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米国社会の分裂1 [思うこと]

▼前回まで3回にわたってNHKの番組「サブカルチャーの時代」の紹介をした。アメリカ映画を取り上げ、そこにアメリカ人の「欲望」がどのように反映されているのかを読み解き、そこから米国社会の変容を読み取ろうという試みで、なかなか意欲的な企画だった。
 その試みがどの程度達成できたのか、米国社会を直接知らない筆者としては、判断を留保せざるを得ないが、それでも米国社会の貧富の格差が広がり、時の経過とともに社会の分裂が深まってきていることについては、納得させられた。それが、2019年公開の映画「ジョーカー」が大ヒットした意味なのだ。
 米国の社会の分裂は、国力の衰えをもたらす。それはアメリカが担ってきた戦後の世界秩序が揺らぐことを意味し、同盟を結んでいる日本にも大きな影響を及ぼす。
 また米国社会の分裂の原因として挙げられる第一は、急激な産業構造の変化によって中産階級が経済的に没落しつつあるという事実だが、それは日本社会の現在、あるいは近い将来と無縁ではないだろう。この問題は大きすぎるテーマではあるが、自分のできる範囲で考えてみる必要がある、と筆者は思った。
 「米国社会の分裂」という現実を誰の眼にも明らかな形で露わにしたのは、ドナルド・トランプがヒラリー・クリントンを破って当選した2016年11月の大統領選挙だった。多くの専門家や報道機関の予測を覆したトランプ大統領の出現は、どのような映画よりも雄弁に「米国社会の分裂」の現実を人々に突き付けた。

▼NHKの番組「サブカルチャーの時代」のなかで、アメリカのある映画批評家は次のように語っていた。
 「……私たちはトランプに対して、道徳的にだけでなく美学的に訴えを起こすこともできる。トランプのようにセンスの悪い人間がお金をこれほど持っていることに、何の意味があるのか。より醜い世界をつくるためなのか。アメリカ資本主義はそのことについて、何も考えていない……」。
 アメリカ国民の半数は、トランプを全面的に批判し嫌悪感を示す。一方、他の半数のアメリカ人は、トランプに期待し、信頼を寄せ、その言動に拍手を送る。
 「トランプ現象」、つまりハチャメチャな言動を繰り返すドナルド・トランプという人間が、なぜ大統領選挙に勝利したのかという問題について、2016年の選挙直後から多くのことが言われ、「ラストベルト」とか「反エスタブリッシュメント」などの言葉が、日本にも伝えられた。また「保守」と「リベラル」のあいだ、共和党と民主党のあいだの「文化的対立」が強まっている現状についても、伝えられた。

「トランプ現象」は、過ぎ去った過去ではない。トランプは2020年の選挙に負けたが、敗北を認めず、次の2024年の大統領選挙に立候補することを表明し、現在もその力を誇示している。また仮にトランプが、今後何らかの理由で力を失うことがあったとしても、「トランプ現象」として現れた「米国社会の分裂」自体は現在進行形の現実であり、このテーマはこれからの米国と世界、日本を考える必須の項目であり続けるだろう。

▼2016年の大統領選挙の1年前、共和党の大統領候補を決める予備選挙でトランプの取材を始めた朝日新聞記者・金成(かなり)隆一は、トランプの集会の熱気や規模に仰天し、それから支持者の取材を個人の休暇などの時間も使って、精力的に行った。彼はその成果を、『ルポ トランプ王国』(2017年2月 岩波新書)と『ルポ トランプ王国2』(2019年9月 同)の2冊にまとめているので、そこからトランプの「支持層」を見ていくことにする。

 2012年の大統領選挙では共和党候補が負けたが、2016年にトランプが勝った州が6州ある。オハイオ、ペンシルベニア、ウィスコンシン、ミシガン、アイオワ、フロリダだが、このうちフロリダを除いた5州には、共通点がある。五大湖周辺の通称「ラストベルト」(Rust Belt、錆びついた工業地帯)と呼ばれるエリアが含まれていることだ。製鉄業や製造業などがかって栄え、“重厚長大”産業の集積地だったが、いまは廃れ、そこで働いていた多くの人びとは職を失った。若者たちは街を出て行き、希望を失った人びとのあいだに薬物が広がり、命を落とす者も多い。
 労働組合員であれば民主党に投票するのが当然とされ、なぜそうなのかを考えることもしなかった人びとにトランプは語りかけ、その言葉は彼らを理解し、希望を与えてくれる候補者だと思われた。人びとの伝統的な投票行動を一変させることで、トランプはラストベルトで勝ち、大統領選に勝利した。
 金成記者が聞いたラストベルトに暮らす人々の声を、いくつか紹介する。

