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『ソ連獄窓十一年』 [本の紹介・批評]

▼『ソ連獄窓十一年』(前野茂 講談社学術文庫 1979年)という本を読んだ。著者・前野茂は旧満洲帝国の高官で、帝国崩壊後ソ連軍に囚われ、ソ連の監獄で十一年を過ごし、昭和31年にようやく帰国を果たした。帰国後、半年間の入院生活を送り、その後の自宅療養の期間に体験の執筆を始め、4年間かけて書き上げたのがこの本である。春秋社から『生ける屍(しかばね)』の書名で出版(1961年)され、その二十年後に文庫本4冊として再版された。
 筆者がこの本を入手したのがいつごろなのか、記憶がない。そのうち読むこともあるだろうと軽い気持ちで購入し、例によって「積んどく」してきたものの一つだが、最近になって読む気になったのは、宮尾登美子の『朱夏』にはじまり、「満州国」や「満蒙開拓団」について少し調べたことによる。その一部は、このブログにも書いた。
 もう一つは、松岡和子という翻訳家に関係している。蜷川幸雄が主宰する劇団の「ジュリアス・シーザー」を観て、その斬新な舞台美術に感心したが、松岡和子の翻訳が台本に使われていると知り、どういう人なのかと興味を持った。聞けば、彼女はシェークスピアの全作品を翻訳しているというし、現役の演出家や役者がシェークスピア劇を舞台に掛けるとき、彼女の訳を選ぶということは、言葉が現代の日本人に違和感なく生きているということにちがいない。
 そんなことがぼんやり頭にあったのだが、今年の4月から5月にかけて、各界の有名人が自分の経歴を語る朝日新聞の連載ものに松岡和子が登場し、彼女の父親が前野茂だと知った。自分の手元に前野の本があることを思い出し、読む気になったというわけである。

▼1945年8月、満洲帝国は崩壊した。
 満洲帝国の文教部の次長だった前野茂は、首都の新京(長春)の官舎に住んでいたが、8月9日の未明、空襲のサイレンで目を覚ました。飛行機の姿は見えないが、爆音と爆発音が遠くに聞こえ、ラジオニュースは、米軍機の来襲らしいと報じた。
 武部総務長官が各部の次長を招集し、ソ連が午前零時に宣戦布告し、ソ連軍が満洲の西、北、東の三方面から侵入を開始したと言った。前野は職場に戻り、国境付近だけでなく、満洲全地域が激烈な戦場になることを予想し、大学や各地の初等中等学校がその土地の実情に合わせて判断し行動できるように、予算を措置し、通知を送った。
 翌10日、前野は午前7時に出勤し、幹部とともに諸情報を検討し、対策を相談した。職員は日本人も満人も元気いっぱいで一人の欠勤者もなく、志気高く、「13年に及ぶ民族協和の建国運動は、相当の効果をあげているな」と、前野は心を強くした。
 しかし午後に行われた次長会議で、事情は一変する。総務長官が顔面蒼白で、軍司令部に呼ばれ指示された、と次の内容を伝えた。
 「関東軍司令部は新京から通化市に移転する。これにともない皇帝と満洲国政府は通化省大栗子(だいりつし)に移転せよ。政府の新京出発はおおむね本日の午後6時として準備せよ。大栗子は山間の街で官庁を収容する建物もないから、政府各部局は必要最小限の人員で構成するよう配慮し、家族の同道は許さない」。通化も大栗子も満洲南部の朝鮮との国境に近い場所である。
 青天の霹靂。皆、あまりのことにただ茫然として聞いていたが、その後口々に反対の意見を述べた。関東軍は最悪の場合、通化市を中心とする山岳地帯で持久戦に入る、という計画があることは聞かされていた。しかしそれはあくまでも「最悪の場合」である。首都・新京の放棄は、最後の最後でなければならない。開戦後わずか二日目で早くも新京を捨てて、山間の小部落に首都を移すとは、それこそ満州国の実質的崩壊を意味するものではないか。満州国の滅亡が必至であるなら、自分たちは満州国とともに生まれ成長した新京で、運命を共にしたい―――。
 しかし皇帝が大栗子に移ることが確定し、満人の大臣たちがそれに随伴するのに、日系の政府幹部が行かないということで済むのか。議論の末、総務長官と戦争遂行に直接かかわりを持たない部の次長が随伴することに決まり、文教部次長の前野も同僚たちと別れ、通化へ移ることになった。

