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『ソ連獄窓十一年』補遺2 [本の紹介・批評]

▼「満洲国」がつくられたのは、なによりも日本陸軍の軍事的な必要からだった。しかし日本社会のなかにそれに先立って、満洲で「民族協和」「王道楽土」の理想を実現したいと考える思想や運動が生まれ、それらは関東軍の軍事的思惑と時には重なり、時には対立するような形で進行した。「民族協和」「王道楽土」の理想は言葉としては美しく、観念として崇高だが、それがいかなる形で実現し、あるいはしなかったのかを、「満洲国」の現実のなかで確認しなければならない。
 『キメラ』(山室信一)は同じ問題意識に立って、満洲国の現実がどのようなものであったのか調べているので、その記述を少し見ていきたい。

 山室は、「満蒙開拓団」に提供するために満洲国で開拓用地の買収にたずさわった男の手記を、取り上げている。男は「五族協和」「王道楽土」の理念に惹かれて満洲に渡り、大同学院を卒業してこの仕事に就き、戦後(1971年)その体験を振り返った。
 「土地に執着する農民の意欲を踏みにじり、号泣、跪拝しての哀願を圧殺して買収を強行し、二束三文の買収価格を押しつけなければならなかったとき、これではたとえ開拓団が入植したとしても、むしろ禍を将来に残すことを憂えるとともに、自己の行為に罪の意識を抱いた。」
 また満洲国最高検察庁がまとめた『満洲国開拓地犯罪概要』には、次のような吉林省の農民の証言が載せられているという。
 「行く処もない吾々に対し、十一月か十二月のころ家屋を渡せというのは、間接的に吾々は殺されたる気がする。実に哀れなものだ。」(朝鮮人農民)
 「匪賊は金品を略奪するも土地までは奪わず。満拓は農民の生活の基たる土地を強制買収す。土地を失うは農民として最も苦痛とするところなり。」(中国人農民)
 「十一月か十二月のころ」という言葉は、満洲の冬の厳しい寒さを念頭に読まなければならない。これらの記述や資料から、われわれは日本人の入植という満洲国建国のもっとも基礎的な部分で、土地の強制的な買収が行われ、民族協和ならぬ民族間の対立原因をなしていた事実を知る。
 敗戦時に27万人を数えた開拓民が入植したとき、その土地の多くは未開拓ではなく既墾地だったから、それはそこで働いていた現地の農民を立ち退かせた跡だったはずである。満洲の農地所有者の多くは都市に住んでいたから、彼らにとって農地の買収は金の問題に過ぎなかっただろうが、耕作に従事していた農民にとっては、生活基盤を一瞬にして失う問題だった。

▼満洲国では1940年に徴兵制を採用し、1942年には兵役に服さない壮年男子に、国家に対する勤労奉仕を義務付けた。徴兵と勤労奉仕を両輪として国民を錬成し、国家への忠誠を調達しようとしたのである。
 また1942年に、「一つ、国民は建国の淵源、唯神の道に発するを思い、崇敬を天照大神に致し忠誠を皇帝に尽くすべし」「一つ、国民は忠孝仁義を本とし民族協和し道義国家の完成に努むべし」等の5箇条の「国民訓」を制定し、学校で朗唱させた。
 学校儀礼は次のような構成だった。まず国旗掲揚があり(学校によっては日章旗も掲揚された)、建国神廟、日本の皇居、帝宮を遥拝し、日本軍の武運長久と戦没英霊のための黙禱、そして校長が先導して「国民訓」の朗唱と訓話、最後に建国体操――。
 こうした「国家意識の注入」は、はたしてどの程度の成功を収めたのだろうか?

 1945年8月17日、つまり日本の降伏が伝えられ、満洲国皇帝溥儀の退位と満州国解消が決定した日、建国大学助教授の西元宗助のもとに朝鮮人と中国人の学生が別れの挨拶に訪れた。彼らはそれぞれ、次のように語ったという。
 朝鮮人学生:「先生はご存じなかったでしょうが、済州島出身の一、二のものを除いて、われわれ建大の鮮系学生のほとんどが朝鮮民族独立運動の結社に入っておりました。しかし先生、朝鮮が日本の隷属から解放され独立してはじめて、韓日は真に連携できるのです。私は祖国の独立と再建のために朝鮮に帰ります。」
 中国人学生:「先生、東方遥拝ということが毎朝、建大で行われました。あの時われわれは、どのような気持ちでいたか、ご存じでしょうか。われわれは、そのたびごとに帝国主義日本は要敗――必ず負けるようにと祈っておりました。……私たちは先生たちの善意は感じておりました。それだけに申し訳ないと思っております。しかし先生たちの善意がいかようにあれ、……満洲国の実質が、帝国主義日本のカイライ政権のほかのなにものでもなかったことは、いかんながら明らかな事実でした。」
 満洲国の国立大学の学生という知的エリートの発言内容から、国民一般の意識を測ることは無理かもしれない。しかし彼らの発言が、国民一般の意識から乖離していたという証拠もない。「国民訓」を朗唱させたり、東方遥拝をさせたりという、いかにも「日本式」のやり方は、筆者の眼にもアホらしく感じられ、とても日本人以外の民族の納得と共感を得る方法だったとは思えない。
 この建大の学生の逸話の中に、満洲国の為政者が期待した国民意識の育成は見事に失敗を露呈している、と読むべきなのだろう。しかし建国大学の教育は、こうした批判的知性を育んだことによって、十分成功したということもできるだろう。

 山室信一は次のように書く。《満洲国を存続させようと努力した日本人が、そもそも「悪意」をもってそれに関わったとは私には思えない。それは日本人である私の僻目に違いないであろうが、人びとはみな、それぞれの場で、それぞれの仕方で満洲国に対して自分なりに「善意」を懐いていたように思われる。》
 筆者も山室の考えに賛同する。日本人の唱える「五族協和」は、山室が指摘しているように、互いの存在を認め合って「協和」するのではなく、日本人が他の民族に文明と規律を教え込むという意味のスローガンだった。異質なものの共存を目指すのではなく、日本人の考える規律へ服従させることをもって、協和の達成された社会とみなすものだった。一言で言えば、当時の日本人の満洲諸民族や日本民族への考え方は、きわめて独善的なのだが、その独善性を自覚できないほど「善意」だったということなのかもしれない。前野茂や武藤富雄や、その他多くの満洲国で活躍した日本人官僚たちは、その「善意」と「独善性」によって迷うことなく満洲国の建設に打ち込み、多くのことを成し遂げたのであった。

▼最後に関東軍の責任について一言して、この稿を終わりたい。
 前野茂は『ソ連獄窓十一年』の中で、ソ連軍が満洲に侵攻して来たとき、関東軍がその家族を鉄道でいち早く逃がしたことを、強く批判している。それはまったく正当な批判である。
 太平洋戦争の戦況悪化とともに多くの部隊が満洲から南方へ引き抜かれ、1941年7月の関特演当時70万の「無敵関東軍」を誇った戦力は、1945年にははるかに低下していた。ソ連軍から満州の日本人をどうやって守るか、現地死守か早期引き上げか、満洲国政府と関東軍は協議していたが、結論を出せないうちにソ連軍の満洲侵攻となったのである。非常事態に対処する計画をつくらず、満洲国政府にもつくらせなかったことは、まずもって批判されなければならない。
 そして満洲国の国防を全面的に委託された立場にもかかわらず、侵攻してきたソ連軍にまともな応戦をせず、その結果、開拓民をはじめ多くの満洲在住の日本人を無防備なままソ連軍の暴力の前に晒し、多くの悲劇を生み出した責任は、きわめて重大である。
 ソ連およびソ連軍について甘い理解を持っていた結果、六十万人近い抑留者を出したことについても、関東軍は責任を免れない。
 その無思慮、無能力、無責任は、時代を超えて、あらためて考えるに値するテーマだと思われる。

 (おわり)

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『ソ連獄窓十一年』補遺1 [本の紹介・批評]

▼前回まで8回にわたり『ソ連獄窓十一年』を取り上げたが、内容紹介を主とし、筆者の考えや批評を積極的に述べることは控えた。前野茂の苛酷な体験について何か述べようとすると、その原因となった「満洲国」についても触れねばならず、筆者にはその用意がないように思えたからだ。
 現在、中国や台湾では、「満洲国」は「偽満洲国」ないし「偽満」と呼ばれ、そのすべては日本の中国侵略と植民地支配に関わるものとして、全否定の対象となっているという。前野茂は、(ソ連ではなく)中国の政権からそのように批判される余地があることを、十分自覚していた。しかし自分と自分の同僚である「満洲国」の官僚たちが、「満洲」(中国東北部)の人びとの福祉の向上のために懸命に働いたことは、胸を張って主張できると思っていた。
 《……桓仁を出てしばらく行くと、大きな峠にさしかかった。峠の上からは桓仁盆地が一目で見渡せる。コンクリートの桓仁大橋がよく見える。こんな山奥に立派な橋がかけられ、険しい大きな峠に平坦な広い道が設けられている。満洲国は夢のごとく消えてしまったが、これらの建設は満洲国十三年の業績を示すものとして、久しく後世に残るのではあるまいか。あの国は日本帝国主義の所産だ、として批判されるであろうけれど、あの国の建設にしたがっていた日本人の中には、ほんとうに原住民の福祉を考え、相携えて東洋人のための理想国をつくろうという理想と熱意を持っていたものもたくさんいたのだ。世がひとたび変わればその人々も追われ、捕らわれ、殺されてゆくのだ。……》
 通化で八路軍に捕えられた前野が、通化から桓仁へ、さらに寛甸へと車で連行されたときの思いである。橋や道路の建設だけではない。匪賊を討って治安を回復させ、近代的な法秩序を確立しただけでなく、教育制度を整備し、近代的な工業を移植・発展させ、統一的な通貨制度をつくりあげた。「満洲国」にたずさわった人びとが使命感を持って懸命に課題に取り組み、短期間に大きな仕事を成し遂げたことは確かである。

