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安倍晋三の死6 [政治]

▼前回、安倍晋三の外交は成果を上げたと書いたが、もちろん成果が上がらなかったものもある。拉致問題をめぐる北朝鮮との交渉や、北方領土をめぐるロシアとの交渉である。
 外交交渉は水面下で行われる部分が大きく、とくに北朝鮮を相手にする場合はそうであろうから、国民には多くの場合、なにも動いていないように見えるものだ。だが北朝鮮との間では現在時点の判断として、建設的な合意に向けてなにも進んでいない、と見るしかないだろう。
 ロシアとの外交交渉は、もう少し国民の眼に見える場所で行われてきた。歯舞、色丹、国後、択捉の4島をロシアは日本に返還し、平和条約を締結するという1956年以来の課題だが、安倍はこの課題に、それまで以上にロシアの経済利益に訴えかけるアプローチをとった。
 2019年9月、ロシアの主宰する「東方経済フォーラム」で安倍首相はプーチンを前に挨拶し、「ウラジーミル、君と僕は同じ未来を見ている。行きましょう、プーチン大統領。ロシアの若人のために。そして日本の、未来を担う人びとのために」と呼びかけた。「同じ未来」とは、もちろんウクライナのことではない。極東ロシアの未来のことであり、日本とロシアが人の交流を進め、共同経済活動を進めていくなら、未来は明るい。自分はプーチン大統領と27回も会い、幾度も食事を共にしてきた。平和条約を結び、両国国民が持つ無限の可能性を解き放とう。歴史を一緒につくろう、と安倍は呼びかけたわけである。
 しかしプーチンは、安倍の呼びかけに応じることはなかった。安倍が平和条約交渉のハードルを下げてみせたのに対し、ロシアは領土問題では一歩も引かない態度を強く押し出し、交渉の条件はスタート地点よりもさらに後退した。90年代のロシアの混乱期に、一挙に交渉を進められなかった日本外交の敗北であり、安倍の対ロシア外交の失敗だった。

▼政治家・安倍晋三を論じるなら、政治・外交面だけでなく、「アベノミクス」についてどう評価するかを明確にしなければならない。しかし日銀の超低金利政策が継続中であり、これをどうするかという超難問を抱えているせいか、「アベノミクス」を過去形で語ることもできず、歯切れのよい議論は見られないようだ。
 「アベノミクス」は、「金融緩和」「財政出動」「成長戦略」という3本の矢から構成される、という説明が一般になされてきた。そして「異次元の金融緩和」は円安を生むことで、初めの1年数カ月の間は日本経済に刺激を与えたが、第3の矢である「成長戦略」につながることなく、近年は日本の賃金の安さや低生産性、日本経済の停滞が議論の中心になっている。
 「アベノミクス」を支持してきた「リフレ派」の学者たちは、「アベノミクス」が十分な成果をあげられなかった理由に、消費税の引き上げを挙げる。2014年の5%から8%への引き上げ、そして2019年の8%から10%への引き上げが消費を冷え込ませ、これから改善しようとする日本経済を停滞させる大きな原因となったというのである。
 筆者はその説明に、納得しなかった。日本の企業の内部留保は右肩上がりで増え続け、2021年度末にはついに516兆円を記録した。職員の給料を上げることもせず、事業へ投資することもせず、株主に配当として支払うこともない金を、企業はただ溜め込んでいる。1997年の金融危機が企業行動に決定的な影響を与えたと言われるが、ひたすら守りを固めるだけの企業経営が、日本経済の長期停滞を招いている元凶であることは明らかではないか、というのが筆者の直感だった。消費税の税率引き上げも影響したであろうが、何よりも大きいのは現金を握っていれば安心だという企業経営者のリスク忌避傾向であり、デフレマインドの蔓延なのだ。

