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日本の1970~90年代とサブカルチャー6 [思うこと]

▼1995年に起きた二つの大事件によって、人びとは「80年代」が本当に終わったことを知らされた。
 第一の事件は、1月17日早朝の阪神淡路大震災の発生である。マグニチュード7.3の大地震は高速道路を横倒しにし、生活インフラを切断、火災も発生した結果、6千人を超える死者が出た。日本人は、日本が便利で効率的で安全な国だと考えてきたのだが、そうとは言えない現実を突きつけられたのである。
 第二の事件は、3月20日に発生した地下鉄サリン事件である。乗客乗員14人が死亡し、負傷者は6千人以上にのぼった。オウム真理教団によって引き起こされたこの事件は、化学兵器が一般市民に向けて使われた類を見ない犯行として、世界に衝撃を与えた。
 実行犯の多くが理系の高学歴の若者たちだったことも、波紋を広げた。この国の若者の教育は、どうなっているのか? 彼らはこの国の経済的な繁栄の中で、かえって虚無感にとらえられ、そこを教団につけこまれたのか?
 TVは連日、オウム真理教関連のニュースでいっぱいだった。
 麻原彰晃こと松本智津夫は、山梨県上九一色村の教団施設内に潜んでいたところを、5月16日に逮捕された。

 90年代は1995年を間にはさんで、前半と後半ではまったく空気感の違う社会となったと、番組は言う。後半は、今にいたる長い暗い時代のはじまりだった。

▼90年代を通じて、株価は小さな上げ下げを繰り返しつつ、下がり続けた。不動産の価格も下落を続け、底の見えない状態が続いた。
 日本人の賃金が1997年をピークにその後2020年まで下がり続けているのは、日本経済がほとんど伸びなかったことが大きな原因であろう。日本の生産力(実質GDP)の90年代の伸び率は、年率にして0.65%に過ぎない。
 求人倍率が低迷し、94年の流行語大賞に選ばれたのは「就職氷河期」だった。「フリーター」が職業選択の自由を意味する時代は終わり、「安定志向」、「内向き」などの言葉で、揺れる若者の心が語られた。
 日本経済を立て直すために「グローバル・スタンダード」が盛んに言われ、「ガバナンス」やら「コンプライアンス」やら、次々にコトバが輸入された。
 だが佐々木敦は言う。「世界の中の日本、世界に出て行く日本、というモードから、世界と無関係なというか、世界は世界、日本は日本、という感じになってきた。現状をなんとか肯定したい。そういう感覚が随所に出てきた―――」。

▼金融機関の破綻が相次ぎ、失業者がはじめて300万人を突破したこの時代を象徴するものとして、番組は2000年に公開された映画「バトルロワイアル」(監督:深作欣二)を取り上げる。
 離島に連れてこられた1クラスの中学生たちに向かって、元担任教師のキタノ(北野武)が、「新世紀教育改革法」、別名「バトルロワイアル法」について説明する。「……この国はもう、ダメになってしまいました。失業者が街にあふれ、不登校児も増加、少年犯罪が多発するこの国で、エラい人たちが相談してこの法律を作りました。……今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます。最後の一人になるまで。反則はありません」。そしてこうも言う。「これだけは覚えておけ。人生はゲームだ。闘って生き残る、価値ある大人になりましょう……」。
 主人公の中学生は、「バトルロワイアル」から脱出しようと団結を求めるが、クラスメートたちは生き残るために互いに殺し合う。―――
 筆者はこの映画を観ていないので、なんとも言いかねるのだが、外国では新しいカルト映画として支持を集めたらしい。
 日本映画に詳しい米国の学者は、次のように評価する。
「この映画は90年代につくられたが、90年代の映画らしくない。高齢になった深作欣二が撮っているのに、若い反抗的な監督の作品のようだ。抵抗、怒り、非人道的なシステムに対する叫び。深作は60年代の感性なのです。」
 さらに彼はこの映画に、「社会は競争だからキミは負けだ」、「自分の身は自分で守りなさい」という「新自由主義」の主張に対する、反対のメッセージを読み込む。
 しかし番組は、この映画が日本ではどういう評判だったのかについて、何も触れていない。日本の若者たちは深作欣二の「抵抗、怒り、非人道的なシステムに対する叫び」に、熱く反応したのだろうか?
残念ながら筆者には、どうもそのようには思えない。―――

