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朱夏3 [本の紹介・批評]

▼昭和6年9月、関東軍は柳条湖事件をしかけ、これを口実に軍事行動を起こし、満鉄沿線の主要都市を占拠した。いわゆる満州事変である。関東軍は大きな被害もなく満州全土に占領地を広げ、その目覚ましい戦果に日本の庶民は熱狂した。
 石原莞爾ら関東軍幕僚は、「満州の日本領土化」を考えていたが、陸軍中央は、それが国際社会の猛反発を買い、日本の立場を悪化させると考え、否定的だった。関東軍は、軍事作戦面では独断専行して陸軍中央の統帥を無視したが、人材と資金が必要な占領統治という政治面では、人とカネを握る陸軍中央を無視するわけにはいかず、「満蒙独立」の線で妥協しなければならなかった。
 昭和7年3月、満州国建国宣言。

 昭和6年11月、角田一郎(すみたいちろう)という退役軍人が、満州事変による社会の興奮の中で「満蒙経営大綱」と題する満洲移民策を書き上げ、各方面に働きかけた。角田の構想は加藤寛治に衝撃を与え、意気投合する。また、東京帝大農学部教授・那須皓(しろし)や京都帝大農学部教授の橋本傳左衛門ら、農村問題に関心を寄せる学者にも影響を及ぼした。《満洲移民計画は、角田が触媒となって加藤・石黒・那須の三者を政策的に結びつかせ、急速な展開を見せるようになった。》(加藤聖文)
 日本政府は、「満蒙移民」の計画にはじめから賛成だったわけではない。政府の当面の課題は、世界恐慌のもたらした大不況からの脱出であり、満州事変のための戦時公債の増発であり、大蔵省は「移民」のような新規事業は抑制する立場であり、陸軍中央も移民には消極的だった。しかし民間では、農村救済手段として移民推進の声が高まった。

▼戦前の日本における最大の社会問題は、農村人口の過剰と耕すべき耕地の過小であり、その結果として農村の貧困の問題だった。一方、満州の人口密度は極めて低く、未開拓の荒野が広大に拡がる土地であり、満州への農業移民が問題を一挙に解決する手段のように見えたとして不思議はない。
 また関東軍は、対ソ連戦略の観点から、東宮鉄男の主唱する「武装移民」の計画を進めることを必要とした。
 満州国は日・満・漢・モンゴル・朝鮮の「五族協和」をスローガンに掲げたが、満州国に居住する日本人は極めて少なく、これを増やす必要もあった。

 昭和7年、関東軍と拓務省が連携し、陸軍中央も追認する形で「満蒙移民」の計画が予算化され、在郷軍人会が積極的に後押しする形で、軍事的要請と農村救済が合体した移民事業が始まった。募集から訓練までをごく短期間のうちに済ませて、10月に四百人を超える第一次移民団を満洲・佳木斯(じゃむす)に送り込んだ。
 この移民団は、加藤完治と東宮鉄男の立てた計画に従って送りだされたわけだが、そのうち農民は百人しかおらず、厳しい気候の満洲で農業移民として自立できるような集団ではなかった。また与えられた入植地は、買収する際に現地民との間に軋轢を生じており、現地の治安は悪く、匪賊の襲撃もあり、定着した開拓民はごく少数だった。
 それでも日本政府は、毎年移民団を送り出した。やがて満洲移民の斡旋を行う満洲移住協会(満移)が設立され、また入植地の買収と管理を行う満洲拓殖株式会社(満拓)が設立されたころから、満洲移民拡大は既定路線となった。
 昭和11年に陸軍省と関東軍の間で、「20年間に百万戸を目途」とし、「第1期5年間に十万戸の移住」を決定した。満洲移民政策は、日本と満州国の国策として強力に推進されることになった。
 昭和12年に加藤完治らは、「満蒙開拓青少年義勇軍編成に関する建白書」を近衛首相に提出し、16~19歳の青年を対象とする「満蒙開拓青少年義勇軍」が創設されることになった。
 これは国内の人口・就業問題の解決や開拓の労働力の確保を目的とするとともに、対ソ連防衛力の強化という関東軍の希望にも応えるものだった。日本の兵役制度では本籍地の連隊に入営するのが基本とされ、満州国に本籍のある日本人はいないから、満州の兵力を補いたくても現地の日本人を直接召集することができない。そこで徴兵検査前の青年を入植させ、現地で徴兵検査を受けさせ、関東軍指揮下の現地部隊に直接入営させることを狙いとしていた。