▼安倍元首相のスピーチライターだった谷口智彦という人(現在、慶応義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科教授)が、元首相の死去のすぐあとに「アベノミクス」を振り返る文章を書いているので、それによって政権の内側ではそれをどう考えていたのか、見てみたい。(『日経ビジネス』7/12 「アベノミクスの光芒と無念」) 谷口が語るところを要約すると、次のようになる。
 「アベノミクス」の第3の矢は「民間投資を喚起する成長戦略」だったが、肝心かなめの民間投資が出てこなかった。法人税を米国並みに下げたり、機関投資家の圧力がかかりやすいように新しい基準を導入したりと、いろいろやってみたが、「押しても引いても日本企業は変わらなかった」。「経営者たちに遍在する日本の将来それ自体に対する根深い不信」が、問題の核心だと気付いた首相官邸の政策チームは、「アベノミクス2.0」ともいうべき「第2版」を2016年に打ち出した。
 それは「第1版」が短期的刺激策だったのに比べ、超長期の政策提案だった。希望出生率を1.8に高めることを目標に、教育コストや託児費用の軽減、老親介護経費の低廉化など、「現役世代に未来への期待を抱かせ、少しでも子供をつくりたくなるよう誘導しようとする政策」だった。労働に疲弊しては未来を想うゆとりもできないから、「ワーク・ライフ・バランス」を重んじる政策を考え、正規雇用、非正規雇用の賃金格差や男女の賃金格差を埋めるべく、同一労働同一賃金の徹底を図る政策も進めた。また女性の活躍にも、期待を託した。しかし日本の岩盤既得権益層のために、政策の実現は阻まれた。
 「日本には2種類の岩盤既得権益層がある。一つは莫大な医療費を費消する高齢者層。もう一つは絶対にクビを切れない正規雇用者。つまり、すぐ明日の私たちと、今日の私たち」だと谷口は言う。「消費税を上げた安倍氏は、増収分を若者に振り向けることで、『明日の自分』への闘いに挑みつつあった。民主制下で最も困難であるに違いない闘いに」。―――

 安倍政権の中枢は、日本企業に蔓延したデフレマインドの問題をよく理解し、彼らなりの精一杯の対応をしたことは、谷口智彦の文章からよくわかった。しかし日本の経済社会システムが今後も続くという信頼感がなければ、企業や家計は安心してお金を使おうとはしない。企業は収入を、将来への投資や労働者への分配に回さず溜め込み、賃金が伸びなければ消費も増えない。それが日本経済の現状なのだ。「アベノミクス」はそういう日本経済を、ついに改革するに至らなかった。

▼TVの安倍晋三を回顧する番組で、五百旗頭真が、「安倍首相はどの外国要人と会っても“位負け”しない」と語っていた。“位負け”しない自信は、岸信介、安倍晋太郎、安倍晋三と続く三代の家系が自然につくりだすものだ、というような説明だったが、直接安倍晋三に接したことのない筆者に、その当否はわからない。
 筆者はこの連載(「安倍晋三の死」)の第1回で、「安倍晋三という人間に、筆者は少し引っかかるものを感じ、それはその『政治』にも影を落としていたと思う」と書いた。さらに、「安倍晋三は身内や親しいものに優しく、厚遇する。しかしその反面、自分への批判には神経質に反応し、批判者を潰そうとする。『なるほど、そういう見方もあるか』と余裕をもって批判を受け止め、自分の考えを批判によってさらに磨くという態度は見られない」とも書いた。ここから導かれるのは、安倍晋三の性格は人間的に弱いのではないか、という判断である。
 モリ・カケ・サクラ問題は、安倍のこの「弱さ」が生み出した問題だと、筆者は考える。行政に不適切な行為があれば行政の長として、自分や自分の妻に適切でない点があれば一人の市民として、それを率直に認めて謝れば済む話である。それができず、不自然な弁明を続けた末、議員の数を頼んで押し通すのは、人間的弱さの表れと考えるほかない。
 筆者は、安倍政権が成し遂げた外交・安全保障面の成果を評価するが、モリ・カケ・サクラ問題に象徴される低次元の嘘や誤魔化し、行政機関に与えた巨大な負の影響についても、きちんと評価しなければならないと考えている。

(おわり)

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安倍晋三の死5 [政治]

▼さて、前回、安倍晋三の政治について論じようと思いつつ、議論は「国葬」問題の方に流れてしまい、中途半端に終わった。あらためて安倍政治について、とくにそれが長期政権となった理由について、考えるところを述べてみたい。
 筆者は、安倍政権が長期間継続したのには、少なくとも三つの理由があったと考える。
 第一に、官邸に集めた優秀なスタッフが、安倍の信頼にこたえて懸命に働き、内閣を支え続けたことが挙げられる。もちろんどの内閣でも官邸に集められた官僚たちは、一生懸命働いたであろうが、安倍政権の場合、とくに彼らの力を引き出し、活用したように見える。
 総理・総裁に権力が集中する政治の仕組み自体は、90年代からはじまる「政治改革」の成果として、第二次安倍内閣の以前から存在した。しかし5年半の小泉政権を引き継いだ第一次安倍内閣以降、一年交代の短命政権が六代(安倍、福田、麻生、鳩山、菅、野田)も続き、そのあとの第二次安倍内閣が7年半の長期政権になったことは、制度論で説明することは不可能である。
 民主党政権の3年数カ月があまりにも酷く、その落胆が安倍政権への支持となったという側面はあっただろう。安倍首相は答弁の際、「悪夢のような民主党政権時代」と揶揄したことがあったが、民主党政権時代の混乱、内紛、官僚の離反、政策の右往左往はたしかに酷かった。
 だが、野党についてのマイナスの記憶だけで、安倍政権が長期間続くはずがない。安倍政権が「女性活躍」、「働き方改革」、「一億総活躍社会」といったスローガンを掲げ、時代の課題に意欲的に応えようとしたことは、認めなければならないだろう。その政策の評価はさまざまであろうが、野党のお株を奪うような側面を持っていたことは否定できない。

