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「ラムザイヤー論文」とその反撥 9 [思うこと]

▼吉見義明への批判は、「告発派」全体への批判でもあるので、もう少し続ける。
 筆者の批判の第二は、吉見が慰安所と慰安婦たちを同時代の社会の中に置いて考えるよりも、「人権」意識の高まった現代社会のなかで問題にし、現代人の感覚で彼女たちの境遇の悲惨さを強調する傾向が強いことである。彼らが慰安婦を「性奴隷」だと言いつのるのも、現代社会の感覚からすればおかしなことではないのかもしれない。
 しかし戦前の日本社会の貧困、とくに昭和恐慌後の農村部の大飢饉や貧窮を背景に置かなければ、娘たちの遊郭への「身売り」という出来事を理解するのは難しい。朝鮮半島においても同様であったことは、慰安婦たちの「証言」からもうかがい知ることができる。

 戦前の日本社会には、公娼制度が合法的に存在した。「身売り」など前借金で人の自由を縛る契約は、民法90条の定める「公序良俗」に反するもので無効だが、金銭貸借上の契約としては有効だというのが、戦前の裁判所の判断だった。こういう「詭弁」を、吉見は「人権無視も甚だしい」と強く非難するのだが、非難するのは良いとして、その感覚をそのまま公娼制度や慰安婦制度の理解に持ち込み、「奴隷」だ、「性奴隷」だと騒ぎまくるのは、歴史と向き合う姿勢として大いに疑問である。
 筆者はべつに戦前の裁判官を擁護するつもりはないが、彼らが「詭弁」を弄した背景には、公娼制度をめぐる社会の現実と社会の規範を表わす法律、そして国民一般の意識のあいだでの相当な苦心があったであろうことは、容易に分かる。現代の豊かな社会に暮らす吉見が口にする「正義」を、同じように気楽に口にすることは、戦前の社会に生きる裁判官たちには許されていなかったのだ。

▼さて、この調子で「告発派」の議論を問題にしていくと、ブログは延々と続くことになりそうなので、この辺でそろそろ切り上げたいのだが、日本国家の「法的責任」について一言述べておく必要があるだろう。
 「慰安婦問題」は、「韓国の少女たちが日本軍により強制的に慰安婦にされた」ことへの韓国民の怒りとして、1990年代はじめに始まった。そこには「女子挺身隊」と「慰安婦」の混同があり、その誤解は「東亜日報」の記事、「十二、三歳の幼い生徒は勤労挺身隊に、十五歳以上の未婚の少女は従軍慰安婦として連行され、……幼い少女たちの一部はその後従軍慰安婦として……」(1992年1月16日)などにより、「事実」として広まった。日本国家の「法的責任」を追及する運動は、日本軍や政府が「奴隷狩り」のような方法で韓国人女性を強制的に慰安婦にしたことを告発する運動として、まず始まったのだ。
 しかし日本の活動家たちはやがて、そのような主張を続けることが無理であることに気づき、日本軍と日本政府が慰安所をつくり、女性を「性奴隷」として働かせたことを、国際法に違反するとして告発することに方針を換える。
 国際法は国家間の関係を規律する法であり、あくまでも国家間の合意に基づいて形成、適用、執行される。その主要な法源は条約や「慣習国際法」だが、当時有効に存在していた条約や「慣習国際法」について具体的に検討すると、「慰安婦」問題で日本国の「法的責任」を問うことは、かなり困難だった。
 そこで吉見義明が新たに持ち出したのが、戦前の日本の刑法である。戦前の刑法には、国外移送の目的で人を「略取」「誘拐」「売買」「移送」することを禁じた条文があり、女衒や楼主などの「業者」はこれらの条文に違反したと、吉見は言う。そして業者がこれらの罪に問われるなら、「それを防がなかった軍に重大な責任があるということになります」と主張する。(『日本軍「慰安婦」制度とは何か』吉見義明 2010年 岩波ブックレット)
 たしかに業者は婦女子を集めて戦地の慰安所に連れて行く過程で、吉見の言うように刑法に抵触する行為を行った場合もあったであろう。
 だが、韓国人少女を強制的に連行し、力づくで慰安婦にした日本軍と日本政府の「法的責任」を追及する運動が、いつの間にか業者の刑法違反の問題に矮小化され、日本軍と日本政府についてはその「監督責任」が問題にされていることに気づく。結局それは、吉見たちが振り上げたこぶしのやり場に困り、業者の「刑法違反」というところに降ろしどころを見出したということなのだろう、と筆者は思った。