▼前野茂と同様、東京地裁の判事をしていた武藤富雄は、満洲国で人材を求めていると聞き、招聘に応じた。武藤は司法部門の仕事のほか、満洲国の広報担当の責任者として活躍し、昭和18年に日本政府の情報局第一部長として招かれ帰国。終戦の際退官し、日米会話学院の創設、銀座の書店・教文館の経営、キリスト教系大学の理事長や学院長を歴任した。その武藤は、次のように書いている。
 《私たち日系官吏は、……白人の勢力の下にあって苦しんでいるアジア人を彼らの束縛から解放し、諸民族の協和による理想国家の建設を行うことを志したもので、これを満洲の地にあって実現しようとしたものである。/私たちは「征服者」としてではなく、「奉仕者」として満洲国建設に当たったと信じている。/私たちは満州を植民地としてではなく、現地住民と一体となり、複合民族国家として自立する理想国家を建設しようとしたのである。》(『私と満州国』武藤富雄 文藝春秋 1988年)
 武藤のこの本に名前が挙げられている笠木良明が率いた大雄峯会や、日本留学の中国人が多く関わった満洲青年連盟など、満洲に民族協和の「理想国家」を建設しようという若者たちの運動が、「満洲国」建国以前に盛んに行われていた。それらの運動は「満州国」がつくられ、整備されていく中で潰されるのだが、「満洲国」で働いた官吏の中にも共通の思いが流れていたと、武藤は言うのだろう。

▼日本と満洲(中国東北部)の関わりは、日露戦争後に結ばれたポーツマス条約にはじまる。日本は旅順と大連の租借権をロシアから引き継ぎ、ロシアの経営していた東支鉄道(満州鉄道)のうちの旅順・長春間を譲り受け、鉄道とその付属地を守備するために関東軍を駐留させることになった。「満蒙」は「十万の生霊、二十億の国帑(こくど=国庫金)によってあがなわれた土地」であり、日本は「特殊権益」を持っているということが、日本国内でしきりに言われた。だがそれは国家としての統合を進め、帝国主義諸国に蚕食されている国の権利を回復しようとする国民党政権や中国民衆のナショナリズムと、正面から衝突するものだった。
 日本が満蒙を支配することは、軍事的な観点からも必要とされた。第一次世界大戦後の世界は「総力戦」の時代となり、国家は長期戦、大消耗戦に耐えられなければならず、日本は自給自足圏形成のための兵站基地として、資源豊富な「満蒙」を領有することが欠かせないと考えられたのである。
 「満蒙」が植民地朝鮮と接しているために、ソ連や中国がそこに勢力を持つならば、日本の朝鮮統治が危うくなるという強迫観念もあった。
 中国人は国家意識が希薄であり、日本軍が満洲の封建軍閥を打倒し、諸民族の楽土を建設するなら、それは日本の存立上必要であるだけでなく、中国人自身の幸福でもある、といった議論が、日本の満蒙領有を正当化するために盛んになされた。

▼しかし「満蒙領有」という石原莞爾をはじめとする関東軍の主張に、陸軍中央は反対だった。陸軍中央は、「満蒙」をシナ本土政府から分離独立した地域とする「独立国家承認」案を採用し、関東軍もそれに従った。
 1931年(昭和6年)9月18日、関東軍は柳条湖事件を起こし、それをきっかけに中国東北部(満洲)各地の都市を占拠した(満洲事変)。そして地域ごとに地域政権や「自治委員会」を立ち上げるように働きかけ、中央政府からの分離独立や自治を宣言させ、これを統合して新たな政府をつくりあげるという方式で、「満洲国」建国に向かった。
 1932年(昭和7年)3月1日、「満洲国」が誕生。「満洲国」の政治の中心として「執政」を設け、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が「執政」に就いた。

 新国家の諸法制を起案した関東軍の国際法顧問に、関東軍の板垣参謀が与えた基本指針は三つだった。満洲は完全な独立国とすること、日本の言うことを聞いてもらうこと、国防は日本に任せてもらうこと。以上の三条件が満たされるのであれば、帝国でも王国でも共和国でも、なんでもよろしい――。
 このため溥儀は関東軍本庄司令官宛ての書簡で、満洲国が国防と治安維持を日本に委託し、その経費を負担する等のほか、満洲国の幹部に日本人を任用し、その選任・解職には関東軍司令官の推薦・同意を要件とすることを約束した。それは要するに、満洲国が関東軍司令官の“内面指導”下に入るということを意味する。「完全な独立国でありつつ、日本の言うことを聞いてもらう」という矛盾を矛盾としない方法が、この“内面指導”だった。
 『キメラ』(山室信一 中公新書 1993年)という書物に「満洲国官吏の機関別員数と日系占有率」という表が載っているが、1935年に中央、地方併せて幹部職員の45.8%が日本人であった。日本語の使用と日本型の事務処理を前提にすれば、満洲国幹部に日本人が多数採用されることは自然なことだったにちがいない。(以上の満洲国建国に関する記述は、主として『キメラ』(山室信一)に拠る。)

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』8 [本の紹介・批評]

▼翌日の早朝、作業隊の代表は、日本の議員団を抑留者全員で迎えたいから作業は休みたいと、ラーゲル当局に申し入れた。ラーゲル当局はこれを拒否し、日本議員団の来所は絶対にない、と断言した。そして朝食が終わり作業の時間が来ると、いつもどおり合図の鐘を鳴らした。しかしいつもの場所に集まる抑留者は、一人もいなかった。
 あわてた当局は作業隊幹部を招集し、その不法をなじった。作業隊幹部たちは、あらためて日本議員団との会見を要求し、議員団来訪の事実を隠し会見を妨害しようとするソ連側を、強く非難した。全員処罰の脅しが効果がないことを知り、議員団来所の事実を隠しておけないことを悟った当局は、「日本議員団が来所することは聞いており、歓迎準備を命じられていることは事実だが、まだ来所の日時について通知を受けていない。来所の日時が決まったら、必ず全員で会見できるようにするから、今日は作業に出てくれ」と言った。
 「われわれはこの十年間、あなたがたに騙され続けてきた。見え透いたゴマカシを信じるわけにはいかない。」
 「それでは議員団が来所しなかったら、君たちはどうするつもりだ?」
 「今日来なければ明日、明日来なければ明後日、われわれは会えるまで作業を拒否するだけだ。」
 ソ連側はついに作業隊の要求を呑み、作業の休みを宣言した。作業隊幹部はさらに議員団との会見の進め方についても、抑留者側の計画を容認させた。

 抑留者たちは10時半に野外劇場に集合した。11時を回ったころ、日本の議員団が到着した。立派な服装をし、栄養もたっぷり行きわたっているように見える彼らを見て、《何とも言えないうれしさと誇りが胸にこみ上げてきた。この感じは私だけでなく皆に共通するものであっただろう。抑留者の間からは一斉に割れるような歓迎の拍手が湧き起こった。》
 まず抑留者代表が来訪に対する歓迎と感謝の辞を述べ、抑留者の現況について概括的な報告を行った。次いで議員団長の挨拶と議員たちの自己紹介ののち、抑留者代表の求めに応じて、日ソ交渉の経緯と日本の政治的・経済的状況について、説明報告がなされた。現在、日ソ間で平和条約締結を目指して交渉が行われており、南千島の帰属問題で交渉が難航していること、また日本は終戦直後の混乱から立ち直り、産業は発展し、国民の生活水準は飛躍的に向上したことなどが報告された。
 《それは何よりも嬉しくありがたいことであった。抑留者の中には感激に堪えず、声を放って泣く者あり、ほとんどすべての者が涙で顔を濡らしていた。報告者の声は時として鳴りやまぬ拍手と歓声で中断された。》
 その後、ラーゲル内の視察と患者の慰問を終え、議員団は割れるような拍手と歓呼に送られて帰っていった。

▼日ソ間の国交回復の協議が開始され、抑留者たちは帰国の日も近いと期待していたが、交渉はなかなか進まないようだった。
 ソ連に抑留されていたオーストリア人が帰還し、ドイツ人もアデナウアーとフルシチョフの間に戦争終結宣言がなされたあと、帰還を果たしたことが新聞を通じて知られると、抑留日本人の間に割り切れない気分が漂った。同じラーゲル内の韓国人や中国人も送還され、あとに日本人だけが残ることになると、言いようのない憤懣と焦燥感が抑留者の間に充満した。抑留者たちは早期の解放を求めて、1956年の年明け早々ストライキに入り、作業に出ることを拒否した。
 このストライキは3月半ばに潰されたが、その後抑留者の待遇はあらゆる面で飛躍的に改善された。また作業隊員の大部分は、その労働から実質的に解放された。