▼鉄道ダイヤは極度に混乱しており、前野茂はようやく8月14日の昼に通化駅に到着した。
 15日、日本の無条件降伏のニュース。
 17日、大栗子で皇帝の退位と満州国解体に関する重臣会議が開かれ、反対はなく、皇帝の承認を得て正式に決定された。溥儀皇帝は飛行機で通化から平壌経由で東京に飛び、日本に亡命することになっていると、総務長官は説明した。(しかし皇帝を乗せた飛行機はなぜか奉天飛行場に着陸し、ここでソ連軍に逮捕された。)
 22日、全満洲の日本語放送が、ソ連軍の命令により正午に途絶える。
 24日、ソ連軍、通化に入城。

 満洲帝国の満人幹部の中には、国民党と密かに関係を持っている者も多くいたらしい。それが中国人の処世術というものだろう。そのうちの一人とおぼしき満人幹部は、前野に言った。「君たち日本人は心配しないでよろしい。日本人がこの十数年間に満州でやったことについては中国人はよく知っている。いろいろ無理な点もあったが、日本人は確かに満洲の人民の福祉のためによいことを沢山やってくれた。この土地にこんな立派な都市をいくつも建設し、鉄道、道路を敷設延長し、通信機関を整備し、またこれだけ沢山の大工場を設けたり、学校、病院を建てたりしていることを、蒋介石が見たら、きっと君たちを理解すると信ずる。君たちは決して殺されたりするようなことはないから安心しておれ」。
 国民党の軍隊が満洲を占領していたなら、この満人幹部の言うように、満州国の資産は秩序正しく中国政府に引き継がれ、在満日本人の引き上げも安全に行われたにちがいない、と筆者は思う。しかし不幸にして満洲を占領したのはソ連軍であり、彼らは満洲の資産を略奪してソ連に持ち帰ることと、日本人捕虜を労働力としてソ連に送り込むこと、そして国民党軍の行動を妨害し、八路軍を援助することを目的としていた。
 9月半ば、通化国民党がその看板を掲げ、同じころ八路軍と紙に書いて貼り付けた車を、街中で見かけるようになった。ソ連軍は通化にあった日本軍組織を解体し、その武器を八路軍に与え、八路軍はじきに通化を支配するようになる。

 11月26日 通化で満州国の旧要人の逮捕が本格的に始まる。28日、前野は八路軍に逮捕され、安東市の留置場に入れられた。
 12月の末、ソ連軍に引き渡され、朝鮮の平壌に移動させられた。

▼前野は、通化で苦労を共にした人びとの消息を気にかけていたが、「通化事件」のことを帰国して初めて聞き、大きな衝撃を受けた。「事件」は前野が身柄をソ連軍に引き渡され、平壌に移されたあとに起きた。前野が聞いた「事件」の概要を、以下に記す。
 八路軍が日本人居留民会の中心メンバーを逮捕し、日本人への圧迫を強化するのに反発した通化の日本人は、山中にひそんだ元師団参謀長の藤田大佐と連絡を取り、正月元旦に蹶起し、八路軍を急襲・撃滅し、逮捕された人びとを奪還する計画を立てた。しかし八路軍はスパイを使って早くから計画を探知し、襲撃を手ぐすね引いて待っていた。
 日本人が行動を開始すると、八路軍はまず拘留している日本人を機銃掃射で殺害し、襲撃行動に加わった日本人部隊を包囲殲滅した。そして通化在住の16歳以上の日本人男子全員を逮捕し、戦時中に造られた数個の防空壕に押し込んだ。狭い防空壕に立錐の余地もなく押し込められた人びとは、直立したまま、幾日ものあいだ、一滴の水も一片の食物も与えられず、全員が餓死または窒息死した。
 藤田元大佐も捕虜となり、数日間通化市の目抜き通りの商店のショーウインドーに生きたまま晒された末、処刑された。

 前野の知人たちの幾人かは、市外に逃げたり自宅の天井裏や床下に身を潜めて難を逃れたが、この事件により命を落とした者も多かった。

(つづく)

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『フクシマ戦記』 [本の紹介・批評]