▼マーク・ラムザイヤーは今年に入って批判者たちへの反論を発表し、その要約が産経新聞に載っていた。(ネット版:2022年1月23日)。ラムザイヤーは批判者たちの主張を大きく三つに整理し、それぞれについて自分の考えを再度簡潔に述べている。
 自分への第一の批判は、「慰安婦は契約によって働いていたのではない」というものだが、この主張は誤りである。もちろん契約の下で働いていた事実と、その契約が公正で正義にかなったものであるかは別の問題だが、自分の論文はどうあるべきかという規範ではなく、どうであったかという事実に関する研究なのだ。
 第二の批判は、「日本軍が銃剣を突き付けて朝鮮人女性を慰安婦として働くよう強制連行した」というもので、これもまったくの誤りである。
 第三の批判は、慰安婦が募集業者に騙されたり、売春宿の楼主にひどく扱われたりすることがあったというもので、この主張は正しいし、自分も論文で指摘したところだ。楼主が取り決めを守らず、騙されるリスクがあることこそ、女性たちが多額の金銭を最初に受け取っていた理由の一つなのだ。慰安婦の年季奉公契約の経済的ロジックの分析が、論文の要点である。―――

 ラムザイヤーの整理した「第二の批判」を見て、筆者は少し驚いたが、ある種の納得感もあった。日本の活動家の間ではずっと以前に引っ込められた「強制連行説」が、米国の学者たちの間では、あいかわらず事実として考えられているらしい。ハーバード大学のゴードン教授とエッカート教授は、今回の「ラムザイヤー論文」の撤回要求では言及しなかったものの、《自分たちの著作では、吉田「証言」に依拠したジョージ・ヒックス氏の著作に基づき、強制連行説を繰り返している》(「反論」)のだそうだ。
 《慰安婦問題に関する欧米の通説に疑問を投げかけることが英語圏で専門家の激しい怒りを呼び起こしたのは、今回が初めてではない。2015年に日本政府が米国の高校歴史教科書の事実に反する記載に申し入れを行った際、ゴードン教授らは日本政府非難の声明を出した。/このひどい不寛容さは、欧米とくに米国の大学が作り出したものである。欧米では今も、日本専門家が強制連行という「コンセンサス」を押しつけている。》
 日本では、吉田清治の「証言」がペテンであることは誰もが知っている。《韓国では異議を唱える研究者が迫害を受けるなど、状況は厳しいとはいえ、それでも勇気ある研究者たちが増え続け、声を上げている。ただ欧米の大学でのみ、このペテンが真実とされ、ペテンを支持する「コンセンサス」が存在するのだ。》

 「ラムザイヤー論文」に対して米国の学者たちが一斉に非難の声を上げたのを知り、彼らが歴史の「事実」について、かなり偏った情報を頭に入れているのではないか、と筆者は疑った。このラムザイヤーの反論で、疑問は裏付けられた気がする。米国の学者たちの耳には、吉見義明たち「告発派」の主張しか届いていず、「告発派」の主張に沿って「事実」が認識されているのだ。
 それは、彼ら自身の望むものでもあったのだろう。「女性への暴力」を非難することは時代の正義であり、その流れに加わることで知識人としての使命感を満足させ、ともに行動する仲間との連帯感も味わえる。しかしそれは、歴史の事実を歴史の中で理解し評価するのではなく、自分たちの今の信条を一方的に表明しているに過ぎないということに、彼らは気づいているのだろうか?
 流行に敏感に反応し付和雷同するのは、学者の世界も変わらないことを、この「事件」は教えてくれる。

(おわり)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 8 [思うこと]

▼さて慰安婦は「性奴隷」かという問いに答えるためには、まず「奴隷」とは何か、を定義しておかなければならない。
 外務省が準備した「クマラスワミ報告」への「反論書」によれば、「奴隷条約」(1926年)第1条1では、「奴隷制度」を「その者に対して所有権に伴ういかなる又はすべての権力が行使されている者の地位又は身分」と定義しているという。ずいぶん分かりにくい表現だが、「所有権に伴う権力が行使されている」とは、人が誰かの私有財産とされ、その支配の下で無報酬の労働を強いられ、売買・譲渡の対象とされる、といったような理解でよいだろうか。だから「奴隷」には、人間としての権利や自由は認められない。
 慰安婦は「奴隷」だったのだろうか?

