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「政治」の不在 [政治]

▼「パレスチナの戦争」について、筆者のとりあえず述べたいことは前回で一応終えたのだが、肝心のことにはなにも触れていない。つまり目下の喫緊の課題である「休戦」あるいは「停戦」のこととか、パレスチナの人々が生きていく最低限の環境をどのように保障するかという問題について、何ひとつ自分の考えを述べていない。
 述べなかった理由は明らかである。絶え間ない空爆や銃撃、破壊され瓦礫と化した街、瓦礫の下に埋もれた多くの死体や負傷者という現実の前で、どのような言葉も議論も無力であるからだ。イスラエルとパレスチナの「二国家共存」以外に問題の解決法はないと多くの人々が考え、それが正しい道筋だとしても、それが目下の緊急事態を打開する力を持つわけではない。
 米国はイスラエル擁護の姿勢を変えず、国連決議は実効性を伴わず、国際社会は無力をさらけ出している。しかしその中で、パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し、停戦を求める声が世界で拡大している。イスラエル政府は世界に広がる反イスラエルの感情に苦慮し、攻撃を続けることが人質解放につながると弁明したり、民衆を「人間の盾」に使うハマスを非難したりするが、苦しい立場にあることは変わらない。ここに辛うじて、筆者はささやかな希望を見る。
 イスラエルの「極右」といわれる政治勢力は、パレスチナ全土をイスラエルの領土にしたい、そのためにパレスチナ人をシナイ半島(エジプト領)にでも追い出したいと希望している。彼らは、ガザのパレスチナ人が今回の「戦争」でどれほどの犠牲を出そうと、おそらく意に介さないにちがいない。しかしその「極右」勢力を含むイスラエル政府は、そのような「本音」を表に出すことはできず、非難の声の広がりに苦慮している。少なくともここには、言葉の通じる共通の場が存在するのであり、共通の場を拡げていくことが問題の解決に繋がっていくと一筋の期待を抱くことができる。
(ロシアによるウクライナ侵略に救いがないのは、一つにはロシアの指導者の語る言葉が、国際社会で語られる言葉とまったく噛み合わない点にあるように思う。)

▼イスラエルの閣僚でエルサレム問題・遺産相の男が地元ラジオのインタビューで、「ガザに原爆を落とすべきか」と問われ、「それも一つの選択肢だ」と述べたという。また彼は240人の人質について、「戦争に代償はつきもの」と発言したという。
 ネタニヤフはこの「極右」の閣僚の、閣議などへの出席を当面凍結する措置をとり、「イスラエルと軍は、非戦闘員に被害を出さぬように、国際法の高い基準のもとに行動している」と弁明したと報じられた(11/7)。
 イスラエル社会の「右傾化」は、ラビン首相の暗殺とネタニヤフの政権奪取以降、進行した。西岸地区のイスラエルの支配地域にユダヤ人入植地が建設され、彼らを守るという名目でイスラエル軍兵士たちが任務に就く。国際法違反だという国際社会の批判に耳を貸さずに入植地は増え続け、それは社会の「右傾化」をさらに促進する。
 昨年末の国会議員選挙では、パレスチナに融和的でかっては政権を握っていた労働党は、定数120のうちのわずか4議席と惨敗した。今回の「戦争」でイスラエル社会はさらに「右傾化」し、高橋和夫の講座にインタビューの形で登場していたような、パレスチナ人との融和や共存によって平和を作り出そうと考える人々に、非難の砲火が向かうことにならないだろうか。
 パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し停戦を求める声が、世界で拡大していることについて、それこそハマスの戦術に乗るものだと反発する主張を耳にすることがある。ハマスは武力でイスラエル軍に勝てるはずがなく、そのことを彼らは十分承知しているのに攻撃を始めた。彼らはパレスチナの人々を戦渦に巻き込むことによって、イスラエルの残虐性を世界に訴えることを狙っており、それが彼らの目的であり、戦術であるからだ。だからイスラエル批判のデモをし、批判の声を上げることは、ハマスの戦術に乗せられている以外のなにものでもない。―――
 しかしハマスの戦術に乗ることを批判する発言者が、イスラエルの入植地が年々拡大し、その過程で入植者がパレスチナ農民のオリーブの樹を伐り、家屋を破壊し、抵抗する人々を殺害している現実に言及することはない。(昨年1年で200人以上殺害と研究者は言う。)また「天井のない監獄」といわれる、高い壁で囲まれた狭い空間に押し込められたパレスチナ人の、抑圧された希望のない生活に言及することもない。
 