 満蒙開拓団で満州に渡った日本人は全体で27万人に上ったが、そのうち「満蒙開拓青少年義勇軍」は8万6千人と3割以上を占めている。

▼小説『朱夏』の主人公・綾子(=宮尾登美子)は、敗戦後、夫や娘とともに収容所生活を耐え抜き、昭和21年9月に故郷に帰ることができた。彼女たちには帰る家があり、夫には仕事があった。しかしともに収容所生活を送った開拓民の中には、帰国を喜べない人たちも多数あった。彼らは家や土地を手放し、開拓に生涯をかけるつもりで満洲に渡っていたからである。
 『朱夏』の中に次のような場面がある。春には引き上げが始まるかもしれないという話を耳にして、綾子が胸躍らせていると、要が唇に指を当てて、「帰りたい帰りたいとあまりいわんほうがええよ」と言う。綾子は理解できず、「何故?どうして?」と小さな声で聞くと、要は、「帰りとうないひともおるし、帰れんひともおる。第一日本の国がどうなっちょるやらさっぱり判らんからね」と、ひそひそ声で言った。
 《綾子は目を丸くして要の顔をみつめながら、帰りとうないひと、帰れんひと、日本の国がどうなっちょるか判らん、という、その言葉をひとつひとつなぞり、そんなことについては今まで全く考えもしなかったことを思った。(中略)開拓団として渡満したひとびとは、満州の曠野に骨を埋める覚悟でそれこそ竈の下の灰までもすべて処分してきたのであり、もし引き揚げても、家も土地もなくなっていればただ困惑、というより他ない有様に綾子は思い至ってはいなかった》。

 しかしそれでも無事に帰国できた開拓民たちは、まだ幸運だったといわなければならない。昭和20年8月9日にソ連軍が満洲国に攻め入って後の日本人死亡者は、7万2千人にのぼる。ソ連軍の攻撃や満人暴徒の襲撃、食べ物も飲み物も着物も薬品もなく逃げる避難民の多くが、寒さや疲労、栄養失調や病気により倒れた。中には逃げ切れないと考え、集団で自決する開拓団もあった。
 東安省鶏寧県の哈達河(はたほ)に入植した開拓団が、避難の途中、麻山(まさん)でソ連の戦車隊に攻撃され、四百余名が集団自決した事件は、中でも最大級の悲劇として知られている。中村雪子の著書『麻山事件』(1983年 草思社)により、この事件を見てみよう。

(つづく)

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安倍晋三の死2 [政治]

▼安倍晋三狙撃事件と彼の死去について、筆者の考えは前回に述べたので、今回は連載中の「満洲」に戻るつもりでいた。しかしネットや新聞紙上には、筆者が予想しなかったような「意見」や「考え」が見られ、もう一言する気になったので、安倍狙撃事件に議論を戻すことにする。

 筆者が予想しなかった「意見」や「考え」とは、一つは3年前に街頭演説する安倍首相にヤジを飛ばした男女を警察が排除したが、裁判官がその行動を違法と判断したため警察官が委縮し、安倍の身体警護に影響したという説である。
 3年前の参院選挙で、札幌駅前で演説していた安倍首相に、若い男女が「安倍やめろ」、「増税反対」の声をあげた。警官が二人を排除し、二人は、「応援の声は規制せず、批判者だけ排除したのは公正を欠き、表現の自由を侵害した」と、損害賠償を求めたのである。
 今年3月、札幌地裁は排除の違法性を認め、二人に慰謝料を支払うように命じた。北海道警は、「自民党支持者から二人への怒号が挙がり、危険があったので二人を避難させた」のだと主張したが、証拠として提出された現場の動画に「怒号」はなく、道警の主張は不自然だと裁判官は判断した。その上で、公共的・政治的事項に関する表現の自由は、とくに重要な憲法上の権利だと判示し、警察官による表現の自由の侵害を認めたのであった。
 この裁判官批判の主張は要するに、「違法な権力行使をしてはいけない」と裁判官に言われたので、要人警護という大事な仕事が十分にできなかった、と弁解するに等しい。小学生が、自分でも無理があるとわかりつつ苦し紛れにする「言いわけ」のレベルだが、こういう「言いわけ」を警護の警官に代わって考え出す人たちに、ある意味で感心する。