▼いま筆者自身の90年代を振り返ると、ほとんど思い出すこともないことに驚く。記録をもとに記憶を掘り起こしていけば、その時自分がどういう仕事をしていて、上手くいっていたのかどうか、家族はどうしていたのかなど、なんとか語ることはできるかもしれない。しかし鮮やかなイメージとして浮かんでくるものは、ほとんど無いに等しい。
 これは筆者の感受性が年齢とともに鈍くなっていたからであろうし、世の中の動きに反応するより、日常の雑用に追われ、対応することで精いっぱいだったということの顕われでもあるのだろう。
 90年代に自分はどういう映画を観たか、思い出そうとしても、70~80年代のようにはっきりと答えることができない。子どもを連れて「ホームアローン2」(1992年)や「ダイハード3」(1995年)を観たことや、周防正行の「シコふんじゃった」(1993年)、「Shall we ダンス?」(1996年)を観に行った記憶はある。また、「シンドラーのリスト」(1994年 監督:S,スピルバーグ)、「ショーシャンクの空に」(1994年 監督:フランク・ダラボン)、「フォレスト・ガンプ」(1995年 監督:ロバート・ゼメキス)なども観ている。だが答えられるのは、その程度なのだ。
 90年代の歌の記憶は、さらに乏しい。なかにし礼が、「昭和の時代とともに日本の歌謡曲は終わった」と言ったように、日本の歌の「変質」という事情が大きかったと思うが、ふと口ずさめるような90年代の歌を、筆者はひとつも持っていない。

 95年に「Windows95」が発売され、本格的なインターネット時代が始まったのだが、まだまだ日本社会は、ネット時代のあわただしい変化から遠かったようである。年配者や高齢者をあわてさせない変化のマイルドな社会とは、この時代が日本の停滞の時代だったことを照らし出しているのかもしれない。

▼1960年代から90年代までの40年間を駆け足で見てきた番組は、締めくくりのナレーションで次のように語る。
 ―――(40年間を振り返って)この間ずっと忘れていたのは、あの言葉、闘争の時代に発せられたあの言葉に応えることではなかったのだろうか?
 「……僕がしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく、他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。」(『赤ずきんちゃん気をつけて』庄司薫)
 戦後、教えられた豊かさのため、ひたすら走る競争に夢中になってきた日本。しかしそこからはみ出した感受性は、あちこちに溢れていた。その名づけがたい精神の運動が日本のサブカルチャーの源泉だったとしたら、のびやかで自由な心が、思いがけない形で他者との対話の回路をいま開いている。―――
 番組は、日本の映画やアニメ、マンガなどのサブカルチャーが、世界で人気を得ていることに、もっと目を向けるべきだと主張する。
 日本の経済はあいかわらず低迷したままで、世界における経済力は低下しつつあるが、そのタイミングで世界は日本を評価しはじめた。「この皮肉な現象こそ考えるべきなのかもしれない」と。

 日本のアニメやマンガが世界で人気を集めていることは、もちろん悪いことではない。しかしそれだけだとするなら、そしてそのことに縋らなければならないのだとするなら、やはり淋しい。うつろいやすい世界の中で基礎的な力を保持し、敬愛されることの必要性は、これまでもこれからも変わらない。

(終)

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日本の1970~90年代とサブカルチャー5 [思うこと]

