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父のアルバム2 [思い出]

▼筆者は小学生のころから、父と言葉を交わすこと、顔を合わせることを避けていたように思う。父の発音は「茨城弁」のせいかイとエがあいまいで、江戸はイド、狛江はコマイとなった。農家の生まれのくせにニンジンやネギやホウレンソウが嫌いで、ニンニクなどもってのほか、食が細く、酒を飲まず、食事を楽しむという「文化」を持たなかった。話に知的な切れ味や面白みが乏しく、ときどき口にする垢抜けないダジャレは、家族の顰蹙を買うだけだった。
 だから筆者は、父との会話を避ける理由を父の側に求めようとしていたが、事実はそうでないことに十分気付いていた。
 筆者は父との関係を想い起して、以前このブログに書いたことがある。

 《……ひとつ屋根の下に暮していても、離れて暮らしていても、会話というものはほとんどなかった。子どもから父親に話しをすることはなく、父親から話しかけることもなかった。それは子どもが自分を避けていることを、父親が知っていたからであろうし、話しかけたときに返される残酷な反応を、彼がひそかに怖れたからかもしれない。
 詩人・吉野弘に「父」という詩がある。

「何故 生まれねばならなかったか。

 子供が それを父に問うことをせず
 ひとり耐えつづけている間
 父は きびしく無視されるだろう。
 そうして 父は
 耐えねばならないだろう。

 子供が 彼の生を引き受けようと
 決意するときも なお
 父は やさしく避けられているだろう。
 父は そうして
 やさしさにも耐えねばならないだろう。」

 筆者が父親を避けたのは、けっして「自分の生を引き受けようと決意」したからではなく、やさしい心根からでもなかった。通常なら思春期の一過性で終わるべき感情が、いつまでも成熟しない精神によって、長く保持されたということなのだと思う。》(「新しい背広」2012年12月16日)

 上の記述は、筆者と父との関係をそれなりに正確に表現しているが、多少踏み込みが足りないようだ。中島敦の『山月記』のなかの言葉を借りるなら、筆者の「臆病な自尊心」と「尊大な羞恥心」こそ、われわれのあいだの会話の無さを説明するものだった、と今思う。
 筆者は、父ともっと話をしていたらよかったとは思わないし、また、彼の歴史をもっと知りたいとも思わない。だが今ならずっと穏やかに、相手をおもんばかる余裕をもって、接することができるだろうとは思う。
 父が仲間と撮影旅行に出かけ撮ってきた石仏写真を観ながら、こういう同好の士が結構いるんだねと話を向け、短い感想をもらすぐらいのことなら、今の私は自然な態度でできるように思う。

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▼フランス文学者だった桑原武夫に、「おやじ」という小文がある。(『桑原武夫全集』4 朝日新聞社 昭和43年)
 桑原の父、桑原ジツ蔵(明治3年~昭和6年 ジツはPCに用意がない漢字のためカタカナで表記)は、那珂通世、内藤湖南、白鳥庫吉らと並ぶ東洋史学者だったが、亡くなる2年前に倒れ、寝たきり状態で最晩年を過ごした。医師の提案で、家族か付き添い人か誰か一人が寝ずの番に就くことになり、桑原が付き添っていた晩だった。暗くした電気スタンドの明かりで本を読んでいると、父はふと目を覚まし、息子に気づき、声をかけた。「武夫、何か言っておかなければならぬことでもあるのか」と。

 《最初よくわからなかったが、すぐ父の顔つきと語調から直観された。その直感にまちがいはない。みんなが寝しずまった深更に、死ぬ前の父に何か告白しておかねばならぬことがあって、私が枕頭にすわっていると思ったのだ。なんでも言ってごらん、といった意味のことをつぶやいた。私がよく夜おそく帰り、二、三度朝帰りしたこともあるところから、借金ができている程度のことならなんでもないが、ひょっとしてのっぴきならぬ女関係でもできているのではないか、そんなことが、衰弱しきった、しかし愛情にみちたおやじの脳裏にひらめいたのにちがいない。私の伯父やいとこにいろいろのことをしたのがある。しかし私については父の買いかぶりであった。
 私は耳に口をよせていった。
 「おとうさん、なにも心配していただくようなことはありません。そんなことは何もない。」
 そのときの父の、なんといううれしそうな顔、苦しいのか、もう何も言わなかったが、顔には安堵があった。すまぬというか、つらいというか、そのとき受けた強い感動は、きわめて単純なものであったのに、形容しようとするとむつかしい。
 やさしいおやじだった。》

