨県の高校1年生だった林真理子は、この小説を読んで、東京のレベルの高い高校生はこういうことを考えているんだと、ショックを受けたという。
 また彼女は、大学を卒業して小さな広告の事務所に就職したが、「アンアン」や「ノン・ノ」を読んだことがなかった。彼女の格好が「あまりにもひどいので」、少しは勉強しろと事務所で「アンアン」を投げつけられたこともあった、それぐらい田舎の子だった、と当時を振り返っている。
 「70年代後半にコピーライターになって、一番派手な華やかなところに自分を置くことになった。そこになじみたいが、自分はダサい格好したおねーちゃん。そのことで劣等感が深くなっていく。華やかな場所になじめない自分も認めたいが、一方、奔放に生きている都会の女の人も素敵だと思う。ものすごく自分の中で葛藤していた……」。
 個々人の体験や想いを抜きにして、「時代の空気」など存在しないという当たり前のことに、筆者は遅まきながら気づかされた。

▼林真理子のひそみに倣うというわけでもないが、筆者自身の70年代を少しだけ振り返ってみよう。
 筆者の学生時代は60年代から70年代初めにかけてであり、「全共闘」運動のはじまりから終わりまでを横目で見ながら、欝々とした時間を過ごしていた。なぜ鬱々としていたか、今それを思い出して語る気力はないが、当時はそれを「時代への逆恨み」と表現していたように記憶する。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               自分の憂鬱に理のないことは十分わかっているが、それでも自分の憂鬱が本物であることは確かである、といった意味だったはずだ。「オレをこれほど惨めにしてくれた〈時代〉に、いつか必ず“落とし前”を着けてやる」と、筆者は自分自身に大見えを切った。
 しかし就職し、毎日決まった時間に起きて職場に行き、与えられた仕事をこなすうちに、自分の欝々とした気分が霧が晴れるように急速に薄れていくことに気がついた。自分の憂鬱は、これほど根拠の稀薄なものだったのかと呆れたが、可笑しくもあった。

 職場ははじめ青山にあったが、その後丸の内に移ったので、仕事帰りに銀座2丁目の並木座に立ち寄って、映画をよく観た。並木座はいわゆる名画座で、小津安二郎や黒沢明、溝口健二をはじめ、日本の監督の名画や意欲作を、週替わり二本立てで上映していた。百席もない、スプリングが飛び出しそうな古い椅子は、いつも満席に近かった。
 藤田敏八監督の「赤い鳥逃げた?」(1973年)を観たのも、そこだったと思う。どのような映画だったか記憶ははなはだ怪しいのだが、全体の気分と一部の場面だけは鮮やかに覚えている。
 原田芳雄とその弟分・大門正明、桃井かおりの三人が、都会の片隅で暮らしている。三人は、無為な時間を過ごす暮しに疲れ、出口の見えない日々に苛立っている。兄貴分の原田芳雄がつぶやく。「やることなくなったら、俺たちジジイだよ」。
 都会暮らしでニッチもサッチも行かなくなった三人は、温泉地に流れてくる。原田芳雄が二人に言う。「よし、シロクロをやろう」。大門も桃井も嫌だとは言わない。
 温泉客が数人、身を乗り出して見入る蒲団の上で、二人は裸で男女の交接を演じる。部屋の片隅に座る原田の眼に、涙がにじむ―――。
 「不安と焦燥の青春」の終りを描いた作品、ということになるのだろう。同時にそれは、70年代前半の「時代の気分」の半面を表現していたと、筆者は思う。

▼もう一つ、この時代の出来事で筆者の頭に残っているのは、「東アジア反日武装戦線」を名のる若者たちが、新三菱重工や大成建設、間組などのビルに爆発物を仕掛けて爆発させ(1974年8月~75年5月)、逮捕された(1975年5月)事件である。
 彼らは自分を「日本帝国主義の本国人」ととらえ、戦前の植民地支配や侵略、戦後の経済的収奪に責任があると自らを責める。われわれの現在の「平和で安全な小市民生活」は、植民地の人民の収奪と犠牲の上に築かれている。だからわれわれは、日帝を打倒するための闘争を開始しなければならず、それは法と市民社会をはみ出す闘い、つまり武装闘争でなければならない―――。彼らの作成した『腹腹時計』には、爆弾の製造法とともに上のような「主張」が載っている。
 彼らの主張には酌むべき点はひとつもないが、彼らが自分を追い込んでいった思考の軌跡は痛ましい、と筆者は当時思った。同世代のごく普通の若者たちが、無理な論理の単純化を仲間内で重ねていった末に、「連続企業爆破」に行き着いたという事実の恐ろしさに、胸が痛んだ。
 彼らもニューファミリー層の一員として、ダイニングキッチンのある郊外の団地で、新生活を始めていたとして少しも不思議でないのに、何が彼らを「武装闘争」に走らせたのか。―――筆者にとって70年代前半とは、そのような「犠牲」の上に花開いた時代だった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