▼第二に挙げるべきは、安倍晋三が強い(イデオロギー的)主張を持ちながら、それを生の形で打ち出すのではなく、あるときは戦術的に後退し、あるときは妥協しつつ、実益をとることを選んだことである。それは、短命に終わった第一次安倍内閣の時の経験から、安倍が学んだことかもしれないが、米国をはじめとする国際社会との関係を改善し、信頼を築く上で有効に働いた。
 第二次安倍内閣がスタートしたとき、安倍首相は、国内では金融緩和政策が奏効して国民の期待を集めたものの、国際的には「歴史修正主義者」として懐疑の眼で見られていた。2013年の暮、靖国神社を公式参拝すると、中国、韓国は反発し、米国は、「日本の指導者が近隣諸国との緊張を悪化させるような行動をとったことに失望している」と、異例の表明を行った。
 しかし2015年4月、安倍首相が米国議会の上下両院合同会議で行った演説は、幾度もスタンディング・オベイションに中断される大きな成功を収めるものとなった。その内容は外務省のサイトで全文を読めるが、なかなかユーモアに溢れ、巧みに米国人の心をつかむ優れたスピーチだったと思う。
 その中心に置かれているのは、「戦後日本は先の大戦に対する痛切な反省を胸に」歩んだこと、日本は今後も「国際協調主義にもとづく積極的平和主義」の道を歩むこと、日本と米国は「民主主義」によって結ばれた関係であり、「太平洋からインド洋にかけての広い海を、自由で法の支配が貫徹する平和の海にしなければならない」といった主張である。それは安倍晋三に向けられているさまざまな疑念や懸念を払拭するのに十分な、正攻法の力強いメッセージだった。
 韓国の朴槿恵政権は、安倍首相が米国議会の上下両院合同会議で演説することを阻止しようと、盛んに米国政府に働きかけ、韓国系の市民団体は、「演説反対」の新聞広告を出したり、米議員数十人に直訴したりと、精力的に運動を展開した。しかし演説後、韓国国内でも、「歴史認識問題を重視する韓国外交」は、方向転換を模索するべきだという声が増えた。

▼同じ年の8月、安倍首相は戦後70年の「談話」を発表した。筆者はこれを当ブログで論じたことがあるので(2015年8月21日~9月18日)、ここでは詳しくは触れないが、安倍は過去の戦争について、「痛切な反省と心からのお詫びの気持ち」を表明した。それは、米国政治の中枢にあった「安倍首相は東京裁判に異を立てる立場ではないか」という懸念を払拭するものであり、米国政府は直ちに「談話」を歓迎する旨、発表した。
 安倍のサポーターである日本の保守派は、東京裁判を否定する「民族派」と米国主導の秩序を肯定する「親米派」が混在するが、彼らも概して「談話」を肯定的に評価した。

▼最近、次のような新聞記事を読んだ。(2022年8月17日「毎日新聞」)。「靖国神社に祭られているA級戦犯を分祀したい」と安倍が言っているという話を耳にした野口武則という記者は、確認に走った。
 安倍と親交の深い元外交官に当たると、冗舌だった語り口が急に慎重になり、「僕は言えない。でもあなたがそう書くなら止めません」と言ったという。《口の堅い警察官や役人の取材で、このやりとりは「イエス」の意味だ。》
 また、安倍政権で複数の有識者会議に関わった学者は、匿名を条件としたものの、「実は分祀したいと思っている、と安倍さんから何度も直接聞いた」と、あっさり認めた。ただ、安倍首相は、「靖国が抵抗するので、自分からは言い出せない」とも話したという。
 野口記者は、「表では強硬な主張で保守ポピュリストのように振る舞う一方、実際は実現可能な政治を戦略的に探るリアリストだった。こうした懐の深さが、最長政権を維持できた一因と言える」と書いているが、筆者も同様の意見である。