▼むき出しの力と力がぶつかり合い、互いに相手を殲滅しようとする。力の強い者は自分の主張を通してすべてを取り、相手には一物も与えず、不満にはさらに力を加えて抑えつける。われわれの見せられているそういう光景は、「中東」というかの地の苛酷な政治風土に因るのだろうか。その光景を一言で表現するなら、「政治」の不在ということである。
 「政治」とは何かという問いに答えることは難しい。「戦争」さえ「他の手段をもってする政治」とされるぐらいだから、その広がりはわれわれの日常の人間関係から戦争に至るまで広大無辺と言ってよく、権力や物理的強制力、利益配分や秩序などに着目した多くの定義がある。しかしそれは学者に任せておけばよい。筆者がここで「政治の不在」と呼んだのは、相手と妥協し、協調して安定した秩序を作り出すことが、目先の利益を総取りし、相手の不満を力で抑圧するよりももっと大きな利益であると判断し、周到に実現する力が存在しないということである。
 イスラエルの独立戦争以来パレスチナの土地で繰り広げられた戦いは、第4次中東戦争(1973年)以降は「政治解決」に向かう条件が存在した、と筆者は思う。「オスロ合意」(1993年)は、イスラエルの長期的利益のためにリーダーが決意した重い政治的決断だった。

 いまなぜパレスチナに「政治」が不在なのか。それはパレスチナ人の利益を代表する国家が存在せず、またイスラエルの側に長期的利益を考える勇気あるリーダーが存在しないからだと言える。
 自分たちの利益を代表する国家が存在しないとき、パレスチナの人々はイスラエルという国家の前に、裸の個人として立たされる。相手と自分のあいだに圧倒的な力の差があるとき、イスラエルはパレスチナの個人の訴えを無視して、好き勝手なことができるし、相手に何らの譲歩をする必要を感じない。高い壁を作り、その中にパレスチナ人を閉じ込めておけば、自分たちは不都合な現実を見ないで済む。彼らの不満は力で容易に押さえつけることができ、つまり存在しないことにできたのだ。
 そういう圧倒的な力の不均等が、超大国アメリカがイスラエルの側に立つことによって固定化され、「政治の不在」が永続化されてきたというのが、パレスチナのここ三十年の歴史だった。

 「パレスチナの戦争」の勃発直後、BSフジの「プライムニュース」という番組に参加した高橋和夫が感想を問われ、「研究者たちは、皆、絶望しています」と絞り出すような声で言った。その時の高橋の表情が、忘れられない。

(この稿終わり)


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パレスチナの戦争3 [政治]