▼もう一つ、筆者が予想しなかったのは、安倍狙撃事件を2019年の「京都アニメーション」放火殺人事件や、昨年末の大阪市のクリニック放火殺人事件といっしょに並べ、いずれも「孤独や貧困を背景に自殺願望を抱いた容疑者」による犯行だとする主張である。(たとえば産経新聞の記者が、精神科医の言葉を引用しつつそのような記事(7/13)を書いている。)
 筆者自身も以前このブログで、「犯罪は世相を映す」と題して、2019年に起こった登戸無差別殺人事件と「京都アニメ」放火殺人事件を取り上げ、「自分の無意味な生を終わらせようと思い立ち、自分の自殺の道連れに何のかかわりもない多くの人々を巻き込んだ」と論じたことがある。2019/11/29)。その2年後に起きた大阪市のクリニック放火殺人事件も同様の、自分の自殺に多くの人々を巻き込んだ事件とカテゴライズして、間違いはないだろう。
 しかし安倍晋三の狙撃犯は違う。彼には「統一教会」に対する明確な敵意があり、殺意があった。(「統一教会」は改名して「世界平和統一家庭連合」と名のっているようだが、このブログでは「統一教会」で通すことにする。)
 テロリストの殺人と自殺者が無関係の人びとを巻き込む殺人は、どこが違うのか?
 テロリストの暗殺事件も、テロル決行の時点で自分のそれまでの人生が断たれるのであり、その点では自殺願望からの殺人と変わりなさそうに見える。だが、ただ一点、特定の対象への明確な殺意がある点が、決定的に異なるのだ。
 「京都アニメ」事件も大阪市のクリニック事件も、犯人の殺意がそこに向けられなければならない必然性は、何もなかった。犯人は「京都アニメ」や大阪市のクリニックによって、決定的に人生を毀されたり狂わされたりしたわけではない。誰かを自殺の道連れにしようと考えたとき、たまたま過去に関わりを持ったはずの「京都アニメ」や、受診したことがあるクリニックが思いだされた、というだけのことにすぎない。
 しかし安倍狙撃犯と「統一教会」の関係は違う。彼にとって「統一教会」は、彼の家族を破壊し彼の人生を滅茶苦茶にした、憎んでも余りある敵だった。だがその敵は日本の政治権力に食い込み、巨大な財力によって防御を固め、日本の法律によって保護されており、貧しい一人の人間の立ち向かえる相手ではなかった。

▼狙撃犯が「統一教会」の襲撃をあきらめ、代わりに安倍晋三を襲撃対象に選んだことを指して、産経記者は「一方的な恨み」、「過度な思い込みや歪んだ意識」と書く。たしかに安倍晋三と「統一教会」の関わりとして明らかになっているのは、昨年9月、教祖・文鮮明の妻が総裁の「UDP(天宙平和連合)」という団体がウェブ集会を主催した際、動画メッセージを送り、その運動に賛意を寄せたことぐらいであろう。そして安倍晋三が生きていれば、自分は「UDP(天宙平和連合)」という団体の主張に賛意を表しただけで、「統一教会」に関与したわけではないと言い、「統一教会」も、「UDP」は友好団体だが別の独立した団体だと言うことだろう。

 しかし狙撃犯は、安倍と「統一教会」の関係が薄いものであると十分知りながら、それでもあえて安倍を狙ったらしい。
 狙撃犯が犯行の直前に、「統一教会」批判のブログを書いている男に送った手紙や、ネットへの書き込みの一部が、新聞に紹介されていた。(朝日新聞2022/7/18)。
 手紙の中で彼は、安倍について、「本来の敵ではない」、「あくまでも現実世界で最も影響力のある統一教会のシンパの一人に過ぎません」と書いているという。しかし「統一教会」創始者一族を殺害しようと考えたが果たせず、今は安倍を殺すしかない、と思い詰める。「安倍の死がもたらす政治的意味、結果、最早それを考える余裕は私にはありません」。
 またネットへの書き込みでは、「憎むのは統一教会だけだ」、「統一教会が信者を犠牲にして築いて来た今を破壊しようと思えば、自分の人生を捨てる覚悟がなければ不可能」とも言う。これは、古典的なテロリストの覚悟と言ってよい。
 このように状況を整理し、思考を煮詰めてきた狙撃犯の男に対し、「京都アニメ」や大阪市のクリニックの放火殺人事件の犯人と同じカテゴリーと見るのが失当であることは、論を待たない。

▼「霊感商法」と戦っている「全国霊感商法対策弁護士連絡会」は、2019年9月に、「国会議員の先生方へ」と題する要望書を全ての国会議員あてに出した。「旧統一教会やその正体を隠した各種イベントに参加したり、賛同メッセージを送らないで下さい」、「選挙に旧統一教会信者らの支援を受けないで下さい」というのが、その内容だ。
 「霊感商法」は、最近は大きな騒ぎになっていないようだが、「弁護士連絡会」によれば、被害相談は昨年までの5年間に限っても約580件、約54億円に上るという。
 安倍が「UDP(天宙平和連合)」の主催したウェブ集会にメッセージを送った時も、「弁護士連絡会」は安倍に公開抗議文を出し、「統一教会が広く宣伝に使うことは必至」であるから、「今回のような行動を繰り返されることのないよう」強く申し入れた。(「全国霊感商法対策弁護士連絡会」の活動については、新恭のネット記事「祖父・岸信介からのつながり。安倍元首相と統一教会のただならぬ関係」7/15に拠る。)