▼90年代の始まりは、昭和が終わり平成が始まる時期とほぼ同じであり、何か新しい時代が始まるのではないかと考えた人も、多かったようである。だが80年代のノリは、90年代に入ってもしばらく続いた。
 1990年に「ちびまる子ちゃん」のアニメが放送開始され、「……ピーヒャラ、ピーヒャラ、踊るポンポコリン!」の歌が街に流れ、街は活気にあふれていた。ティラミスやナタデココ、パンナコッタといったスウィーツが大衆的人気を呼んだのも、このころだった。
 1991年、きんさん・ぎんさんは100歳になった。「ちょっと働けばお金が入るでしょう。なんでもあるでしょ。なに不自由ない」と、カメラに向かって語っている。
 「ジュリアナ東京」が東京芝浦の倉庫を改造して造られ、毎夜ここに多くの若者たちが集まり、踊りまくった。女の子たちを車で送り迎えし、食事をご馳走してくれる便利な「アッシー」君や「メッシ―」君といった言葉がつくられたのも、このころだった。
 この年、篠山紀信の撮った宮沢りえの写真集『Santa Fe』が、155万部の売上となった。若い人気女優がヌード写真を披露することは、それまで考えられないことであり、80年代と少しも変わっていないという感じを人々に与えたと、番組は言う。

 「ソナチネ」(監督:北野武)という映画が、1993年に公開された。
 沖縄のヤクザ同士の争いに、手を貸してほしいと依頼されて出かけた小さな組の組長(北野武)と子分たちは、着いた早々に事務所を襲撃され、片田舎の海岸近くの家に避難する。青い海と白い砂浜に恵まれた片田舎の隠れ家で、北野たちは暇を持て余しながら、子どもにかえったかのように毎日遊んで過ごす。
 明るい陽射しの下、白い砂浜で子分二人が相撲をとることになるが、二人は「紙相撲」の相撲取りのまねをする。紙を人型に切って作った相撲取りの人形に、組み合った姿勢を取らせ、周りから振動を与えると人形が動き、どちらかが転んだり土俵の外に出ると負けという子供のゲームである。土俵の外で北野が砂浜を叩くと、子分二人は相撲取り人形の動きをし、見物人は大笑いする。―――
 番組のコメンテーター・佐々木敦はこの場面について、次のように言う。「ぽっかりした空気感は90年代的です。80年代の、皆が狂ったように踊りまくっていた祭りは終わったんだけど、それが終わった後ぽっかりとした空気が生まれてきて、でもまだ貧しくなっていないから、そこに時間だけはある。その時間をどうやって埋めるか。いろんな暇つぶしのような遊びが登場してきた……」

▼同じ1993年に、映画「月はどっちに出ている」(監督:崔洋一)が公開された。在日コリアンのタクシー運転手とフィリピン・パブで働く女性の恋愛を軸に、東京でたくましく生きるさまざまな人々の日常を、コミカルに描いた作品である。
 90年代、経済大国のイメージの日本に、多くの外国人が出稼ぎにやってきており、パブで働くフィリピン人の姿は、地方でもよく見られた。93年には、外国人技能実習制度も導入されている。そうした外国人が、映画の主要な登場人物として、はじめて現れたというわけである。
 道に迷ったタクシー運転手が、会社に電話を掛けて聞く。「自分はどこにいるんでありましょうか?」。電話を受けた社長は、「安藤さん、近くに何が見えますか」と訊き、指示を与える。
 あるときパジャマ姿の社長は運転手の電話に対し、「月はどっちに出ていますか?」と訊いた。
 画面には大きな丸い月と東京タワーが映し出され、運転手は電話ボックスの中から月を探し、答える。 「……東か西か、……南か北、であります。」「安藤さん、月に向かって走ってきてください。」
 ―――どこへ行けばいいのか、あれこそが90年代の空気なんですと、佐々木敦は言う。日本は、自分は、どこにいるのか。誰もが月を探していたのです。―――
 余談だが、この公衆電話から電話を掛けるシーンは、はからずも当時の日本が携帯電話の普及する前夜であったことを記録していて、興味深い。
 こういうシーンもあったと記憶する。二人の男が歩きながら、ケータイ電話で話をしている。カメラは交互に、二人の歩いている姿を映す。そのケータイ電話は、掌の中に収まるほど小さいものではなく、卓上電話ほどの大きなものである。二人は喋りつづけ、そのままホテルに入っていき、ロビーで顔を合わせて挨拶する―――。ケータイ電話というものが珍しかったからこそ監督はこの場面を取り入れ、また筆者の記憶にも残っているのだろう。

