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パレスチナの戦争 [政治]

▼ウクライナの戦争に続いてもう一つ、パレスチナで戦争が10月7日に勃発した。筆者は目を背け、耳を塞ぎたい気持ちで毎日を過ごしている。
 ウクライナ戦争はまだよかった。ロシアによる侵略行為に驚き、国際秩序に及ぼすその影響について強く憂慮したが、自分の立ち位置に迷いはなく、国際社会が分かりやすい態度表明をしていることも救いだった。ウクライナ軍が欧米からの武器の支援を得て善戦し、戦況が悪くない点でも希望が持てた。ウクライナ軍がロシア軍を押し戻し、プーチンのロシアが得るものもなく、侵略の代価ばかりが巨大な請求書を突き付けられることで、この古典的な悲劇が幕となる可能性について考えると、これからの世界にも希望が持てるような気がした。
 しかしパレスチナの戦争は違う。出口のない密室の中で、殺したり殺されたりの緊張が極限まで高まり、破裂し、多くの無辜の民が毎日殺されているのに、世界は有効な手を差し伸べることができない。イスラエルとハマスの圧倒的な力の差により、戦いの今後はイスラエルの指導者の手に握られ、彼は、一般市民の犠牲が大きくてもハマスを根絶するまで戦いをやめないと公言している。
 またパレスチナの戦争は、ウクライナの戦争への関心を薄れさせ、米国からの武器援助を妨げるという意味でも、筆者の心配は募る一方である。

▼筆者のパレスチナ問題の理解は、次のようなものである。(以下の記述は、BSの「放送大学」で聞いた高橋和夫の講座「パレスチナ問題」(2016年)に、全面的に拠っている。)

 現在、イスラエルという国家があるパレスチナという土地は、かってはオスマン・トルコの領土だった。オスマン・トルコは宗教的には寛容で、ユダヤ教徒やキリスト教徒の自治を認めていたから、20世紀の初めまで各教徒が共存していた。
 オスマン・トルコは第一次世界大戦で、ドイツの側に立って参戦した。大英帝国はアラブの指導者フセインに、独立を支持することをエサにトルコに対して反乱を起こすよう働きかけ(フセイン・マクマホン協定)、またシオニストに対してはその協力を得るために、ユダヤ人の建国を認める旨の約束をした。(バルフォア宣言)。そしてフランスとは、アラブのトルコ領を大戦後に山分けにする秘密協定を結んだ。(サイクス・ピコ協定)。戦争終結後、国際連盟が発足し、パレスチナは英国が統治を委任される土地となった。
 パレスチナには農業を営む少数のユダヤ人とアラブ人が棲み、互いの交流はないまま共存していた。英国の委任統治下ではパレスチナへ移住するユダヤ人は増えず、移住が爆発的に起こるのは、第二次世界大戦の終結後である。
 ナチの強制収容所で6百万人のユダヤ人が殺された事実が明らかになり、世界に衝撃を与えた。ユダヤ人に対して負い目を追うヨーロッパ社会は、1947年の国連決議によってパレスチナを二つに分割し、半分をユダヤ人に与えると決定した。ユダヤ人はこの決議を受け入れたが、アラブ人は受け入れなかった。国連決議後、アラブ連盟諸国とユダヤ人の戦いが起こった。(第一次中東戦争と呼ばれる。)
 戦争はアラブ側有利に進んだが、やがて武器がソ連やヨーロッパからユダヤ側に届きはじめ、形勢は逆転し、イスラエルは1948年5月に独立を宣言した。そしてイスラエルの領土内に住むアラブ人を、国外に追放した。このとき家と土地から追われたアラブ人は75万人に昇り、これが現在にいたる「パレスチナ難民」のはじまりである。この追放を、アラブ人はアラビア語で「ナクバ(大惨事)」と呼ぶ。
 第一次中東戦争の結果、パレスチナの北部と南部、その間を結ぶ地中海沿いの土地はイスラエルの領土となり、アラブ人の土地はガザ地区とヨルダン川西岸の二か所となった。国連はその結果を承認したが、アラブ側は認めなかった。
 (以下の地図は、1948年のイスラエルの独立戦争(第一次中東戦争)以後のものである。白っぽいところがイスラエル領。戦争前と比べ、北部のアラブ人地域が消え、ガザ地区とヨルダン川西岸地域も小さくなっているが、現在よりははるかに大きい。)
パレスチナ.png

▼現在のパレスチナ問題を考える上で大きな影響を及ぼしているのは、第三次中東戦争と呼ばれる1967年の戦争である。
 1967年にエジプトなどアラブ諸国とイスラエルの軍事的緊張が高まり、6月5日朝、イスラエルはアラブ諸国の空軍基地を奇襲し、これを壊滅させた。獲得した制空権の下で、イスラエル軍は地上戦でもアラブ諸国の軍を打ち破り、エジプト領のシナイ半島、ヨルダン川西岸地域(ヨルダン領)、シリア領ゴラン高原を占領し、6日間で戦争に完勝した。歴史的にパレスチナと呼ばれていた土地のすべてを、イスラエルが支配するようになった。
 講師の高橋和夫は、この戦争の勝利がイスラエル社会に与えた影響として、アラブ人との間の土地問題をどう解決するかについて、イスラエル人のあいだのコンセンサスが崩れたことを指摘する。安全保障上の理由から、イスラエルの安全が確かになるまで占領地を保有するという考え方は、それまでもあった。しかし神学上の理由から、パレスチナの土地は本来ユダヤ人のものだという主張が強まり、これが問題の解決をいっそう難しくしたのである。

▼パレスチナ問題の一つの画期は、1993年のオスロ合意だった。ノールウェーで秘密裏に進められていたイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)との交渉がまとまり、調印式が米国のホワイトハウスで行われた。クリントンが間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が合意文書に署名し、握手を交わした。
 合意のポイントは、PLOとイスラエルの相互承認であり、ガザとエリコ(ヨルダン川西岸地域)で、アラブ人の自治を先行して実施することであり、その他の問題は交渉により1999年までに解決することだった。
 この合意は、テロ組織とは交渉しないと主張してきたイスラエルのラビン首相が、PLOを承認することを決意することにより実現した。ラビンは1967年の第三次中東戦争の時の参謀総長であり、国民的な人気を持つ政治家であった。
 しかしオスロ合意は、二つの事件によって阻まれる。1995年11月のラビンが暗殺され、翌年5月に行われた選挙でラビンの後継者として「平和」を訴えたぺレスが、右派政党リクードのネタニヤフに敗れたからである。

(つづく)

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