▼ハマスの奇襲によって始まった「パレスチナの戦争」は先週で1か月が過ぎ、パレスチナ住民の死者は1万人を超えた。爆撃機とミサイルによる絶え間ない攻撃によって、ガザの建物の多くが瓦礫と化した。10月下旬からはイスラエル地上部隊がガザに侵攻し、水も食糧も薬品も燃料も枯渇しつつある住民たちは、病院や学校などにかろうじて避難しているが、そこにもミサイルは落ち、死者と負傷者は増え続けている。住民を支援する国連施設で働く国連職員の死者も、100人を超えた。
 10月7日のハマス奇襲は、イスラエルの想定を完全に覆すものだった。ハマスは大量のロケット弾を撃ち込んでイスラエルの防空網を破り、越境した戦闘員は千人以上のイスラエル市民を殺害し、200人を超える人質を連れ去った。
 市民の殺害の方法も残虐だったと報じられている。米国のブリンケン国務長官は議会上院の公聴会で次のように証言した(10/31)という。
 「私はイスラエルを訪れ、ハマスの残虐行為について多くの証言を聞いた。例えば、家族4人で朝食をとっているところにテロリストが乱入し、拷問を加えた末に全員を射殺した。父親は、子供たちが見ている前で眼球をくりぬかれた。母親は乳房を切り取られた。娘は脚を切断された。息子は指を切断された。その後テロリストは4人を射殺し、その食卓で食事をとった」。ホラー映画のようなおぞましい場面を見ていた人間が、よくぞ無事に現場を抜け出し、証言したものだと感嘆するが、そのほかにも現場に到着した兵士や警察官、救急隊員、検視官などが、手を縛られたまま焼かれた女性や子供の黒焦げの遺体を見たと、証言をしているようだ。
 イスラエルはガザ地区への報復攻撃を、自衛権に基づく正当な行動だと主張する。しかし無抵抗の市民の殺害が許されないこと、受けた被害と均衡の取れない、十倍、二十倍の報復が正当化されないことは、「国際法」以前に人間の良識の範囲であろう。
 しかしネタニヤフ首相は停戦にも休戦にも応じようとはしない。ハマスを殲滅し、ガザ地区を占領した後、イスラエルの統治下に置くことを公言している。
 唯一イスラエルの行動を左右する力を持つ米国は、イスラエルの側に立ち、その影響力を強く行使しようとはしない。ガザ市民の死者は今後も増え、街はさらに破壊されるであろうことは確実だが、いつどのような形でそれが止むのかは、何も見えない。
 この戦争の行方を決める決定的な要素は、イスラエル国内の世論であろう。市民の戦争支持は今のところ揺らいでいないようだが、ネタニヤフ首相の支持率は30%を切る状態だという。国難発生ともなれば、「一致団結」「挙国一致」でたちまちまとまる国に住む者として、とても不思議な気がするが、どうやらこの辺りが戦争の行方を決めるカギなのかもしれない。

▼10月24日、国連のグテーレス事務局長は安全保障理事会で、「どんな紛争でも民間人の保護が重要だ」と強調した。その上でイスラエルやハマスを名指しせずに、民間人を「人間の盾」として使うことや、百万人以上の人々に避難所も水も燃料もないガザ南部に避難するように命じ、そのうえで南部を爆撃し続けることは、民間人の保護に反すると非難した。
 また、10月7日のハマスによるイスラエルの攻撃について、「何もない状況で急に起こったわけではない」と言い、「パレスチナの人々は56年間、息の詰まる占領下におかれてきた。自分たちの土地を入植によって少しずつ失い、暴力に苦しんできた。経済は抑圧されてきた。人々は家を追われ、破壊されてきた。そうした苦境を政治的に解決することへの希望は消えつつある」と述べた。
 同時に、パレスチナの人々が怒っているからといって、ハマスによるおぞましい襲撃が正当化されるわけではない。またおぞましい襲撃を受けたからと言って、パレスチナの人々に対する集団的懲罰が正当化されるわけではない」とも主張した。(以上はBBCニュース10/25から引用。)
 イスラエルはこの発言に猛反発し、事務総長の即時の辞任を求めると国連大使が旧ツイッターに投稿した。

 グテーレス事務総長のこの発言は、穏当なものであろう。2007年、イスラエルはテロの防止などを理由にガザ地区に分離壁を建設し、ガザ地区への人と物の出入りは厳しく制限されるようになった。パレスチナ側は地下にトンネルを掘り、エジプトから生活物資を密輸して対抗した。地下のトンネルはその後も延長され、今では300~500キロメートルの長さと言われ、ハマスがイスラエル軍に抵抗する基地となっている。