 7月下旬、ラーゲル内で前野を含め約十名の「裁判」が行われた。前野に下されたのは、「病状にかんがみて釈放する」という「判決」だったが、彼は感激することもなくこれを受け止めた。それは幸福があまりに大きく、感情がついていけなかったのかもしれないし、そうした判決が出ることは当然だという信念があったためかもしれないと、彼は振り返る。
 8月半ば、前野は他の帰還者百六十名と一緒に鉄道でナホトカに送られ、帰還船・興安丸に乗り、ついに帰国を果たした。1945年に満洲国・通化で八路軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡されてから11年が経っていた。

▼長々と『ソ連獄窓十一年』の叙述を紹介してきた。と言っても、文庫本千二百ページのうちのごく一部に過ぎないが、前野茂の体験の骨格が明瞭になるように努めながら、筆者の関心を引いた部分を中心に紹介してみた。
 筆者は『ソ連獄窓十一年』を、興味深く読んだ。ソ連軍に捕らわれた男の75年前の特殊な体験をつづった本としてではなく、無意識のうちに、現在に重ね合わせて読んでいたからかもしれない。
 筆者はこの本を読みながら、幾度も現在のウクライナの戦争を思った。前野の体験の核にあるものの一つは、ソ連=ロシアを相手にしたときの「言葉の無力」ということだと思われるが、それはウクライナの戦争でも同じではないか、と筆者は思うのだ。
 前野が感じた「言葉の無力」は、彼自身の取り調べ、起訴、裁判に際して、共通の地盤となるべき「法の支配」が存在しないことだった。ソ連における裁判は、調査官がいみじくも前野に言ったように、「政策遂行のための手段」に過ぎず、結論が先にあり、その結論を得るためにのみ調査し、法の解釈や論理を曲げても形式は整え、政治に奉仕するものだった。
 ウクライナ戦争も同じとは、次のことを指している。昨年3月にロシアのラブロフ外相は、ロシア軍のウクライナ侵略の真っ最中にもかかわらず、次のように語った。
 「われわれはウクライナを攻撃していない。ロシアの安全が脅威に晒されているのだ。……ロシアが戦争を望んだことは一度もない。ウクライナ市民は人間の盾にされている。人間の盾として人質になっている民間人を解放したい」。
 この言葉を聞いた世界の人びとは、啞然としてラブロフの正気を疑っただろうが、これに類する発言は、プーチンをはじめロシアの政治指導者によって繰り返されている。世界がつくりあげてきた共通の良識や動かしがたい事実を平然と無視し、手前勝手な議論をしまくるという鉄面皮な態度を見せつけられては、「言葉の無力」を感じるのはやむを得ないだろう。
 彼らの言葉が、政治的な強弁として発せられているのか、それとも頑迷な思い込みによるものなのか、世界の人びとは判断に迷うにちがいない。政治的強弁だとするには、彼らの態度には“うしろめたさ”が微塵も感じられないし、頑迷な思い込みのせいだとするには、彼らに“目覚める”時が訪れる気配は一向に見えないのだから。
 二つの「言葉の無力」は、原因も形も顕われ方も異なるが、言葉への信頼を失わせる点は変わりがない。言葉への信頼が失われるとき、剝き出しの暴力が世界を支配する。

(おわり)

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『ソ連獄窓十一年』7 [本の紹介・批評]

▼1953年3月初め、スターリンが死んだ。続いて内務大臣ベリヤが、政府転覆を企てたという容疑で逮捕され、処刑された。スターリンの死より少し前から、外国人の囚人に対する取り扱いは少しずつ寛大になっているように感じられ、支給される食糧にも改善が見られた。7月半ばになり、前野は初めて家族からの手紙を受け取った。
 前年の9月に家族へハガキを書いて、返事がいつ来るか、クリスマス頃になるか、あるいは正月になるかと、首を長くして待っていたが、ついに返事は来なかった。2月になっても来ない。妻子の運命について、不吉なことがあとからあとから頭をよぎった。
 すると監獄当局に呼び出され、モスクワから次のような注意が届いたので、伝達すると言って、監獄副長の少佐が紙片を読み上げた。文字は必ず楷書ではっきり書くこと、文章はできるだけやさしく簡単に書くこと、食品の名前はなるべく書かぬこと―――。
 ソ連に良い日本語通訳が少ないことを身にしみて分かっていながら、自分はなんと馬鹿なことをしたのだろう、と前野は悔やんだ。文字は楷書で、文章はできるだけやさしく書いたつもりだった。しかしあれも書きたい、これも書きたいと、虫眼鏡が必要なほど小さな字でいっぱいに書き込み、日本のなつかしい食べ物を思い出して、それを送ってほしいと書きいれたから、検閲する通訳陣はたちまち音を上げてボツにしたのだ。こうして連続5回、前野の手紙は握りつぶされていたのだった。
 注意を受けて、前野は全文20字の電報のようなハガキを書いた。その返事が届いたのである。家族は皆元気で、東京に残していた長男は東大の助手として働いていること、満洲で別れたとき三歳と二歳だった娘は小学校4年生と3年生になり、生まれていなかった男の子も1年生になったこと、妻は女学校の英語教師として働いていること、などが書かれていた。
 中風で半身不随になり、監獄の病院のベッドに横になっていた前野は、寝たままハガキを高く差し上げ、思わず「万歳!」と叫び、「ざまあみろ!スターリン!」と大声をあげた。
 《ついに私は勝ったのだ!この瞬間、心からそう思った。》

▼この年の12月、日本人戦犯千二百数十人がナホトカから日本へ送還されたという記事が新聞「プラウダ」に載ったのを、前野は目にした。
 翌年(1954年)の9月、前野は6年間過ごしたウラジミール監獄を出され、シベリア鉄道で1か月近くかけて東部へ送られ、ハバロフスクの戦犯収容所(ラーゲル)に入れられた。このラーゲルは、東西約百メートル、南北約二百メートルの広さを持ち、有刺鉄線を上に張り巡らした高さ4メートルの外壁で囲まれ、外壁の四隅には望楼があり、小銃を持つ番兵が絶えず見張っていた。レンガ造りのバラックと呼ばれる建物が4棟あり、ここに囚人が居住し、他に衛兵所、食堂、浴場、病院、洗濯場、便所、野外劇場、麻袋修理工場などが、独立した棟としてあった。
 新入所者がラーゲルに着くと、まず医者が診断し、「重労働に適する者」、「軽労働に適する者」、「病弱者であるが軽労働は差し支えない者」、「あらゆる労働を免除すべき病弱者」、「即時入院が必要な病人」に分類した。前野は「あらゆる労働を免除すべき病弱者」に入れられた。
 ラーゲルは囚人に強制労働を課し、収益をあげる経営体だった。ラーゲルの建設費も維持費、つまり囚人たちの生活費や職員の俸給も、囚人たちの稼ぎによって賄われる仕組みだったと、前野は書く。囚人たちは朝6時の鐘で起床し、7時半にはトラックに詰め込まれて建設作業の現場へ送られ、近場なら5列縦隊を組まされて徒歩で作業現場へ連れて行かれた。道路をつくり、工場やアパートを建設することが主な仕事だった。
 この構外作業がラーゲルの最大の収入源だった。仕事を発注した事業体からラーゲルに、その労働の量と仕事の成績に応じて金が支払われ、ラーゲルはそこから経費を差し引いた残りを収益とした。ハバロフスク市内最大の広場や大道路の建設、市内の病院、学校などの新しい建築は、すべてこうして造られたものだと前野は聞かされた。
 構内の軽作業としては、食堂やバラックの清掃、構内清掃、便所掃除、洗濯作業、風呂場勤務などがあった。

▼このラーゲルには、監獄とは比較にならぬ広範な自由があった。収容者は、外部との接触は厳しく制限されているものの、構内ではいつどこへでも自由に出かけられ、誰といつ会い、何を話そうと自由だった。また花壇があり、収容者は花を愛でることができ、青葉の下で清浄な空気を満足するまで吸うことができることも、前野には大きな喜びだった。
 収容者は約1千名だったが、その八割は日本人であり、日本語を喋れることも嬉しかった。収容者たちは週1回の映画の上映を楽しみにするほか、演劇、演芸、音楽会などの催しものを盛んに行っていた。『収容所から来た遺書』(辺見じゅん著)で知られることになった、山本幡男(はたお)が中心の俳句の集まり「アムール句会」も、収容者の文化活動の一つだった。野球や相撲も盛んで、手製のグラブやボール、バットもなかなか立派なものだった。
 しかしラーゲルには監獄と同様、「スパイ」の問題はあった。またシベリア・デモクラ運動と呼ばれ、ソ連を正義とする立場に立って収容者を告発、密告する運動が、一部で行われていた。「反動は日本に帰すな」、「反動は白樺の肥料にせよ」のスローガンが掲げられ、前野の知り合いも幾人か、「つるし上げ」の犠牲となった。

