SSブログ

『ソ連獄窓十一年』 [本の紹介・批評]

▼『ソ連獄窓十一年』(前野茂 講談社学術文庫 1979年)という本を読んだ。著者・前野茂は旧満洲帝国の高官で、帝国崩壊後ソ連軍に囚われ、ソ連の監獄で十一年を過ごし、昭和31年にようやく帰国を果たした。帰国後、半年間の入院生活を送り、その後の自宅療養の期間に体験の執筆を始め、4年間かけて書き上げたのがこの本である。春秋社から『生ける屍(しかばね)』の書名で出版(1961年)され、その二十年後に文庫本4冊として再版された。
 筆者がこの本を入手したのがいつごろなのか、記憶がない。そのうち読むこともあるだろうと軽い気持ちで購入し、例によって「積んどく」してきたものの一つだが、最近になって読む気になったのは、宮尾登美子の『朱夏』にはじまり、「満州国」や「満蒙開拓団」について少し調べたことによる。その一部は、このブログにも書いた。
 もう一つは、松岡和子という翻訳家に関係している。蜷川幸雄が主宰する劇団の「ジュリアス・シーザー」を観て、その斬新な舞台美術に感心したが、松岡和子の翻訳が台本に使われていると知り、どういう人なのかと興味を持った。聞けば、彼女はシェークスピアの全作品を翻訳しているというし、現役の演出家や役者がシェークスピア劇を舞台に掛けるとき、彼女の訳を選ぶということは、言葉が現代の日本人に違和感なく生きているということにちがいない。
 そんなことがぼんやり頭にあったのだが、今年の4月から5月にかけて、各界の有名人が自分の経歴を語る朝日新聞の連載ものに松岡和子が登場し、彼女の父親が前野茂だと知った。自分の手元に前野の本があることを思い出し、読む気になったというわけである。

▼1945年8月、満洲帝国は崩壊した。
 満洲帝国の文教部の次長だった前野茂は、首都の新京(長春)の官舎に住んでいたが、8月9日の未明、空襲のサイレンで目を覚ました。飛行機の姿は見えないが、爆音と爆発音が遠くに聞こえ、ラジオニュースは、米軍機の来襲らしいと報じた。
 武部総務長官が各部の次長を招集し、ソ連が午前零時に宣戦布告し、ソ連軍が満洲の西、北、東の三方面から侵入を開始したと言った。前野は職場に戻り、国境付近だけでなく、満洲全地域が激烈な戦場になることを予想し、大学や各地の初等中等学校がその土地の実情に合わせて判断し行動できるように、予算を措置し、通知を送った。
 翌10日、前野は午前7時に出勤し、幹部とともに諸情報を検討し、対策を相談した。職員は日本人も満人も元気いっぱいで一人の欠勤者もなく、志気高く、「13年に及ぶ民族協和の建国運動は、相当の効果をあげているな」と、前野は心を強くした。
 しかし午後に行われた次長会議で、事情は一変する。総務長官が顔面蒼白で、軍司令部に呼ばれ指示された、と次の内容を伝えた。
 「関東軍司令部は新京から通化市に移転する。これにともない皇帝と満洲国政府は通化省大栗子(だいりつし)に移転せよ。政府の新京出発はおおむね本日の午後6時として準備せよ。大栗子は山間の街で官庁を収容する建物もないから、政府各部局は必要最小限の人員で構成するよう配慮し、家族の同道は許さない」。通化も大栗子も満洲南部の朝鮮との国境に近い場所である。
 青天の霹靂。皆、あまりのことにただ茫然として聞いていたが、その後口々に反対の意見を述べた。関東軍は最悪の場合、通化市を中心とする山岳地帯で持久戦に入る、という計画があることは聞かされていた。しかしそれはあくまでも「最悪の場合」である。首都・新京の放棄は、最後の最後でなければならない。開戦後わずか二日目で早くも新京を捨てて、山間の小部落に首都を移すとは、それこそ満州国の実質的崩壊を意味するものではないか。満州国の滅亡が必至であるなら、自分たちは満州国とともに生まれ成長した新京で、運命を共にしたい―――。
 しかし皇帝が大栗子に移ることが確定し、満人の大臣たちがそれに随伴するのに、日系の政府幹部が行かないということで済むのか。議論の末、総務長官と戦争遂行に直接かかわりを持たない部の次長が随伴することに決まり、文教部次長の前野も同僚たちと別れ、通化へ移ることになった。