▼第三に挙げるべきは、「時代」である。世界的に「民主主義」が揺らいでいる時代に、安倍晋三が思い描くグランドデザインは、野党よりも適合的だったことである。
 安倍首相は、「強い(イデオロギー的)主張を持ちながら、それを生の形で打ち出すのではなく、あるときは戦術的に後退し、あるときは妥協しつつ、実益をと」ったと筆者は書いたが、戦略的に重要なことがらについては、慣例を破り反対を押し切っても強引に実現した。「集団的自衛権の行使容認」を可能にする法整備を行い、自衛隊と米軍の協力関係をいっそう強化し堅固にするように図ったが、それは法論理上はもちろん問題があるが、「時代」の要請に応えるものだと言えた。
 安倍首相は外交面では、米国が本来行うべき世界の秩序構築について、積極的に提案し行動した。米国が国内事情からTPPに関われないときに、それを積極的にまとめ上げたのは安倍晋三の功績であるし、「自由で開かれたインド・太平洋地域」というヴィジョンを掲げたことは、米国の対中国政策の大転換を思想的に支援する役割を果した。

(つづく)

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安倍晋三の死4 [政治]

▼安倍晋三の政治について、もう少し続ける。
 安倍の「国葬」問題を取り上げたTVの討論番組で、ある評論家が次のような発言をしていた。
 「吉田茂は戦後日本の方向を、軽武装・経済専念の方向に定めたが、安倍は吉田路線から新しい路線に転轍した。安倍元首相は日本の外交・安全保障の問題を、本当に理解し変えることができた唯一の政治家だった」。つまり安倍晋三は、吉田茂と同様、日本の針路に関わる大きな決定をした、国葬に値する存在だという趣旨だった。

 『朝日新聞政治部』(鮫島浩 2022年)という本によると、1999年、政治部に新たに配属された鮫島など若手記者に対し、政治部長・若宮啓文は次のような訓示を与えたという。「君たちね、せっかく政治部に来たのだから、権力としっかり付き合いなさい」。
 「権力って、誰ですか?」と怖いもの知らずの鮫島が聞くと、若宮政治部長はしばし黙ったあと、「経世会、宏池会、大蔵省、外務省、そしてアメリカと中国だよ」と、静かに簡潔に答えたという。
 その後20年以上日本の政治を眺めてきた鮫島は、この若宮部長の発言を幾度も想い起し、すぐれた眼力による的を射た回答であると思う。
 《日米同盟を基軸としつつ対中国関係も重視するのが経世会や宏池会が牛耳る戦後日本外交の根幹だった。政治家やキャリア官僚は日頃から在京のアメリカ大使館や中国大使館の要人と接触し独自のルートを築く。政治記者を煙に巻いても米中の外交官には情報を明かすことがある。政治記者ならアメリカや中国にも人脈を築いてそこから情報を得るという「離れ業」も必要だ。国際情勢に対する識見を身につけた上で、米中の外交官が欲する国内政局に精通し、明快に解説できないようでは見向きもされない。》(『朝日新聞政治部』)

 すこし話が横道に逸れたが、筆者の注意を惹いたのは、若宮政治部長の回答の中に清話会が入っていなかったという点だった。

▼もうひとつ、鮫島の語るエピソードを紹介する。鮫島は清話会の町村信孝の担当になり、初対面のときに、やや挑発的に挨拶した。「町村さんは通産官僚出身で、文部大臣など要職を歩んでこられたエリートですね」。すると町村は、顔を真っ赤にして激昂し、こうまくし立てたという。
 「何を言っているんですか!私は自民党の同期で政務官になったのがいちばん遅かった。いちばん出世が遅かったのですよ。なぜだかわかりますか!私が清話会だからです。日本の政治はずっと、経世会が牛耳ってきたんです。経世会は最初に宏池会に相談する。その次に社会党に根回しする。社会党がNHKと朝日新聞にリークする。我々清話会はNHKと朝日新聞の報道をみてはじめて、何が起きているかを知ったのです。これが日本の戦後政治なんですよ!わかりますか」
 しかし2001年に小泉政権が誕生し、清話会が一転して自民党を牛耳るようになる。そして現在、自民党の各派閥の国会議員は、清話会(安倍派)が94人、経世会の後身である茂木派は54人、麻生派が50人、二階派が40人、宏池会(岸田派)が40人等々であるといわれる。
 傍流であった清話会が主流となり、二位の派閥の二倍近い規模を持ち、隆盛を誇るにあたって、安倍晋三が長期間首相であり、自民党総裁であったことは大きく影響したことであろう。だが日本社会のかなり深い部分が変わり始めており、その政治面への反映が、右派といわれる清話会の隆盛として現われたと見るべきなのかもしれない。
 年代別の投票行動を調査すると、18歳~30歳代の自民党支持が顕著に高い。日本社会の変容が安倍政権を生み、長期にわたって支えてきたのか、それとも安倍政権の政策が日本社会の変容を加速したのか、そのあたりの因果関係は不明だが、安倍の政策は国際秩序が大きくきしむ時代の動きに、わりあい適合していたように見える。