▼1955年の夏、日本の代議士十数名がソ連政府の招待でモスクワを訪れたことが、新聞に載った。議員団はフルシチョフ、ブルガーニンと日ソ国交回復や抑留者送還問題を話し合い、両者の話し合いの内容が詳細に公表されていた。ロシア語を読める者は貪るようにそれを読み、ただちに日本語に訳されて食堂の壁に貼り出された。
 そうこうしているうちにラーゲリに砂や小砂利が幾台ものトラックで運び込まれ、広場や道路に撒かれ、全バラックの清掃が抑留者に命じられた。汚く曇っていた窓ガラスはピカピカに磨き上げられ、ロシア人の看護婦長は装飾用のカーテンを徹夜で縫っていた。抑留者たちは、これはよほど偉い人が来るに違いないと直感した。
 ある日リーダー格の男がバラックの大部屋で、皆さんと協議したい、と声を張り上げた。
 「諸般の状況を総合して判断すると、明日、日本の訪ソ議員団がわれわれのラーゲルを訪問するのは間違いない。しかしラーゲル当局はこれを否定し、われわれに明日作業に出るよう要求している。当局が議員団と抑留者を接触させまいと企んでいることは明白で、彼らは議員団がわれわれから抑留生活の真相を聞くことを恐れているのだ。そこで明日とるべき行動を決めておきたい。代表者を決めて議員団と会うようにすべきなのか、それとも全員が作業を拒否して議員団を歓迎するべきなのか。もし全員が作業を拒否したら、当局の厳しい処罰を覚悟しなければならないが、どうか?」。
 全員で作業を拒否することが、瞬時に満場一致で決定された。集会はさらに収容者を代表して議員団に挨拶や質問をする代表を選び、作業隊の幹部が他のバラックと協議するために出ていった。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』6 [本の紹介・批評]

▼前野茂は1945年の秋に満洲の通化で八路軍に逮捕され、ソ連軍に引き渡され、3年近く経ってようやく「判決」が出された。日本で判事の職にあった前野は、ソ連がどのような法律により自分を裁こうとしているのか、その論理はどの程度正当なものであるのかについて、強い関心を懐いていた。その結果は、予想をはるかに超えたデタラメなものであり、前野は驚愕と憤激の渦のなかで呆然となった。
 そもそもレホルトブスカヤ監獄の一室で言い渡された「判決」自体、その内容以前に形式としても、とても判決とは呼べるようなしろものではなかった。前野が下士官二人に両腕をとられ、デスクの前に立たされると、デスクの向こうの男は前野に名前と生年月日を確認したあと、引き出しから紙を取り出し、読み上げた。そして「わかったか」と、ロシア語で聞いた。「まるで分らない。通訳が必要だ」というと、「通訳の必要なし」と言い切り、両手の指で二十五という数字と格子の形をしてみせ、「わかったか」ともう一度聞いた。
 《……二十五年の禁固というおそろしい重刑に処するのに、公判も開かず、書面審理で片づけてしまうとは、なんという乱暴さ、なんという人権無視であろうか。恥ずかしくもなく、こんなことができるものだ。(中略)ことに通訳もつけないで、言葉のわからぬ外国人に対し、手真似で判決の宣告をするとは何ごとか。これが厳粛な刑事裁判の判決言い渡しと言えるだろうか。これでは第一、どういう機関によって裁判がなされたのか、軍法会議なのか、普通裁判所なのか、そしてまた、どういう事実が認定され、どんな法条が適用されたかも不明である。さらに、上訴が許されるのか許されないのか、許されるとして、どうしたらよいのか。いかに裁判が「政策遂行のための強硬手段」であるとはいえ、これではあまりに乱暴であり、無茶というものだ。……》
 デスクの向こうの男は前野に紙片を突き付け、署名するよう要求した。前野は、今ここで署名を拒んでもどうなるものでもないと、それ以上抵抗する気力も失せ、言われるままに署名をした。

▼前野茂が「判決」後に連れて行かれたのは、モスクワから鉄道で5~6時間の距離にあるウラジミール監獄だった。帝政時代から政治犯の収容所になっていた歴史の古い監獄である。
 入れられたのは、5~7人を収容する雑居房だった。起床時間や就寝時間、食事の時間が規則で決められ、便所と散歩に一日2回ずつ連れ出されるのはレホルトブスカヤ監獄と変わらなかった。また、食事の絶対量が少ないために飢えに苦しみ、寒さに震える生活も、変わりはなかった。
 しかし定められた行事以外に時間をどう使うかは、囚人の自由だった。黙って座っていようと寝台に横になって眠ろうと、読書をしようと書きものをしようと勝手だった。監獄の図書室には、文学書やマルクス・レーニン・スターリンの著書が揃い、新聞も読めた。囚人どうし喋ることも自由だったし、破れ物をつくろうために番兵に要求すれば、針と糸を手に入れることもできた。
 家族などから金の差し入れがあれば、10日に一度、必要な物品を買うこともできた。
 前野はロシア語の勉強をすることにした。同房の日本人にロシア語のできる男がいたので、まず初歩的な文法を彼から学び、その男が他所の房に移ったあとは、ロシア人やフィンランド人から教えを受けた。朝夕一枚ずつもらう便所紙に白紙の部分が多いときは大事に保管しておき、それに文字と意味を書きつけた。一カ月もするとロシア語の単語と意味を書き込んだ紙が十数枚になったので、黒パンを練って作った糊で張り合わせ、単語帳に仕上げた。
 しかしこの努力の結晶は、月に一回行われる「点検」で没収されてしまった。前野は必死になって抗議し、同房のロシア人も同情して前野に代わって弁明してくれたが、その単語帳の紙が便所用であるというだけの理由で、聞き入れられなかった。便所の紙は便所で使用するために支給しているのであり、これを監房に持ち帰り、他の用途に利用するのは違法であるというのである。
 しかし見つかれば没収されると分かっていても、当時の前野にとって単語帳は絶対必要なものであり、やめることはできなかった。幾度か没収が繰り替えされた後、金のあるロシア人に主食の黒パンを提供してノートを買ってもらうという方法を思いつき、ついに数冊のノートを手に入れた。これにアルファベット順に単語を書き入れ、手製の露和辞典ができあがった。
 前野は学習を始めて1年後に、曲がりなりにも新聞の国際欄の簡単な記事を、読むことができるようになった。しかし会話の方は、一向に進歩しなかった。

▼前野がウラジミール監獄で見知った囚人は、ロシア人やソ連邦内の諸民族だけでなく、日本人、中国人、朝鮮人、ドイツ人、トルコ人、ギリシャ人、フィンランド人、オーストリア人、ポーランド人、フランス人、アメリカ人等々、国際色豊かだった。前野は彼らの人柄や逮捕の原因、房の中での人間関係などいろいろ書き留めているが、それらはすべて割愛する。彼らが等しく待ち望んでいたのは、新たな戦争がアメリカとソ連の間に勃発することだった。米ソ間の戦争が勃発し、ソ連の政権がひとたまりもなく瓦解し、ソ連における全政治犯の囚人が解放されることを期待していた。
 もちろん戦争の途上、ウラジミール監獄の囚人たちがソ連の政権によって皆殺しにされる危険性は、多分にあった。解放の可能性は1%かもしれない。しかしそこには1%の可能性はある。このままではただ死を待つのみで、1%の可能性すらない。《溺れる者は藁をも掴むの諺がある。哀れな囚人たちはこうして万死に一生を求めて、米ソ戦争の勃発を一日千秋の思いで待ち望んだのであった。》
 1950年6月25日の新聞を手に取ったとき、囚人たちは「期待に胸躍らせて手を取り合い、躍り上がって快哉を叫んだ」。南北朝鮮軍の衝突が報じられていたからだった。囚人たちは非常な期待を持って事の成り行きを注視していたが、北朝鮮全土が国連軍によって占領されるという時期になっても、ソ連軍は動こうとしなかった。代わりに中国義勇軍が参戦し、北朝鮮の国連軍を押し戻したことが報じられ、囚人たちは驚いた。

 1952年9月、日本人囚人が集められ、監獄副長の少佐から、月1回家族に手紙を送ることが許可されることになった、と告げられた。ただし、こちらでの生活については一切書いてはならないと、少佐は付け加えた。
 ほんとうかな?また騙されるのではないか?という思いが、まず前野の頭に浮かんだ。まったく予期していなかったことで、夢でも見ているようで、容易に信じることができなかった。
 《ほんとうの歓びが湧きあがって来たのは、少佐の部屋を出て、階段を途中まで降りたころであった。私は(同房の)前田氏を顧みて笑いかけた。彼の顔も笑いに溶けきっていた。》

(つづく)

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「ソ連獄窓十一年」5 [本の紹介・批評]