 まず、無償の労働を強いられたのかという点に関していえば、まったくそのようなことはなく、きわめて高収入であったことは史料の示すところだ。文玉珠は、昭和18年3月に軍事郵便貯金に500円を預けたのを皮切りに、その後毎月のように数百円ずつ預け、昭和20年4月に5千円を引き出して故郷の母親に送ったが、それでもまだ6~7千円の貯金があったという。(『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』森川万智子 梨の木舎 1996年)

 慰安婦は売買・譲渡されるモノとして扱われたのか?
 親と女衒と楼主の間で、どのような取引があったのかは推測するしかないが、慰安婦と楼主の間の関係は、前借り金の貸し付けと慰安所における労働による返済、という契約関係だったと見ることができるだろう。そのことは軍も含め関係者の共通の理解であり、軍は借金を返済し終わった慰安婦が帰国する場合、帰るための無料の便宜を図る旨の指示を出していたし、何人もの慰安婦が廃業して帰国したことが史料に記録されている。

 慰安婦は自由を認められず、劣悪な労働環境、労働条件に置かれていたから奴隷だという主張はどうか?
 労働条件の受け止め方は、史料を見るかぎり個人差が大きかったようである。文玉珠のように金を溜めることを生きがいに一生懸命働き、環境に適応した慰安婦がいた一方、慰安所に適応できずに毎日を辛い思いで過ごした女性や、移動の途中で川に身を投げた慰安婦もいたことを、史料は語る。彼女たちにとって慰安所での労働と生活は、奴隷のような日々だったかもしれない。
 しかし「王侯貴族のような生活を送る者」が王侯貴族ではないように、「奴隷のような生活を送る者」が「奴隷」であるとは限らない。「奴隷」であるかどうかは、その生活が耐えがたいものかどうかではなく、あくまでその「法的関係」を見ることで判断しなければならない。
 筆者の結論は、慰安婦を法的に「奴隷」ということはできない、というものだ。
 慰安婦は慰安所で「管理」されていたが、軍や楼主に「所有」されていたわけではなく、自由な行動を制限されていたが、これは「所有権に伴う権力」が行使された結果ではなかった。
 「奴隷」という決め付けは、互いに似たような境遇にあった慰安婦と兵士の間に、人間的感情の交流が生じたことを覆い隠すという意味でも、歴史の実態を知るうえで有害である。「性奴隷」あるいは「軍性奴隷」という「定義」(クマラスワミ)は、政治的非難以上のものではないのだ。

 (女性への「性暴力」である点で変わりがないという理屈で、慰安所制度と強姦をひとくくりにすることなど、噴飯ものというほかない。)

▼筆者は「慰安婦問題」について、歴史学者・秦郁彦の論文から多くのことを学んだ。しかし「告発派」の第一人者・吉見義明の論文に対しては、ほとんどの場合納得できず、反感ばかりを募らせてきたように思う。どこに筆者が納得できず反感を覚えたか、簡単に記しておきたい。
 吉見の論文ないし発言は、一見冷静で客観的、理知的なように見えて、実はきわめて党派的、感情的である。たとえば上に挙げた、「慰安婦は廃業することができたか」という慰安婦の地位に関する重要なポイントに関し、吉見は「前借金や追徴金の全額返済または契約期間の満了に加えて、慰安業者の許可、軍の許可の三つが必要だった」と、「廃業」が難しかったことを臭わせる。また、債務をすべて返済したが「戦況を理由に軍は帰国を認めなかった」例もあると言い、ビルマのミチナで米軍の捕虜となった20人の慰安婦のケースを挙げている。(吉見義明「ラムザイヤー論文の何が問題か」『世界』2021年5月号所収)。
 吉見は、「慰安婦は廃業できなかった」とはさすがに書かないが、「廃業」への軍の許可がおりなかった例を強調し、廃業した実例には触れようとしない。
 しかしビルマのミチナ(日本軍はミイトキーナと呼んでいた)とは、どういう場所か。
 第二次世界大戦中、日本軍は米英の中国軍支援ルート(いわゆる「援蒋ルート」)を遮断するために、1942年にビルマを占領し、イギリス・インド軍はインド領のインパールに退却した。ミイトキーナはインパールや中国雲南省に近い、ビルマ北端の街である。
 1944年3月に、日本軍はインパール攻略の戦闘を起こす。しかし作戦は惨憺たる失敗に終わり、4か月後にようやく作戦中止を決定したときには、ビルマ全土の防衛も破綻していた。8月3日にミイトキーナは陥落。
 軍が「戦況を理由に」帰国を認めなかったのがいつの時点のことか不明だが、戦闘のない時期には平穏だった街も、やがて状況が緊迫し、空爆が開始され戦闘に包まれた。債務を返済し終えた慰安婦に、軍が「戦況を理由に」帰国を認めないことも当然起こり得たと思われるが、このことが「廃業できる」ことへの反証になる、と吉見は考えるのだろうか。
 