 筆者が、安倍狙撃犯の生い立ちや経歴、犯行の動機を新聞、TVで知り、感じたのは、二重の意味での「哀れ」さだった。
 第一に、母親が「統一教会」にのめりこみ、家庭は崩壊し、貧窮の中で幼い兄妹三人が成長したことに対して、第二に、安倍晋三を「本来の敵ではない」と理解しながら、それでも「統一教会」への自分の憎悪に決着を付けるため、狙撃しなければならないと思い込んだことに対してである。
 筆者が、この事件の狙撃犯と、自殺の道連れに多くの無関係の人びとを巻き込んだ凶悪犯を、一緒にくくる粗雑な思考に対し、「それは違う」と言わなければならないと強く思ったのも、そのとき感じた「哀れ」さに因るのだと思う。
 狙撃事件後、「統一教会」の「霊感商法」があらためて社会の関心を集め、「統一教会」は弁解に追われている。「統一教会」から支援を受ける自民党議員たちにも、光が当てられはじめた。それらは、「統一教会」にダメージを与えることを期待して安倍晋三に向けられた狙撃犯の行為が、わずかながら生み出したものだ。
 だが、「信仰の自由」という近代社会の大切な約束事を悪用して膨大な金を集め、選挙資金や選挙活動員を提供することで深く政権党に食い込んでいる「統一教会」にとって、所詮は一時の小さな波紋に過ぎないのではないか。そう考えると、狙撃犯に筆者が感じた「哀れ」さは、さらに深まる。

(おわり)

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安倍晋三の死 [政治]

▼元総理大臣の安倍晋三が、一週間前の7月8日に銃で狙撃され、死亡した。参院選投票日の二日前、奈良市内で自民党候補者の応援演説中のできごとだった。
 翌日の新聞は、「民主主義の破壊許さぬ」、「暴力に屈しない」といった見出しを掲げ、政治家へのテロの先例として、昭和初年代に銃撃された浜口雄幸や五一五事件で暗殺された犬養毅、戦後の浅沼稲次郎刺殺事件などに言及した。
 安倍晋三の狙撃犯は41歳の男で、事件現場でおとなしく逮捕された。政治的、思想的な動機で安倍を襲ったのではなく、恨みを持つ宗教団体と密接な関係だったから襲撃した、と供述していると報じられた。犯人は子供のころ父親が亡くなり、そのあと母親がこの宗教団体(統一教会)にのめりこみ、多額の寄付をして父親の経営していた会社を破産させたことについて、強い恨みを懐いていたというのである。
 もし供述どおりの理由から事件が起きたのなら、事件の色調は少し変わるだろう。事件が「悲劇」であることに変わりはないが、「言論への暴力」などとはなんの関係もなく、ただ安倍晋三という政治家の大きな影響力が、日本政治の舞台から突然消えたという問題に、収斂するからだ。

▼安倍晋三の「政治」の評価については、このブログでこれまでに多少触れているので、今回は彼の人間的側面について少し考えてみたい。安倍晋三という人間に、筆者は少し引っかかるものを感じ、それはその「政治」にも影を落としていたと思うからだ。
 もちろん筆者は特別の内部情報を握っているわけではないし、安倍本人に接触した経験があるわけでもない。社会に出回っている情報を筆者なりに取捨選択し、安倍晋三という人間像をとらえた上で、安倍の「政治」を理解しようとする小さな試みにすぎない。そこでは筆者の理解力や判断力も、同時にテストされることになる。

 第二次安倍内閣の官房組織は、官房長官の菅義偉と首席秘書官の今井尚也が軸となって動かしていたと言われる。彼らが官僚組織ににらみを利かすとともに、課題に応えるアイデアを次々に捻り出し、安倍首相を支えた。安倍内閣が歴代最長の長期政権となったのも、安倍を支えるチームが存分に力を発揮したからであり、安倍晋三は部下たちにとって懸命に支えるに値する魅力ある人間であったと、認めてよいだろう。
 安倍晋三は身内や親しい者にやさしく、厚遇する。しかしその反面、自分への批判には神経質に反応し、批判者を潰そうとする。「なるほど、そういう見方もあるか」と、余裕をもって批判を受け止め、自分の考えを批判によってさらに磨くという態度は見られない。
 たとえばライバル・石破茂に対する態度である。石破は2012年の自民党総裁選で、党員票でトップに立ったが国会議員票で安倍に逆転され、安倍は自民党総裁となり、その年の末の衆院選挙で勝利し、首相の座に就いた。
 筆者は、石破茂についても安倍晋三同様、特別な情報を持っているわけではなく、なぜ自民党議員の中で人気が低いのかも知らない。しかしその時々の発言を聞くと、なかなかまともなことを言っているように思う。
 たとえば安倍首相が2017年5月に憲法改正すべき4項目を挙げ、早期実現を目指すと語ったとき、石破が新聞のインタビューに答えた記事が手元にある。安倍は憲法9条について、その1項2項はそのまま残し、第3項に自衛隊の存在を明記する案を改正案の1項目としたのだが、記者はこの提案をどう考えるかと聞いた。石破の答えは次のようなものだった。
 「どう付け加えるのか分からないから、論評のしようがない。2項には陸海空軍その他の戦力は保持しない、国の交戦権は認めない、と書いているわけでしょ。仮に3項に、前項の規定に関わらずと入れれば、(2項の)死文化になる。2項と3項がまったく違う。一種の、トリッキーな、少なくとも真摯な立法姿勢とは思えない。(以下略)」
 記者が、首相には、公明党の理解を得るための“現実路線”だという考えがあるようです、と重ねて聞くと、「ホントに公明さんと正面から議論したうえでのことだろうか。最初から理解を得られないというのは失礼。(自分が)防衛庁長官としてかかわった有事法制は、当時の民主党も賛成した。(国会発議できる勢力の)三分の二からまず入るってやり方は、私の趣味じゃない」。(朝日新聞2017/6/7)