▼レホルトブスカヤ監獄の独房では、居眠りすることも許されなかった。
 朝食の水っぽい黒パンを食べ、白湯を飲み干すと、途端にもう空腹を覚え、その瞬間から次の食事の来るのをひたすら待つことになる。次の食事までの時間をどう過ごすかは、大問題だった。
 読む本も話し相手もなく、紙もペンもない。大股に歩けば4歩で済む獄房内の散歩は、すぐに飽きるし何よりも腹が減る。ぼんやり寝台に腰かけていると、眠気が襲ってくるが、居眠りしているのを覗き穴から見つけると、番兵は鉄の扉を持っている大鍵で連打する。そのすさまじい大音響に、前野は幾度も飛び上がった。
 眠っている間だけが救いであり、楽しみであり、夜がひたすら待ち遠しかった。
 前野は、午前中は窮乏のどん底にいるであろう妻子が生きていく方策を考え、妻や子どもとの楽しい団欒を夢想することにした。そして午後は、新日本の再建の方策を考えることに没頭した。疲れてくると小机にタオルを広げ、大匙を筆代わりにして習字の稽古の真似をしたが、番兵はタオルや大匙を点検して、合点の行かぬ顔をしていた。

 モスクワに来るまでの取り調べは、北朝鮮や極東というソ連からいえば僻陬の地で行われたために、調査官や通訳の質が低く、こちらの主張が理解されないことが多かったのではないかと、前野は考えていた。ソ連の首都には学問教養のある調査官がそろっているだろうから、今度こそ満州国の司法制度について正しく理解してもらわなければならない。そう考えて前野は、呼び出しを今日か明日かと待っていた。しかし前野の期待は見事に裏切られ、なんの音さたもない単調な日々が過ぎていった。
 食糧不足や運動不足、それに精神的な重圧が重なって、前野の健康は急速に衰え、精神力も低下し、闘志の薄らいでいくのを自覚した。両脚の膝から下がむくみ、指で押すと深くへこんだ。毎日の散歩に出るのも苦痛になったが、散歩を休むことは認められず、途中で立ち止まったりしゃがみ込むことも許されない。監視の兵に脚のむくみを見せ、「ドクトル、ドクトル」と訴えたが、なんの効果もなかった。
 ある日ふと、自分の訴えたのが散歩へ誘導する兵で、任務が異なるため効果がなかったのかもしれないと思いつき、監房の看守兵にドクトルが必要だと訴えてみた。すると30分ほどして女医が現われ、聴診器を胸に当てて簡単に診察して帰っていった。あまりにも簡単な診察なので、これでは薬さえくれるかどうか怪しいものだと思っていると、その後の食事は量質ともにガラリと変わり、薬も処方され、前野は九死に一生を得る思いだった。

▼病人用の食事が支給されるようになったころ、やっと取り調べが始まった。
 昼食が配られる直前に呼び出され、尋問は夜7時ごろまで続けられた。独房に帰ると冷え切った昼食のスープと粥が待っていて、これを食べ終えるとすぐに夕食が配られる。そして夜9時になり、もうすぐ就寝だと思っていると、迎えの下士官が扉を開ける。夜呼び出されると、12時を過ぎなければ帰してもらえない。ろくな尋問のない場合でも同じであり、これは彼らが「夜勤特別手当」を稼ぐためにやっていることだと、前野は確信した。
 尋問の内容は、これまで行われたものの繰り返しに過ぎなかったが、違いはこれまでとは比較にならないほど強引に、彼らの思う方向にもっていこうとすることだった。満州国の性格やその司法制度について前野が説明すると、調査官の大尉は「ナンセンス!」と言って机をたたき、「そんなことを言うなら、今すぐに中国に引き渡してやる。中国に引き渡せば、あなたは長春の広場で首を斬られるだろう」と脅した。
 相手はこちらの主張を聞く気などまるでなく、自分の意にかなう供述を得るためには、中国に引き渡すとか懲罰室に入れるなどと脅迫することも厭わない。こうした人間にかかっては助かる道はないだろうと、半ば自暴自棄の気持になり、前野は言いたいだけのことを言うことにした。
 「それは結構だ。中国に対しては私も責任を感じている。しかし貴国に対しては、何ひとつ害悪行為をしていないし、またしようと思っても出来ない職についていた。それなのに貴国は私を捕らえて、犯罪人扱いする。それは他国への内政干渉ではないか。中国に渡したいのならそうしてくれ。しかし私は、現在の正当政権である蒋介石政府に引き渡されることを要求する。」
 すると大尉は、「モスクワにはたくさんの中国共産党員がいる。電話ひとつ掛ければ、すぐ彼らは駆けつけて、あなたはこの世から消されてしまうだろう」と言った。

 調査官と前野の対立のひとつは、「裁判の独立」の問題だった。前野が司法行政の目標として、そのためにどれほど努力したかを説明しても、調査官は理解しようとしなかった。
 前野は、それではソ連では裁判というものをどう考えているのかと、反問してみた。答える必要はないと拒否されるかと思ったら、大尉は冷笑を浮かべながら、「裁判とは国策遂行のための強硬手段である」と言い切った。いみじくも、よくぞ言ってくれた、と前野は思った。《この短い言葉の中に、この国の性格、この国における裁判の本質が、遺憾なく表現されているではないか。プロレタリア独裁・共産党専制の国における裁判は、まさにそういうものに違いない。そうだということは、この国には人権保障は存在しないということを意味することになる。》
 こうした観念で育てられ、凝り固まった頭には、「裁判の独立」などまったくばかばかしい話に違いない、と前野は納得した。

▼前野の健康はなかなか回復しなかった。毎晩のように呼び出されるので、就寝の合図があっても安心して毛布の中に入ることができない。調査官さえ、どこが悪いのか、と心配するほどの衰弱ぶりだった。あとから考えても、この時期に死ななかったのが不思議だと前野は思い、ソ連のやり方への強烈な敵愾心だけが自分を支えていたのだろうと思った。
 1948年の年が明け、数日たったころ、前野は監房を移動させられた。新しい監房は独房ではなく、入っていくと二人の男がおり、一人は近衛、もう一人は中村と名のった。近衛は元首相近衛文麿の子息・文隆で、中村は新京日本領事館の副領事だった。それまでの独房生活が苦しかっただけに、それから三人で過ごした6ヶ月の生活は、長いソ連抑留生活の中で最も楽しいものだったと、前野は想い起す。
 近衛文隆は召集されてから関東軍に配属され、終戦当時は満洲東部国境駐屯野戦砲兵隊の中隊長だった。あけっぴろげで物事にこだわらず、包容力があり、話し上手・聞き上手だった。プリンストン大学に留学し、父文麿総理の秘書官を務め、父の代理として中国各地の軍を慰問して回った経験があるだけに、話題は豊富で、貴族階級の特異な生活習慣や父文麿総理の性格など、話はいくら聞いても聞き飽きなかった。
 彼はその身分が判明するとすぐにモスクワに送られ、近衛家と天皇家の関係を詳細に調べられたり、関東軍の対ソ作戦計画を全面的に知っているという前提で細菌戦の準備について執拗に尋問されたりした。さらには「ソ連のために働く」ことを慫慂され、拒絶すると煙草の支給を止められたり、食事を減らされたり独房に入れられたりしたという。
 それでも若いだけに将来に対する見方は一番楽天的で、「あなたをすぐに日本に帰すわけにはいかない。もう少し監獄にいてもらう」と検察官に言われた「もう少し」を、長くて半年あるいは1年であり、それ以上のはずはないと考えていた。前野は、そんな生易しいものではないと思ったが、悲観論を述べるのも憚られ、黙っていた。

 1948年の6月初旬、前野は監獄の二階の一室に呼び出され、禁固25年を言い渡された。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』4 [本の紹介・批評]

▼前野茂ら6人が、山形少佐が乗せられたのと同じ箱車で移動させられた「ノボリコニスク将官収容所」は、小規模な収容施設だった。日本軍捕虜の将官を収容する目的でつくられたもので、最近まで関東軍の将官と満州国軍の将官二十数名が当番兵を従えて収容されていたとのことだった。
 ここには日本人三十余名、中国人約二十名、ドイツ人四名が収容されていた。日本人の大部分は、ハルビンなど満洲に置かれた領事館の職員であり、中国人の大部分は汪兆銘政権の下で北朝鮮の領事館で仕事をしていた職員、ドイツ人もハルビンと大連で逮捕されたドイツ領事館の下級職員だった。12月初めには新京の日本大使館と領事館の職員二十余名も加わった。
 彼ら外交機関の職員は、ソ連軍が自分たちを一般市民以上に保護するだろうと期待していたが、ソ連にしてみれば外国の外交機関職員はすべてスパイにほかならず、タイピストもお茶くみの女子事務員も全員逮捕されたというわけだった。
 外務省や満州国外交部の職員に対する尋問が、年を明けた47年2月から再開された。彼らの行っていたソ連についての情報収集が尋問の対象とされたが、それについてソ連が刑事罰を科すことができると考える者は一人もいなかった。外交機関の職員が駐在する国で情報収集し、本国に送ることは当然の職責であり、どの国でもやっていることである。無条件降伏した国の職員だからといって、それを捕らえて刑事処分に付するなどということは、常識上考えられない。もしそれらの人びとの行為を、戦争犯罪として処罰の対象にしようとするなら、それは連合国によって設けられた特別法廷で行うべきものであり、ソ連の国内法の対象として裁かれるべきものではない―――。