 また慰安婦の収入に関して、「高収入」だったというのは間違いだと吉見は主張するのだが、その理由は、ハイパーインフレによって慰安婦たちの稼ぎは数十分の一以下に減価したからだという。また戦後の「預金凍結」措置によって、月々の生活費を超える額を引き出せない時期があったことを言い、だから慰安婦が高収入だったというのは「事実に反するのは明らか」だという。(吉見義明「ラムザイヤー論文の何が問題か」)。
 収入が高いか低いかは、同時代の比較の中で意味をもつことがらだ。そうして稼いだ金が、その後ハイパーインフレの影響を受けないという保証はどこにもないし、戦後の日本人は等しくこの影響を受けた。ハイパーインフレによって収入は大きく減価したから、「慰安婦たちが高収入だったという説は誤りだ」と言う吉見は、自分の主張がコッケイだという自覚がないのだろうか。

▼吉見は、慰安婦たちの労働環境や労働条件に関し、なぜかミチナの「米軍報告書」の次の部分を引用しようとしない。
 《食料、物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きは良かった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちはビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食行事に出席した。彼女たちは蓄音機を持っていたし、都会では買い物に出かけることが許された。》
 《慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。》
 《……これらの慰安婦の健康状態は良好であった。》

 前々回にも述べたことだが、このような記述がどれだけの慰安所に当てはまることなのかは、他の史料も含めて比較検討しながら、よく考えなければならないことだろう。しかし「第三者の立場で観察した唯一の公文書」(秦郁彦)としてこの報告書の史料的価値は高く、それを無視して勝手に慰安婦や慰安所のイメージを描くことは許されない。
 要するに、筆者の吉見義明に対する批判の第一は、彼が自分の主張を通すために、都合の良い史料は引用するが、都合の悪い史料は無視するという史料の恣意的な扱い方、言い換えれば党派的な姿勢にある。

(つづく)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 7 [思うこと]

▼クマラスワミは「証言」という一章を設けて、4人の元慰安婦の証言を報告書に収めている。彼女は韓国人11名、在日韓国人1名、北朝鮮人4名の証言を得たということだが、報告書に収録されたのは北朝鮮人2名、韓国人2名の分である。この北朝鮮の元慰安婦の証言内容がすさまじい。
 ・13歳の時、恵山市の日本陸軍の守備隊に連れて行かれ、そこには朝鮮人の女の子が400人ぐらいいて、毎日5000人を超える日本兵のため性奴隷として働かされた。少女のうちの一人が、なぜ一日40人もの相手をしなければならないのか、と聞いたとき、何が起こったか。
 「彼女を懲らしめるために、中隊長ヤマモトは剣で打てと命じました。私たちの目の前で彼女を裸にして手足を縛り、釘の出た板の上に転がし、釘が彼女の血や肉片でおおわれるまでやめませんでした。最後に、彼女の首を切り落としました。」

 ・別の北朝鮮の元慰安婦の証言。「私たちは定期的に検診を受けさせられました。病気に罹っていると分かると、殺されてどこかへ埋められました。ある日、新しく来た少女が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗しようとして、一人の腕に噛みつきました。その後、彼女は中庭に連れ出され、私たち全員が見ている前で剣で首をはねられ、身体を切り刻まれました。」

