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『朝日新聞政治部』4 [本の紹介・批評]

▼「吉田調書」のスクープ記事は、その後批判の集中砲火に晒され、「慰安婦報道」とともに朝日新聞社を揺るがす大騒動に発展し、「取り消し」処分を受けることになった。朝日新聞社という報道機関にとっても鮫島記者個人にとっても大問題となったこの事件を、すこし詳しく見ていくことにする。

 2014年5月20日の朝日新聞朝刊の一面トップの記事の見出しは、次のようなものだった。「所長命令に違反 原発撤退」、「政府事故調の『吉田調書』入手」、「福島第一の所員の9割」、「震災4日後 福島第二へ」「全資料公表すべきだ」。内容は、これらの見出しが語っているとおり、「2011年3月15日の朝、第一原発にいた所員の9割(650人)が、吉田所長の待機命令に違反して、10㎞南の福島第二原発へ撤退していたことが判明した。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せていた」というものである。
 第二面は、「葬られた命令違反」の見出しの下、当日の福島第一原発の状況を再現した記事である。2号機に注水できず、高熱の核燃料が格納容器の外に溶け出し、放射能がまき散らされる、いわゆる「チャイナシンドローム」の危険が現実に迫った緊迫した状況下で、吉田所長が事故対応に追われつつ、現場仕事と直接の関わりの少ない人間を退避させるために、本店と打ち合わせたり、バスを手配したりした様子が描かれている。
 吉田所長は、放射能が出てくる可能性は高いと考え、第二原発への撤退を念頭に準備させていたが、一方で構内の放射線量がほとんど上昇していない事実も重く見ていた。そして総合的に考えて、格納容器は壊れていないと判断した。「現場へすぐに引き返せない第二原発への撤退ではなく、第一原発構内かその付近の比較的線量の低い場所に待機して様子を見ることを決断し、命令した。ところが待機命令に反して所員の9割が第二原発へ撤退」してしまった。その事実を東電は隠している、というのが、見出し「葬られた命令違反」の意味である。

 このスクープ記事は、朝日新聞社内で称賛された。幹部は、社長が今年の新聞協会賞は間違いないと興奮している、と喜びの声をあげ、鮫島がパソコンを開けると、スクープを絶賛する同僚からのたくさんのメールが届いていた。世論もこのスクープを絶賛した。
 《マスコミ各社は吉田調書を入手できず、朝日新聞の独走を静観していた。》《当初の批判は、「日本を貶めるのか」という一部右派のイデオロギー的な主張にとどまっていた。》(『朝日新聞政治部』)

▼いま筆者がこのスクープ記事を読むと、いろいろな疑問が湧いてくる。
 政府が9月に「吉田調書」の公開に踏み切ったので、調書の内容を新聞が紙面で紹介した範囲ではあるが、読むことができる。それと鮫島たちの記事を併せて読むとき、新聞が「吉田調書」の中から読者にまず伝えるべきは、「所長命令に違反 原発撤退」だったのだろうかという点が、最大の疑問として浮かぶ。
 それよりも、所員を指揮して懸命に原子炉の冷却作業に取り組んできた吉田所長が、制御できない2号機を前に、「東日本壊滅」を予期し、死を覚悟したという事実の方が、よほど大きなスクープなのではないのか。
 筆者など、震災発生後に1号機や3号機の建屋の爆発のニュースを耳にしても、遠くの出来事として聞いただけで、いずれは復旧するものとなんの根拠もなく考えていた。心理学でいう「正常性バイアス」の好例だが、多くの日本人も同様だったはずで、事態の深刻さを伝える情報をどれほど目にしたか、記憶は怪しい。だから最前線の指揮官が「東日本壊滅」を覚悟したという事実は、大きなニュースであるはずなのだ。

