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ロシアのウクライナ侵略8 [思うこと]

▼前回の議論を続ける。これも「ロシアのウクライナ侵略3」で取り上げたものだが、大事な指摘なので高坂正堯の言葉をもう一度紹介する。

 《日本の不安は安全保障にある。より正確に言えば、安全保障感覚の欠如にある。というのは、日本は概ね正しい安全保障政策をとってきたが、それは“神話”の上に築かれたものであり、現実の分析に立脚していないからである。少なくとも後者は公然と議論されず、せいぜいが“密教”にとどまってきた。そうした状況は安全保障政策に現実の欠陥があるときよりも、ある意味では一層厄介である。国家にとって重要な問題を真剣に考えなくなるし、それは長い目で見て国民の能力を低下させる。》(「安全保障感覚の欠如」1996年)

 戦後の日本は、米国と同盟を結びつつ、みずからは自衛の措置として憲法9条と矛盾しない必要最小限の「実力」(自衛隊)を持ち、「専守防衛」を安全保障の政策としてきた。それは「概ね正しい安全保障政策」だったと高坂は評価したうえで、しかし「“神話”の上に築かれたものであり、現実の分析に立脚し」たものではなかったと指摘する。
 なぜ戦後日本は、「専守防衛」を安全保障の基本としたのか。立派な軍備を持ちたいと思っても経済力が許さなかったからだといえば身もふたもないが、それだけでなく、憲法9条があるために自衛隊の存在自体にも、疑問符が付く余地があったからである。
 戦後日本の安全保障政策の議論は、つねに憲法解釈の形をとって行われてきた。これだけの軍事力を整備し、こういう防衛態勢を築く必要があるという主張に対し、そのような軍事力や態勢は「憲法上持てない」という論争として行われたのである。
 たとえば「集団的自衛権」について、政府は(5年前の憲法の「解釈変更」までは)次のように言っていた。
 「国家は国際法上、集団的自衛権を有している。集団的自衛権とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が攻撃された場合と同様に実力を持って阻止する権利であるが、日本も主権国家である以上、当然このような集団的自衛権を保有している」。
 「しかし憲法9条の下において許容される自衛権の行使は、日本を防衛するための必要最小限の範囲にとどまると解されているため、集団的自衛権を行使することはその範囲を超えるものであり、憲法上許されない」。
 要するに、日本は「集団的自衛権はあるが、その行使はできない」というのだが、この政府の憲法解釈をめぐって、膨大な時間が議論に費やされてきた。その膨大な時間は、安全保障に関する国民の関心と能力を向上させるよりは、低下させる方向に寄与したはずである。日本の安全保障の現実を具体的に分析し、対応を考えるのではなく、憲法解釈の議論で済ませてしまうような時間が半世紀以上続くなら、国民が「国家にとって重要な問題を真剣に考えなく」なったとしても、不思議ではないのだ。

▼「憲法9条があったから戦後日本は平和だった」という主張がある。筆者は、ある意味でこの主張は正しいと考えている。
 憲法9条第2項で、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と定めているために、この規定と自衛隊を持つことの現実の必要性のあいだで、政府も学者たちも苦労してきた。法制局長官は次のように答弁した。「憲法9条第2項が保持を禁じている戦力は、戦力のうちでも自衛のための必要最小限を超えるものを言うのであり、それ以下の実力の保持は禁じられてはいない」―――。
 「必要最小限の実力」は、なぜ「保持が禁じられている戦力」に該当しないのか? 日本国憲法は前文で、「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有する」と述べており、だから日本国民も、「平和のうちに生存する」ために必要な最小限の自衛の権利を持つと解釈するのが適当である。したがって必要最小限を超えない「実力」は、「陸海空軍その他の戦力」に該当しない―――。
 こういう曲芸のような解釈のワザを駆使して捻り出した「自衛に必要な最小限の実力」という観念は、日本が軍事力や防衛体制を整備しようとするとき、つねに制約や制限として機能してきた。日本が国連の求めに応じて、世界の紛争地域の停戦監視に自衛隊を派遣する際にも、自衛隊の行動にはさまざまな制約が課され、その結果として自衛隊は戦闘行為に巻き込まれず、死者を出さずに済んできた。
 つまりそれなりに安定した国際秩序の下では、国民は何の判断を下す必要もなく、憲法9条にしたがっていれば、平和な生活を享受することができたのだ。
 しかし米ソの超大国が担ってきた「冷戦」という名の秩序が終わり、冷戦後の国際秩序を力によって変えようとする国の動きが目立つようになった現在、国民は自分の頭で安全保障の問題を考えるしかない。そのことをウクライナの戦争は教えている。

▼上の文章を書いている時に筆者の念頭にあったのは、戦争が勃発しないように、それを未然に防ぐための「抑止力」の充実の必要性だった。抑止力は軍事力に限られるものではないが、中核にあるのが純軍事的な力であることは確かである。日本の周辺で戦争を引き起こさないために、日本の抑止力を高め、国民の安全保障感覚を磨き、戦後日本の特殊な思考法は整理しなければならない、という問題意識だった。
 だが世の中には、そのように考えない人もいるらしい。東大名誉教授の藤原帰一は、「ウクライナは抑止の破綻だった」、「奇怪な光景だった。ロシアの侵攻によって抑止が破れたのを前にして抑止の強化が、しかもロシアではなく、中国に対して求められたからだ」と書いている。(『世界』2022年7月号)
 そして、「アメリカの核抑止力はロシアの行動を抑えることができなかった」、「核抑止が核使用の阻止だけに役立つもので、通常兵器を用いた軍事行動を阻止できない」ことが、ウクライナの戦争で明らかになったと主張する。
 藤原の論文の趣旨はいまひとつ明瞭でないが、「抑止の破綻を前に中国への核抑止力強化を求めることに意味はない」という主張にあるとするなら、賛成できない。「抑止」は「核抑止」に止まるものではなく、広く「脅威や怖れをもってして潜在的な侵略者を思いとどまらせる戦略」(ジョセフ・ナイ・jr)であり、軍事力の整備と並行して相互理解や、非軍事的な相互依存関係を強化していくことで、よりいっそう効果を発揮するものだからだ。
 ウクライナで戦争「抑止」は失敗した。しかし国連憲章に示されている国際秩序や国際法を破っても、“大ロシア帝国”を復活させたいというプーチンの野望を阻止できなかったのは、ウクライナの責任ではないし、「抑止」という戦略思想の責任でもない。
 極東地域において戦争「抑止」に失敗しないために、何をなすべきか。それは中国の指導者に、「野望」が容易に実現するという誤解を与えないように、日米台湾の軍事力の整備を図るとともに、相互理解や非軍事的な相互依存関係を強化していくことであるに違いない。

(おわり)

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