▼さて、安倍晋三の「国葬」問題である。日が経つにつれて国葬の反対者が増え、国葬賛成者を上回り、岸田総理は国会の閉会中審査に出席して「丁寧な説明」をし、質疑に応じることを余儀なくされた。それでも「説明が足りない」という声が、圧倒的に多いらしい。

 日本は、ひとの功績を認めたり、称揚したり、つまり個人を目立たせることに、極めて消極的な社会ではなかろうかと、筆者は常々思っている。「ノーベル賞受賞」など、外部の権威が認めてくれた場合は、喜んでその人の功績を讃えるが、自分から進んで人を認めることに積極的ではない。さらに言えば、個人の名前を出して互いに認め合うよりも、匿名の気楽さや無責任さのなかに、居心地の良さを感じる程度が高い社会ではないかと感じている。
 昔、必要があって短期間だが英字紙を読んでいた時期があったが、記事の作り方が日本の新聞と大きく違うことに気がついた。英字紙の記事には、必ずどこそこの誰々さんという具体的な名前の市民が登場し、その誰々さんの顔が見えるように話がまとめられる。一方日本の新聞では、具体的な個人名は省かれることが多く、仮名が用いられることも多い。
 その代り日本の新聞記事に必ず載っているものは、「年齢」であり、匿名であろうと仮名であろうと、年齢だけは記される。一方、英字紙の記事の場合、年齢が載っている割合は、それほど高くなかったように記憶する。
 こういう社会の慣習の違い、あるいは社会の雰囲気の違いは、社会的功績のあった有名人の名前を、公共の施設に付けることが当然と受け止められる社会と、それをとんでもないと排除する社会の違いを生み出す。以前、イタリアを旅行したとき、近代イタリアを統一したエンマニュエル1世やその宰相だったカブールの名前を付けた大通りが、多くの町にあるのを見て驚いた。日本で言えば、明治天皇大通りとか、西郷隆盛通りということになるが、これはとても考えられないことだろう。
 パリの国際空港はシャルル・ドゴール空港だし、ニューヨークの国際空港はジョン・F・ケネディ空港だが、東京国際空港(成田)をシンゾー・アベ空港に改称しようという提案には、安倍の熱烈な崇拝者もしりごみすることだろう。
 こういう、ひとの功績を認めたり称揚したり、個人を目立たせることに、臆病で消極的な社会において、「国葬」をどう考えるべきなのか。

▼日本で「国葬」の非生産的な議論が行われている最中、エリザベス2世の逝去(9/8)のニュースが伝えられた。日本の多くの人々はニュースを聞いて、女王の国葬のことを反射的に思い浮かべたに違いない。筆者もその一人であり、そのとき思ったのは、「国葬」が国民から支持されるのに欠かせないのは、故人への「親しみ」や「敬愛」の念なのだろうということだった。
 理屈ではないのだ。国民の間に自然に生まれる「親しみ」や「敬愛」の念の対象となり、国家のまとまりを象徴し体現するのが現代の王族の存在理由なのだが、エリザベス2世はその任をよく果たしたのではないだろうか。
 ひるがえって安倍晋三の「国葬」だが、もともと無理な設定だったように思われる。上に見たように日本人の国民性は、個人の称揚を潔しとしないところがあり、安倍個人をこの例外とする理由はなかったし、政治家・安倍晋三は国民の「親しみ」や「敬愛」の対象でもなかった。
 岸田文雄の浅知恵は、安倍晋三の霊魂を、かえって悩ませ、迷わせているように見える。

(つづく)

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安倍晋三の死3 [政治]