▼47年4月になり、前野茂の尋問がようやく再開された。中尉の肩書を持つ調査官は、前野がどのような方法で裁判を指導したのかと訊いた。前野はその質問を、満洲の裁判組織をいかに近代化し、いかに裁判官の質の向上を図ったかという意味に取り、説明を始めると、調査官は苦々しげに言葉をさえぎり、そんなことは聞いていないと言った。「あなたは司法部次長として、満洲のあらゆる裁判を重く重くと指導したに違いない。その指導の方法を尋ねているのだ。それが分かっていながら、ことさら関係のない話をする。あなたは嘘つきだ」。
 前野が、満州国では「裁判の独立」が尊重されていたことを説明すると、調査官は、以前の取り調べであなたは、「あらゆる司法機関は自分に隷属していた」と言い、調書に署名しているではないかと言った。驚いた前野は、署名に至った事情を説明し、満州国の司法制度の説明に努めたが、調査官は疑わしそうな表情で前野の顔をにらむばかりだった。
 次に調査官は、日本軍部のソ連攻略計画に側面から協力していたという視点から、前野を追求した。
 前野は答えた。満州国が日本軍部の方針の下に建てられたものであったとしても、満州国で働いた日系官吏がすべて日本軍の目的のために仕事をしていたと考えるのは誤りである。われわれはもっと大きな理想の実現のために、すなわち満洲の地に理想的な文化国家を建設するという理想のために挺身した。そうした理想があったからこそ、公正な司法制度の確立や裁判の独立のために力を尽くしたのであり、理想がなければ裁判の独立も、意味を失うであろう―――。
 調査官は終始苦々しい顔をして聞いており、上の前野の陳述は少しも調書に取らなかった。

 前野に対する尋問は3週間続き、最後に次の事実を認めるかと言って一通の文書を通訳を通じて前野に読み聞かせた。満州国の司法部の官吏だった時代に多くの中国人を圧迫する法律を立案・公布・施行し、監獄運営の責任者として中国人民主主義者を収監し、さらに裁判所、検察庁を指揮して民主主義者に対する刑罰を重く重くと指導した、云々。
 前野は思う。かりに事実がこの通りだったとして、中国政府がこの事実を取り上げ、問題にすることは理解できる。しかしソ連はまったく無関係ではないか。これらの事実はソ連の法律とどう関わるのか、まるで理解できない―――。
 前野は、読み聞かされた事実はソ連の国内法の罪に当たるのか?もしそうだとすれば法の条文を示してほしい、と言った。調査官の答えは、ソ連刑法第58条4項に該当するというものだったので、その法文を読んでほしいと、さらに要求した。
 「日本資本主義を援助した行為を処罰するのです。」
 「それは他国に対する内政干渉ではないか。そんなバカげた法律などありえない。」
 「あなたとこの点について議論するのは無駄である。当方が読み聞かした事実について認めるのかどうか、返答すればよい。」
 前野は議論をあきらめて事実の認否に話を移し、それまでの主張を繰り返したが、いくら説明しても理解されない憤懣から、声は自然に大きくなった。

▼5月の半ば、前野茂は例の囚人を運ぶ箱車でハバロフスクまで連れて行かれ、ここからシベリア鉄道の囚人車両に乗せられ、モスクワに護送された。起訴されたのかどうか不明だったが、「モスクワで再調査する」ということらしい、と前野は考えた。
 19日間の囚人車両の過酷な旅の果てに前野が連れて行かれたのは、モスクワの町はずれにあるレホルトブスカヤ監獄で、政治犯未決監獄として有名なところだった。入れられたのは間口3メートル、奥行き5メートル、天井までの高さ4メートルほどの独房で、入口は鉄板でおおわれた分厚く重い扉であり、部屋の片隅に水洗便器が置かれ、他の隅にラジエーターを囲む頑丈な木の箱があり、箱の穴を通して暖められた空気が出てくる仕組みになっていた。
 午前5時起床、午後10時就寝、その間囚人はベッドに腰かけることは差し支えないが、ヨコになることや眠ることは許されなかった。食事は朝6時ごろから8時ごろまでの間に一日分の黒パン600グラムと角砂糖1個、白湯が食器に半分ぐらい支給された。昼食は正午から午後2時の間にひしゃく1杯のキャベツのスープと雑穀の粥が大さじ2杯ぐらい、夕食は6時から8時の間に昼と同様の量のスープだった。
 散歩は1日10分から20分、風呂は十日に一度。前野はこの監獄で6か月間、独房生活を強いられた。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』3 [本の紹介・批評]

▼1946年の6月初旬、ウォロシーロフ監獄に三十五、六歳の男が入ってきて、「関東軍参謀・山形陸軍少佐」だと名のった。ハルビン特務機関に長く勤務し、ソ連の対日宣戦布告後、新京在住の軍人家族を輸送する指揮官をつとめ、平壌でソ連軍に逮捕されたと前野に語った。ハルビン在任中、多数の白系ロシア人をスパイとして使っていたが、戦後それらのスパイのほとんどが捕らえられ、禁固20年、25年という重刑に処せられていることを知っていたから、山形は自分も重刑を覚悟していた。
 「自分は25年の判決は覚悟している。しかし落胆する必要は少しもない。われわれの運命は要するに国際情勢の如何にかかっている。国際情勢が日本に有利に展開すれば、25年が5年で釈放されることもあり得る。問題は日本が一刻も早く復興し、国際社会において十分の発言力を持つようになってくれることだ」。
 前野は山形の言葉を聞き、はっと目が覚めるほど新鮮な感銘を受けた。その時まで前野が接した日本人は皆、腹を減らし、過去の思い出と家族の心配にとらわれてその時々を過ごすのが精いっぱいの様子で、帰還したあと国家の復興にどう力を捧げるかということを考え、語り合う者はほとんどいなかった。
 「アメリカはどう出てくるのか。日本の国体をどうしようとするのか」。山形少佐はしきりに祖国の運命を話題にした。「自分は帰国後、すぐに新政党運動を始める」と言って、日本の復興の方策や新しい日本の理想を語ったりした。この生活環境でこれだけの気概と抱負を保持していることに、前野は好感を持ちつつ質問した。
 「あなたほどソ連の事情に通じている人が、軍人家族を引率して平壌からさらに南下せず、あえて平壌にとどまってソ連軍に逮捕されたのはどういうわけか。俊敏で目先の利くあなたらしくないように思われるが」。
 山形少佐は次のように答えた。「日本軍は米軍と熾烈な戦闘を行い、大きな損害を与えてきたので、米軍の日本人に対する恨みはきわめて深く、占領したのち日本人に対して激しい報復手段が取られるものと、関東軍司令部は予想した。一方ソ連軍に対しては、日本は積極的に戦闘を行っておらず、ソ連のほうから条約を無視して仕掛けた戦争であり、開戦後一週間で終了したことから見ても、ソ連軍の日本人に対する態度は寛大だろうと予想した。そこから、軍人家族団に対しては平壌にとどまり、南下しないように命令が出された」―――。
 これが対ソ作戦を最大の任務とし、ソ連研究に莫大な精力を費やしてきた関東軍司令部のソ連観だったのか……。その甘さとあまりの認識不足に、前野はただ呆れるしかなかった。

▼6月下旬、軍法会議が開かれ、山形少佐は護送兵に迎えられて出廷し、帰ってくると法廷内の様子をこと細かに面白おかしく説明した。被告はハルビン特務機関関係の7~8人で、検事の公訴事実の陳述があり、それに続いて裁判長は、公訴事実についての認諾を求めているらしかった。被告がその事実を否認しても認めたとしても、それ以上深い突っ込んだ尋問はなく、二日間で公訴事実の認否に関する供述は終了した。
 普通の国の裁判なら、ここから事実に関する本格的な取り調べが始まり、証拠調べが行われることになるのだが、それまでのソ連のやり方を見ていると、とてもそのような丁寧な手続きを踏む国とは前野には思えなかった。この法廷が開かれる前に、上部機関から結論が下達されていて、法廷における取り調べはまったく形式的なもの、という気がしてならない。とすれば、被告人に対する控訴事実の認否を終えたということは、これで事実調べが終わったことを意味し、いつ判決が下されてもおかしくない、ということかもしれない……。
 前野は山形に自分の心配を伝え、山形は、一応の準備はしておこうと、その夜荷物を整理した。
 翌日は日曜日だったが、護送兵が迎えにやってきた。山形は、判決が出たら自分は本監獄に送られ、ここには帰ってこられないだろう。帰ってこなかったら、判決が出たものと考えてくれ、と言い残して出ていった。
 夕方、便所に行く時間に、全員監房を出て玄関前で二列縦隊に整列し、歩き出そうとしたとき、その出来事が起きた。玄関前の広場の東北の隅に、トラックに鉄の箱を載せたような形の囚人自動車が止まっていたが、《その箱の横っ腹にある鉄扉が猛烈な勢いでゆさぶられ、驚くほど大きな音を発した。皆ビックリしてそちらを振り向いた瞬間、なんとも名状しがたい、ぞっとするような人間の高い叫び声が箱の内から聞こえてきた。/突然だったので、何を叫んだのか分からなくて隣の人になんだなんだと尋ねていると、ふたたび箱の扉がゆさぶられ、今度は明瞭に、
 「山形参謀銃殺!」
という叫びが耳朶を打った。はっとして立ち止まったが、あわてた番兵の叱咤に囚人の隊列は、広場の西南隅にある便所の板囲いの内に追い立てられた。》
 用足しをしながら互いに語り合い、結局、箱のなんらかの隙間からわれわれの隊列を認めた山形氏が、自分に下された判決を伝えようとした「血の叫び」だ、という結論に達した。帰りにまた同様の叫びがあったなら、危険を冒してもこれに答えなければなるまい……。
 便所が終わって囚人たちの隊列が箱車に近づいた時、その扉がふたたび破れんばかりに内側から叩かれ、「山形参謀銃殺!」という叫びが聞こえた。先頭を歩いていた若い日本軍将校が、「わかったぞお! かならず家族に伝えるぞお!」と右手を高く差し上げて叫んだ。するとそれが通じたらしく、箱の中は静かになり、二度と扉は叩かれず、叫び声も聞かれなかった。しかし驚いた番兵は、囚人たちを早々に監房に追い込んだ。
 監房に戻った囚人たちは、だれ一人口をきく者もなく、黙然と座り込んでいた。山形の銃殺は、ソ連が旧日本軍特務機関をいかに憎んでいるかを物語っている、と前野は思った。