 クマラスワミは元慰安婦たちの「証言」を聞き、「深く心を揺さぶられ」、自分が読んだ慰安所に関する「文書情報を裏付けるもの」だと考えた。しかし筆者は、どうしてこういうデタラメとすぐ見破られるような話を、彼女が報告書に取り入れたのか、不思議に思う。
 なぜデタラメか。慰安所は、ひとつの「制度」だからである。
 慰安所は兵士の慰安のために作られた「制度」であり、だから部隊所属の兵士と憲兵が秩序維持にあたり、料金も時間も、衛生管理も慰安婦の年季奉公の期間等も、すべて規則や契約で定められていた。兵士や指揮官が勝手に慰安婦の首を斬り落としたり、身体を切り刻んだりできるはずがない。
 クマラスワミたちは、「女性に対する性暴力」だと言って慰安所と強姦をひとくくりにしたがるが、慰安所が「制度」であった点で戦場の強姦とは根本的に異なることを、理解していないと言うほかない。

▼「報告書」は、そのあと日本政府の「法的責任」を論じ、「道義的責任」を論じ、「勧告」に至る。「第二次世界大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の義務の違反であることを承認し、かつその違反の法的責任を受け入れること」など6項目の勧告を、日本政府に出しているのだが、それらをここで紹介する必要はないだろう。
 「奴隷」という概念を明確に定義づける検討を行わず、慰安所と慰安婦についてデタラメな話を「事実」と思い込み、実態を知らないまま「慰安婦は性奴隷」と言ってはばからない、そういうレポートに価値はないからだ。
 1996年4月の国連人権委員会は、「クマラスワミ報告」を付属文書として含む「報告書」について、「take note」と決議した。「報告書」の採択を目指して活動してきた日本や韓国の活動家たちは、抱き合って喜びを表したと報じられた。
 しかし同委員会では、事前にすり合わせて全員一致で採択するのが通例で、その場合、評価の度合いを示す表現として、1.「賞賛commend」、2.「歓迎welcome」、3.「評価しつつ留意take note with appreciation」、4.「留意take note」が使われる。同委員会が委嘱した報告だから、よほどのことがないかぎり「否認reject」はないということを考えれば、「留意take note」が低い評価であることは明らかである。秦郁彦は新聞の問い合わせに、「留意take noteというのは“認知”ではなく、そういう報告があったと“聞きおく”程度の意味で拘束性もない」と答えたという。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』1999年)

▼「慰安所」と「慰安婦」について、これまでの史料の検討から得られた筆者自身の考えを、整理しておきたい。

 ① 日本軍や日本政府が朝鮮半島で、「奴隷狩りに等しい大掛かりな強要と暴力的誘拐を使って女性を集める」(クマラスワミ報告)ようなことはなかった。しかし自ら進んで慰安婦になった女性のほかに、親に売られたり業者の甘い言葉に誘われたり、つまり本人の意思に反して慰安婦にされた女性がいたであろうことは、十分想像できる。(慰安婦のリクルートの方法について、現在「告発派」と「疑問派」のあいだに認識の違いはない、と筆者は見ている。)

 ② 軍は慰安所の料金制度をはじめとする規則を定め、秩序維持に当たり、慰安婦の検診(検黴)を行い、慰安婦たちが業者に連れられて戦地の慰安所に来るまでの交通の便宜を図るのも、軍の仕事だった。そもそも慰安所の発案者は陸軍であり、軍の必要のために軍の監督下で行われた事業であった。
 しかし慰安婦のリクルートや管理、慰安所の経営は業者の仕事であり、一つのビジネスと観念されていた。(慰安所経営は現在の企業経営と同様に売買されたことが、「帳場人の日記」に記されている。)

 ③ 慰安婦たちは普通の月で1500円程度の稼ぎがあり、その40~50%が自分の収入だった。(ミッチナでの米軍の報告書) 彼女たちはこの収入から借金を返済し、また楼主は衣服や必需品、奢侈品に法外な代金を請求したから、実質的な収入はかなり少なかったかもしれないが、それでも休日に街でダイヤモンドを買ったり(文玉珠)、郵便貯金をしたり、借金を返し終えて廃業することができた。
 当時の貨幣価値が現在のわれわれにはピンと来ないが、文玉珠が、「千円あれば大邱で小さな家が一軒買える」と語っているのが参考になるだろう。ちなみに昭和20年の一等兵、二等兵の給料は月額9円、戦地増俸が12円だった(『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一 昭和44年 番町書房)。