 安倍首相がこういう意見を聞いてどう思ったかは、想像するしかないが、自民党議員が自分に気がねして声をあげない中、率直な意見を聞かせてもらえてありがたい、とは受け止めなかったようだ。安倍が体調不良を理由に2020年9月に首相を辞任したあと、彼の関心は後継総裁に石破を就けないことだけだった、と伝えられている。

▼2019年の参院選挙で、自民党は広島選挙区に二人の候補者を立てた。現職の溝手顕正と県議を務めていた新人の河井案里である。定数2の選挙区だったから二人当選の可能性は高くなく、自民党広島県連は強く反対したが、党本部は強硬に二人の立候補を推進し、河井案里の応援に力を入れた。立候補者には党本部から選挙資金1500万円が配られたが、河井案里には破格の1億5千万円が手渡された。選挙の結果、河井案里は当選し、溝手顕正は落選した。
 この一件には安倍首相の溝手顕正に対する恨みが絡んでいる、とある週刊誌が報じた。
 2007年の参院選挙で当時の阿部首相は惨敗したが、続投の意欲は十分あった。閣僚の一人だった溝手顕正は、選挙の惨敗は首相の責任だとし、「続投を本人が言うのは勝手だが、まだ決まっていない」と批判した。安倍は臨時議会を開き、所信表明演説まで行ったが、その二日後入院し、政権を投げ出した。
 その後も溝手は、首相を退いた安倍について「もう過去の人」と言い、物議をかもしたこともあった。安倍はこの恨みを忘れず、2019年の参院選挙で河井案里を「刺客」としてぶつけたというのである。
 皮肉なもので、河井案里と夫・河井克之元法相は、その後参院選での公職選挙法違反(買収)で起訴され、2021年、有罪判決を受けて議員を辞職した。その過程で、自民党本部から提供された破格の「1億5千万円」がクローズアップされ、自民党幹事長・二階俊博が、「自分は関与していない」と弁解する一幕もあった。
 この問題について広島県連は「説明」と「謝罪」を求めたが、自民党本部は回答していない。

▼歴代最長の首相の座を降りたあと、安倍晋三は党内最大派閥の長となり、キングメーカーとしての力を背景に、政治・外交・安全保障全般に活発に発言をするようになった。菅義偉に替わって総理の座に就いた岸田文雄は、安倍の怒りを買わないように事あるごとに意見を聞き、あるいは事前に説明して了解をとらなければならない。

 ひと月ほど前に自民党の「財政健全化推進本部」の事務局長は、会合のあと安倍から直接怒りの電話を受けた。「君はアベノミクスを批判するのか?」
 事務局長は、「批判していません」と理解を求めたが、安倍は、「周りはアベノミクス批判だと言ってるぞ」と、なおも言った。
 推進本部で取りまとめた文書の中に、「近年、多くの経済政策が実施されてきたが、結果として過去30年間のわが国の経済成長は主要先進国の中で最低レベル」、「初任給は30年前とあまり変わらず、国際的には人件費で見ても『安い日本』となりつつある」といった経済分析が、盛り込まれていたからである。(朝日新聞2022/6/3)
 しかしアベノミクスの最初の1年と少しの間こそ、「異次元の金融緩和」の斬新さが市場から好感を持って迎えられたが、結局デフレ脱却には至らず、本丸であった「成長戦略」はついに不発だった。その結果、現状は上の経済分析の言うとおりなのだ。

 公の責任を負わない、負えない位置にいる人間が、キングメーカーとして大きな力を発揮し、周囲はその機嫌を損ねないように行動する。そこではアベノミクスや対ロシア外交の失敗を率直に検討することは許されず、そうした不健全な政治の世界が、安倍の力が衰えるまで続く。―――
 そう考えるなら、酷な言い方になるが、安倍晋三の不慮の死は、日本の政治にとって悪いことだけではなかったと、筆者は思う。

(おわり)

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朱夏 2 [本の紹介・批評]