▼鉄道ダイヤは極度に混乱しており、前野茂はようやく8月14日の昼に通化駅に到着した。
 15日、日本の無条件降伏のニュース。
 17日、大栗子で皇帝の退位と満州国解体に関する重臣会議が開かれ、反対はなく、皇帝の承認を得て正式に決定された。溥儀皇帝は飛行機で通化から平壌経由で東京に飛び、日本に亡命することになっていると、総務長官は説明した。(しかし皇帝を乗せた飛行機はなぜか奉天飛行場に着陸し、ここでソ連軍に逮捕された。)
 22日、全満洲の日本語放送が、ソ連軍の命令により正午に途絶える。
 24日、ソ連軍、通化に入城。

 満洲帝国の満人幹部の中には、国民党と密かに関係を持っている者も多くいたらしい。それが中国人の処世術というものだろう。そのうちの一人とおぼしき満人幹部は、前野に言った。「君たち日本人は心配しないでよろしい。日本人がこの十数年間に満州でやったことについては中国人はよく知っている。いろいろ無理な点もあったが、日本人は確かに満洲の人民の福祉のためによいことを沢山やってくれた。この土地にこんな立派な都市をいくつも建設し、鉄道、道路を敷設延長し、通信機関を整備し、またこれだけ沢山の大工場を設けたり、学校、病院を建てたりしていることを、蒋介石が見たら、きっと君たちを理解すると信ずる。君たちは決して殺されたりするようなことはないから安心しておれ」。
 国民党の軍隊が満洲を占領していたなら、この満人幹部の言うように、満州国の資産は秩序正しく中国政府に引き継がれ、在満日本人の引き上げも安全に行われたにちがいない、と筆者は思う。しかし不幸にして満洲を占領したのはソ連軍であり、彼らは満洲の資産を略奪してソ連に持ち帰ることと、日本人捕虜を労働力としてソ連に送り込むこと、そして国民党軍の行動を妨害し、八路軍を援助することを目的としていた。
 9月半ば、通化国民党がその看板を掲げ、同じころ八路軍と紙に書いて貼り付けた車を、街中で見かけるようになった。ソ連軍は通化にあった日本軍組織を解体し、その武器を八路軍に与え、八路軍はじきに通化を支配するようになる。

 11月26日 通化で満州国の旧要人の逮捕が本格的に始まる。28日、前野は八路軍に逮捕され、安東市の留置場に入れられた。
 12月の末、ソ連軍に引き渡され、朝鮮の平壌に移動させられた。

▼前野は、通化で苦労を共にした人びとの消息を気にかけていたが、「通化事件」のことを帰国して初めて聞き、大きな衝撃を受けた。「事件」は前野が身柄をソ連軍に引き渡され、平壌に移されたあとに起きた。前野が聞いた「事件」の概要を、以下に記す。
 八路軍が日本人居留民会の中心メンバーを逮捕し、日本人への圧迫を強化するのに反発した通化の日本人は、山中にひそんだ元師団参謀長の藤田大佐と連絡を取り、正月元旦に蹶起し、八路軍を急襲・撃滅し、逮捕された人びとを奪還する計画を立てた。しかし八路軍はスパイを使って早くから計画を探知し、襲撃を手ぐすね引いて待っていた。
 日本人が行動を開始すると、八路軍はまず拘留している日本人を機銃掃射で殺害し、襲撃行動に加わった日本人部隊を包囲殲滅した。そして通化在住の16歳以上の日本人男子全員を逮捕し、戦時中に造られた数個の防空壕に押し込んだ。狭い防空壕に立錐の余地もなく押し込められた人びとは、直立したまま、幾日ものあいだ、一滴の水も一片の食物も与えられず、全員が餓死または窒息死した。
 藤田元大佐も捕虜となり、数日間通化市の目抜き通りの商店のショーウインドーに生きたまま晒された末、処刑された。

 前野の知人たちの幾人かは、市外に逃げたり自宅の天井裏や床下に身を潜めて難を逃れたが、この事件により命を落とした者も多かった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。