 次の問題は、「福島第一原発の所員の9割が、所長命令に違反して撤退した」という表現が、実態を正確に表わしているかという疑問である。この表現からは、指揮官が「逃げるな」「踏みとどまって闘え」と命令したのに、部下たちは命令を無視してわれ先に逃げだした、という光景が目に浮かぶが、実際はどうだったのか。
 吉田所長は原子炉の冷却作業の指揮をとるとともに、退避の準備も事前に進めさせた。「操作する人間とか復旧の人間とか」は必要ミニマムで置いておくが、そのほかの人間を退避させるために、人数を調べさせ、使えるバスが何台あり、運転手はいるか、燃料は入っているか、バスをどこに待機させるかということまで細かく指示し、準備させている。そして3月15日の朝6時過ぎに危機が深まったと判断して、退避を実行させた。
 調書の中では質問に答え、「バスで退避させました。2Fのほうに」と短く答えている。2Fとは福島第二原発を指す。そのあと吉田は、次のように発言する。
 「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回避難して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しょうがないなと。」
 この発言のあと、次のようにも言う。「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」。
 要するに吉田所長は、部下たちが福島第二へ避難したことを、自分の指示が正確に伝わらなかったが、結果的に正解だったと肯定的に評価しているのだ。それが、「バスで退避させました。2Fのほうに」という発言に表われている。
 鮫島チームのスクープ記事が実態を離れ、誤ったイメージを読者に与えるものであったことは確かである。

▼それにしても、鮫島チームはなぜ初歩的な「ウラ取り」調査を、疎かにしたのだろうか。もしもバスの運転手に行き先を指示した総務課の職員や、バスに乗り込んだ所員たちにていねいに取材していたなら、「所長命令に違反 原発撤退」という表現が実態を誤って伝えるものであることは、明らかだったはずである。
 鮫島は、『朝日新聞政治部』の中で、待機命令を知らずに第二原発へ向かった所員もいただろうから、早めに軌道修正したほうがよいと、懸念を伝えてくる同僚もいたと書いている。鮫島も忠告に従って、説明不足や不十分な表現を補おうと動いたらしい。しかし結局そのような補足記事を載せることに、新聞社トップの了解を得ることができず、修正は実現しなかった。
 鮫島はまた、二人の記者の「反原発イデオロギー」が記事を歪めたという指摘に対して、彼らは反原発記者というよりも「東電の隠蔽体質に怒る記者」であり、東電が隠す事実を暴くことに執念を燃やす記者であって、「政治的イデオロギーを感じたことはない」と書く。
 そうだったのかもしれない。東電を批判しなければならないという記者の先鋭化した意識が、「吉田調書」の中から「命令違反」の「事実」を見つけ出し、十分な裏付け取材のないまま突っ走ったのだろう。本来、より広い視野の中で記事をチェックするべき鮫島デスクは、特ダネ発掘の誘惑に逆らえず、「記者への信頼」を自分への言い訳に、アブナイ記事を通してしまった。
 「吉田調書」を通して、東電本社や日本政府(菅首相)の対応の問題点を、政府事故調査・検証委員会の正規の報告書とは別の角度から指摘し、追及することも可能だったはずである。そうしなかったことが惜しまれるが、その責任は鮫島自身も認めているように、ひとえに「デスク」である鮫島にある。

(つづく)
 

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『朝日新聞政治部』3 [本の紹介・批評]

▼2011年3月11日午後2時46分、巨大地震が発生した。宮城県牡鹿半島から東南東130㎞、深さ24㎞の海底を震源とするもので、マグニチュード9.0と測定された。地震発生に伴ってけた外れに大きな津波が派生し、東北地方の太平洋沿岸に押し寄せた。岩手、宮城、福島の三県は津波をもろに受け、2万人近い死者と行方不明者を出した。「東日本大震災」である。
 福島第一原発を襲った巨大な津波は、第一波が高さ4メートルほどのもので、地震の41分後だった。第二波は49分後で、高さは10メートルを超えた。その水流が高さ10メートルの防潮堤を乗り越え、原発敷地内に駆け上がっていった。
 原子炉建屋、タービン建屋、中央制御室の入っているサービス建屋など、ほとんどの重要施設は海面から10メートルの高さにあり、また非常用ディーゼル発電機はタービン建屋の地下室に設置されていた。津波がこれらの建屋を呑み込んだために、すべての電源が失われ、原子炉の冷却が不可能となり、電動式の弁やポンプ、監視計器などがすべてストップする事態となった。
 事務本館に隣接する「免震重要棟」に緊急時対策室がつくられ、東京の東電本店とのテレビ会議の準備もすぐに整った。中央制御室は、1号機と2号機、3号機と4号機、5号機と6号機というように、原子炉を二つずつ制御するために全部で三つある。1号機から3号機は運転中であり、4号機から6号機は定期点検中だった。
 中央制御室の運転員たちは小型の発電機を持ち込み、知りたい計器に一時的にバッテリーを繋いで、かろうじて数値を確認していった。冷却されないために高温・高圧になっている原子炉格納容器を海水によって冷やすことと、弁を開けて高圧を外に逃がす(ベント)ことが、喫緊の課題だった。ベントをすれば放射能が外に拡散するので、住民の避難を先に行う必要があった。
 運転員たちは二人ずつ、放射能の付着を防ぐタイベックスーツを着、その上に耐火服を装着し、全面マスクを付け、空気ボンベを背負い、線量計を持って建屋の中に入り、手動で弁を開こうとした。なんとか弁を開くことに漕ぎつけたこともあれば、放射線量が高く、途中で撤退を余儀なくされる場合もあった。
 注水には、陸上自衛隊駐屯地の消防車3台が、リレー式に使われた。