日本の1970~90年代とサブカルチャー [思うこと]

▼映画や流行歌には、その時代の人びとの希望やあこがれが反映されている。映画や流行歌を追いかけていけば、時代の欲望の形がどのようなもので、社会の雰囲気や気分がどのようであったかを、見ることができる―――。
 NHK制作の番組「サブカルチャーの時代」は、そのような時代とサブカルチャーの関係に眼を付け、時代を読み解こうとした意欲的な企画である。筆者はこの番組のことをつい最近になって知り、再放送された一部を観ただけなのだが、そのうちアメリカ社会の1990年代~2010年代の30年間の部分を取り上げ、このブログで紹介した。(「サブカルチャーの時代」3/10~3/24)。
 そのときこの番組について、ブログの記事には書かなかったが、疑問を感じる点がないわけではなかった。番組を制作した担当ディレクターが、アメリカ社会の空気を直接どれぐらい知っているのか、という点である。もし担当ディレクターが、アメリカ社会の雰囲気や気分の変化を直接知らないのなら、映画と社会変化を結び付ける分析や批評を、その社会に生きるアメリカの映画批評家や歴史家や哲学者に頼らざるを得ない。それでは日本放送協会が「サブカルチャーの時代・アメリカ篇」をつくる意義が、半減するように思われたのだ。
 やはり自分の生きた時代の空気を、自分の体験した流行歌や映画で語ってもらいたい。それによって自分の生きた時代の意味やその変化を、自信を持って語れるのであり、「方法」の有効性を確認することもできるのだ。―――
 幸運なことに、ブログ連載中の3月に「日本篇」を観ることができた。(1960年代は見逃した。)筆者自身の体験した時代を、映画や流行歌やその他もろもろの「サブカルチャー」を手掛かりに、どのように読み解くことができるのか、日本の1970年代から90年代まで30年間を見てみたい。

▼日本は70年代に、本格的な「消費社会」に入ったと番組は語る。日本は米国に次いで世界第二の「経済大国」となり、大阪で開かれた万国博覧会には、国内外から6400万人の見物客が訪れた。多くの人が中流意識を持つようになり、「モーレツからビューティフルへ」、「集団より個の重視」が、時代の掛け声となった。銀座に歩行者天国が現われたのも、この70年だった。
 もちろん「政治の季節」だった60年代の残り火として、連合赤軍による「よど号」のハイジャック事件(70年3月)が起こり、秋には三島由紀夫の自衛隊への蹶起の呼びかけと割腹自殺の事件(70年11月)があった。72年春には追い詰められた連合赤軍が「あさま山荘」に立てこもる事件が起こるとともに、逃避行の中で仲間を「総括」する「リンチ殺人」が行われていたことが判明した。この「リンチ殺人」事件が、「政治の季節」に最期の引導を渡した。

 1970年3月に若い女性向けの雑誌「アンアン (an・an)」が創刊された。その半年後、国鉄の個人旅行客増加を狙ったキャンペーン「ディスカバー・ジャパン」が始まった。「アンアン」とそのあとを追った「ノンノ (non-no)」は、若い女性ならではの視点からの旅情報を載せ、「日本発見」と「自分探し」が重なり、若い女性の旅行が一大ブームとなった。彼女たちは「アンノン族」と呼ばれた。
 1971年、NHKは全放送をカラーで行うことに踏み切り、TV全盛の時代となった。TBSの番組「8時だヨ!全員集合」は、73年4月に最高視聴率50.5%を記録した。煽りを食らったのは映画業界で、ピークの1958年には11億人を数えた観客動員数は六分の一に激減し、大映は倒産、日活は「ロマンポルノ」に活路を求めた。
 「ロマンポルノ」路線は世の批判を浴び、警察の手入れもあったが、興行的には成功だった。単に興行的に成功だったという以上に、若手の監督に映画を撮る機会を与え、彼らの才能を孵化させる役割を担ったのであり、藤田敏八、崔洋一、相米慎二、森田芳光などがそこから育っていった。