▼「だが、こちらの月は明るく輝いていた」と、番組は話題を転じる。
 1992年にマンガ「美少女戦士セーラームーン」が、TVでアニメ化された。中学2年生の主人公・月野うさぎが、黒猫ルナと出会ったことで、妖魔と戦うことになるというストーリーは、少女だけでなく大人の女性や男性の間でも人気を集めたようだ。きっかけさえあれば、だれもが変身できる。秘められた魔法のパワーは、まだ自分の中に眠っているだけという設定は、少女たちに生きる力を与えた、と番組は言う。
 筆者は残念ながら、それほど評判のアニメの話を耳にすることはなかったが、「月に代わってお仕置きよ!」のセリフは、どこかで聞いて知っていた。
 このTVアニメは1993年にはフランス、イタリア、スペインでも放送され、95年からは全米50局以上で放送された。

 「美少女戦士セーラームーン」は、日本のアニメが海外で人気を博す大きなステップであったらしい。アニメや漫画が、自動車や電化製品とともに、日本の象徴的アイコンとなりはじめていた。

(つづく)

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日本の70~90年代とサブカルチャー4 [思うこと]

▼80年代がどういう時代であったのか、筆者は自分が観た映画を書き並べることで、当時の社会の空気をどのように思い出せるものか、試してみた。以下は、記憶にしたがって書き出した映画リストを、公開年次別に整理したものである。(カッコ内は監督名)
 1980年 「旅芸人の記録」(テオ・アンゲロプロス)、「木靴の樹」(エットーレ・スコーラ)、  「遥かなる山の呼び声」(山田洋次)
  81年 「泥の河」(小栗康平)、「駅」(降旗康男)
  82年 「蒲田行進曲」(深作欣二)
  83年 「戦場のメリークリスマス」(大島渚)、「家族ゲーム」(森田芳光)、「東京裁判」(小林正樹)
  84年 「お葬式」(伊丹十三)、「伽耶子のために」(小栗康平)
  85年 「乱」(黒澤明)、「それから」(森田芳光)、「タンポポ」(伊丹十三)
  86年 「ストレンジャー・ザン・パラダイス」(ジム・ジャームッシュ)
  87年 「マルサの女」(伊丹十三)、「プラトーン」(オリバー・ストーン)、「薔薇の名前」(ジャン=ジャック・アノー)
  88年 「となりのトトロ」(宮崎駿)、「ラストエンペラー」(ベルナルド・ベルトルッチ)、「芙蓉鎮」(謝晋)、「ベルリン・天使の詩」(ヴィム・ヴェンダース)
  89年 「ダイハード」(ジョン・マクティアナン)、「レインマン」(バリー・レヴィンソン)、  「赤いコーリャン」(チャン・イーモウ)、「黒い雨」(今村昌平)