▼3月12日午後3時36分、1号機の原子炉建屋の5階部分が「水素爆発」で吹き飛んだ。水素爆発とは、高熱となった被覆管(金属)が水と反応して水素が生まれ、それが空気中の酸素と反応して爆発するものだという。だが、注水活動は休みなく続けられた。
 3月14日午前11時1分、3号機の建屋が水素爆発。けが人は出たが、死者はゼロだった。しかし飛散した瓦礫によって消防車が壊れ、ホースも破れ、注水活動がストップした。
 最大の危機を迎えたのは2号機だった。3号機の爆発の影響で2号機の給水装置が止まり、炉内の圧力が上昇し始めた。水位も徐々に低下し、海水注入しようとしても中の圧力が高くて入らない状態が続いた。
 午後6時過ぎ、何が原因かはわからぬまま圧力が下がりはじめ、午後7時54分、水も入りはじめた。しかし午後9時35分、一度下がりはじめた2号機の格納容器圧力が再び上昇に転じ、午後11時46分、それは設計圧力の2倍近い750パスカルに達した。いつ何が起きてもおかしくない状況と言えた。
 もしも2号機の原子炉格納容器が爆発し、放射能が飛散するなら、福島第一原発で原子炉を冷却するために懸命に働いている人びとは、注水活動を中断してはるか遠くに避難しなければならなくなる。そのことは、福島第一原発と第二原発併せて10機の原子炉が制御不能となることを意味していた。福島第一原発所長の吉田昌郎の脳裏に浮かんだのは、「東日本壊滅」のイメージだった。

▼鮫島記者は、東日本大震災発生時には政治部にいたが、2012年にまた「特別報道部」に異動し、デスクとして「調査報道」に取り組むことになった。
 そこで最初に取り上げたのは、福島第一原発で働く作業員たちの被爆の実態をごまかすために、下請け業者が作業員の身につける線量計に鉛板を当てて隠しているという事実だった。原発作業員たちの劣悪な労働環境に迫るキャンペーンは、大きな反響を呼んだ。
 次に取り上げたのは、「手抜き除染」の問題だった。「被爆隠し」の取材で多くの作業員に接触する中で、汚染地域から回収された木々や土砂が山林や河川に捨てられているという話を、記者の一人が聞き込んできたのである。記者たちは厳冬期に除染作業の現場に張り込み、「手抜き除染」の現場を望遠レンズで写真や動画に収めた。
 鮫島デスクのもとには、原発利権や医療利権に関するものから文化団体や宗教法人の不正を追うものまで、次々に記事が持ち込まれ、鮫島はそれを1面トップに押し込んでいった。
 「手抜き除染」のキャンペーンは、2013年の新聞協会賞を受賞した。

 2014年2月、経済部のK記者が「吉田調書」を入手したが、経済部では手に負えないので引き受けてほしい、という依頼が「特別報道部」にあり、鮫島が引き受けることになった。「吉田調書」とは、福島第一原発所長の吉田昌郎が政府事故調査・検証委員会の聴取に答えた内容を記録した文書で、政府は極秘文書として公開していなかった。吉田昌郎は前年の2013年に死去したため、彼が原発事故への対応の経緯を詳細に語り残した、唯一の公式記録だった。
 経済部のK記者は特別報道部に移り、ほかに原発事故を追ってきたM記者を加え、鮫島は3人で「吉田調書」問題に取り組むことにした。二人の記者は事故直後から3年にわたって東電取材を重ね、東電の隠蔽体質に強い批判を持っていた。東電が国会事故調査委員会に虚偽の説明をした事実を暴いて、原発事故直後の社内テレビ会議の映像を公開するようキャンペーンを行い、不十分ながら公開させてもいた。
 「吉田調書」のコピーは、A4版で400ページを超える量だった。原発について深い知識を持つとともに、原発事故の経緯を熟知しなければ、読んでもすぐに理解できるものではなかった。K記者とM記者は、事故直後の東電の対応を日本で最も熟知している人間だと言えたが、しかし二人だけで膨大な調書を読み込み、必要な追加取材をしながら、「吉田調書」のキャンペーンを続けていくのは難しい。鮫島は取材班を増やすことを提案したが、二人は頑なにそれを断った。吉田調書の入手先が発覚することを恐れたからであり、二人の警戒心は、朝日新聞社内の同僚にも向けられていた。結局、二人の記者が認めた女性記者一人を加えた態勢で、取り組むことになった。
 2014年5月20日の朝刊に、「吉田調書」入手の第一報が載った。