▼『フクシマ戦記』(船橋洋一 文藝春秋 2021年)は、前回のブログを書くにあたって参照した本の一つであるが、印象に残っていることをいくつか書き留めておきたい。

 2011年3月の東日本大震災で巨大な津波に襲われ、全電源を喪失した福島第一原発では、原子炉の暴走を止めるために、現場では注水による冷却に全力を注いだ。注水の方法として、初めは機動隊、消防、自衛隊のポンプ車やヘリコプターからの放水が行われたが、主要な方法として使われたのは、連結送水口を使った注水と、ドイツのプツマイスター製のコンクリートポンプ車による注水だった。このコンクリートポンプ車は、折りたたんだアームを伸ばすと58メートルにもなり、アームの先から生コンの代わりに水をピンポイントで注入することができた。プツマイスター社の技術者トマス・カイルが現場に来て、運転から修理の仕方まで指導した。
 このプツマイスター製のコンクリートポンプ車は、チェルノブイリの原発事故の際も活躍した。事故の直後、ソ連政府はヘリコプターから5千トンの砂や土などを投下して熱を逃がし、放射能を緩和したあと、上からコンクリートを流し込み、原子炉をコンクリートの「石棺」の中に封じこめることにした。
 コンクリートポンプ車10台の運転席に、放射能を遮るための重さ4トンの鉛のフードをかぶせ、窓やビデオカメラにも鉛を貼った。遠隔操作するためにビデオカメラも取り付けた。
 《その操縦の訓練のため、ソ連から何十人もの人々がシュツットガルトに送り込まれた。全員、死刑囚だった。この作戦に従事すれば釈放する、と約束されてきたのだった。/すべてが極秘作戦だった。彼らはよく食べた。ビールをラッパ飲みし、ソーセージを貪った。カイルは彼らの訓練係の一人だった。
 3カ月近く続いた石棺作戦は成功した。カイルはほっとしたが、ずいぶんとあとになって、恐ろしい話を聞いた。彼らは全員、被爆のせいで3年以内に死亡した、と。》

 ロシアのウクライナに対する「特別軍事作戦」でも、死刑囚や懲役囚が「活用」されているという話を聞く。プリゴジンというプーチンと親しい新興財閥の一人が、「ワグネル」という名の「民間軍事会社」を持っていて、各地の刑務所から釈放をエサに囚人を集め、傭兵として戦場に送り出しているという。ヒソヒソ声で語られる秘密の話ではなく、表通りで報じられるニュースだというところが恐ろしい。筆者はロシア人について何も知らないのだが、その性格の内にはある意味で“合理的”に思考し、躊躇なくやってのけるという側面があるらしい。

▼福島第一原発の原子炉がもっとも危機的状況にあった3月15日の朝、吉田所長は、機械の操作や復旧に必要な最小限の人間を除き、所員に退避を命じた。650名ほどがバスに乗って第二原発へ移動し、あとに69名が残った。
 この出来事は、米国のニューヨーク・ポスト紙が公式ツイッターに、「フクシマの50人の勇敢な日本人が踏みとどまり、過熱する炉心と闘っている」と投稿したことで、一般に知られるようになった。ギター奏者のブライアン・レイが自分のツイッターで、「フクシマ50 すごい 日本の新たなヒーローたち、ホンモノそのもの」とつぶやき、英国のガーディアン紙が配信した記事によって、勇敢な「フクシマ・フィフティ」は全世界に広まった。

 しかし残った所員69人という数は、《5つの原子炉と7つの燃料プール(共用プールを含む)を相手に格闘していた現場としてみれば、絶望的に不十分であり、いずれ撤退を迫られるか、全員玉砕に追いやられるかの規模でしかない》と船橋洋一は書く。
 《米国務省担当官はこの時の東電の現場の対応態勢、なかでも従業員の数について「冗談のように少ない規模」とみなし、この数字では東電の撤退は不可避だと深刻に捉えていた。
 「このレベルの原発事故だと米国なら何千人で対処する。戦争計画のようなもので臨まなければならないところだ」と同担当官はのちに述べている。》