 ④ 借金を返済した慰安婦は廃業し、帰国することができた。しかし戦況のため帰国できない場合もあった。だが「帳場人の日記」に何人もの慰安婦が廃業し、故郷に帰り、帳場人・朴が彼女たちのために送金したことが記されていることは、記憶されてよい。

 これらの理解は、繰り返すが、すでに紹介した史料に拠るものである。一級史料、あるいはそれに準ずる史料だが、何百とあった慰安所の一部の事情しか伝えていないと見ることも、あるいは可能かもしれない。また慰安所が戦地にある以上、事情が戦況により大きく左右されたことも疑いない。
 しかし慰安所がひとつの制度である以上、上の史料が示すものとまったく異なるものだったと言うことも不可能だろう。国家が軍隊組織に「売春」制度を導入したことへの個人の思いは別にして、事実をきちんと把握することを疎かにして歴史家の務めが果たせるはずがない。

(つづく)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 6 [思うこと]

▼「慰安婦=性奴隷」説を考える場合、「クマラスワミ報告」の検討が欠かせない。世界にこの「性奴隷」説を広めることに“貢献”したのが、この「報告」であるからだ。
 ラディカ・クマラスワミは「国連人権委員会特別報告者」として1995年7月にソウルと東京を訪れ、政府関係者や関係団体の人間に会い、また慰安婦にも会って話を聞き、翌年1月に「女性に対する暴力」と題する報告書を提出した。「アジア女性基金」のサイトに報告書の日本語訳が載っているので、以下の検討ではそれを使用する。

 「クマラスワミ報告」を読んで、筆者の最初の感想は「分かりにくい」だった。翻訳の問題もないわけではなかったろうが、「報告」の構成が理解できず、それが最後まで解消されなかったことが大きい。通常のレポートならば、主題(テーマ)をしっかり立てた上で、調査し、結論を出す。「慰安婦」が「性奴隷」であったかどうかというテーマなら、「性奴隷」あるいは「奴隷」という定義を定めた上で事実を調べ、「慰安婦」が「性奴隷」に該当するかどうか判断する。ところが「報告」は、そういう常識的な構成をとっておらず、事実認定もいい加減であり、つまりこのテーマについて何ひとつしっかりした根拠を持たないにもかかわらず、日本国と国際社会に向けて「勧告」を行ったりしている。
 とりあえず「クマラスワミ報告」の内容を見てみよう。

▼まず「主題(テーマ)」であるが、これがレポートのテーマだという明確な書き方はされていない。はじめに「序論」が置かれ、そこに「女性への暴力、その原因と結果という広い枠組みで戦時中の軍性奴隷に関する詳しい調査を行った」とあるから、「女性への暴力、その原因と結果という広い枠組みで戦時中の軍性奴隷に関する詳しい調査」が、報告の主題だと理解しておくことにする。(それにしてもこの「主題」のあいまいな表現は、一体なんだろうか?)
 「序論」の次に「定義」という章が置かれている。その最初のパラグラフを書き写すと、次のようなものである。
 《まず最初に、戦時中、軍隊によって、また軍隊のために性的サービスを強要された女性たちの事例は軍性奴隷制の実施であったと、本特別報告者はみなしていること明らかにしておきたい》。
 これが「定義」?
 これが調査の「結論」ではなく、「定義」だと言うのであれば、なにも時間と費用をかけて「調査」などする必要はない。しかしここでは、クマラスワミ女史が「予断と偏見」をもって「調査」に臨んだことを確認するにとどめ、先に進もう。
 「定義」の次のパラグラフには、日本政府は、「奴隷制」という言葉を1926年の「奴隷条約」の定義のように理解しており、「慰安婦」にこの言葉を適用するのは不正確だと考えている、と紹介される。
 しかしその次のパラグラフで、「本特別報告者」は、「『慰安婦』の実施は関連国際人権機関及び制度が採用しているアプローチに従えば、明確に性奴隷制でありかつ奴隷に似たやり方であるという意見に立つものである」と述べ、このレポートの一番大事な論点を議論のテーブルに乗せず、無為に流してしまう。
 そして、「定義」の章の最後のパラグラフでは、「女性被害者は……日常的に度重なるレイプと身体的虐待といった苦しみを味わったのであり、『慰安婦』という用語はこのような苦しみをいささかも反映していない」という意見に自分は全面的に同意すると言い、「『軍性奴隷』の方がはるかに正確かつ適切な用語であると確信する」と述べる。
 要するに「定義」の章は、クマラスワミの態度表明で始まり、確信の表明で終るのだ。