(つづく)

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『朝日新聞政治部』2 [本の紹介・批評]

▼2001年の春に小泉政権が誕生すると、鮫島記者は経済財政担当大臣・竹中平蔵に付くように、官邸キャップから指示された。経済のことはまったく素人ですよ、と言うと、くっついていれば良い、そのうち判るようになるよ、とキャップは答えた。
 政治部は政治家に番記者を張り付け、その政治家が直面している政治課題を一緒に追いかけさせる。内閣改造で閣僚の顔ぶれが一新したら、政治部記者もガラリと入れ替わる。
 他方、経済部は役所ごとに担当記者を置き、役所の政策課題を追いかけさせる。いつまでその職にいるか分からない大臣よりも、事務次官など官僚のほうが情報源として重要なのだ。民間から内閣に入ったばかりの竹中を、経済部の記者たちは相手にしなかったが、それは合理的なことだった。
 「朝日」以外に「竹中番」を付ける新聞社はなかったから、鮫島は竹中とその政務秘書官と3人で毎日会い、昼は大臣室で、夜はファミレスで話をした。当時の竹中は、政治家や官僚、記者たちから軽んじられていたので、鮫島と話をする時間は十分あった。《「素人三人組」が寄り添って、政官業の既得権の岩盤に挑む戦略をああでもないこうでもないと言い合う、漫画のような日々だった。》
 《竹中氏は当初、敗れ続けた。だが、くじけなかった。自民党や財務省が水面下で主導する政策決定過程をオープンにして世論に訴えた。経済財政諮問会議の議事録を公開して「抵抗勢力」の姿を可視化したのだ。これは的中した。マスコミは次第に「抵抗勢力」を悪者に仕立て始めた。そして小泉首相は「竹中vs抵抗勢力」の戦いが佳境を迎えると歌舞伎役者よろしく登場し、竹中氏に軍配を上げたのだった。》
 政策決定の中心が、「自民党・霞が関」から「首相官邸」へ移り始めた。竹中の影響力は急拡大し、政治家や官僚が頻繁に訪れるようになり、鮫島は予算や税制に関する「特ダネ」を連発した。新聞各社は慌てて竹中を追いかけはじめたが、すでに遅く、竹中は時間に追われ、初対面の記者が一から関係をつくる暇はなかった。―――
 鮫島は当時をいま振り返り、竹中平蔵の提灯記事を書いたつもりはないが、結果的に竹中を後押しした面があることは否定できない、と書く。竹中は「抵抗勢力」との戦いを有利に進めるために鮫島(朝日新聞)に情報を流し、鮫島はそれを承知で、情報の確度を確認したうえで記事にしたのである。
 竹中の切り拓いた「首相官邸主導」の政策決定は、第二次安倍内閣でいっそう本格的な形で実現することになった。