▼時代の気分はヒット曲に現れた、と番組は言い、吉田拓郎の「結婚しようよ」(1972年)、井上陽水の「傘がない」(1972年)、かぐや姫の「神田川」(1973年)を挙げる。時代のテーマは、社会への反攻からささやかな個人の幸せへと変わったと言い、「神田川」の四畳半ソングは、やがて荒井由美(ユーミン)の歌の世界に変わる。そして山口百恵やキャンディーズ、ピンクレディなどの歌が、70年代後半の子どもから大人まで夢中にさせた。
 おそらく70年代から80年代にかけてが、日本のポピュラーソングの全盛期であったのだろう。皆が口ずさみたくなるような良い歌がたくさん生まれ、人びとの関心を集めた。久米宏と黒柳徹子が進行役を務める「ザ・ベストテン」が、1978年にTBSで開始され、毎週のヒットチャートが注目を集め、歌謡界を盛り上げた。

 番組が採り上げた映画は、流行歌に比べてかなり地味に見える。
 最初に取り上げるのは、寺山修司の「書を捨てよ街へ出よう」(1971年)であるが、筆者はこれを見ていない。番組はこの映画について、虚と実の境界線を取り払う寺山流の手法を駆使し、「閉ざされた空間から抜け出せ」という若者に向けたアジテーションだったと言う。イタリアのサンレモ映画祭に出品され、日本の若者の鬱屈した心情を描いたものとして、高く評価された。
 そのほかに、深作欣二の「仁義なき闘い」のシリーズ(1973年~)、「日本沈没」(1973年 監督・森谷司郎)、「犬神家の一族」(1976年 監督・市川崑)、「太陽を盗んだ男」(1979年 監督・長谷川和彦)などを、番組は取り上げる。
 「日本沈没」は1973年に最も観客を集めた映画だが、小松左京の原作は、闘争の季節を終え、政治や社会に無関心になったかに見える70年代の日本人に、そのアイデンティティはどこにあるのかを問いかけたのだと、番組は語る。
 「太陽を盗んだ男」は、無気力に生きる高校の理科の教師が、プルトニウムを盗んで原爆をつくり、日本政府を脅迫する過程で生き甲斐をとり戻すというストーリーだという。「高度経済成長を経て豊かになったはずの日本人は、社会や生活の単位が集団から個へ移り変わる時代に、精神的支柱を見失いはじめていた」というのが、番組の解釈であった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

米国社会の分裂3 [思うこと]

▼前回、トランプが2016年の大統領選に勝利した要因とともに、ヒラリー・クリントン(民主党)が敗北した原因について紹介した。富裕層の政党となり、労働者の思いに関心を持たなくなった民主党は、負けるべくして負けたのだというのが、白人労働者層と日常接している民主党の現場の活動家の感想であることも紹介した。民主党の活動家はその発言の中で、高学歴の民主党支持者が強い関心を懐く「アイデンティティ・ポリティクス」は、大事ではあるが政治のメインテーマではないと語っているのだが、この問題について少し筆者の考えを述べておきたい。