▼安倍晋三襲撃事件から2カ月が経った。事件の後の日本社会の動きは、筆者の予想どおりのものもあったが、予想しなかったものもあった。その一部については「安倍晋三の死2」に書いたが、マスメディアが「統一教会」問題を連日いっせいに取り上げ、自民党の政治家たちが沈黙して批判されるままというその後の対応も、筆者の予想しなかったものの一つだった。
 事件直後、マスメディア各社は狙撃犯の恨みの対象が「統一教会」であると知りながら、口をそろえて「特定宗教法人」と呼び、「統一教会」の名を隠した。奇怪な光景だった。
 その後、堰を切ったように、「統一教会」と政治家たちの関係を取り上げる記事や番組が、新聞やTVに現われた。「統一教会」が与野党を問わず多くの議員と接触を持ち、中でも自民党の政治家たちの選挙では、信者が事務所に来て電話を掛けたりウグイス嬢として選挙カーに乗り込んだりと、献身的に活動していることなど、関係の実態が話題になった。また政治家の側は、「統一教会」(の「友好団体」)の催しで挨拶をしたり、活動への賛意を表したりしており、「統一教会」の活動を批判する弁護士たちは、教団の活動にお墨付きを与えるものだと批判していた。
 そこまでは予想の範囲内である。筆者の予想をはるかに超えていたのは、新聞、TVが問題を連日採り上げる報道量の膨大さと、無理スジの「批判」にも自民党の政治家たちが黙り込んで何の反論もしないことだった。
 たとえば『世界日報』からインタビュ-を受け、それが紙面に記事として載ったというようなことが、批判の対象とされた。「それの何が悪い」と反論の声があってもおかしくないと思われるが、反論する者はいない。
 筆者は昔、『世界日報』が街の食堂に置いてあるのを見かけて、中をパラパラ見たことがあるが、その紙面は普通の日刊紙と変わるものではなかった。筆者の知人の新聞記者は、「通信社の記事を使えば、自前で取材記者を持たなくても日刊紙を発行できるということだな」と言った。
 『世界日報』を関連団体に発行させる「統一教会」の意図がどこにあるのか、筆者は知らないが、『赤旗』であろうと『聖教新聞』であろうと、はたまた『世界日報』であろうと、新聞記者が質問し、政治家が答えるのは当たり前のことではないか。
 自民党の某都議が、『世界日報』を購読していたという記事まで、新聞に載った。某都議は取材に対し、「旧統一教会の友好団体が発行するものだとの認識はありませんでした。(今後は)購読を取りやめる考えであります」と回答したという。(「朝日新聞」9/1)。
 行き過ぎた「批判」の袋叩きと黙り込む自民党の政治家―――これはこれで異常な状況というべきだろう。

▼なぜ自民党の政治家たちは押し黙り、マスメディアの袋叩きにきちんと反論しないのか。
 考えられることはひとつである。それはおそらく「統一教会」の教えが、自民党にとって致命的に都合の悪いものだからなのだ。
 教祖・文鮮明は、日本は罪ある国であり、償いのために韓国に貢ぐのは当然だというように説いたと、「統一教会」をよく知る弁護士やジャーナリストは言う。だから数百億円の金が日本の教団支部?から韓国の教団本部?に送られ、日本の若い女性信者たちが韓国の農村の嫁の来ない若者たちと「集団結婚」させられたのも、当然だとされる。
 そういう教団と、なにかというと、「反日だ」「侮日だ」と騒ぎ立てる自民党右派が、親しい関係をつくっていた事実が明るみに出たのでは、押し黙るほかないだろう。まともな反論など、できるはずがない。
 「統一教会」と闘う人びとにとって問題は、人びとの精神を不安定化して洗脳し、信者にし、高額の壺や印鑑を売りつけたり(霊感商法)、高額の「献金」をさせる団体の、違法性や反社会性である。しかし自民党の政治家にとって「統一教会」問題は、その「教え」の内容が弁解不可能なものだという点にあり、だからこそマスメディアの袋叩きにも黙って嵐の通り過ぎるのを待つしかない状態なのだ。

▼筆者にとってもう一つ予想外だったことは、自民党とその政治家たちがダメージを受けたと同様に、というか、それ以上に「統一教会」が大きなダメージを受けたことだった。
 筆者は、《「信仰の自由」という近代社会の大切な約束事を悪用して膨大な金を集め、選挙資金や選挙活動員を提供することで深く政権党に食い込んでいる「統一教会」にとって、所詮は一時の小さな波紋に過ぎないのではないか。そう考えると、狙撃犯に筆者が感じた「哀れ」さは、さらに強まる》と書いた。
 しかし狙撃犯が密かに狙い期待した「統一教会」への打撃は、「一時の小さな波紋」などではとても終わらず、自民党へ食い込んできた長年の努力を一瞬にして吹き飛ばしてしまう、メガトン級の大爆発となった。それは狙撃犯にとっては、期待しうる最高の収穫だったに違いない。