▼「パレスチナの戦争」の初回に、第三次中東戦争以降の歴史を後回しにして、「オスロ合意」について触れた。イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人が互いの存在を認め、共存していくためには、互いの「国家」を認め合わなければならない。イスラエルの独立戦争と建国以来、続いてきた両者の対立が、ついに1993年に解消に向かう「合意」に至ったことを、まず強調しておきたかったからである。
 何が「合意」をもたらしたのか。高橋和夫は、「インティファーダ」の影響が大きかったのではないか、と言う。「インティファーダ」とは、1987年にヨルダン川西岸地区とガザ地区で起きたパレスチナ民衆のイスラエルに対する抗議運動だが、すでにPLOはチュニジアに撤退し、物理的な力を何も持たない中で、若者たちはイスラエル兵に石を投げ、タイヤを燃やしてイスラエルの占領に抗議する意思を示した。この抵抗運動がイスラエルのラビン首相に、PLOとの交渉を決意させたと高橋は考えるが、妥当なところかもしれない。
 筆者は他に、世界が冷戦終結の余韻に浸っていた1993年という時代の雰囲気や、1991年のイラク戦争の結末も、ラビンの決断に影響していたのではないかと思う。
 そしてラビン首相が第三次中東戦争時のイスラエル軍の参謀総長であり、つまり救国の英雄として国民から厚く信頼されていたからこそ、劇的な政策転換も可能となったのだろう。
 しかし既述の通り、ラビンは1995年にユダヤ原理主義の男に暗殺された。その翌年行われた選挙で、ラビンの後継者ペレスの率いる労働党がネタニヤフ率いる右派政党リクードに敗北し、二国家建設の「合意」プロセスは頓挫する。ネタニヤフは、ハマスとパレスチナ自治政府の分裂の状態を維持することがイスラエルの利益だと考え、パレスチナ側の分裂を策し、それを和平交渉を進めない口実として利用したからである。
 ネタニヤフが数次にわたって長期間、政権を維持する背景には、イスラエル社会の「右傾化」があるのではないかと筆者は推測する。

▼ウクライナ戦争で傷ついた国連の権威と力は、パレスチナの戦争でさらに傷を深めた。国連が地域紛争解決のために力を発揮できない状態が、続いているのだ。
 米国もパレスチナの戦争で、その行動や発言の身勝手さを世界に示し、道義的権威を失墜させた。しかし安定的な国際関係では軍事力や経済力以外に、秩序を維持する説得力ある論理や道義的権威の存在が欠かせない。国際秩序の揺らぎは、ウクライナの戦争や台湾問題の行方にも暗い影を落としている。

(この稿おわり)

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パレスチナの戦争2 [政治]

▼前回、話を急ぎすぎ、端折りすぎたので、もう少し丁寧にパレスチナの歴史をたどることにする。(急いだことには理由があるのだが、それには後で触れる。)

 まず、パレスチナ問題の出発点である「ナクバ(大惨事)」についてである。高橋和夫の講義には、イスラエル人やパレスチナ人などたくさんの人々へのインタビューが、取り入れられている。
 イスラエルの独立戦争を特殊部隊の隊員として戦い、現在、平和活動家として活動する高齢の男性は、独立戦争の勝利の見通しが持てた時点で、アラブ人をパレスチナから追い出す秘密の意思決定が、指導者の間でなされたようだと言う。戦争勝利後イスラエルは、領土とした村や町からアラブ人を武力によって追放し、抵抗する者は殺し、建物を破壊した。追放され、難民となった者の数は75万人とされる。
 アラブ人が追放された土地は収用され、ヨーロッパから移住してきたユダヤ人に分け与えられ、破壊された村や町は植林で緑の野山に変わった。しかしさすがにアラブ人追放の歴史は、イスラエルの歴史の恥部であり、その事実を知る市民は多くはないらしい。
 「記憶」という名の団体をつくって活動をしているイスラエルの若い女性が、インタビューで次のように語っていた。「ナクバ」に関する知識を広めることが、自分たちの活動の目的である。多くのユダヤ系イスラエル人はナクバを知ることを恐れている。「敗者のことはほっておけ、知りたくない」という反応もある。だが大勢の市民が関心を示すということも事実だ。パレスチナは、子供のころ聞かされたような無人の土地ではなかった。イスラエル人とパレスチナ人の和解を成立させ、パレスチナ難民の帰還をなんらかの形で可能とするべきである、と。
 彼女の団体では、「ナクバ」に関わった兵士から体験を聞く会を催し、証言を集める活動を行っている。