▼営城子で綾子たちは、開拓地から逃げてきた開拓団の人びと一緒に、コンクリートの倉庫の床にむしろを敷いて暮らすことになった。そこが難民収容所だった。ほんの小皿一杯分の赤いコウリャン粥が朝と夕に配給され、それが大人の一日分の食事だった。「生きるにはあまりに少なく、死ぬにはいささか多い量だった」と宮尾登美子はのちに語っている。
 倉庫に入って4,5日すると、ターピンズ、ターピンズという言葉が聞こえてくるようになった。ソ連兵が近くこの営城子にも来るので、手持ちの万年筆と時計を出してほしいという呼びかけが、収容所の管理者からあった。
 ある日、ターピンズとは「大兵子」のことだと一目でわかるほど身体の大きなロシア兵と、満服を着た通訳の男が、倉庫に入ってきた。「時計と万年筆を今すぐここへ出してください。出さなければ荷物を検査して、もし隠していたなら全員銃殺すると言ってます」と、通訳は言い、入口に近い方から調べ出した。ターピンズは、マンドリンという銃をガチャガチャいわせている。
 そのとき電気がぱっと点いた。するとターピンズはポケットから煙草を取り出し、電球に近寄り、背伸びして電球に煙草の先端を付けてスパスパと吸い、それを見て綾子は唖然とした。その煙草を差し上げている腕には、腕時計が7,8個もずらりとはめられているのが見えた。ターピンズは煙草に火がつかないのに苛立ち、怒り出し、通訳が賢明になだめているうちに難民の荷物を調べる根気をなくし、やがて引き上げていった。

 ある日、綾子夫婦は市場に出かけた。金を持たず、何ひとつ買えるわけではなかったが、収容所の外に出てわずかな自由を味わいたかったからである。
 満人の男が寄ってきて、早口で綾子にしゃべりかけてきた。複雑な満語は分からないが、「ジンジャン(進上)」という言葉とともに幾度も背中の娘を指しているのを見て、綾子は大声でダメッ!と叫んだ。娘を売れと言っているらしい。人込みを掻き分け速足で歩きながら、要は、近頃日本人がよく子供を売るそうだ、満人の百姓でも商売人でも皆日本の子供を欲しがるそうだ、と言った。
 その後綾子は、いま子どもを売るといくらになるかと考えている自分に、気づくことが幾度かあった。開拓団の中には、子供の幸福を願って満人に預ける人も多いと聞けば、子どもを手放すのは案外たやすいのではないか、とも思った。しかし綾子は、子どもを手放す理由のすべてが、自分の舌と胃袋を満足させることにあることにも気づいていた。

▼宮尾登美子の小説『朱夏』は、食べ物も着る物もなく、希望もなく、人間関係を含めひたすら耐える難民の日常生活を描いている。主人公が収容された収容所が誰によって運営され、それはどのような組織だったのか、ということは読んでいても分からない。男たちは交替で炭坑に潜って炭坑夫として働いたという記述があるから、営城子の日本人経営の炭鉱会社が難民たちを受け入れ、企業活動を続けていたのかと想像するが、はっきり理解できるわけではない。宮尾の関心はそのようなところにはなく、食べることに必死で、それ以上のことがらに気を回す余裕など、まるでなかったからだろう。
 そうした毎日を送る難民にとって、生きて祖国に帰りたいという思いが唯一の希望、唯一の支えだったのではないかと想像されるところだが、実際は少し違うらしい。小説の中で宮尾は次のように書いている。
 《外地の日本人たちが引き上げに希望を託すようになったのはずっとのちのことで、この時点では外夷に踏みにじられた日本へ帰りたいと考えるのが無理、と了見していたところが皆にはある。》
 《この時期にはまだ引き上げ、という言葉はおろか、内地の話題などみじんも聞かれず、満州全土に置き去られた日本人は、その日その日を、ただ目的もなく生きているというだけではなかったろうか。》
 「この時点」、「この時期」とは、「終戦からおよそ二カ月」の頃、つまり昭和20年の秋である。しかし越冬の時期になると、綾子の中で、生きて日本に帰り、もう一度親たちに会いたいという思いが強く芽吹いてきた。そして「季節が少しずつ移り、固く固く緊まったものの凍結もわずかながらゆるみはじめたと感じる日々が増えてきたころ」、春になったら引き上げが始まるかもしれない、という話が伝えられた。
 難民たちは六月に営城子から隣の九台という町の旧関東軍の兵舎に移り、そして八月末、新京さして全員出発という正式連絡があった。新京で順番待ちをして錦州近くの葫蘆島(ころとう)へ移動し、そこから船に乗り、佐世保に上陸するのである。佐世保から国鉄を乗り継いで岡山に行き、ここから連絡船で四国に渡る。以下は、小説の最終部分である。