▼このブログは、鮫島記者の活躍を追いかけることが主たる目的ではないから、エピソードの紹介はこの辺で切り上げ、筆者の興味を惹いた小さな点をすこし挙げておきたい。
 ひとつは鮫島記者の周囲には、通常の企業よりもずっと多く途中入社の記者がいたという点である。元銀行員という記者、元「週刊文春」の記者、高知新聞や北海道新聞から移ってきた記者などと一緒に、鮫島は仕事をしている。「終身雇用」や「年功序列」などを特徴とする日本企業でありながら、新聞記者という職業は専門性が高く、そのためけっこう企業間の流動性が高いのかもしれない。「朝日新聞社」のネームバリューで能力ある人間を一本釣りできた、という面もあったのだろう。
 もうひとつ興味を惹いたのは、世の中の問題を掘り起こして社会に問いかけるのが新聞の役割だという、「ジャーナリズム」の古典的イメージに照らして見ると、新聞社の現実は「制度化」され過ぎているという点である。政府高官や有力政治家に張り付いて、その意向を把握することに精力をすり減らす政治部の取材にしろ、警察情報の「抜いた」「抜かれた」の競争に追いまくられる警察取材にしろ、本当に社会の喫緊の課題に取り組んでいるかと問われるなら、かなり怪しいと言わざるを得ない。しかしそれでも毎日の紙面を埋め、他社との競争に勝つためには、そういう「制度化」された取材方法が欠かせないのであり、そのうち記者たちはそれに慣れ、それ以外の方法を考えなくなる。
 鮫島は言う。《ほとんどの記者は上司から次々に仕事を発注され、自分の持ち場の当局発表の取材に追われ、受け身の仕事に明け暮れている。好きなテーマをじっくり掘り下げている記者は、ほんの一握りだ。私はそのような新聞記者のあり方に疑問を感じてきた。同僚たちは常に人事評価を気にしながら「やらされ仕事」をこなし、くたびれ、ストレスをためていた。》

▼朝日新聞社のなかで、「調査報道の充実」の掛け声とともに「特別報道チーム」がつくられ、鮫島記者が配属されたとき、そこには各部で扱いにくい記者が集められていた。鮫島は彼らと話し合い、警察や検察、国税庁などに依存しない「調査報道」をしようと意気込んだ。
 丁度「トリノ五輪」が開催され、荒川静香が金メダルを取り、フィギュアスケート人気が過熱している時だった。人気高騰のフィギュア界は、広告代理店やテレビ局が群がるドロドロした世界だった。特報チームは2か月間の取材ののち、「スケート連盟 不透明支出」と見出しを打った記事を書いた。反響は大きく、ワイドショーや週刊誌が飛びつき、新聞各紙も無視できず、ついに背任容疑でスケート連盟元会長など幹部が逮捕される事件となった。
 特報チームは次に、「非正規労働の実態」を調べ、「偽装請負 製造業で横行/実態は派遣 簡単にクビ」の記事で始まるキャンペーンを行い、大きな反響を得た。鮫島は、次のように書いている。
 《調査報道との出会いは、私の新聞記者観を大きく変えた。この経験がなければ、永田町を奔走し、政治家をひたすら追いかける政治部記者として会社員人生を歩んでいたかもしれなかった。調査報道の醍醐味を知った以上、元の政治記者には戻れなかった。》

(つづく)

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『朝日新聞政治部』 [本の紹介・批評]

▼『朝日新聞政治部』(鮫島浩 講談社 2022)という本を、面白く読んだ。筆者のブログ記事「安倍晋三の死」には、この本から引用した部分が少しあるが、あらためて取り上げ、論じてみたい。
 著者・鮫島浩は1971年の生まれ。1994年に朝日新聞社に入り、水戸や浦和の支局でのサツ回りを経て、本社の政治部記者となる。才気煥発で“ひとこと多い”鮫島は、上司に認められたり煙たがられたりしながらさまざまな体験をし、新聞記者としての歩みを続ける。この本の性格を一言で言えば、「体験的新聞記者論」ということになるが、これを同種の体験談から抜きん出た読みごたえのあるものにしているのは、ひとつは接触した政治家や官僚、新聞記者たちの描写が生き生きとしていることに因るのだろう。
 もうひとつは、鮫島記者が特別報道部デスクとして手掛けた福島第一原発の「吉田調書」に関するスクープが、初めは朝日新聞社内で絶賛されたにもかかわらず、4か月後に「誤った内容の報道」であるとして「取り消」された事件である。この事件の顛末を通じて鮫島は朝日新聞社の体質に見切りをつけるのだが、まずは筆者の面白く読んだ箇所を中心に、いくつか内容を紹介したい。

