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「政治」の不在 [政治]

▼「パレスチナの戦争」について、筆者のとりあえず述べたいことは前回で一応終えたのだが、肝心のことにはなにも触れていない。つまり目下の喫緊の課題である「休戦」あるいは「停戦」のこととか、パレスチナの人々が生きていく最低限の環境をどのように保障するかという問題について、何ひとつ自分の考えを述べていない。
 述べなかった理由は明らかである。絶え間ない空爆や銃撃、破壊され瓦礫と化した街、瓦礫の下に埋もれた多くの死体や負傷者という現実の前で、どのような言葉も議論も無力であるからだ。イスラエルとパレスチナの「二国家共存」以外に問題の解決法はないと多くの人々が考え、それが正しい道筋だとしても、それが目下の緊急事態を打開する力を持つわけではない。
 米国はイスラエル擁護の姿勢を変えず、国連決議は実効性を伴わず、国際社会は無力をさらけ出している。しかしその中で、パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し、停戦を求める声が世界で拡大している。イスラエル政府は世界に広がる反イスラエルの感情に苦慮し、攻撃を続けることが人質解放につながると弁明したり、民衆を「人間の盾」に使うハマスを非難したりするが、苦しい立場にあることは変わらない。ここに辛うじて、筆者はささやかな希望を見る。
 イスラエルの「極右」といわれる政治勢力は、パレスチナ全土をイスラエルの領土にしたい、そのためにパレスチナ人をシナイ半島(エジプト領)にでも追い出したいと希望している。彼らは、ガザのパレスチナ人が今回の「戦争」でどれほどの犠牲を出そうと、おそらく意に介さないにちがいない。しかしその「極右」勢力を含むイスラエル政府は、そのような「本音」を表に出すことはできず、非難の声の広がりに苦慮している。少なくともここには、言葉の通じる共通の場が存在するのであり、共通の場を拡げていくことが問題の解決に繋がっていくと一筋の期待を抱くことができる。
(ロシアによるウクライナ侵略に救いがないのは、一つにはロシアの指導者の語る言葉が、国際社会で語られる言葉とまったく噛み合わない点にあるように思う。)

▼イスラエルの閣僚でエルサレム問題・遺産相の男が地元ラジオのインタビューで、「ガザに原爆を落とすべきか」と問われ、「それも一つの選択肢だ」と述べたという。また彼は240人の人質について、「戦争に代償はつきもの」と発言したという。
 ネタニヤフはこの「極右」の閣僚の、閣議などへの出席を当面凍結する措置をとり、「イスラエルと軍は、非戦闘員に被害を出さぬように、国際法の高い基準のもとに行動している」と弁明したと報じられた(11/7)。
 イスラエル社会の「右傾化」は、ラビン首相の暗殺とネタニヤフの政権奪取以降、進行した。西岸地区のイスラエルの支配地域にユダヤ人入植地が建設され、彼らを守るという名目でイスラエル軍兵士たちが任務に就く。国際法違反だという国際社会の批判に耳を貸さずに入植地は増え続け、それは社会の「右傾化」をさらに促進する。
 昨年末の国会議員選挙では、パレスチナに融和的でかっては政権を握っていた労働党は、定数120のうちのわずか4議席と惨敗した。今回の「戦争」でイスラエル社会はさらに「右傾化」し、高橋和夫の講座にインタビューの形で登場していたような、パレスチナ人との融和や共存によって平和を作り出そうと考える人々に、非難の砲火が向かうことにならないだろうか。
 パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し停戦を求める声が、世界で拡大していることについて、それこそハマスの戦術に乗るものだと反発する主張を耳にすることがある。ハマスは武力でイスラエル軍に勝てるはずがなく、そのことを彼らは十分承知しているのに攻撃を始めた。彼らはパレスチナの人々を戦渦に巻き込むことによって、イスラエルの残虐性を世界に訴えることを狙っており、それが彼らの目的であり、戦術であるからだ。だからイスラエル批判のデモをし、批判の声を上げることは、ハマスの戦術に乗せられている以外のなにものでもない。―――
 しかしハマスの戦術に乗ることを批判する発言者が、イスラエルの入植地が年々拡大し、その過程で入植者がパレスチナ農民のオリーブの樹を伐り、家屋を破壊し、抵抗する人々を殺害している現実に言及することはない。(昨年1年で200人以上殺害と研究者は言う。)また「天井のない監獄」といわれる、高い壁で囲まれた狭い空間に押し込められたパレスチナ人の、抑圧された希望のない生活に言及することもない。
 
▼むき出しの力と力がぶつかり合い、互いに相手を殲滅しようとする。力の強い者は自分の主張を通してすべてを取り、相手には一物も与えず、不満にはさらに力を加えて抑えつける。われわれの見せられているそういう光景は、「中東」というかの地の苛酷な政治風土に因るのだろうか。その光景を一言で表現するなら、「政治」の不在ということである。
 「政治」とは何かという問いに答えることは難しい。「戦争」さえ「他の手段をもってする政治」とされるぐらいだから、その広がりはわれわれの日常の人間関係から戦争に至るまで広大無辺と言ってよく、権力や物理的強制力、利益配分や秩序などに着目した多くの定義がある。しかしそれは学者に任せておけばよい。筆者がここで「政治の不在」と呼んだのは、相手と妥協し、協調して安定した秩序を作り出すことが、目先の利益を総取りし、相手の不満を力で抑圧するよりももっと大きな利益であると判断し、周到に実現する力が存在しないということである。
 イスラエルの独立戦争以来パレスチナの土地で繰り広げられた戦いは、第4次中東戦争(1973年)以降は「政治解決」に向かう条件が存在した、と筆者は思う。「オスロ合意」(1993年)は、イスラエルの長期的利益のためにリーダーが決意した重い政治的決断だった。

 いまなぜパレスチナに「政治」が不在なのか。それはパレスチナ人の利益を代表する国家が存在せず、またイスラエルの側に長期的利益を考える勇気あるリーダーが存在しないからだと言える。
 自分たちの利益を代表する国家が存在しないとき、パレスチナの人々はイスラエルという国家の前に、裸の個人として立たされる。相手と自分のあいだに圧倒的な力の差があるとき、イスラエルはパレスチナの個人の訴えを無視して、好き勝手なことができるし、相手に何らの譲歩をする必要を感じない。高い壁を作り、その中にパレスチナ人を閉じ込めておけば、自分たちは不都合な現実を見ないで済む。彼らの不満は力で容易に押さえつけることができ、つまり存在しないことにできたのだ。
 そういう圧倒的な力の不均等が、超大国アメリカがイスラエルの側に立つことによって固定化され、「政治の不在」が永続化されてきたというのが、パレスチナのここ三十年の歴史だった。

 「パレスチナの戦争」の勃発直後、BSフジの「プライムニュース」という番組に参加した高橋和夫が感想を問われ、「研究者たちは、皆、絶望しています」と絞り出すような声で言った。その時の高橋の表情が、忘れられない。

(この稿終わり)


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