 危機の状況において、必要な国家態勢を冷静に考える米国の担当官と、勇敢な「フクシマ・フィフティ」の美談にとどまりやすい日本人の落差は、根の深い問題かもしれない。危機のあいだ現場に踏みとどまったある東芝の技術者は、そこに先の戦争につながるものを見、日本人はああやって自分たちを追い込んで玉砕するのだ、と述懐している。

▼この3月14日夜から15日にかけての危機的状況にあって、菅直人首相が早朝東電本店に乗り込み、東電幹部に10分間近い演説をしたことはよく知られている。「……日本がつぶれるかもしれないときに撤退はありえない。60歳以上は現地に行って死んだっていいとの覚悟でやってほしい。オレだって行く。われわれがやるしかない。撤退はありえない。撤退したら東電は必ずつぶれる……」。
 この時の菅首相の演説をTV電話で聞いた福島第一原発の現場の所員たちは、強い反感を覚え、また菅の行動を批判的に見る人びとは、その間現場の作業を妨げただけだと非難した。吉田所長は「調書」の中で、自分たちは「撤退」なんて言葉は一言も使っていない、「誰が逃げたんだと所長は言っている、と言っておいてください」と強く反発している。
 しかしこの「撤退」問題は、言葉の言い間違い、聞き間違いというレベルで問題にしたあげく、忘れ去って良い問題ではない。「幸運」に恵まれなければ、日本人はこの問題に否応なく直面しなければならなかったはずの、大問題なのだ。
 国会事故調のヒアリングで、弁護士の野村修也は、「退避について、全員が退避したいと仮に申し出があった場合に、政府には退避するなという命令を発する権限はあるんでしょうか」と質問している。海江田万里(経済産業相)は、こう答えている。「それは、命令はないと思います。命令は。ですから、お願いするということでございます。頑張っていただけないか。私はそのような言い方をずっとしてきたつもりであります」。

 細野豪志(首相補佐官)は、この時の菅の行動について次のように語ったという。「ただ、やっぱり東電の作業員が死ぬ可能性があって、(自分は)死ねとは言えなかったんですね。そこは菅さんにかなわなかった。菅直人は、間接的にだけど、東電の作業員は死ねと、死んでもいいと、言ったんです。一人の命より国家の重みのほうがあると言ったんだと思いますよ。そういう表現は使わなかったけど。私は国家の重みと作業員の命というのをきちっと天秤にかけられなかった。それぞれの個人の人生とか家族とか、そっちにやっぱり自分の中で行ってしまった弱さですね。彼(菅直人)はまったくもってヒューマニストじゃないんです。リアリスト。」
 「この局面でわが国が生き残るためには何をしなければならないのかという判断は、これはもう本当にすさまじい嗅覚のある人だと思っているんです。……撤退はありえないし、東電に乗り込んで……そこでやるしかないんだという判断は、日本を救ったと今でも思っています」。
 《菅に批判的な官僚たちも、直接危機対応に取り組んだ人々は、この点に限っては、似たような評価を下す》と、船橋は書いている。

(おわり)

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『朝日新聞政治部』6 [本の紹介・批評]

▼鮫島浩はこの事件について考えたことを、『朝日新聞政治部』の中で二つ述べている。一つはもちろん記事の評価についてである。
 担当した二人の朝日記者は、東電の隠蔽体質を批判して、福島第一原発の現場事務所と本店を結ぶテレビ会議の映像を公開させた実績を持つ。2012年9月5日の紙面に、不十分ながら公開された東電テレビ会議についての報道が載っているが、リードには次のような言葉が付されていた。
 「原発暴走中と思えぬ緩慢な対応。戦略性のない物資補給。現場への理不尽な要求。東京電力が開示した原発事故のテレビ会議記録から見えたのは、失策を重ね、事態を悪化させる、人災の側面だった」。
 公開された映像には、吉田所長が所員の退避を命じたあたりの音声が付いていなかった。「吉田調書」を入手して、その場面で吉田所長が「待機命令」を出していたことが判明し、東電が意図的にその事実を隠していた疑いがあったと自分たちは考えたのであり、吉田所長の「待機命令」に焦点を当てたことは「合理的」だった、と鮫島は今も主張する。
 だが繰り返しになるが、原子炉の制御が不可能となる危機的状況にあって、吉田所長の頭にあったのは所員をいくらかでも安全な場所へ「退避」させることであり、「待機」させることではではなかったはずである。だから事前の打ち合わせに沿って所員に「退避」を命じ、所員は「命令に従って」バスに乗ったのだ。公開された資料を読むかぎり、筆者には「所員が命令に背いて職場を放棄した」という情景は、思い浮かばない。