 上のリストはいま記憶しているものを書き出したものだから、当然漏れはあるだろうし、
公開された年ではなく数年後にTVで観た「となりのトトロ」や「東京裁判」も含んでいる。観た本数がそれ以前に比べてかなり減っているが、仕事がそれなりに忙しくなったのと、筆者の職場が銀座から遠くなり、並木座にもめったに行かなくなったことが影響しているのだろう。
 洋画に日本の80年代が反映されているはずがないと考えるのは、一応は正しいのだが、例外もある。「ダイハード」はドイツ人リーダーに率いられた十数人のテロリスト集団が、ある高層ビルを占拠し、たまたま居合わせたブルース・ウィリス演じる主人公が独りで彼らと闘うアクション・ムービーだが、闘いの舞台となった高層ビルの名前は「ナカトミビル」。日本企業「ナカトミ商事」が開いたクリスマスパーティが、壮絶なる活劇の幕開けだった。目端の利くハリウッド映画が取り入れたこの設定は、当時の米国を席捲していた日本経済の勢いを、証明するものと言える。
 筆者個人は、上のリストの映画がインデクスとなって、当時の自分の生活が思い出されるのだが、映画自体に時代が反映されていたかと言えば、時代性の明らかな作品は多くないように見える。

▼NHK番組の「80年代」で取り上げられた映画のいくつかは、同時代の風俗や事件を素材としたものである。
 「私をスキーに連れてって」(監督:馬場康夫 1987年)は、空前のスキーブームを背景に、スキーに無邪気に興じる底抜けに明るくハッピーな若者たちを描いて、「時代の気分をそこに映し出そうとしていた」と番組は言う。
 「家族ゲーム」(監督:森田芳光 1983年)は、80年代の経済的繁栄の中で進行していた家族の変化を描き、「家族関係がもはやゲームにしかならない80年代の危うさを切り取っていた」と、番組は評価する。
 日航機事故で流行語になった「逆噴射」を題名に取り込んだ映画がつくられたり(「逆噴射家族」監督:石井聰互 1984年)、豊田商事事件を取り入れた「コミック雑誌なんていらない」(監督:滝田洋二郎 1986年)が撮られたりした。しかしその程度なのだ。
 番組が「戦場のメリークリスマス」(大島渚)を取り上げたので、どのように料理するのかと興味を持って見た。坂本龍一やデビッド・ボウイが重要な演技者として出演したこと、カンヌ映画祭のグランプリの有力候補と見られたが受賞を逃したこと、代わりに「楢山節考」(監督:今村昌平)がグランプリを受賞し、今村がびっくりしたこと、大島渚は感想を聞かれて、「戦場のメリークリスマスは進み過ぎていて、カンヌを越えてしまったようだ」と述べた、といったゴシップレベルの話ばかりで、時代との関連についての考察などまるでなかった。
 総じて80年代という時代性を刻印された映画は、多くないという印象である。

▼筆者が80年代と聞いて思い浮かべるのは、「ポストモダン」と呼ばれたさまざまな言説である。「差異」や「表層」といった言葉が意味ありげに使われ、ソシュールの言語学が参照され、共時的、通時的、シニフィアン、シニフィエなどフランス語由来の言葉がありがたい万能膏薬のように、あちこちに貼り付けられた文章が出回った。
 浅田彰の『構造と力』が、固い内容にもかかわらず異様な売れ行きを見せ、既成のアカデミズムのジャンルを軽やかに横断する言説や批評が流行し、「ニューアカ」と呼ばれた。記号論が万能のツールのように、もてはやされた。
 しかし筆者にとって、「ポストモダン」のお囃子はどこか不快であり、筆者の生活は、不動産業界を中心とする活況を遠くのお祭りのざわめきのように聞くばかりで、それ以前と変わりはなかった。
 1984年に、『金魂巻』(渡辺和博とタラコプロダクション)という本が出版された。世の中の職業人、業界人を「マル金」と「マルビ」に分けて、それぞれの衣服や靴、趣味や家庭環境、読書傾向などをもっともらしく記述したもので、「言えてる」「言えてる」と評判になった。筆者は、クソ面白くもない「ポストモダン」の議論を笑い飛ばす、80年代のクリーンヒット本だと、当時痛快に思った。

