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『ソ連獄窓十一年』補遺1 [本の紹介・批評]

▼前回まで8回にわたり『ソ連獄窓十一年』を取り上げたが、内容紹介を主とし、筆者の考えや批評を積極的に述べることは控えた。前野茂の苛酷な体験について何か述べようとすると、その原因となった「満洲国」についても触れねばならず、筆者にはその用意がないように思えたからだ。
 現在、中国や台湾では、「満洲国」は「偽満洲国」ないし「偽満」と呼ばれ、そのすべては日本の中国侵略と植民地支配に関わるものとして、全否定の対象となっているという。前野茂は、(ソ連ではなく)中国の政権からそのように批判される余地があることを、十分自覚していた。しかし自分と自分の同僚である「満洲国」の官僚たちが、「満洲」(中国東北部)の人びとの福祉の向上のために懸命に働いたことは、胸を張って主張できると思っていた。
 《……桓仁を出てしばらく行くと、大きな峠にさしかかった。峠の上からは桓仁盆地が一目で見渡せる。コンクリートの桓仁大橋がよく見える。こんな山奥に立派な橋がかけられ、険しい大きな峠に平坦な広い道が設けられている。満洲国は夢のごとく消えてしまったが、これらの建設は満洲国十三年の業績を示すものとして、久しく後世に残るのではあるまいか。あの国は日本帝国主義の所産だ、として批判されるであろうけれど、あの国の建設にしたがっていた日本人の中には、ほんとうに原住民の福祉を考え、相携えて東洋人のための理想国をつくろうという理想と熱意を持っていたものもたくさんいたのだ。世がひとたび変わればその人々も追われ、捕らわれ、殺されてゆくのだ。……》
 通化で八路軍に捕えられた前野が、通化から桓仁へ、さらに寛甸へと車で連行されたときの思いである。橋や道路の建設だけではない。匪賊を討って治安を回復させ、近代的な法秩序を確立しただけでなく、教育制度を整備し、近代的な工業を移植・発展させ、統一的な通貨制度をつくりあげた。「満洲国」にたずさわった人びとが使命感を持って懸命に課題に取り組み、短期間に大きな仕事を成し遂げたことは確かである。

▼前野茂と同様、東京地裁の判事をしていた武藤富雄は、満洲国で人材を求めていると聞き、招聘に応じた。武藤は司法部門の仕事のほか、満洲国の広報担当の責任者として活躍し、昭和18年に日本政府の情報局第一部長として招かれ帰国。終戦の際退官し、日米会話学院の創設、銀座の書店・教文館の経営、キリスト教系大学の理事長や学院長を歴任した。その武藤は、次のように書いている。
 《私たち日系官吏は、……白人の勢力の下にあって苦しんでいるアジア人を彼らの束縛から解放し、諸民族の協和による理想国家の建設を行うことを志したもので、これを満洲の地にあって実現しようとしたものである。/私たちは「征服者」としてではなく、「奉仕者」として満洲国建設に当たったと信じている。/私たちは満州を植民地としてではなく、現地住民と一体となり、複合民族国家として自立する理想国家を建設しようとしたのである。》(『私と満州国』武藤富雄 文藝春秋 1988年)
 武藤のこの本に名前が挙げられている笠木良明が率いた大雄峯会や、日本留学の中国人が多く関わった満洲青年連盟など、満洲に民族協和の「理想国家」を建設しようという若者たちの運動が、「満洲国」建国以前に盛んに行われていた。それらの運動は「満州国」がつくられ、整備されていく中で潰されるのだが、「満洲国」で働いた官吏の中にも共通の思いが流れていたと、武藤は言うのだろう。

▼日本と満洲(中国東北部)の関わりは、日露戦争後に結ばれたポーツマス条約にはじまる。日本は旅順と大連の租借権をロシアから引き継ぎ、ロシアの経営していた東支鉄道(満州鉄道)のうちの旅順・長春間を譲り受け、鉄道とその付属地を守備するために関東軍を駐留させることになった。「満蒙」は「十万の生霊、二十億の国帑(こくど=国庫金)によってあがなわれた土地」であり、日本は「特殊権益」を持っているということが、日本国内でしきりに言われた。だがそれは国家としての統合を進め、帝国主義諸国に蚕食されている国の権利を回復しようとする国民党政権や中国民衆のナショナリズムと、正面から衝突するものだった。
 日本が満蒙を支配することは、軍事的な観点からも必要とされた。第一次世界大戦後の世界は「総力戦」の時代となり、国家は長期戦、大消耗戦に耐えられなければならず、日本は自給自足圏形成のための兵站基地として、資源豊富な「満蒙」を領有することが欠かせないと考えられたのである。
 「満蒙」が植民地朝鮮と接しているために、ソ連や中国がそこに勢力を持つならば、日本の朝鮮統治が危うくなるという強迫観念もあった。
 中国人は国家意識が希薄であり、日本軍が満洲の封建軍閥を打倒し、諸民族の楽土を建設するなら、それは日本の存立上必要であるだけでなく、中国人自身の幸福でもある、といった議論が、日本の満蒙領有を正当化するために盛んになされた。

▼しかし「満蒙領有」という石原莞爾をはじめとする関東軍の主張に、陸軍中央は反対だった。陸軍中央は、「満蒙」をシナ本土政府から分離独立した地域とする「独立国家承認」案を採用し、関東軍もそれに従った。
 1931年(昭和6年)9月18日、関東軍は柳条湖事件を起こし、それをきっかけに中国東北部(満洲)各地の都市を占拠した(満洲事変)。そして地域ごとに地域政権や「自治委員会」を立ち上げるように働きかけ、中央政府からの分離独立や自治を宣言させ、これを統合して新たな政府をつくりあげるという方式で、「満洲国」建国に向かった。
 1932年(昭和7年)3月1日、「満洲国」が誕生。「満洲国」の政治の中心として「執政」を設け、清朝最後の皇帝だった愛新覚羅溥儀が「執政」に就いた。

 新国家の諸法制を起案した関東軍の国際法顧問に、関東軍の板垣参謀が与えた基本指針は三つだった。満洲は完全な独立国とすること、日本の言うことを聞いてもらうこと、国防は日本に任せてもらうこと。以上の三条件が満たされるのであれば、帝国でも王国でも共和国でも、なんでもよろしい――。
 このため溥儀は関東軍本庄司令官宛ての書簡で、満洲国が国防と治安維持を日本に委託し、その経費を負担する等のほか、満洲国の幹部に日本人を任用し、その選任・解職には関東軍司令官の推薦・同意を要件とすることを約束した。それは要するに、満洲国が関東軍司令官の“内面指導”下に入るということを意味する。「完全な独立国でありつつ、日本の言うことを聞いてもらう」という矛盾を矛盾としない方法が、この“内面指導”だった。
 『キメラ』(山室信一 中公新書 1993年)という書物に「満洲国官吏の機関別員数と日系占有率」という表が載っているが、1935年に中央、地方併せて幹部職員の45.8%が日本人であった。日本語の使用と日本型の事務処理を前提にすれば、満洲国幹部に日本人が多数採用されることは自然なことだったにちがいない。(以上の満洲国建国に関する記述は、主として『キメラ』(山室信一)に拠る。)

(つづく)

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