▼1967年の第3次中東戦争はイスラエル軍の奇襲で始まり、イスラエルは6日間で圧勝し、シリアのゴラン高原やヨルダン領のヨルダン川西岸地区、エジプトのシナイ半島を占領した。
 第4次中東戦争は、エジプトやシリアが奪われた領土を奪還するために1973年にイスラエルを奇襲した戦争で、アラブ側は緒戦は有利に作戦を進めたが、勝利することはできず停戦に至った。
 ペルシャ湾岸諸国は石油価格の引き上げを宣言し、いわゆる「オイルショック」が発生、「油断」を突かれた日本政府は、アラブ寄りの方針を打ち出して石油を確保しようとした。
 その後ニクソン政権やカーター政権が、中東地域の平和維持のためにいろいろ働きかけるが、目立った大きな出来事としては、エジプトのサダト大統領がイスラエルのベギン首相とのあいだで平和条約(1979年)を結んだことが挙げられるだろう。しかしサダトは「アラブの大義」の裏切り者として、1981年に暗殺されてしまう。

 エジプトと平和条約を結ぶことで、中東におけるイスラエルの軍事力は圧倒的となった。1982年、イスラエル軍はレバノンの首都・ベイルートに迫り、ここを拠点に活動していたPLO(パレスチナ解放機構)を包囲した。
 アラファト率いるPLOは、以前、ヨルダン川西岸地区で活動していたが、第三次中東戦争(1967年)でイスラエルに占領された後は、東岸地区(ヨルダン領)に移った。しかしPLOの存在に危機感を抱いたヨルダンは、1970年9月に武力で弾圧し(「黒い九月」と呼ばれる)、PLOはレバノンの首都ベイルートに拠点を移していたのである。イスラエルのレバノン戦争は、このPLOの壊滅を狙ったものであり、アラファトとPLOは、遠いチュニジアに撤退せざるを得なかった。
 レバノンにはパレスチナ難民のキャンプがあったが、PLOの去ったあと、ここをレバノンのキリスト教系の民兵組織が3日間襲撃し、三千人以上の虐殺を行った。イスラエル軍が打ち上げた照明弾が襲撃の合図だったといわれている。

 それまでの中東戦争は、イスラエルが生き延びるために選択の余地のない戦争だと国民に理解されていた。しかしこのレバノン戦争はそうではなく、イスラエルにとって有利な秩序をつくるためのものであり、イスラエル軍の中に戦争を拒否する人々を生み出した。
 パレスチナ難民のキャンプ襲撃・虐殺事件については、その真相究明を求める集会がテルアビブで開かれ、40万人が参加した。