▼80年代を語る番組のナレーションが、月並みではあるがなかなか軽快でよく出来ていると思うので、ここに紹介する。
 「都市は希望にあふれ、情報空間となった街が人々の欲望を形づくり始めていた。消費社会の物語は膨らみ続け、人々を呑み込み、そしてある時、欲しいものが分からなくなっている自分に気づく。スクリーンに描かれていたのは、一見華やかに生きる80年代の人々が、実は消費のネットワークにからめとられている不安だった。」
 「学問さえファッションとして消費された80年代、多くの人が資本主義というゲームを楽しんでいるかのようだった。」
 「何かがおかしい、何かがズレている。時に頭をかすめる違和感を振り払うようにして、人々は夢を追い続けた。」
 「巨大な流れに、誰もが巻き込まれ、流されていった。誰もがこのままでよいはずがないと不安を抱え、しかしそれでも踊り続けた。」―――

 コメンテーターとして番組に顔を出す佐々木敦は、「80年代」について次のように言う。
 「これは夢かも知れないと、皆うすうす思っているんだけど、なぜか覚めないから、もしかしたらこれは夢じゃないのではないか、たとえ夢だとしてもまだまだ続くんだろうなと思っていたら、チョキン! あ、眼が覚めた……」

 80年代にコピーライターから作家に転進し、今は日本大学理事長をしている林真理子は、80年代を「いい時代だったとはっきり言える」という。「80年代を覚えている人たちが、あの熱狂をちゃんと形にしていけばいいのです。バカなことをしたとか軽薄だとか、私はまったく思っていません。」

(つづく)

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日本の1970~90年代とサブカルチャー3 [思うこと]

▼日本の80年代について番組がどのように語り、どのように批評したかを、見ていくことにする。
 
 日本の80年代とは、「経済大国」としての存在感を増した時代だった。
 1980年に日本の自動車生産台数は、世界一となった。その前年(1979年)には日本の終身雇用、年功序列制など「日本的経営」を高く評価した『ジャパン アズ ナンバーワン』がアメリカの社会学者によって出版され、ベストセラーになっていた。
 日本はいつのまにか貧しい敗戦国から、世界有数の豊かな国になっていた。世界の国々のTVは、日本の成功の秘密を知ろうと「日本特集」を組み、日本人はこの状況に、晴れがましさとともに戸惑いを感じていた。
 細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一のバンド「Yellow Magic Orchestra(YMO)」の電子音によるサウンドは、テクノポップと呼ばれ、異彩を放った。70年代末に欧米で人気を得て、日本に逆輸入するような形でブレイクした。
 「コンピュータと戯れるような表現スタイル。無機的なテクノロジーのサウンドが、奇しくも日本経済の記号と重なる。YMOという表現実験が世界を駆け巡ることで、80年代日本のアイデンティティが、不思議な形であぶり出された」と番組は述べる。優れた技術を持った日本企業が世界に進出し、日本製品が世界を席捲していくことと、YMOの最先端のイメージが重なって受け止められた。
 田中康夫の小説『なんとなくクリスタル』(1980年)が評判になった。東京に暮らす若者たちの、華やかだが少しけだるい日常を描いた作品だが、流行のブランド名やレストラン名が頻出し、それらに442個の註が付けられているという前代未聞の小説だった。「いつのまにか消費の記号で埋め尽くされていた80年代の東京」、「実体と虚構の境目を見失いつつある国際都市・東京」の一断面がそこにあった、と番組は言う。
 消費のスピードが加速度を増していた80年代は、空前の広告ブームだった。商品の機能を宣伝するのではなく、広告自体が作品であるかのようなユニークな広告が、街にあふれた。「おしりだって洗ってほしい」(1982)、「おいしい生活」(1982)、「不思議、大好き」(1982)、「ほしいものが、ほしいわ」(1988)といったコピーを、番組は80年代的コピーの例として挙げる。
 そして商品自体を宣伝するのではなく、ライフスタイルを表現するようなコピー、今より少し先にある、わくわくするような生活を垣間見せてくれるようなコピー、―――80年代の広告は人々の無意識の欲望に訴えかけた、と説明する。