▼政治部に配属された若い記者は、まず総理番をさせられる。一日中総理大臣を追いかけ、総理に面会した人を確認して「首相動静」の記事を出す。総理と面会した人に、何を話したかを聞く。また鮫島が小渕総理番となった当時は、総理が官邸内や国会内を移動するときに肩を並べて歩き、直接質問する「ぶらさがり」取材が許されていた。録音や録画は認められておらず、総理番を代表して質問した記者はやり取りを記憶し、直後に各社に伝える。
 小渕総理と政治記者のぶらさがり取材には緊張関係があった、と鮫島は振り返る。
 《小渕総理が政治記者という職業に敬意を払っていたからだろう。当時は新聞の影響力が大きく無視できないという政治家としての現実的な判断もあっただろう。(中略)新聞の影響力低下にともなって政治記者は軽んじられるようになり、一方的に権力者にこびへつらうようになったのが今の官邸取材の実態である。権力者側の「善意」や「誠意」には期待できないことを前提に、新たな政治取材のあり方を構築しなければ、政治報道への信頼はますます失われていくだろう。》

▼総理番のもう一つの重要な仕事は、主要省庁から送り込まれる総理秘書官を取材し、総理の本音を探ることである。総理番記者は日中は総理に密着して動いているから、彼らが総理秘書官に接触できるのは深夜か早朝になる。鮫島が担当したのは、大蔵省出身の細川興一だったが、彼は小渕総理が竹下内閣の官房長官時代に官房長官秘書を務めて信頼を得、総理秘書官の中のリーダー的存在だった。
 細川総理秘書官は、「実に面倒な人」だった。総理番との酒席で論争を仕掛けてくることはあっても、情報を漏らすことは一切なかった。「夜討ち朝駆け」にもめったに口を開かない。迂闊な質問をすると猛烈に反論する。そのため多くの総理番からひどく敬遠されていた。
 鮫島は毎朝、細川の自宅に通った。細川が総理秘書官になって半年が経ち、細川邸に通う総理番はごくわずかだった。取材の成果がまったく期待できないからだが、鮫島記者はこれをチャンスととらえ、毎日午前4時に起き、ハイヤーで細川邸に日参した。
 朝、顔を合わせても細川は無言で、「おはよう」とも言わなかった。だが不思議なことに、迎えの車にかならず鮫島も乗せ、一緒に官邸に向かった。車の中で、細川は新聞を読み、鮫島が何を質問しても無視した。口を開くのは、質問とは関係ない新聞記事の悪口をいう時だけで、まったく話が噛み合わないまま車は官邸に着く。記者は官邸の前で降ろされ、朝の取材は終了。「取材メモ」は一行も書けず、成果はゼロ。この「朝駆け」を、鮫島は1年間、ほぼ毎日続けた。
 やがて鮫島は、「取材メモ」こそ1行も書けなかったものの、質問に対する細川の微妙な表情で、イエスかノーかを見極めることができるようになった。新しいネタは取れなくても、情報を確認する「ウラ」は取れるようになった。
 《警戒心の強い細川氏が私の裏付け取材の狙いに気づかなかったとは思えない。それでも彼は毎朝私をハイヤーに同乗させ、質問を一切無視し、時に私を罵倒し、しかしその表情で私の質問に答えた。細川氏は彼なりのやり方で私を受け入れたようだった。》

▼四国・高松の母子家庭に育った鮫島は、中学高校時代にニュースで報じられる不条理な出来事について、しばしば母親に文句を言った。母親は、あなたが偉そうなことを言わなくても、世の中の偉い人がちゃんと考えてくれているわよ、と言った。鮫島が「偉い人って、誰?」と反論すると、母親はほんのひととき考え込み、「大蔵省の人よ」と答えた。
 《戦後日本において大蔵省はそういう存在だった。私は細川氏を担当してこの話を思い出し、久々に母に電話した。「おかあさん、俺は大蔵省の偉い人と会ったよ。毎朝一緒にハイヤーに乗り、時折一緒に飲んでいるよ。実にとんでもない人だよ!」。母はその言葉の意味をほとんど理解していないようだった。》
 小渕総理が急逝したあと細川総理秘書官は大蔵省に戻り、官房長、主計局長を経て事務次官になった。
 鮫島は書く。
 《細川氏は「尊敬する官僚」とはとても言えない。しかし私は政治記者として最初に取材した細川氏から長い歳月をかけて多くを学んだ。出会いから20年余、お互いに立場は変わっても時折会って激論を交わしてきた。何度も怒鳴られ、負けずに反論した。
 ネタをもらったことは一度もない。しかし、エリート官僚とは何者か、教科書では学べないその素顔を、細川氏は自分自身の生きざまを20年以上にわたって私にさらけ出すことで伝えた。私は彼のおかげでエリート官僚の実像をよく知り、自信を持って批判できるようになった。権力批判の鉄則は権力側の本性をよく知ることだ。》

(つづく)

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