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「ラムザイヤー論文」とその反撥 6 [思うこと]

▼「慰安婦=性奴隷」説を考える場合、「クマラスワミ報告」の検討が欠かせない。世界にこの「性奴隷」説を広めることに“貢献”したのが、この「報告」であるからだ。
 ラディカ・クマラスワミは「国連人権委員会特別報告者」として1995年7月にソウルと東京を訪れ、政府関係者や関係団体の人間に会い、また慰安婦にも会って話を聞き、翌年1月に「女性に対する暴力」と題する報告書を提出した。「アジア女性基金」のサイトに報告書の日本語訳が載っているので、以下の検討ではそれを使用する。

 「クマラスワミ報告」を読んで、筆者の最初の感想は「分かりにくい」だった。翻訳の問題もないわけではなかったろうが、「報告」の構成が理解できず、それが最後まで解消されなかったことが大きい。通常のレポートならば、主題(テーマ)をしっかり立てた上で、調査し、結論を出す。「慰安婦」が「性奴隷」であったかどうかというテーマなら、「性奴隷」あるいは「奴隷」という定義を定めた上で事実を調べ、「慰安婦」が「性奴隷」に該当するかどうか判断する。ところが「報告」は、そういう常識的な構成をとっておらず、事実認定もいい加減であり、つまりこのテーマについて何ひとつしっかりした根拠を持たないにもかかわらず、日本国と国際社会に向けて「勧告」を行ったりしている。
 とりあえず「クマラスワミ報告」の内容を見てみよう。

▼まず「主題(テーマ)」であるが、これがレポートのテーマだという明確な書き方はされていない。はじめに「序論」が置かれ、そこに「女性への暴力、その原因と結果という広い枠組みで戦時中の軍性奴隷に関する詳しい調査を行った」とあるから、「女性への暴力、その原因と結果という広い枠組みで戦時中の軍性奴隷に関する詳しい調査」が、報告の主題だと理解しておくことにする。(それにしてもこの「主題」のあいまいな表現は、一体なんだろうか?)
 「序論」の次に「定義」という章が置かれている。その最初のパラグラフを書き写すと、次のようなものである。
 《まず最初に、戦時中、軍隊によって、また軍隊のために性的サービスを強要された女性たちの事例は軍性奴隷制の実施であったと、本特別報告者はみなしていること明らかにしておきたい》。
 これが「定義」?
 これが調査の「結論」ではなく、「定義」だと言うのであれば、なにも時間と費用をかけて「調査」などする必要はない。しかしここでは、クマラスワミ女史が「予断と偏見」をもって「調査」に臨んだことを確認するにとどめ、先に進もう。
 「定義」の次のパラグラフには、日本政府は、「奴隷制」という言葉を1926年の「奴隷条約」の定義のように理解しており、「慰安婦」にこの言葉を適用するのは不正確だと考えている、と紹介される。
 しかしその次のパラグラフで、「本特別報告者」は、「『慰安婦』の実施は関連国際人権機関及び制度が採用しているアプローチに従えば、明確に性奴隷制でありかつ奴隷に似たやり方であるという意見に立つものである」と述べ、このレポートの一番大事な論点を議論のテーブルに乗せず、無為に流してしまう。
 そして、「定義」の章の最後のパラグラフでは、「女性被害者は……日常的に度重なるレイプと身体的虐待といった苦しみを味わったのであり、『慰安婦』という用語はこのような苦しみをいささかも反映していない」という意見に自分は全面的に同意すると言い、「『軍性奴隷』の方がはるかに正確かつ適切な用語であると確信する」と述べる。
 要するに「定義」の章は、クマラスワミの態度表明で始まり、確信の表明で終るのだ。

▼さて次に、「歴史的背景」と称して慰安所や慰安婦が登場した歴史とその実態が記述される。ここに、クマラスワミが「事実」をどのように認識していたか、よく顕われているので、彼女の「理解」の中身がわかる部分をいくつか拾い出しておこう。

 ・慰安婦のリクルートの方法としては、三つのタイプがあったと「報告」は書く。売春婦が自分で志願した場合、良い仕事があると騙して連れて行った場合、「奴隷狩りに等しい大掛かりな強要と暴力的誘拐を使って女性を集める」場合、の三タイプである。
 「日本軍は暴力的であからさまな力の行使や襲撃に訴え、娘を誘拐されまいと抵抗する家族を殺害することもあった。」「強制連行を行った一人である吉田清治は、……1000人もの女性を「慰安婦」として連行した奴隷狩りに加わっていたことを告白している。」

 ・慰安所の女性の部屋は、「狭苦しい個室で、広さはたった91㎝×152㎝強ということも多く、中にはベッドしかなかった。こうした状態で慰安婦は一日60人から70人の相手をさせられた」。「彼女たちは個人的自由はかけらもなく、暴力的で残忍な兵隊にもてあそばれ、慰安所や経営者や軍医の無関心に晒されたのである」。

・「彼女たちの証言によれば、自分が『稼いだ』金をいささかでも受け取った女性は数えるほどで、ほとんど文無し状態だった。」

 鍵カッコ内は報告書の文言そのままである。クマラスワミはこれらの「理解」をどこで得たのかは、脚注を見ることで一応わかる。脚注に挙げられているのは、ジョージ・ヒックス著『慰安婦――日本軍の性奴隷』(1995)と吉田清治著『私の戦争犯罪』(1983)の2冊だけであり、慰安婦の強制連行の部分を除けば全面的にヒックス本に依拠している。
 秦郁彦は、ヒックスの『慰安婦』は「初歩的なまちがいと歪曲だらけで救いようがない」本だと切り捨てる。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』1999年)。欧米では一般書でも付けるのが慣例の脚注が、ヒックスのこの本には付いてないので、記述の根拠を調べたくても確認できないともいう。
 秦はクマラスワミがこの調査で面会したとき、ビルマのミッチナで米軍が捕虜にした朝鮮人慰安婦たちを尋問して作成した英文の報告書を、慰安所の実態を知る最適の資料として、コピーして贈ったという。クマラスワミが事実に近づこうという意欲を少しでも持っていたなら、米軍報告書とヒックス本の記述の明らかな違いについて、注意深く調査したはずだが、彼女にとって「事実」などヒックスの「通俗本」で間に合う程度のものでしかなかったようだ。

 ・「前線に送られた女性被害者の多くは、兵隊と一緒に決死隊に加わるなど、軍事作戦にも駆り出された。」―――行軍中に敵に襲われ、一緒に逃げまどったことはあっただろうが、軍事訓練を受けていない慰安婦が「一緒に決死隊に加わる」など、ありえない話である。

 ・「戦争が終わっても「慰安婦」の大半は救出されなかった。撤退する日本軍に殺されたり、単にそのまま放置された女性が多かったからである」。―――文玉珠の「聞き書き」を読んで筆者が気づいたのは、日本軍を捕虜にした米軍は、兵士と慰安婦を離し、別々に扱ったことである。つまり捕虜になった段階で、日本軍兵士の眼前から慰安婦たちの姿は消え、彼女たちについての情報は日本側から失われたのである。だから彼女たちがその後、いつどのように帰国したかについての情報が日本にはないのだが、秦郁彦は、慰安婦の95%以上は無事帰国しただろうと推定している。(日赤の従軍看護婦の死亡率が4.2%であり、慰安婦も同様の環境にあったことを推定の根拠としている。)

(つづく)

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