▼裏方だったコピーライターやCMディレクターが次々とメディアに登場し、スターとなった。そして彼らを使い、時代の空気を創り出した仕掛け人の代表は、西武の堤清二とその盟友・増田通二だった。
 1973年に渋谷パルコが開店し、「区役所通り」が「公園通り」に改名したころから、渋谷は文化の発信地として急速に変化していった。堤たちは美術館を創って現代美術を紹介したり、また渋谷系サブカルチャー雑誌「ビックリハウス」を発行するなど、さまざまな文化事業を展開し、「セゾン文化」という言葉も生まれた。番組が広告ブームの例に挙げたうち、「おいしい生活」、「不思議、大好き」、「ほしいものが、ほしいわ」の三つは、いずれも糸井重里がセゾングループのために作ったコピーだった。
 その糸井は、広告業界にとどまらず、NHKで若者向け番組の司会をしたり、作詞をしたりと活躍の場を広げた。糸井が作詞し沢田研二が歌った「TOKIO」のレコードは、1980年の正月に売り出されたが、「スーパーシティ東京」を欧米人の発音に似せて「トキオ」と呼び、擬人化して「トキオは空を飛ぶ~」と歌ったものだった。
 糸井は後に、次のような発言をしている。「アメリカが本流で日本の自分たちはフォロワーというスタンスでやっているかぎり、新しいことはできない。だから自分たちの方こそ見てくれという宣言を、TOKIOという言葉に込めたんです」。
 YMOの細野晴臣は2014年に収録された映像で、当時、自分たちは何なのかと自問していたことを打ち明けている。障子と紙と木でできている国だから、すごく薄っぺらい。東京とはそういうものだろう。しかし薄っぺらく軽薄であることは、キュートなのではないか……と。
 同じYMOの高橋幸宏は、次のように回想している。「(外国へ公演に行って)工業用マスクをして、東京はこれがないと病気になるなんて、ウソばかりついてました。ただの皮肉だったんです。日本を外から見たとき、そう見えてるんでしょ、どうせ、みたいな……」。
 日本のミュージシャンのアイデンティティの問題、あるいはもっと一般的に日本人の文化的アイデンティティの問題といっても良いのだろう。日本人は欧米の文化に首まで浸りつつ、その中で新しいことを発信しようとするとき、どうすればよいか、という課題に彼らが正面から突き当たったのも、それが1980年代であったからなのだ。
 YMOは中国の人民服のような衣装を着て、テクノポップを演奏したが、中国と日本の区別すらつかない欧米のイメージを、彼らは遊んでずらしていた、そこに「障子の国のハイテクと80年代的自己主張の精神が見え隠れする」と番組は言う。

▼80年代、米国のレーガン政権は、インフレ抑制のために厳しい金融引き締めを行い、その結果、国際収支と財政赤字の赤字に頭を悩ませた。日本との間での貿易赤字が特に巨大であったから、米国は日本の「市場開放」を強く要求し、中曽根政権はこの要求に応じ、国民に輸入品を買うように呼びかけた。
 1985年の「プラザ合意」によって、それまで1ドル=240円前後だった為替レートは、一挙に1ドル=200円前後に急騰した。このため輸出は低迷し、景気も後退、日銀は低金利政策を継続した。この政策判断がカネ余り現象を生み出し、カネが不動産市場に流れ込み、地価は天井知らずで高騰した。
 ここで生み出されたカネは国内だけでなく国外にも向かい、ニューヨークのロックフェラーセンターやコロンビア・ピクチャーズを買収し、ロンドンのクリスティーズのオークションでは、ゴッホの「ひまわり」の絵に53億円の値をつけた。
 1989年末の日本の株価は38,915円の最高額を記録した。

(つづく)

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