▼イスラエルの面積は日本の四国ほどの大きさで、人口は834万人である。一方、パレスチナ人が住むヨルダン川西岸地区は日本の三重県と同じぐらいの面積で、人口は280万人、ガザ地区は東京23区の6割ぐらいの面積で人口は170万人、併せて450万人が暮らしている。
 ガザ地区の人口の過半数は、イスラエル独立戦争で土地を追われ、難民として逃れてきた人たちであり、ヨルダン川西岸地区には難民もいるが、もともとそこで暮らしていた人も多い。
 経済状態を見ると、イスラエル人の年間所得は36,991ドル(2014年)だが、パレスチナ人の年間所得は2,720ドル(2013年)で、1割にも満たない。
 ヨルダン川西岸地区とガザ地区で、パレスチナ人の「自治」が行われているわけではない。ヨルダン川西岸地区はA地域、B地域、イスラエルの支配地域の3種類に分けられ、イスラエルの支配地域が圧倒的に広い。面積的に一番小さいA地域は、いちおうパレスチナ人の自治区となっているが、イスラエルの支配地域のなかに点在するだけである。それより広いB地域は、行政権はパレスチナ人にあるものの、警察権はイスラエルの手に握られている。
 各地域は10メートルほどの高いコンクリートの壁で囲まれ、パレスチナ人は移動する際にイスラエルの検問所を通らなければならない。パレスチナ人はここで手荷物検査など、屈辱的な体験を強いられる。
 イスラエルの支配地域ではイスラエル人の入植地が増え続けている。
 
(つづく)

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パレスチナの戦争 [政治]

▼ウクライナの戦争に続いてもう一つ、パレスチナで戦争が10月7日に勃発した。筆者は目を背け、耳を塞ぎたい気持ちで毎日を過ごしている。
 ウクライナ戦争はまだよかった。ロシアによる侵略行為に驚き、国際秩序に及ぼすその影響について強く憂慮したが、自分の立ち位置に迷いはなく、国際社会が分かりやすい態度表明をしていることも救いだった。ウクライナ軍が欧米からの武器の支援を得て善戦し、戦況が悪くない点でも希望が持てた。ウクライナ軍がロシア軍を押し戻し、プーチンのロシアが得るものもなく、侵略の代価ばかりが巨大な請求書を突き付けられることで、この古典的な悲劇が幕となる可能性について考えると、これからの世界にも希望が持てるような気がした。
 しかしパレスチナの戦争は違う。出口のない密室の中で、殺したり殺されたりの緊張が極限まで高まり、破裂し、多くの無辜の民が毎日殺されているのに、世界は有効な手を差し伸べることができない。イスラエルとハマスの圧倒的な力の差により、戦いの今後はイスラエルの指導者の手に握られ、彼は、一般市民の犠牲が大きくてもハマスを根絶するまで戦いをやめないと公言している。
 またパレスチナの戦争は、ウクライナの戦争への関心を薄れさせ、米国からの武器援助を妨げるという意味でも、筆者の心配は募る一方である。

▼筆者のパレスチナ問題の理解は、次のようなものである。(以下の記述は、BSの「放送大学」で聞いた高橋和夫の講座「パレスチナ問題」(2016年)に、全面的に拠っている。)