▼さて次に、「歴史的背景」と称して慰安所や慰安婦が登場した歴史とその実態が記述される。ここに、クマラスワミが「事実」をどのように認識していたか、よく顕われているので、彼女の「理解」の中身がわかる部分をいくつか拾い出しておこう。

 ・慰安婦のリクルートの方法としては、三つのタイプがあったと「報告」は書く。売春婦が自分で志願した場合、良い仕事があると騙して連れて行った場合、「奴隷狩りに等しい大掛かりな強要と暴力的誘拐を使って女性を集める」場合、の三タイプである。
 「日本軍は暴力的であからさまな力の行使や襲撃に訴え、娘を誘拐されまいと抵抗する家族を殺害することもあった。」「強制連行を行った一人である吉田清治は、……1000人もの女性を「慰安婦」として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白している。」

 ・慰安所の女性の部屋は、「狭苦しい個室で、広さはたった91㎝×152㎝強ということも多く、中にはベッドしかなかった。こうした状態で慰安婦は一日60人から70人の相手をさせられた」。「彼女たちは個人的自由はかけらもなく、暴力的で残忍な兵隊にもてあそばれ、慰安所や経営者や軍医の無関心に晒されたのである」。

・「彼女たちの証言によれば、自分が『稼いだ』金をいささかでも受け取った女性は数えるほどで、ほとんど文無し状態だった。」

 鍵カッコ内は報告書の文言そのままである。クマラスワミはこれらの「理解」をどこで得たのかは、脚注を見ることで一応わかる。脚注に挙げられているのは、ジョージ・ヒックス著『慰安婦――日本軍の性奴隷』(1995)と吉田清治著『私の戦争犯罪』(1983)の2冊だけであり、慰安婦の強制連行の部分を除けば全面的にヒックス本に依拠している。
 秦郁彦は、ヒックスの『慰安婦』は「初歩的なまちがいと歪曲だらけで救いようがない」本だと切り捨てる。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』1999年)。欧米では一般書でも付けるのが慣例の脚注が、ヒックスのこの本には付いてないので、記述の根拠を調べたくても確認できないともいう。
 秦はクマラスワミがこの調査で面会したとき、ビルマのミッチナで米軍が捕虜にした朝鮮人慰安婦たちを尋問して作成した英文の報告書を、慰安所の実態を知る最適の資料として、コピーして贈ったという。クマラスワミが事実に近づこうという意欲を少しでも持っていたなら、米軍報告書とヒックス本の記述の明らかな違いについて、注意深く調査したはずだが、彼女にとって「事実」などヒックスの「通俗本」で間に合う程度のものでしかなかったようだ。

 ・「前線に送られた女性被害者の多くは、兵隊と一緒に決死隊に加わるなど、軍事作戦にも駆り出された。」―――行軍中に敵に襲われ、一緒に逃げまどったことはあっただろうが、軍事訓練を受けていない慰安婦が「一緒に決死隊に加わる」など、ありえない話である。

 ・「戦争が終わっても「慰安婦」の大半は救出されなかった。撤退する日本軍に殺されたり、単にそのまま放置された女性が多かったからである」。―――文玉珠の「聞き書き」を読んで筆者が気づいたのは、日本軍を捕虜にした米軍は、兵士と慰安婦を離し、別々に扱ったことである。つまり捕虜になった段階で、日本軍兵士の眼前から慰安婦たちの姿は消え、彼女たちについての情報は日本側から失われたのである。だから彼女たちがその後、いつどのように帰国したかについての情報が日本にはないのだが、秦郁彦は、慰安婦の95%以上は無事帰国しただろうと推定している。(日赤の従軍看護婦の死亡率が4.2%であり、慰安婦も同様の環境にあったことを推定の根拠としている。)

(つづく)

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