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ひろゆき論4 [思うこと]

▼さて本論は「ひろゆき論」である。沖縄の問題もウクライナ戦争の問題も、それ自身大きなテーマであるが、ここで論じなければならないのは「ひろゆき」と「ひろゆき現象」についてである。ひろゆきの本がなぜ売れ、彼の「沖縄基地前の座り込み」のツイートになぜ28万以上の「いいね」が付いたのか、なぜ「その人気はとくに若い世代に顕著」で、「若い世代のオピニオンリーダー」的存在となっているのか、という問題を考えてみたい。
 筆者はひろゆきの「著書」について、その一部をざっと覗いただけだが、奇をてらうようなこともなく、案外まともなことを言っているという印象だった。しかし全体に中身が薄く、特別に目を見張るような主張があるわけでもなく、編集者の工夫を除けば、どれも同じような感じを与える。それでも若者たちが著作を次々に買い求めているとすれば、それはアイドル本やスポーツ選手の本と同様、彼らにとって憧れの人の著作ゆえの有難みがあるのだろう。
 それでは、若者たちはひろゆきの何に憧れ、何に魅力を感じるのだろうか。おそらく若者たちにとって、組織に属さず、プログラミングの知識を習得することによりビジネスで成功し、社会の仕組みや既成の権威のおかしな点を、誰に憚ることもなく指摘し「論破」する軽快なフットワークが、カッコいいと感じられるのだろう。
 たとえば「沖縄基地前の座り込み」の問題だが、「事件」後、座り込み団体の代表者は次のように語った。「沖縄に犠牲を押しつけながら、何の自省もない、倫理観の底が抜けた日本の現状を表わしている。こうしたソフトな形の侮辱が、直接的な暴力を先導することを懸念する。」(「沖縄タイムス」)
 しかし「いいね」を送った若者たちにとって、「座り込み」の意味や理由以前に、「座り込み」という行動スタイル自体が受け入れがたい、カッコ悪いものなのではなかろうか。ひろゆきの「事件」後の感想は、「事実を伝えると怒る人たちが、こんなに沢山いるんだ」という人を喰ったものだったが、若者たちは、喧嘩上手なスマートな振る舞いと受け止めたのではないか。ひろゆきのツイートは、彼自身にどれだけの計算があったかは分からないが、若者たちに安全かつ効果的に、「座り込み」に対する自分の気持を表現する機会を与えた、ということなのだろうと思う。

▼問題をより広い場所で考えるなら、かっては支配的だった「戦後民主主義」という時代の空気が、現在は「戦後民主主義」に反発する時代の空気にとって代られたということなのかもしれない。
 戦後の日本社会では、国家権力側に与する行動は、カッコ悪いものとされていた。政治問題や社会問題に関する「保守」と「革新」の主張の、どちらの側がより合理的で優れたものであったかはともかく、政府の方針に拍手を送るのはカッコ悪いという気分は、時代の空気としてとくに若者たちの間に存在した。
 しかし現在、若者たちにとっては逆に、「反権力」のポーズこそ古臭くてカッコ悪いものと見られているのかもしれない。皆が「団結」し、「連帯」し、闘いの勝利に向けて行動するなど、美学的に反発の対象でしかないのではないか。
 「戦後民主主義に反発する時代の空気」と筆者が呼ぶのはそれであり、「正当な手続きを経て基地の移転を進める政府は正しく、一部の人たちが『座り込み』でそれを阻止しようとする運動こそ間違っている」という論理が、それを支えている。若者たちを包む空気が、「昭和時代」とはガラリと変わっていることに、われわれは気づかなければならない。
 いつの時代にも、若者は自己主張したいと思うものである。そういう若者たちにとって、ドメスティックな「おじさん」的価値観の支配する日本の社会に未来はないと言い切り、「戦後民主主義」的な権威をやりこめるひろゆきは、自分を代弁してくれるカッコいいヒーローなのだろう。

▼ひろゆきの著書や出演したネット番組を見て、筆者自身は彼に興味を持たなかったが、いくつか面白い発言や観察がないわけではないので、それを紹介してこの稿を閉じようと思う。

 彼は匿名掲示板「2ちゃんねる」の管理人だった時、次のような「名言」を吐いたという。
 「嘘は嘘であると見抜ける人でないと(掲示板を使うのは)難しい」。
 そして、次のようにも発言している。
 《スマートフォンの普及により、今はほとんどの人がネットを日常的に使う世の中になりました。その分、「嘘を見抜けないのにネットを使っている人」も増えてきています。そういう人が誤った情報を拡散させているのです。
 街を歩いている時に、見知らぬ誰かが寄ってきて、「実はね……」と耳打ちされたなら、たいていの人は不審に思うでしょう。それなのに、最初から騙す目的で、顔も知らない誰かがつくりあげたことを、簡単に人は信じてしまうのです。》
 こう言われても嘘を嘘と見抜けない人は多いだろうが、この説明は広く知られるべきだと思う。話の裏が取れるまで保留しなければならないというケースが格段に増えるだろうが、それはネット社会に生きる者の宿命だと覚悟するしかない。

 また彼は「論理」について、次のようなことを語っている。
 「非論理的に見える人はいても、非論理的な人はなかなかいない。感情的で身勝手な人も、その人なりの論理がある」。だから、「自分勝手な人が何に優先順位を置いているのか、仲良くなって聞くと、振り回されずに済む」。「どんな厄介者でもコミュニケーションをとることを怖がらないのが大事」である、と。
 この観察や助言は、筆者は若者への優れたアドバイスだと思った。
 「論破」については、次のように言う。
 《論破した!と周りが盛り上がることがあります。でも実をいうと、僕自身は「論破」という言葉をほとんど使いません。……そんな僕の役割は「論破」よりも「投げかけること」だと思っています。……データに基づいた事実や予測を伝え、それを受け取った人が自分で考えたり、疑問を持ったりして、そこからいろいろな討論に発展していけばいいと思っています。》
 《最近の流行語を用いて言うと、相手を「論破」するというのは気持ちのいいことかもしれませんが、実際は自分にとって圧倒的に不利なことです。言いくるめられて嬉しい人なんてこの世にいないわけで、恨みを買ったり、復讐されたりする恐れがありますから。》

 これらの観察や発言もなかなか面白いが、前回と前々回に紹介したABEMA Primeの番組を観るかぎり、彼は、子供のころから好きだったという「言葉尻を捕らえる」ことや「人の弱点を見つけて突く」ことに精を出し、「気持のよさ」に浸っているように見える。
 それとも、声のかかったお座敷での発言は「受けてナンボ」であり、自分本来の考えとは別のものだ、と考えているのだろうか。

(おわり)

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