 筆者は1年前のこのブログに、「『リベラル』の危機と『リベラル』の生み出した危機」という記事を載せた。(2022/2/4~2/25)。その中でアーサー・シュレージンガーの『アメリカの分裂』(1992年 岩波書店)を取り上げ、八十年代以降急速に米国社会に広まった人種や民族を過度に重視する考え方について、彼が強い危機感を懐いていたことを述べた。
 ある人びとは、学校の歴史教育の目的は少数派民族の子供たちに自尊心を育てることにあると言い、学校のカリキュラムを変えるように要求した。教育内容のヨーロッパ中心主義が、非白人の子供たちに誇りを持てるような過去を提供しないから、彼らの学業成績は振るわないのだというのである。
 ある黒人のイデオローグやその考え方に共鳴する教育者たちは、「アフリカこそ文明の母である」と言い、「ピタゴラスとアリストテレスはその数学と哲学をエジプトの黒人学者から盗んだ」と主張した。しかしピタゴラスもアリストテレスも、エジプトを訪れたという証拠は何もないし、そもそも米国の黒人たちはその先祖をエジプトに持つのではなく、先祖の大多数は西アフリカの、ギニア海岸から来たのだ、とシュレージンガーは書く―――。
 日本人のわれわれにとってなんともバカバカしい主張だが、シュレージンガーが正面から批判の対象としなければならなかったところに、米国社会特有の事情を推測するべきなのだろう。
 大学における西洋中心主義的な教育が批判され、カリキュラムを多様な文化や民族に合わせたものに改編せよ、という要求も広がった。
 《……アーヴィング・ハウが、「聖書、ホーマー、プラトン、ソフォクレス、シェークスピアがわれわれの文化の中心的存在だ」と敢えて書いたとき、憤慨した一読者(その前年にアマスト・カレッジを卒業したという)は、「ハウのリストの中にコーランやギータや孔子や、その他わが民衆の中心的文化の産物が掲げられていないのは、どういうわけだ」と書いてきた。誰も、これらの作品の重要性や、それらが他の社会に及ぼした影響について疑うことはできない。しかしアメリカ社会に対しては、どうであろうか。すでに過去の人物であるヨーロッパの白人男性たちがわれわれの文化形成に大きな役割を果たしたということは、あいにくであったのかもしれない。しかし、それはありのままの事実なのだ。われわれは歴史を消し去ることはできないのである。/アメリカの学校教育でヨーロッパ中心の偏りが見られるのは、こうした月並みな歴史的事実が現存しているからであり、何らか卑劣な帝国主義的陰謀によるものではない。》(『アメリカの分裂』)

 人種・民族集団によるアイデンティティの主張は、女性や性的マイノリティなどの集団に広がり、集団ごとに自分たちに向けられた偏見や差別を非難し、権利を主張する運動となって、米国社会を席捲した。米国は、偏見や差別を含まない言葉や表現を用いるように(ポリティカル・コレクトネス=PC)、いっそう神経を使わなければならない社会となった。

▼アーサー・シュレージンガーの『アメリカの分裂』は、当時の、つまり90年代初めの「リベラル」層から好意的に迎えられた。
 シュレージンガーの主張は、多様な文化の存在を尊重しながらも、国民の統合を支えるものとして共有された文化があり、それは西洋の伝統文化だと考える立場である。「文化多元主義 cultural pluralism」と呼ばれるものだ。
 それに対してシュレージンガーが批判した主張は、西洋文化がアメリカの国民文化の中心になることを認めない。そのように想定することは、多様な文化を抑圧する西洋中心主義だと批判し、歴史をマイノリティの立場から見直すべきだと主張する。これは「多文化主義 multiculturalism」と呼ばれる。
 シュレージンガーは、さまざまな文化が栄える共通基盤としての「啓蒙」の価値を擁護し、それを破壊する多文化主義は反アメリカ的であると批判した。90年代初めの「リベラル」を代表する「ニューヨーク・タイムズ」や「ニューズウィーク」誌も、「多文化主義」の全体主義的、「思想警察」的傾向を批判した。
 だがその後、評価の軸は左に大きく動き、今では「リベラル」であるためには、「多文化主義」の立場に立つのが当然とされているようである。大学ではPCによる言論の規制が強まり、その規制からはずれれば、「差別主義者」、「白人至上主義者」と非難されるらしい。
 NHKの番組「サブカルチャーの時代」に登場する映画批評家や哲学者は、番組の中で次のような発言をしていた。
 「PCが最優先され、抑圧が強まり、誰もリスクを取らない」。「建て前を振り回すリベラル」。「若者の右傾化が言われるが、若者は本来反抗するものだ。2010年代にPCがルール化したから、人種差別的なことをしたり、オンラインで人をけなすことが、今どきの反逆の形となったのだ」。
 彼らは「リベラル」な立場の人間と考えられるが、「多文化主義」の現実のありようは、彼らの受け入れられない所まで行ってしまったように見える。

 トランプ大統領の最側近だったスティーブン・バノンは、トランプ政権を去る直前、インタビューで次のように語った。
 「民主党側がアイデンティティ・ポリティクスを論じ続けるほど、こちらの思うつぼだ。毎日、人種差別を言い続けてほしいものだ。左派が人種とアイデンティティに焦点を当てて、こちらが経済ナショナリズムを訴え続けていれば、民主党をつぶせる」。(『破綻するアメリカ』会田弘継 2017年)