 《乗り換えの岡山駅が近づき、網棚からリュック代りの麻袋をおろす要に、綾子はふと、「今日は何日だったっけ」
と聞いた。暦も時計もなかった暮しから普通の生活にゆっくりと戻って来つつある感じがあり、それに対して、
「九月二十一日。昭和二十一年」と要は正確に答え、
「去年四月に渡満してからちょうど一年半」といった。
 実際にはたった一年半だったのかと思いつつ、綾子はこの五百三十日余は人間一人の一生に匹敵する長さだとしみじみ思いながら、胸の奥深く息を吸い込んで立ち上った。》

▼満洲への開拓団(当時は「満蒙開拓団」と呼ばれた)の派遣は、多くの関係者のさまざまな思いや利害が交差する中から生まれた。以下の記述は全面的に『満蒙開拓団』(加藤聖文著 岩波書店 2017年)という研究書に拠るのだが、「満蒙開拓」という昭和史の出来事について、少し考えてみようと思う。宮尾登美子がいわば地を這う虫の視点から記述した歴史の出来事を、もう少し高い位置から視野を広げて見てみたい。まず、「満蒙開拓」に深く関わった三人の男の名前を挙げる。

 「満蒙開拓の父」といわれた加藤完治(1884~1967)は、求道的な農本主義者であり、茨城県友部で「日本国民高等学校」を主宰し、農村の青年教育にたずさわっていた。しかし時代は昭和の初期であり、経済恐慌が農村を襲い、農民は貧窮にあえぐ。加藤の教え子の多くは農家の二、三男であり、自分たちには耕す土地がないと、加藤に訴えた。
 石黒忠篤(1884~1960)は、農林官僚出身の農政の実力者である。戦前、農林次官や農林大臣を歴任し、小作争議調停、自作農創設維持、農村立て直しのための農山漁村経済厚生運動などに腕を振るった。
 石黒の目指した政策は、昭和の初期までは地主層の影響力が強かった政友会の反対で実現しなかったが、満州事変以降、政党の力は凋落し、石黒は農政に力を発揮することができた。戦後の「農地改革」も、石黒の農村改革路線の延長上にあった。
 東宮鉄男(とうみやかねお 1892~1937)は、関東軍大尉として1928年の張作霖爆殺事件を現場で指揮した男である。事件後、国内に転属していたが、満州国建国とともに満州国軍政部の顧問となった。満州国を創り出したことで、関東軍は反満抗日ゲリラの激しい抵抗に遭い、極東ソ連軍と直接国境を接することになったため、対ソ戦にも備えなければならなくなった。そこで東宮は、日本人武装移民によって穴を埋めようと考えた。

(つづく)

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朱夏 [本の紹介・批評]

▼筆者は小説をあまり読まない。これという理由があるわけではないが、自宅に「ツン読」している書物も、圧倒的に小説以外が多い。
 二年前、「新型コロナ」の緊急事態宣言が出され、人と人の接触をできるだけ「自粛」するよう、政府から求められた時期がある。わが市の施設も臨時休館となったため、仲間と囲碁を打つこともできず、テニスクラブも臨時閉鎖でテニスもできず、生活のリズムが取れずに困ったが、思いついて長めの小説を二つ読んだ。
 ひとつはアレキサンドル・デュマの『モンテ・クリスト伯』(大久保和郎訳)である。子どものころの愛読書『巌窟王』(講談社の世界名作全集の内の一冊だった)を、元の形でそのうち読んでみようと文庫版6冊を買い込んであったのを、取り出して読んでみた。
 子ども向けの『巌窟王』は、思った以上に原作の名場面を忠実に翻訳していた。たとえばモンテ・クリスト伯が恩人の船主を経済的破綻から救い、夢ではないかと喜ぶ姿を人知れず確認して小舟に乗り込む場面や、山賊ルイジ・ヴァンパに囚われたアルベールを救いにカタコンベに入っていく場面などは、台詞まで記憶どおりであり、おおいに満足したものだった。
 反面、デュマの原作のご都合主義が鼻に付き、現代の大人の読み物としては無理だな、とも思った。たとえばモンテ・クリスト伯とブゾーニ法師と謎のイギリス人は、同じエドモン・ダンテスの変装で誰にも見破られないというのだが、それはかなり無理な設定だろう。しかしこの一人四役は物語を成立させる大事な要素なので、動かすことは難しい。

 もうひとつは、村上春樹の『ねじまき鳥クロニクル』である。村上春樹については小説をあまり読まない筆者には珍しく、『風の歌を聴け』以来『ノルウェーの森』あたりまでいくつか読んでおり、その小説世界の心地よさを知っていた。
 『ねじまき鳥クロニクル』が出版されると、村上春樹はついにモラトリアムの世界を出て、「歴史」と関わるようになったというような書評があったように思う。ノモンハン事件や満洲帝国の崩壊が、小説の中に取り込まれているという話だったので、ぜひ読もうと思ったのだが、そのときは別のことで手いっぱいで、本を購入して「ツン読」したまま時間が過ぎ、忘れていた。
 「新型コロナ」のおかげで二年前に『ねじまき鳥クロニクル』を読み、いわゆる「村上春樹ワールド」の心地よい感触は健在であり、力の籠った作品だとは思った。しかし占い師や超能力者を登場させて小説世界に取り込んだ歴史の事件は、一つのエピソード以上のものではなく、作品全体の構造とどう関わるのか、明瞭とは言いがたい。話の発端である失踪した妻は、千二百ページ近い終末に至っても失踪したままであり、小説は残念ながらまとまりに欠けているという印象だった。