 桑原武夫には、父親の生涯を見渡した「桑原ジツ蔵小伝」という文章がある。それは次のように結ばれている。
「……少年の日の夢が老年に実現する、それを美しい人生という、とフランスの詩人はいった。那珂、白鳥、内藤の諸氏とともに、日本に世界にほこる東洋史学を樹立した彼は、美しい人生を送ったひとといいうるであろう。」
 この言葉は文句なく美しく、父親を語る息子の言葉として出色のものであろう。筆者はそのことを認めつつ、同時に彼の「おやじ」という率直な文章を好んでいる。

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(この項おわり)

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北杜夫 [思い出]

 ▼北杜夫が亡くなった(享年84歳)と、昨日の新聞に出ていた。夕刊(朝日)の1面5段抜きの記事で、社会面にも関連記事があった。ずいぶん扱いが大きいな、と思ったが、べつにケチをつけるつもりはない。
 私は北杜夫の愛読者ではなく、著作も2冊しか読んでいない。しかしその2冊には、それぞれ忘れられない思い出がある。



 ▼最初に読んだのは北杜夫の代表作といわれる『楡家の人びと』である。1960年代半ば、高校3年生だった時の英語の教師が、何を思ったか、夏休みの宿題としてこれを読め、と言った。おそらく出版されて間もない時期で、評判が高かったのだろうが、大学受験を控えた生徒たちに、ずいぶん乱暴な宿題を出したものだ。
 国語の教師は対抗意識を燃やしたわけでもないだろうが、志賀直哉の『暗夜行路』を読め、宿題だ、と言った。生意気盛りの高校生は喜んでその挑発を受けて立ち、夏休みの何日かを費やして長編小説2冊を読了した。
 クラスの全員がこの「宿題」を真面目にやったのかどうかは、わからない。英語でも日本語でも読書感想文の提出を求められたような記憶はないから、読んでも読まなくても生徒の成績評価とは関係なかったのだろう。ずいぶん牧歌的な時代だった。そして「教養」という言葉がまだ信じられている時代だった。



 ▼1970年代の半ば、乗鞍でスキーをしていた時、Sさんという人と知り合った。当時50歳ぐらいだったのだろうか、派手な服装の若者が多いゲレンデで、Sさんの服装と滑るスタイルは古風で地味だった。本職は外科の医者だが、身体を壊して長時間の手術は無理になった。いまは北海道で学校の生徒の健康診断などをときどきやり、空いた時間はもっぱらゴルフとスキーに費やしている。そんなことを、ポツリポツリと彼は語った。
 いっしょに山を降り、松本の街で呑んだ。東京へ行き、飛行機で帰る予定だといっていたが、そのうち考えが変わったらしく、今夜はこの街に泊まるから、と言い、電車の切符を私にくれた。
 自分はここの松本高校に昔いたから、この街はよく知っている。飯田屋という旅館も昔から知っているので、久しぶりに顔を出してみようと思うんだ。だから遠慮することはない。自分たちも若い時は、年配の人たちの世話に散々なったんだから、いいんですよ……。
 そういって彼は躊躇する私に、切符を受け取らせた。松本高校にいたころのことは、北杜夫クンが書いていますよ、とも言った。



 ▼東京に帰り、『どくとるマンボウ青春記』を買って読むと、なるほどSさんらしい人物が登場する。いま手元に本がなく、おぼろげな記憶で書くのだが、北杜夫少年が旧制松本高校を受験するために新宿駅で汽車に乗り込むと、前の座席に高校生らしい年配の男が座っていた。それがSさんなのだろう。男は悠然と腰かけ、北杜夫は身体を固くして小さくなっていた。
 ところが北杜夫が受験参考書を開いて勉強を始めると、男は覗き込んで、これは知らなかった、と奇声を発した。ページをめくるとまた覗き込み、知らんぞ、こんなこと、と叫び、ああ、今年もまただめだ、と嘆息した。年配の高校生のように見えた男は、北少年と同じ受験生だったのだ。
 しかし北杜夫もその男・Sさんも、無事入学を果たす。ふたりは松本高校でともに学び、東北帝大の医学部へ進学した。



 ▼「われわれも年配の人たちの世話に散々なったんだから、いいんですよ……」と自然な調子で語るSさんの言葉を、私もそのうち誰かに言おう、と心に決めた。
 だが、その機会は残念ながら訪れない。
 まず、私は当時の彼の年齢をとっくに越えたのに、自然な調子でそういうセリフを吐く自信がない。もう一つ、私の周りにいるのは年寄りばかりで、若者がいない……。


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