▼筆者は「アイデンティティ・ポリティクス」の議論に不案内であり、またバカバカしいとしか思えないので、言及はこの辺で終了するが、しかしこれが「ポリティクス」と言いながら、およそ「政治」から遠い未熟な運動であることだけは一言しておきたい。
 「政治」とは一面、集団内部の支配・被支配に関わる現象であるから、「アイデンティティ・ポリティクス」の自己主張や要求も、その面では「政治」運動であるかもしれない。しかし同時に「政治」は、集団が外部世界と関わる中でいかにして一つにまとまり、集団の利益を守り、存続し発展するかを考える技でもある。「アイデンティティ・ポリティクス」は、この面では米国社会に分裂・分断の影響しかもたらしていない。
 米国社会で経済的な格差が拡大しているだけでなく、文化的・思想的な分断が進んでいる現状は、国力という面から見てマイナスであることは確かである。それは国際秩序の面で大きな危険をはらんでいるし、同盟を結んでいる日本の立場からも好ましいことではない。
 米国が統一感をとり戻し、国際社会で相応の影響力を維持することができるのか、それとも孤立主義に退行し、国際社会の混沌が深まるのか、世界は重大な岐路に立たされている。

(この稿おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

米国社会の分裂2 [思うこと]

▼米国の子どもが親よりも豊かになれるかどうかを、生年別に示したグラフがある。それによると、1940年に生まれた子供は9割以上が親よりも豊かになれた。1950年生まれは8割が親よりも豊かになった。しかしこの率は年々低下し、1980年生まれでは5割になってしまった。
 膨大な税金データを基にこの調査を行ったスタンフォード大のチェティ教授は、子どもが親よりも豊かになる「アメリカン・ドリーム」をとり戻すには「成長」が必要だが、その場合、格差のない「成長」でなければならないと強調しているという。しかし現実のアメリカ社会では、格差拡大が進行している。
 アメリカ社会の格差の変遷を調べたトマ・ピケティによれば、20世紀初頭、米国の上位10%の所得が国民全体の所得に占める割合は40~50%だった。所得格差はその後少しずつ縮小し、40年代半ばから50年代にかけて集中度は35%まで縮まり、その状態は70年代末まで続いた。しかし80年代に入るとまた拡大基調に転じ、21世紀に入り、ふたたび20世紀初頭の格差の時代に戻ってしまったという。
 こうした社会の経済格差拡大の背景には、産業構造の変化がある。戦後の世界で、アメリカの製造業の力はあらゆる分野で圧倒的であり、50年代の職長級の工場労働者は4~5人の家族を養い、子どもを大学に入れるのに十分な所得を得ていた。
 しかしやがて製造業は海外との競争に負けて衰退し、廃業したり外国に移転したりする時代となる。産業構造が変わると、学歴差が賃金の差として露骨に現われるようになった。
 マサチューセッツ工科大学のオーター教授の研究では、1980年から2012年にかけて大卒男子の給料は実質20-56%上昇しているのに対し、高卒男子は11%の低下、高校中退なら22%も低下している。低学歴者は賃金が低下するだけでなく、就業率も低い。
 教授は賃金下降の原因として、次の3点を挙げている。
第一に、コンピュータの活用によって単純労働の置き換えが進んでいること、第二に、経済活動のグローバル化、とくに中国の製造業の影響で米国の製造業が衰退したこと、第三に、労働組合の組織率が低下し、交渉力が衰退したこと―――。
 原因がどこにあるかはともかくとして、米国の製造業などの現場労働にたずさわってきた者の賃金が低下する一方、金融業など知識・情報に関わる者の賃金は伸び続けている。米国の富裕層と低所得層がそれぞれ拡大し、中間層が縮小する傾向が続いている。(以上の経済分析については、『破綻するアメリカ』会田弘継 2017年 岩波書店 に拠る。)

▼アメリカの共和党は、減税や「小さな政府」による規制緩和、福祉削減を主張し、金持ちに支持される政党であった。一方民主党は、大不況後にニューディール政策で仕事をつくり、労働立法を進める労働者のための政党だった。
 しかし1960年代以降、白人の高卒以下(労働者階級)は徐々に民主党から共和党に支持を鞍替えしはじめ、今回の大統領選挙では大挙してトランプに投票した。他方、大都市の高学歴の富裕層は進歩的(リベラル)な主張を好み、民主党を支持するようになっている。白人層に限るなら、共和党と民主党の支持者は大きく入れ替わったと言えるのかもしれない。
 だがトランプを大統領に選んだ選挙は、共和党内や保守的言論のあいだに戸惑いを生んだ。共和党主流を支持してきた保守的言論人や思想家たちは、トランプを大統領に押し上げた力と動きに批判的であり、トランプを「保守主義とは無縁だ」と否定する。しかし一部には、庶民を無視して自己利益を追求きたグローバル・エリート層への反撃としてトランプ現象をとらえ、「国民主権の回復」の動きだと評価する者もいるという。