▼上の出来事は、「ウォロシーロフ野戦監獄」でのひとコマである。前野茂は「野戦監獄」について説明していないのでよくわからないのだが、判決の下った囚人が収容される本格的な「監獄」ではなく、容疑者を取り調べのあいだ入れておく一種の留置場のようなものらしい。
 ウォロシーロフ監獄にはさまざまな囚人が来ては、また他所に連れて行かれた。前野のような旧満州国の幹部もいれば関東軍の将校もおり、満洲や北朝鮮からたくさんの日本人、中国人、朝鮮人が送り込まれてきた。満洲や北朝鮮から連れてこられた中国人や朝鮮人には、八路軍や北朝鮮の共産党に邪魔な存在となった人びとが、「反ソ陰謀」を企てたとして逮捕されたケースが多く、北朝鮮から送られてきた日本人には元警察官が多かった。
 ソ連の国営農場で労働を強制されていた日本軍の捕虜が脱走し、捕まって送り込まれたケースも三件あった。彼らの話を聞き、前野はソ連の日本軍捕虜に対する考えをはっきりと理解した。「要するに、これは捕虜ではなく奴隷である。ソ連軍は満洲その他の占領地で多くの物を奪っただけでなく、人間を拉致して、酷烈な労働を強制しているのである。」
 ソ連の市民が二人、同房になった。ヨーロッパ戦線でドイツ軍の捕虜となり、米軍に解放され、米国経由でソ連に送還された男で、ウラジオストックの職場で米国の見聞談を話したのが密告され、「資本主義に与して米国の宣伝をした」として逮捕されたのだった。
 彼らは山形少佐のように、判決が出されてどこかへ連れ出される場合もあっただろうが、裁判もなく、それどころか尋問すらなく、他所に移される場合も多かったようだ。中国人の一人が当直将校の巡回の際に抗議するのを、前野は見た。
 「速やかに取り調べを実行し、罪があるなら罰するがよく、罪がないならただちに釈放せよ。ここに連行されてすでに半年になるのに、まだ一度も呼び出しがない。厳重に抗議する。」

 前野は1946年8月末に、「ウォロシーロフ野戦監獄」から10キロの距離にある「ノボリコニスク将官収容所」に移された。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』2 [本の紹介・批評]

▼前回、前野茂は、「12月の末、ソ連軍に引き渡され、朝鮮の平壌に移動させられた」と書いたが、正確に言うと、安東でソ連軍に引き渡されたあと鴨緑江を渡り、対岸の朝鮮・新義州の拘置所に入れられ、その後に平壌に移された。朝鮮に侵入したソ連軍の行動と朝鮮北部の状況を、前野は新義州の同房者などから聞いた情報をもとに記録しているので、少し記しておこう。

 日本が降伏し、ソ連軍が朝鮮に侵攻したとき、朝鮮では元のままの政治体制で占領者を迎えようとした。満州における情報を入手した憲兵や警察官は、荷物をまとめ、家族を連れて南下しようとしたが、朝鮮総督府は現状不変更を指令し、警察官には現場にとどまって治安維持の任務にあたるよう命令した。
 ソ連軍が進駐して来ると、平安北道知事は大宴会を催してこれを歓迎したが、ソ連軍が真っ先に実行したのは、総督府の官吏の追放と憲兵、警察官の逮捕だった。知事をはじめ日本人警察官全員と司法機関の長は平壌に連行され、在職中にソ連のスパイを検挙、起訴、裁判した疑いのある者は、留置場または監獄に入れられた。
 ソ連軍はまた、地方政治は民主主義の原則にしたがって朝鮮人が自由かつ自主的に行うべきだと宣言し、政党を組織しようとする者は組織幹部の名と主義綱領を書面で提出するように指示した。朝鮮人は喜んで、われもわれもと自由主義的政党や民族主義的政党をつくり、幹部名や綱領等を占領軍に提出した。ソ連軍はこうして占領地内の有害分子の人名と所在をはっきりつかむと同時に、共産党を育成、強化することに力を注いだ。そして時期を見て、共産党支配に有害と認められた人びとを反ソ親日反動分子として、あるいは親米分子として、逮捕していった。

 共産党は行政の実権を掌握すると、地主の土地を没収して小作人に分配し、総督府時代の村長や警察官、一般市民でも日本の政策に協力して表彰されたような者を逮捕し、処刑した。地主たちは持てるだけの財産を持って三十八度線を越え、南に逃げていった。
 前野は、在留日本人に対して北朝鮮政権が行った施策について、「人道を無視した残虐な復讐」であり、その「窮境は聞くだけで息苦しくなるほどのものだった」と書いている。
 まず日本人の居住する家屋を、敵の財産であるという理由で没収した。このため家を失った新義州の日本人は、当局の指定した空き倉庫に収容され、土間にむしろを敷いて寝起きすることを余儀なくされた。彼らの動産は数個の行李と夜具のみ、所持することを許された。お金は全部貯金するよう強制され、毎月一定額だけ引き出して使うことが認められたが、昂進するインフレの前に無力であり、仕事を求めれば道路掃除や便所の汲み取りなど下級の筋肉労働以外になく、その賃金は朝鮮人の三分の一以下と決められていた。日本女性の売春の代価も三分の一以下とされ、日本人は餓死寸前の状態にまで追い込まれている、と前野は書き留めている。

▼1946年1月下旬、前野茂は新義州から平壌の監獄へ鉄道で移された。そして2月10日になり、平壌からウラジオストック近くのウォロシーロフ市まで大型双発機で運ばれ、ここの野戦監獄に入れられた。
 監獄での生活は、次のようなものだった。午前6時起床。白樺の小枝を束ねたホウキで房内の掃除。7時ごろから1日分の黒パン(各人600g)と白湯が支給される。昼食は午後2時から3時までの間に雑穀のスープと木製スプーン一杯の雑穀の粥。夕食は6時から7時までの間に雑穀のスープ。野菜がぜんぜん支給されないことが不安だった。砂糖が1日25グラム支給されたので、前野はそれを3,4日分溜めておいて口に含んだり、粥に入れてプディングのようにして食べたりした。
 朝夕2回、便所の時間があり、兵士の指示の下、野外の便所に集団で向かう。大きな堀の上に碁盤の目のように板が渡されていて、一度に数十人が並んで用を足す。周囲は、満洲から分捕ってきたベニヤで囲ってあったが、寒いときや雨天の時はたいへんだった。しかしこれが、囚人が外気に触れられる唯一の機会だった。
 日本人の囚人にとって不可解なのは便所の紙を与えてくれないことだった、と前野は書いている。囚人は犬同様、尻を拭く必要がないとでも考えているのだろうか、と不思議に思っていたが、ある時看守の兵士が囚人といっしょに並んで用をすませ、紙を使わないで立ち去ったのを見て、ようやく紙をくれない理由が呑み込めた。前野は房から外に出るたびに紙くずを拾い、用足しに使うことにした。
 食事と掃除の時間を除いて囚人たちは何もすることがなく、毎日の最大の仕事はシラミ退治と雑談だった。