 現在、イスラエルという国家があるパレスチナという土地は、かってはオスマン・トルコの領土だった。オスマン・トルコは宗教的には寛容で、ユダヤ教徒やキリスト教徒の自治を認めていたから、20世紀の初めまで各教徒が共存していた。
 オスマン・トルコは第一次世界大戦で、ドイツの側に立って参戦した。大英帝国はアラブの指導者フセインに、独立を支持することをエサにトルコに対して反乱を起こすよう働きかけ(フセイン・マクマホン協定)、またシオニストに対してはその協力を得るために、ユダヤ人の建国を認める旨の約束をした。(バルフォア宣言)。そしてフランスとは、アラブのトルコ領を大戦後に山分けにする秘密協定を結んだ。(サイクス・ピコ協定)。戦争終結後、国際連盟が発足し、パレスチナは英国が統治を委任される土地となった。
 パレスチナには農業を営む少数のユダヤ人とアラブ人が棲み、互いの交流はないまま共存していた。英国の委任統治下ではパレスチナへ移住するユダヤ人は増えず、移住が爆発的に起こるのは、第二次世界大戦の終結後である。
 ナチの強制収容所で6百万人のユダヤ人が殺された事実が明らかになり、世界に衝撃を与えた。ユダヤ人に対して負い目を追うヨーロッパ社会は、1947年の国連決議によってパレスチナを二つに分割し、半分をユダヤ人に与えると決定した。ユダヤ人はこの決議を受け入れたが、アラブ人は受け入れなかった。国連決議後、アラブ連盟諸国とユダヤ人の戦いが起こった。(第一次中東戦争と呼ばれる。)
 戦争はアラブ側有利に進んだが、やがて武器がソ連やヨーロッパからユダヤ側に届きはじめ、形勢は逆転し、イスラエルは1948年5月に独立を宣言した。そしてイスラエルの領土内に住むアラブ人を、国外に追放した。このとき家と土地から追われたアラブ人は75万人に昇り、これが現在にいたる「パレスチナ難民」のはじまりである。この追放を、アラブ人はアラビア語で「ナクバ(大惨事)」と呼ぶ。
 第一次中東戦争の結果、パレスチナの北部と南部、その間を結ぶ地中海沿いの土地はイスラエルの領土となり、アラブ人の土地はガザ地区とヨルダン川西岸の二か所となった。国連はその結果を承認したが、アラブ側は認めなかった。
 (以下の地図は、1948年のイスラエルの独立戦争(第一次中東戦争)以後のものである。白っぽいところがイスラエル領。戦争前と比べ、北部のアラブ人地域が消え、ガザ地区とヨルダン川西岸地域も小さくなっているが、現在よりははるかに大きい。)
パレスチナ.png

▼現在のパレスチナ問題を考える上で大きな影響を及ぼしているのは、第三次中東戦争と呼ばれる1967年の戦争である。
 1967年にエジプトなどアラブ諸国とイスラエルの軍事的緊張が高まり、6月5日朝、イスラエルはアラブ諸国の空軍基地を奇襲し、これを壊滅させた。獲得した制空権の下で、イスラエル軍は地上戦でもアラブ諸国の軍を打ち破り、エジプト領のシナイ半島、ヨルダン川西岸地域(ヨルダン領)、シリア領ゴラン高原を占領し、6日間で戦争に完勝した。歴史的にパレスチナと呼ばれていた土地のすべてを、イスラエルが支配するようになった。
 講師の高橋和夫は、この戦争の勝利がイスラエル社会に与えた影響として、アラブ人との間の土地問題をどう解決するかについて、イスラエル人のあいだのコンセンサスが崩れたことを指摘する。安全保障上の理由から、イスラエルの安全が確かになるまで占領地を保有するという考え方は、それまでもあった。しかし神学上の理由から、パレスチナの土地は本来ユダヤ人のものだという主張が強まり、これが問題の解決をいっそう難しくしたのである。

▼パレスチナ問題の一つの画期は、1993年のオスロ合意だった。ノールウェーで秘密裏に進められていたイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)との交渉がまとまり、調印式が米国のホワイトハウスで行われた。クリントンが間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が合意文書に署名し、握手を交わした。
 合意のポイントは、PLOとイスラエルの相互承認であり、ガザとエリコ(ヨルダン川西岸地域)で、アラブ人の自治を先行して実施することであり、その他の問題は交渉により1999年までに解決することだった。
 この合意は、テロ組織とは交渉しないと主張してきたイスラエルのラビン首相が、PLOを承認することを決意することにより実現した。ラビンは1967年の第三次中東戦争の時の参謀総長であり、国民的な人気を持つ政治家であった。
 しかしオスロ合意は、二つの事件によって阻まれる。1995年11月のラビンが暗殺され、翌年5月に行われた選挙でラビンの後継者として「平和」を訴えたぺレスが、右派政党リクードのネタニヤフに敗れたからである。

(つづく)

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