▼筆者には米国人一般が持つ「考え方」に、ある種の違和感があった。もちろん米国人多数に確認したわけではないから、米国人一般が「持つとされる」と言い直した方が良いのだろうが、それは例えば次のような「考え方」の傾向だ。
 ・個人の自由や独立を尊重する
 ・連邦政府をあまり信頼せず、ややもすれば反撥する
 ・小さな政府を志向し、連邦政府の規制や福祉政策に反感を抱く―――
 こういう考え方の延長線上に、銃を所持することの弊害が大きくなっても、銃規制を「自由の侵害」として反対したり、企業や富裕層への課税に反対する議論が組み立てられる様子を、われわれは見てきた。「オバマ・ケア」の詳細を知らないのでここで論じるわけにはいかないが、国家による「国民皆保険」制度が無く、それに反対する考えがかなり強いということにも、米国人の「考え方」の傾向は見てとれる。
 要するに、「個人の自由と独立」という本来尊重されるべき観念が、度外れに強調される結果、社会の貧富の格差が広がり、社会の分断が進む現実に対し、有効な対応が不可能になっているのではないか。貧しさに耐えて勤勉に働けば成功し、子どもたちは親の世代よりも豊かな生活を送れるという「アメリカン・ドリーム」の時代は終わっているのに、イデオロギーの域にまで高められた観念が、現実を見るのを妨げているのではないか―――そんな「違和感」である。
 今回、米国の政党と支持者の関係を調べてみて、上のような米国人一般に見られる考え方の傾向は、伝統的な共和党の主張に近いと思った。それは金持ちには都合の良い考え方であっても、貧しい白人層には不利な考え方のように見えるのだが、彼らの過去の記憶と誇りが、その不都合を見えないようにしているのかもしれない。

▼トランプの勝利の原因として、彼がラストベルトの白人層の味方という姿勢をとり、働きかけたことと並んで、民主党の戦略的失敗と言える側面も指摘されている。民主党が「アイデンティティ・ポリティクス」に過度に熱をあげ、ラストベルトの人びとの心に届くメッセージを発しなかったことである。
 金成記者は『ルポ トランプ王国2』のなかで、オハイオ州マホニング郡の民主党委員長の話を載せている。トランプが大統領に就任してから半年以上たったころ、委員長はインタビューで次のようなことを語っている。
 ・民主党はまだ敗因を十分理解していない。トランプの言動のひとつひとつを非難するのをやめることが重要だ。トランプや支持者を、人種差別主義者や外国人嫌い、バカなどと侮辱すれば、彼らは二度と民主党に戻らない。有権者に響く方向性を示し、メッセージそのもので勝たないといけない。
 ・民主党は、配管工、美容師、大工、屋根ふき、タイル職人、工場労働者など両手を汚して働いている人に、敬意を伝えるべきだ。しかし民主党の姿勢には敬意が感じられない。教育プログラムを受け、学位をとり、パソコンを使う仕事をしなければダメだといった言葉に、人びとはうんざりしているのだ。
 ・民主党は、「性的少数派」の人びとが男性用、女性用どちらのトイレを使うべきか、そんな議論ばかりしているように、メディアを通じて見えた。偏見や差別に抑圧された側に立つのは、民主党の存在意義だ。しかし順番を間違えてはいけない。雇用や賃金などの労働問題が中央にあるべきなのだ。人工妊娠中絶、性的少数派の権利擁護、「ブラック・ライブズ・マター」運動など、今のリベラル派が重視する争点はどれも大切だが、メインではない。労働者の関心は、良い仕事があるか、きちんと家族を養えるか、子供に教育を与えられるか、十分な休暇をとれるか、自分の仕事に誇りをもって引退できるかであり、これらが「アイデンティティ・ポリティクス」より重要なものとして、扱われなければならない。
 ・トランプ支持は恥ずかしいことという認識は、選挙のあとでも変わらず人びとのあいだに存在する。だから世論調査の電話は、正確な声を集められなかったのだ。―――
 金成記者は委員長の話を聞き、この地方の実情の最も的確な説明だと感じた。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。