 鮫島チームのスクープ記事は、「吉田調書」の言葉尻にこだわって、誤った情景を描き出していると筆者は考えるが、現実の福島第一原発の事故はその後どうなったのだろうか。
 原子炉や燃料プールを冷却するための注水活動は、その後も必死で継続されたが、それが
本格的に行われたのは、3月22日からである。ドイツ製のコンクリートポンプ車が運び込まれ、この日、4号機の燃料プールに注水した。このコンクリートポンプ車は、折りたたんだアームを伸ばすと58メートルにもなり、アームの先から生コンの代わりに水をピンポイントで注入することができた。それから約3か月間、このコンクリートポンプ車の注水が、原子炉の暴走を抑え続けた。(『フクシマ戦記』船橋洋一)
 政府事故調のヒアリングで、吉田所長は機動隊、消防、自衛隊の行った初期の放水活動について、量的にわずかであり、あまり効果がなかったと厳しい評価をしている。それに対してドイツ製のコンクリートポンプ車の注水は、効果的だったと評価した。吉田所長が陣頭指揮した連結送水口を使った注水と、このコンクリートポンプ車の注水だけが、原子炉の冷却に有効に働いた。(『フクシマ戦記』)
 しかし、福島第一原発の現場の必死の闘いにもかかわらず、原子炉の暴走を止められず、「東日本壊滅」となった可能性がなかったわけではないだろう。そうならなかったのは、ただ「幸運」だったからだと言うしかない。

▼鮫島浩がこの事件の体験から述べているもう一つは、インターネットの世界が既存メディアをしのぐ力を持ってきた現実を、自分を含め、朝日新聞があまりにも軽視していたという反省である。
 スクープ記事のあと、「日本を貶めるのか」という批判がネット上や週刊誌に見られたが、「一部右派のイデオロギー的な主張にとどまっていた」。しかし、「命令違反と言えるのか」、「誤報ではないか」という批判が、少しずつネット上で広がりはじめた。そして8月5日、朝日新聞が「慰安婦問題を考える」を掲載したことで猛烈な「朝日バッシング」が起き、慰安婦報道と何の関係もない「吉田調書」も、この嵐の中に呑み込まれてしまった。
 9月11日、社長は記者会見を開き、「吉田調書」に関する記事を「誤報」として取り消し、関係者を処罰すると表明した。鮫島は記者職を解かれ、「知的財産室」に移り、ネット上に朝日新聞の記事が無断使用されていないかチェックする仕事を与えられた。それまでインターネットとは無縁に暮らしてきた彼は、そこで初めてネットの世界の現実に触れて驚く。
 鮫島は、朝日新聞に対する多くの罵詈雑言、とくに「吉田調書」を報じた記者に対する誹謗中傷を目にする。それらに眼を通しながら気づいたのは、「そうか、朝日新聞はこれに屈したのか」ということだった。
 《朝日新聞はネット言論を軽視し、見くだし、自分たちは高尚なところで知的な仕事をしているというような顔をして、ネット言論の台頭から目をそむけた。それがネット界の反感をさらにかきたて、ますますバッシングを増幅させたのだ。すでに既存メディアをしのぐ影響力を持ち始めたネットの世界を、私はあまりに知らな過ぎた。》
 鮫島は個人的にツイッターのアカウントを開設し、毎朝一本つぶやくことにした。
 《反応はまったくなかった。リツイートも「いいね」もほとんどなく、1か月たってもフォロワーは数十人にとどまった。厳しい世界だと思った。渋谷の雑踏で、一人つぶやいている気がした。読者に届くかどうかをさして考えず、読者からの反応も直接受けない新聞記者という仕事がいかにぬるま湯だったかを痛感した。》