▼事件後、安倍晋三を回顧したり、安倍の国葬問題を論じる番組がいくつも組まれた。BSフジの夜の番組「プライムニュース」では、安倍元首相が過去に番組に出演して語った言葉を特集していた。
 安倍がはじめて番組に出演したのは、2009年4月、麻生内閣の末期だった。アナウンサーから、第一次安倍内閣が安倍の突然の辞任によって幕を閉じたことについて話を向けられ、次のように語った。
 「私は総理になるとき、これをやりたいということを決めてなりました。それは一言で言えば戦後レジームからの脱却ということですが、二十一世紀にふさわしい日本の国づくりを進めていく上で、過去のしがらみを断ち切り、原点に返って新しい国づくりをしていく。
 いろいろな仕組みは占領時代に出来上がったもので、憲法も、教育基本法もそうですが、それに呪縛されている面がある。マインドコントロールの中にあったと私は思うんです。安全保障の問題もそう、憲法の問題もそう―――、だから私は教育基本法を60年ぶりに改正し、防衛庁を省に昇格させ、憲法改正をするための国民投票法案を成立させました。
 憲法を変えることが、日本の新しい時代を切り拓いていく精神につながると考えています。……」
 安っぽい「戦後レジーム脱却論」を安倍が語るのを見て、ある意味で新鮮だった。安倍がそういう主義主張の持ち主であることは聞いていたが、実際にそう語る映像を観るのははじめてだった。
 安倍晋三の著書『美しい国へ』(2006年)という新書本を筆者は以前読んだはずだから、上に語られたような内容が含まれていたのだろうが、なんの記憶もない。記憶にあるのは、書物自体、およそ中身の空っぽな本という印象だけである。
 安倍晋三の掲げる「戦後レジームからの脱却」だが、およそ保守党の政治家の政治信条とは言えない。それは右翼系の活動家たちが連呼するスローガンにこそふさわしいものであり、左翼系も含め、ひとつの理念の下に運動を推し進めようとする活動家たちの政治スタイルである。
 安倍は第一次内閣では、この政治スローガンを掲げて意気軒高だったように見えた。しかし第二次内閣では、こうした政治信条を表看板として掲げず、世界に受け入れられるように発言や行動に気を配り、米国の政府と議会の支持を得た。一方、安倍の支持層は、世界に妥協した発言や行動に多少の不満はいだいても、安倍の置かれた位置の困難さを理解し、政権への支持をやめなかった。
 要するに第二次安倍政権において政治家・安倍晋三は、「過激」な政治信条を持ちつつもそれを現実政治にナマのまま持ち出すようなことはせず、現実の状況に応じて課題に柔軟に対応した。これが第二次安倍内閣が超長期政権になった秘密の一つだと、筆者は考えている。

(つづく)

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ロシアのウクライナ侵略8 [思うこと]

▼前回の議論を続ける。これも「ロシアのウクライナ侵略3」で取り上げたものだが、大事な指摘なので高坂正堯の言葉をもう一度紹介する。

 《日本の不安は安全保障にある。より正確に言えば、安全保障感覚の欠如にある。というのは、日本は概ね正しい安全保障政策をとってきたが、それは“神話”の上に築かれたものであり、現実の分析に立脚していないからである。少なくとも後者は公然と議論されず、せいぜいが“密教”にとどまってきた。そうした状況は安全保障政策に現実の欠陥があるときよりも、ある意味では一層厄介である。国家にとって重要な問題を真剣に考えなくなるし、それは長い目で見て国民の能力を低下させる。》(「安全保障感覚の欠如」1996年)

 戦後の日本は、米国と同盟を結びつつ、みずからは自衛の措置として憲法9条と矛盾しない必要最小限の「実力」(自衛隊)を持ち、「専守防衛」を安全保障の政策としてきた。それは「概ね正しい安全保障政策」だったと高坂は評価したうえで、しかし「“神話”の上に築かれたものであり、現実の分析に立脚し」たものではなかったと指摘する。
 なぜ戦後日本は、「専守防衛」を安全保障の基本としたのか。立派な軍備を持ちたいと思っても経済力が許さなかったからだといえば身もふたもないが、それだけでなく、憲法9条があるために自衛隊の存在自体にも、疑問符が付く余地があったからである。
 戦後日本の安全保障政策の議論は、つねに憲法解釈の形をとって行われてきた。これだけの軍事力を整備し、こういう防衛態勢を築く必要があるという主張に対し、そのような軍事力や態勢は「憲法上持てない」という論争として行われたのである。
 たとえば「集団的自衛権」について、政府は(5年前の憲法の「解釈変更」までは)次のように言っていた。
 「国家は国際法上、集団的自衛権を有している。集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃された場合と同様に実力を持って阻止する権利であるが、日本も主権国家である以上、当然このような集団的自衛権を保有している」。
 「しかし憲法9条の下において許容される自衛権の行使は、日本を防衛するための必要最小限の範囲にとどまると解されているため、集団的自衛権を行使することはその範囲を超えるものであり、憲法上許されない」。
 要するに、日本は「集団的自衛権はあるが、その行使はできない」というのだが、この政府の憲法解釈をめぐって、膨大な時間が議論に費やされてきた。その膨大な時間は、安全保障に関する国民の関心と能力を向上させるよりは、低下させる方向に寄与したはずである。日本の安全保障の現実を具体的に分析し、対応を考えるのではなく、憲法解釈の議論で済ませてしまうような時間が半世紀以上続くなら、国民が「国家にとって重要な問題を真剣に考えなく」なったとしても、不思議ではないのだ。

