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日本の1970~90年代とサブカルチャー3 [思うこと]

▼日本の80年代について番組がどのように語り、どのように批評したかを、見ていくことにする。
 
 日本の80年代とは、「経済大国」としての存在感を増した時代だった。
 1980年に日本の自動車生産台数は、世界一となった。その前年(1979年)には日本の終身雇用、年功序列制など「日本的経営」を高く評価した『ジャパン アズ ナンバーワン』がアメリカの社会学者によって出版され、ベストセラーになっていた。
 日本はいつのまにか貧しい敗戦国から、世界有数の豊かな国になっていた。世界の国々のTVは、日本の成功の秘密を知ろうと「日本特集」を組み、日本人はこの状況に、晴れがましさとともに戸惑いを感じていた。
 細野晴臣、高橋幸宏、坂本龍一のバンド「Yellow Magic Orchestra(YMO)」の電子音によるサウンドは、テクノポップと呼ばれ、異彩を放った。70年代末に欧米で人気を得て、日本に逆輸入するような形でブレイクした。
 「コンピュータと戯れるような表現スタイル。無機的なテクノロジーのサウンドが、奇しくも日本経済の記号と重なる。YMOという表現実験が世界を駆け巡ることで、80年代日本のアイデンティティが、不思議な形であぶり出された」と番組は述べる。優れた技術を持った日本企業が世界に進出し、日本製品が世界を席捲していくことと、YMOの最先端のイメージが重なって受け止められた。
 田中康夫の小説『なんとなくクリスタル』(1980年)が評判になった。東京に暮らす若者たちの、華やかだが少しけだるい日常を描いた作品だが、流行のブランド名やレストラン名が頻出し、それらに442個の註が付けられているという前代未聞の小説だった。「いつのまにか消費の記号で埋め尽くされていた80年代の東京」、「実体と虚構の境目を見失いつつある国際都市・東京」の一断面がそこにあった、と番組は言う。
 消費のスピードが加速度を増していた80年代は、空前の広告ブームだった。商品の機能を宣伝するのではなく、広告自体が作品であるかのようなユニークな広告が、街にあふれた。「おしりだって洗ってほしい」(1982)、「おいしい生活」(1982)、「不思議、大好き」(1982)、「ほしいものが、ほしいわ」(1988)といったコピーを、番組は80年代的コピーの例として挙げる。
 そして商品自体を宣伝するのではなく、ライフスタイルを表現するようなコピー、今より少し先にある、わくわくするような生活を垣間見せてくれるようなコピー、―――80年代の広告は人々の無意識の欲望に訴えかけた、と説明する。

▼裏方だったコピーライターやCMディレクターが次々とメディアに登場し、スターとなった。そして彼らを使い、時代の空気を創り出した仕掛け人の代表は、西武の堤清二とその盟友・増田通二だった。
 1973年に渋谷パルコが開店し、「区役所通り」が「公園通り」に改名したころから、渋谷は文化の発信地として急速に変化していった。堤たちは美術館を創って現代美術を紹介したり、また渋谷系サブカルチャー雑誌「ビックリハウス」を発行するなど、さまざまな文化事業を展開し、「セゾン文化」という言葉も生まれた。番組が広告ブームの例に挙げたうち、「おいしい生活」、「不思議、大好き」、「ほしいものが、ほしいわ」の三つは、いずれも糸井重里がセゾングループのために作ったコピーだった。
 その糸井は、広告業界にとどまらず、NHKで若者向け番組の司会をしたり、作詞をしたりと活躍の場を広げた。糸井が作詞し沢田研二が歌った「TOKIO」のレコードは、1980年の正月に売り出されたが、「スーパーシティ東京」を欧米人の発音に似せて「トキオ」と呼び、擬人化して「トキオは空を飛ぶ~」と歌ったものだった。
 糸井は後に、次のような発言をしている。「アメリカが本流で日本の自分たちはフォロワーというスタンスでやっているかぎり、新しいことはできない。だから自分たちの方こそ見てくれという宣言を、TOKIOという言葉に込めたんです」。
 YMOの細野晴臣は2014年に収録された映像で、当時、自分たちは何なのかと自問していたことを打ち明けている。障子と紙と木でできている国だから、すごく薄っぺらい。東京とはそういうものだろう。しかし薄っぺらく軽薄であることは、キュートなのではないか……と。
 同じYMOの高橋幸宏は、次のように回想している。「(外国へ公演に行って)工業用マスクをして、東京はこれがないと病気になるなんて、ウソばかりついてました。ただの皮肉だったんです。日本を外から見たとき、そう見えてるんでしょ、どうせ、みたいな……」。
 日本のミュージシャンのアイデンティティの問題、あるいはもっと一般的に日本人の文化的アイデンティティの問題といっても良いのだろう。日本人は欧米の文化に首まで浸りつつ、その中で新しいことを発信しようとするとき、どうすればよいか、という課題に彼らが正面から突き当たったのも、それが1980年代であったからなのだ。
 YMOは中国の人民服のような衣装を着て、テクノポップを演奏したが、中国と日本の区別すらつかない欧米のイメージを、彼らは遊んでずらしていた、そこに「障子の国のハイテクと80年代的自己主張の精神が見え隠れする」と番組は言う。

▼80年代、米国のレーガン政権は、インフレ抑制のために厳しい金融引き締めを行い、その結果、国際収支と財政赤字の赤字に頭を悩ませた。日本との間での貿易赤字が特に巨大であったから、米国は日本の「市場開放」を強く要求し、中曽根政権はこの要求に応じ、国民に輸入品を買うように呼びかけた。
 1985年の「プラザ合意」によって、それまで1ドル=240円前後だった為替レートは、一挙に1ドル=200円前後に急騰した。このため輸出は低迷し、景気も後退、日銀は低金利政策を継続した。この政策判断がカネ余り現象を生み出し、カネが不動産市場に流れ込み、地価は天井知らずで高騰した。
 ここで生み出されたカネは国内だけでなく国外にも向かい、ニューヨークのロックフェラーセンターやコロンビア・ピクチャーズを買収し、ロンドンのクリスティーズのオークションでは、ゴッホの「ひまわり」の絵に53億円の値をつけた。
 1989年末の日本の株価は38,915円の最高額を記録した。

(つづく)

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