 鮫島は、職務外のツイッター発信をするようになってから、批判的な眼差しで朝日新聞を読むようになり、その記事が「ネット情報に比べて早さにも広さにも深さにも劣っていることを実感した」と言う。しかしそこまで自信を喪失することもないだろう。
 たしかに鮫島チームのスクープ記事批判の火の手をあげ、朝日新聞の社長を「取り消し」と謝罪に追い込んだのは、「ネット言論」の力だったであろう。しかしその元にあったのは門田隆将の「紙の言論」であり、大勢を決したのは、産経新聞、読売新聞をはじめとする新聞各社の、朝日のスクープ記事に対する批判だったはずだ。
 鮫島は、朝日新聞社内に委縮ムードが広がり、「国家権力側の逆襲におびえ、抗議を受けないように無難な記事を量産しているように見える」と書く。そういう面もあるのだろう。しかし森友学園が格安で国有地の払い下げを受けていたというスクープや、財務省の「森友」決済文書書き換えの事実を暴くスクープなど、鮫島の後輩たちが委縮せずに頑張っていることも認めなければならない。

▼米国の「中間選挙」では、直前の予想に反して民主党がある程度ふんばりを見せたらしい。しかしそもそもトランプが力を持つ背景には、米国の分断された社会と「ネット言論」の力がある。新聞やTVなどのオールドメディアの力が低下するのと並行して、「ネット言論」が盛り上がり、それがトランプに力を与えているのだ。
 インターネットには市民どおしが繋がり、それが信じられないほどの力を発揮する側面があるが、また、社会から「権威」や「正統」を喪失させ、社会を混沌に投げ込む力も併せ持つ。オールドメディアと「ネット言論」を、人びとがいかに賢く取捨選択し、使いこなしていくか、それが問われているのであり、米国においていま試されているのだ。

(おわり)

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『朝日新聞政治部』5 [本の紹介・批評]

▼2014年8月5日、朝日新聞は「慰安婦問題を考える(上)」という記事を、見開き2面を使って特集した。「朝日新聞の慰安婦報道に寄せられた様々な疑問の声に答えるために、私たちはこれまでの報道を点検しました。その結果を皆さまに報告します」というのが、記事の趣旨である。
 具体的には、「朝日新聞に寄せられた疑問の声」を五つの項目に整理し、それに答える形をとっているが、「吉田清治の証言」を「裏付けが得られず虚偽と判断」して関連記事を取り消したほかは、おおむね「朝日」の従来の主張で問題がないとするものだった。「吉田清治の証言」とは、日本の国家権力の末端にいた吉田が、済州島で朝鮮人女性を慰安婦にするために、“奴隷狩り”のような方法で連行したという「証言」だが、秦郁彦の現地調査以来、日本の論壇ではデタラメと見なされてきたしろものである。
 しかしこの特集には、朝日新聞がデタラメを報じた記事を、なぜ20年間批判されながら取り消さなかったのかという点について、何の説明もなく、謝罪の言葉もなかった。
 翌日8月6日の「慰安婦問題を考える(下)」は、「日韓関係はなぜこじれたか」という解説記事に、有識者5人の発言で検証を締めくくっている。

 この2日間の朝日新聞の「検証記事」は、「朝日バッシング」の嵐を引き起こした。とくに「朝日」で連載中の池上彰のコラムがこの問題を取り上げ、「朝日」の対応に疑問を投げかけたところ、掲載を拒否されたという事実が発覚すると、「朝日バッシング」の嵐はいっそう強まった。
 当時の「朝日バッシング」の様子をこのブログでも記録している(2014年10月5日)ので、再掲する。

 《「事件」発生から2か月が経つが、騒ぎはなかなか収まらない。朝日新聞が過去に行った「従軍慰安婦」に関する報道を検証し、吉田清治の「証言」に関する記事を取り消すと発表したのに対し、朝日新聞の誤った報道が日本の名誉を傷つけたという広範な批判、非難の声が上がり、続いているのだ。
 たとえば少し前の9月10日の新聞紙面を見ると、「文藝春秋」10月号の広告が出ているが、塩野七生「朝日新聞の‘告白’を越えて」、櫻井よしこ「朝日誤報を伝えないニュース番組」、平川祐弘「朝日の正義はなぜいつも軽薄なのか」などの見出しが並んでいる。同じ日に発売の「中央公論」を見ると、「朝日慰安婦報道の大罪」の見出しの下に、西岡力の論文「朝日の検証は噴飯ものである」を載せている
 さらに同日発売の「週刊新潮」は、「おごる『朝日』は久しからず」の特集だし、「週刊文春」は「追及キャンペーン第4弾」として「朝日新聞が死んだ日」の大特集を組み、また池上彰「『掲載拒否』で考えたこと」を別立てで載せている。
 他の月刊誌の多くは「朝日」非難の声をさらに高め、週刊誌は週替わりで「朝日」バッシングの記事を競っている。》