▼最近、宮尾登美子の小説『朱夏』を読んだ。
 高知県で生まれた宮尾登美子は、昭和19年に17歳で結婚し、翌年、つまり昭和20年3月に生後50日の長女を負ぶって満洲に渡った。夫が、満洲国開拓民の子女のために建てられた小学校の教員として赴任したからである。
 国内とはまったく異なる満州での生活と敗戦後の収容所での生活を経て、昭和21年9月、彼女は1年半ぶりに夫と娘とともになんとか帰国を果たす。登場人物の名前は変えているものの、この時の体験を描いた長編小説が、『朱夏』である。

 主人公の綾子は「芸妓娼妓紹介業」者の娘として生まれ、望むことはほとんどかなえられる環境で、のびのびと育つ。しかし綾子は、父親の職業への嫌悪感から家を離れようと密かに代用教員を志望し、山の小学校の産休教員の代わりとして採用される。そこで夫の要と知り合う。要は片目が弱視のため、兵役を免れていた。
 当時、満州に開拓団を送ることが、国家的事業として行われていた。高知県からも「大土佐開拓団」が満洲帝国の首都・新京(現在の長春)近くの飲馬河(いんばほう)に送られ、開拓団の子弟の教育のために「飲馬河小学校」がつくられた。その小学校の教師の一人として、夫は家族を連れて赴任したわけである。
 開拓団の家は、移民の世話をしていた満洲拓殖株式会社(通称「満拓」)が現地の満人の家屋を買収して配分したもので、学校の建物も40~50人の大家族の住んでいた家屋だった。

 飲馬河村に到着したのは夜だったので分からなかったが、翌日見ると、学校も近くの住民の家もすべて土でできており、草木はなく、視線の届く限り赤茶けた土一色の世界だった。
 《夕日の沈むのを見たのは到着後三日目で、西方の地平線に巨大な太陽が朱色に燃えながらずしんずしんとまるで地響きをたてるように落ちてゆき、そしてみるみるうちに球形が半円になり櫛形になって、あっとおもう間もなく奈落の向こうに消えていった。内地の落日は緩やかでいつまでも夕やみにたゆたっているが、ここでは陽足極めて早く、落ちた途端に濃い闇がただちに下りてくる。闇とともに寒さもひしひしと迫ってくるなかで、綾子は初めて見た満洲の夕陽の荘厳さに打たれ、しばらくその場を動くこともできなかった。》
 綾子は、水の乏しさや汚さ、かまどで燃やすコウリャンの根の燃えにくさに苦労する。また、満人の住居には便所がなく、彼らは畑でしゃがんで用を足すのだと聞いて、閉口する。だが、土地の満人や雇った苦力との接触を通じて、少しずつ満洲の生活に慣れていく。

▼学校が短い夏休みに入ってまもない8月10日ごろ、苦力が、「ロシア攻めてくる。満人皆いってる。日本人皆殺しいってる。奥さんすぐ逃げたほうがよい」と言った。綾子は、「そんな出たらめを言いふらすと承知しませんよ」と声を荒げたが、要に話すと、夫は低い声で、「ソ連の参戦はどうやら事実らしいよ」と言った。
 8月18日、外から駆け込んできた要が、喘ぎあえぎ、「日本が無条件降伏した」と言った。綾子は「嘘」と叫び、さっと顔から血の引いていくのが自分でもわかった。
 《目の前が真っ暗になり、立っている大地が四分五裂してゆく感覚のなかで、こんなことってあるだろうか、と激情が噴きあげてくる。いまのいままで誰がいったいこんなみじめな結果を想像し得ただろうか。旗色が悪くても最後の勝利を信じて日本人の誇りを持ちつづけてきた身にとって、これはあまりにも納得しがたい残酷な宣告であった。》
 要に続いて駆け込んできた若い教師も、「最後の一兵まで戦うはずやったろうが。まだ俺たちがここにおるのに、なんで無条件降伏じゃあ」と泣きながら絶叫し、部屋の中を走り回った。
 開拓団の一部が満人の暴徒の集団に襲われたという話が流れ、9月8日に綾子たちの家や学校も襲撃されるが、あやうく隣家の満人の家の大きなかまどの中に隠れて難を逃れた。綾子たちは持ち物もなく汽車に乗りこみ、混乱の中を炭鉱街の営城子に移った。

(つづく)

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