▼「憲法9条があったから戦後日本は平和だった」という主張がある。筆者は、ある意味でこの主張は正しいと考えている。
 憲法9条第2項で、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めているために、この規定と自衛隊を持つことの現実の必要性のあいだで、政府も学者たちも苦労してきた。法制局長官は次のように答弁した。「憲法9条第2項が保持を禁じている戦力は、戦力のうちでも自衛のための必要最小限を超えるものを言うのであり、それ以下の実力の保持は禁じられてはいない」―――。
 「必要最小限の実力」は、なぜ「保持が禁じられている戦力」に該当しないのか? 日本国憲法は前文で、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と述べており、だから日本国民も、「平和のうちに生存する」ために必要な最小限の自衛の権利を持つと解釈するのが適当である。したがって必要最小限を超えない「実力」は、「陸海空軍その他の戦力」に該当しない―――。
 こういう曲芸のような解釈のワザを駆使して捻り出した「自衛に必要な最小限の実力」という観念は、日本が軍事力や防衛体制を整備しようとするとき、つねに制約や制限として機能してきた。日本が国連の求めに応じて、世界の紛争地域の停戦監視に自衛隊を派遣する際にも、自衛隊の行動にはさまざまな制約が課され、その結果として自衛隊は戦闘行為に巻き込まれず、死者を出さずに済んできた。
 つまりそれなりに安定した国際秩序の下では、国民は何の判断を下す必要もなく、憲法9条にしたがっていれば、平和な生活を享受することができたのだ。
 しかし米ソの超大国が担ってきた「冷戦」という名の秩序が終わり、冷戦後の国際秩序を力によって変えようとする国の動きが目立つようになった現在、国民は自分の頭で安全保障の問題を考えるしかない。そのことをウクライナの戦争は教えている。

▼上の文章を書いている時に筆者の念頭にあったのは、戦争が勃発しないように、それを未然に防ぐための「抑止力」の充実の必要性だった。抑止力は軍事力に限られるものではないが、中核にあるのが純軍事的な力であることは確かである。日本の周辺で戦争を引き起こさないために、日本の抑止力を高め、国民の安全保障感覚を磨き、戦後日本の特殊な思考法は整理しなければならない、という問題意識だった。
 だが世の中には、そのように考えない人もいるらしい。東大名誉教授の藤原帰一は、「ウクライナは抑止の破綻だった」、「奇怪な光景だった。ロシアの侵攻によって抑止が破れたのを前にして抑止の強化が、しかもロシアではなく、中国に対して求められたからだ」と書いている。(『世界』2022年7月号)
 そして、「アメリカの核抑止力はロシアの行動を抑えることができなかった」、「核抑止が核使用の阻止だけに役立つもので、通常兵器を用いた軍事行動を阻止できない」ことが、ウクライナの戦争で明らかになったと主張する。
 藤原の論文の趣旨はいまひとつ明瞭でないが、「抑止の破綻を前に中国への核抑止力強化を求めることに意味はない」という主張にあるとするなら、賛成できない。「抑止」は「核抑止」に止まるものではなく、広く「脅威や怖れをもってして潜在的な侵略者を思いとどまらせる戦略」(ジョセフ・ナイ・jr)であり、軍事力の整備と並行して相互理解や、非軍事的な相互依存関係を強化していくことで、よりいっそう効果を発揮するものだからだ。
 ウクライナで戦争「抑止」は失敗した。しかし国連憲章に示されている国際秩序や国際法を破っても、“大ロシア帝国”を復活させたいというプーチンの野望を阻止できなかったのは、ウクライナの責任ではないし、「抑止」という戦略思想の責任でもない。
 極東地域において戦争「抑止」に失敗しないために、何をなすべきか。それは中国の指導者に、「野望」が容易に実現するという誤解を与えないように、日米台湾の軍事力の整備を図るとともに、相互理解や非軍事的な相互依存関係を強化していくことであるに違いない。

(おわり)

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