▼ソ連軍の前野に対する取り調べは新義州の留置場から始まったが、取調官が他国の事情に無知であったり、通訳に法律の素養がまったくなかったりして、容易に進まなかった。
 前野は、文教部次長の職にあったのは1か月に過ぎず、それまでは司法部次長として満州国の司法行政の分野で腕を振るった法律の専門家である。満洲に渡る前、日本では判事の職にあった。司法部次長の仕事の内容は法律で定められており、隠す必要もないため、取り調べには率直に語る姿勢で臨み、在職中に立案した法律などについて説明した。
 取り調べのあと供述内容は調書にまとめられ、通訳がそれを読み聞かせ、署名を求められる。ウォロシーロフ監獄での調書には、満州国官吏としての前野の業績が大ざっぱに書かれたあと、最後に「司法部次長の下に全司法機関が所属していた」と読み聞かせられたので、それはどういう意味かと前野は質問した。
 「一般司法機関が司法部に所属していたというのは行政的な意味では正しいが、裁判は外部の力から完全に独立しており、司法部大臣もこれに干渉することは許されなかった。調書の最後の部分がこのことに反する意味なら、署名はできない」。
 取調官の中尉は、前野の言ったとおりのことが書かれているので心配する必要はないと言い、ロシア語の読めない前野は確認するすべもなく、署名せざるをえなかった。
 しかし後になって、「満州国の一般司法機関だけでなく、軍事司法機関もともに司法部次長の指揮下に属していて、その裁判も司法部次長の命令で自由に変更され、決定されていた」と記載されていたことが判明した。前野はこの記載の訂正のために、四苦八苦させられることになる。

(つづく)

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『ソ連獄窓十一年』 [本の紹介・批評]

▼『ソ連獄窓十一年』(前野茂 講談社学術文庫 1979年)という本を読んだ。著者・前野茂は旧満洲帝国の高官で、帝国崩壊後ソ連軍に囚われ、ソ連の監獄で十一年を過ごし、昭和31年にようやく帰国を果たした。帰国後、半年間の入院生活を送り、その後の自宅療養の期間に体験の執筆を始め、4年間かけて書き上げたのがこの本である。春秋社から『生ける屍(しかばね)』の書名で出版(1961年)され、その二十年後に文庫本4冊として再版された。
 筆者がこの本を入手したのがいつごろなのか、記憶がない。そのうち読むこともあるだろうと軽い気持ちで購入し、例によって「積んどく」してきたものの一つだが、最近になって読む気になったのは、宮尾登美子の『朱夏』にはじまり、「満州国」や「満蒙開拓団」について少し調べたことによる。その一部は、このブログにも書いた。
 もう一つは、松岡和子という翻訳家に関係している。蜷川幸雄が主宰する劇団の「ジュリアス・シーザー」を観て、その斬新な舞台美術に感心したが、松岡和子の翻訳が台本に使われていると知り、どういう人なのかと興味を持った。聞けば、彼女はシェークスピアの全作品を翻訳しているというし、現役の演出家や役者がシェークスピア劇を舞台に掛けるとき、彼女の訳を選ぶということは、言葉が現代の日本人に違和感なく生きているということにちがいない。
 そんなことがぼんやり頭にあったのだが、今年の4月から5月にかけて、各界の有名人が自分の経歴を語る朝日新聞の連載ものに松岡和子が登場し、彼女の父親が前野茂だと知った。自分の手元に前野の本があることを思い出し、読む気になったというわけである。

▼1945年8月、満洲帝国は崩壊した。
 満洲帝国の文教部の次長だった前野茂は、首都の新京(長春)の官舎に住んでいたが、8月9日の未明、空襲のサイレンで目を覚ました。飛行機の姿は見えないが、爆音と爆発音が遠くに聞こえ、ラジオニュースは、米軍機の来襲らしいと報じた。
 武部総務長官が各部の次長を招集し、ソ連が午前零時に宣戦布告し、ソ連軍が満洲の西、北、東の三方面から侵入を開始したと言った。前野は職場に戻り、国境付近だけでなく、満洲全地域が激烈な戦場になることを予想し、大学や各地の初等中等学校がその土地の実情に合わせて判断し行動できるように、予算を措置し、通知を送った。
 翌10日、前野は午前7時に出勤し、幹部とともに諸情報を検討し、対策を相談した。職員は日本人も満人も元気いっぱいで一人の欠勤者もなく、志気高く、「13年に及ぶ民族協和の建国運動は、相当の効果をあげているな」と、前野は心を強くした。
 しかし午後に行われた次長会議で、事情は一変する。総務長官が顔面蒼白で、軍司令部に呼ばれ指示された、と次の内容を伝えた。
 「関東軍司令部は新京から通化市に移転する。これにともない皇帝と満洲国政府は通化省大栗子(だいりつし)に移転せよ。政府の新京出発はおおむね本日の午後6時として準備せよ。大栗子は山間の街で官庁を収容する建物もないから、政府各部局は必要最小限の人員で構成するよう配慮し、家族の同道は許さない」。通化も大栗子も満洲南部の朝鮮との国境に近い場所である。
 青天の霹靂。皆、あまりのことにただ茫然として聞いていたが、その後口々に反対の意見を述べた。関東軍は最悪の場合、通化市を中心とする山岳地帯で持久戦に入る、という計画があることは聞かされていた。しかしそれはあくまでも「最悪の場合」である。首都・新京の放棄は、最後の最後でなければならない。開戦後わずか二日目で早くも新京を捨てて、山間の小部落に首都を移すとは、それこそ満州国の実質的崩壊を意味するものではないか。満州国の滅亡が必至であるなら、自分たちは満州国とともに生まれ成長した新京で、運命を共にしたい―――。
 しかし皇帝が大栗子に移ることが確定し、満人の大臣たちがそれに随伴するのに、日系の政府幹部が行かないということで済むのか。議論の末、総務長官と戦争遂行に直接かかわりを持たない部の次長が随伴することに決まり、文教部次長の前野も同僚たちと別れ、通化へ移ることになった。

▼鉄道ダイヤは極度に混乱しており、前野茂はようやく8月14日の昼に通化駅に到着した。
 15日、日本の無条件降伏のニュース。
 17日、大栗子で皇帝の退位と満州国解体に関する重臣会議が開かれ、反対はなく、皇帝の承認を得て正式に決定された。溥儀皇帝は飛行機で通化から平壌経由で東京に飛び、日本に亡命することになっていると、総務長官は説明した。(しかし皇帝を乗せた飛行機はなぜか奉天飛行場に着陸し、ここでソ連軍に逮捕された。)
 22日、全満洲の日本語放送が、ソ連軍の命令により正午に途絶える。
 24日、ソ連軍、通化に入城。

 満洲帝国の満人幹部の中には、国民党と密かに関係を持っている者も多くいたらしい。それが中国人の処世術というものだろう。そのうちの一人とおぼしき満人幹部は、前野に言った。「君たち日本人は心配しないでよろしい。日本人がこの十数年間に満州でやったことについては中国人はよく知っている。いろいろ無理な点もあったが、日本人は確かに満洲の人民の福祉のためによいことを沢山やってくれた。この土地にこんな立派な都市をいくつも建設し、鉄道、道路を敷設延長し、通信機関を整備し、またこれだけ沢山の大工場を設けたり、学校、病院を建てたりしていることを、蒋介石が見たら、きっと君たちを理解すると信ずる。君たちは決して殺されたりするようなことはないから安心しておれ」。
 国民党の軍隊が満洲を占領していたなら、この満人幹部の言うように、満州国の資産は秩序正しく中国政府に引き継がれ、在満日本人の引き上げも安全に行われたにちがいない、と筆者は思う。しかし不幸にして満洲を占領したのはソ連軍であり、彼らは満洲の資産を略奪してソ連に持ち帰ることと、日本人捕虜を労働力としてソ連に送り込むこと、そして国民党軍の行動を妨害し、八路軍を援助することを目的としていた。
 9月半ば、通化国民党がその看板を掲げ、同じころ八路軍と紙に書いて貼り付けた車を、街中で見かけるようになった。ソ連軍は通化にあった日本軍組織を解体し、その武器を八路軍に与え、八路軍はじきに通化を支配するようになる。

 11月26日 通化で満州国の旧要人の逮捕が本格的に始まる。28日、前野は八路軍に逮捕され、安東市の留置場に入れられた。
 12月の末、ソ連軍に引き渡され、朝鮮の平壌に移動させられた。

▼前野は、通化で苦労を共にした人びとの消息を気にかけていたが、「通化事件」のことを帰国して初めて聞き、大きな衝撃を受けた。「事件」は前野が身柄をソ連軍に引き渡され、平壌に移されたあとに起きた。前野が聞いた「事件」の概要を、以下に記す。
 八路軍が日本人居留民会の中心メンバーを逮捕し、日本人への圧迫を強化するのに反発した通化の日本人は、山中にひそんだ元師団参謀長の藤田大佐と連絡を取り、正月元旦に蹶起し、八路軍を急襲・撃滅し、逮捕された人びとを奪還する計画を立てた。しかし八路軍はスパイを使って早くから計画を探知し、襲撃を手ぐすね引いて待っていた。
 日本人が行動を開始すると、八路軍はまず拘留している日本人を機銃掃射で殺害し、襲撃行動に加わった日本人部隊を包囲殲滅した。そして通化在住の16歳以上の日本人男子全員を逮捕し、戦時中に造られた数個の防空壕に押し込んだ。狭い防空壕に立錐の余地もなく押し込められた人びとは、直立したまま、幾日ものあいだ、一滴の水も一片の食物も与えられず、全員が餓死または窒息死した。
 藤田元大佐も捕虜となり、数日間通化市の目抜き通りの商店のショーウインドーに生きたまま晒された末、処刑された。

 前野の知人たちの幾人かは、市外に逃げたり自宅の天井裏や床下に身を潜めて難を逃れたが、この事件により命を落とした者も多かった。

(つづく)

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