▼朝日バッシングの矛先は、慰安婦の「吉田証言」の記事だけでなく、福島第一原発の「吉田調書」の報道にも向かったということだが、筆者はあまりその記憶がない。それは筆者の関心が「慰安婦」の方にのみ向かっていて、原発事故の方になかったからかもしれない。今回、良い機会だと思い、福島第一原発の事故の記録を遅まきながら読んでみた。
 読んだのは、『死の淵を見た男――吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日――』(門田隆将 2012年12月 PHP)、『「吉田調書」を読み解く』(門田隆将 2014年11月 PHP)、『メルトダウン・カウントダウン』上・下(船橋洋一 2012年12月 文藝春秋)、『フクシマ戦記』上・下(船橋洋一 2021年2月 文藝春秋)。「朝日バッシング」問題に直接触れているのは、門田隆将の『「吉田調書」を読み解く』である。
 門田は生前の吉田昌郎に長時間のインタビューをし、その部下たち約90名にも取材して、『死の淵を見た男』を書いた。福島第一原発事故の際の男たちの闘いを「ノンフィクション」にまとめた門田にとって、朝日新聞の「所長命令に違反 原発撤退」というスクープ記事は、必死に闘った現場の人びとを貶める許しがたいものだった。
 門田は自分のブログに、5千字ほどの批判の文章を載せた。批判文は反響を呼び、ブログを読んだ「週刊ポスト」編集部から記事の執筆を依頼され、また写真誌「FLASH」には、彼がインタビューに答えた記事が載った。
 門田の批判は、朝日の記事は事実を捻じ曲げており、「反原発」、「再稼働阻止」という社の方針にあわせて都合の良い部分のみを取り上げ、真実とはかけ離れたことを真実であるかのように報道している、というところにあった。朝日の報道によって世界中のメディアが、「日本人も現場から逃げていた」と報じた。最後まで1Fに残って原子炉の崩壊と闘った人びとを、「フクシマ・フィフティーズ」と呼んで評価していた海外メディアも、今では「所長命令に違反して所員が逃げてしまった結果に過ぎない」と、評価を変えた。事実と異なる報道によって日本人を貶めるという点において、図式は「慰安婦報道」とまったく同じではないか―――。

▼6月の上旬、「週刊ポスト」と「FLASH」が発売されると、朝日新聞はすぐに週刊誌の編集部宛てに「抗議書」を送り、訂正と謝罪を求めた。「抗議書」の最後には、「誠実な対応をとらない場合は、法的措置をとることも検討します」という文言が付けられていた。
 8月18日、産経新聞が「吉田調書」を入手してスクープ記事を掲載した。「朝日」の「所長命令に違反して撤退」の記事を、全面的に批判する内容だった。
 8月30日、読売新聞が入手した「吉田調書」に基づき、「朝日」の記事を批判する報道を展開し、31日には共同通信の配信を受けて、毎日新聞や地方紙などほぼ全国の新聞に「吉田調書」問題が掲載された。いずれも「命令違反で撤退」という事実はない、という内容だった。

 朝日新聞は9月11日、木村伊量社長が記者会見を開き、「吉田調書」に関する記事を取り消し、読者と東京電力の関係者に謝罪した。また、「慰安婦問題」に関わる「吉田清治証言」を虚偽と判断し、関連記事を取り消すまでに20年もかかったことを謝罪した。
 筆者は、デタラメな「吉田清治証言」記事を20年以上放置してきたことや、池上彰のコラムの掲載拒否問題、「吉田調書」の「所長命令に違反して撤退」の記事の問題が、3点セットで「バッシング」の対象とされていることは知っていた。だが糾弾のメインは、問題の大きさから言って当然「慰安婦」関連の記事であると思っていた。
 木村社長の謝罪会見の主たる対象が「吉田調書」の記事であり、「慰安婦」関連記事は従たる問題とされたことに違和感があった。

(つづく)

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