 「ここは元々労働者の街だ。汗を流して働くものは、みんな民主党員だった。民主党は勤労者を世話する政党だった。ところが10~15年前ぐらいからか、民主党は勤労者から集めた金を、ほんとうは働けるのに働こうとしない連中に配る政党に変わっていった。勘定を労働者階級に払わせる政党になっていった」
 「70年代以降、工場の仕事が海外に流出し、収入が下がり、若者が街を去ることが当たり前になった。なんで人件費の安い国々と競わないといけないのか、との疑問は募るばかりだった。仕事があふれ、若者が多く活気にあふれていた時代が、もう戻ってこないことはわかっている。なんでこうなったのかという不満と、この町で生きていけるのかという不安が、この街には強い」
 「トランプはアメリカに雇用をとり戻すと約束した。成功した実業家だから、やれると思う。これまで職業政治家では上手くいかなかったから、次は実業家にやらせてみよう」(――アメリカではビジネスで成功した人は尊敬されるのだ。)

▼トランプは、「庶民が自由貿易と不法移民の問題に苦しんでいるのに、ワシントンの政治家たちは傍観してきた」と、盛んに繰り返した。トランプ支持者には共和党員も元民主党員もいたが、共通するのは「エリート政治家がミドルクラスの暮らしを犠牲にしてきた」という怒りだと、金成記者は感じた。
 クリントンには「エリート」「傲慢」「金に汚い」というイメージが定着し、トランプには「既得権を無視して庶民を代弁できる」という期待が高まった。選挙に自己資金を投じるトランプなら、首都ワシントンの既得権益層に遠慮せず、庶民のための政治が可能だという期待であり、トランプ自身もそれを強調した。
 トランプの演説は、これまでの政権の失敗を批判し、「雇用を海外から取り戻す」と具体策を十分示さず繰り返しているだけだったが、それでも多くの人が惹きつけられた。

(つづく)

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サブカルチャーの時代3 [映画]

▼前回、90年代の終りは2001年の同時多発テロ事件であり、そこから新たな時代が始まったという番組のコメントを紹介した。しかし21世紀も20年が過ぎてみると、はたして9.11のテロ事件はそれほど時代を画するような大事件だったのかという疑問も生じると、番組に登場する歴史家は言う。90年代から続く連続性の方が、より大きなものに見えてくるという意味である。
 90年代から急カーブで進展してきた情報技術(IT)は、インターネットの情報空間を人びとに解放し、2007年に発売されたスマートフォンは、それを身近で手軽なものにした。ITが経済を牽引し、ネットが世界を繋ぐ万能感に、人びとは夢を見た。今ではスマホやSNS(ソーシャルメディア)のない生活は考えられず、それが世界に与えた影響は9.11の衝撃よりも大きく、持続的である。
 2009年1月、バラク・オバマが大統領に就任した。父親はケニア人、母親は米国の白人、ハワイやインドネシアで少年時代を過ごし、ハーバード大学のロースクールで学んだ異色の経歴を持つ彼は、大統領選ではSNSを駆使した草の根戦略で勝利したと言われる。
 黒人(アフリカ系アメリカ人)の大統領がはじめて誕生したことで、夢を求めて挑戦する時代がふたたび始まるかのような期待が、いっときアメリカ社会に生まれた。オバマのスローガンは「アメリカを変えよう」であり、「YES,WE CAN」、つまり挑戦すれば「実現できる」だった。
 イランとの核合意協定やキューバとの国交回復、健康保険制度を拡充する「オバマ・ケア」、地球温暖化対策へ世界の政治をリードすることなど、オバマ大統領は理想主義的な挑戦を行った。しかしアメリカ国内で進む国民の分裂がその足元をすくい、2014年の中間選挙以降は共和党が上下院とも多数を占めたため、オバマ政治は実行力に欠け、国民の失望を招いた。

 「アラブの春」と呼ばれる「民主化」を求めるアラブ世界の動きは、2010年末のチュニジアにはじまり、エジプトやリビアなどに広がり、長期独裁政権を倒した。この動きの背景には、スマホやSNSの普及があったと、指摘された。
 しかし長期独裁政権が倒れたあと、どのような望ましい政権が生まれたのかといえば、そこには大きな幻滅が待っていたというほかないようだ。リビアのカダフィ政権やエジプトのムバラク政権は倒れたが、シリアのアサド家支配は倒れず、反政府勢力との抗争は現在も続き、多くの難民を生み出している。
 スマホとSNSは確かに社会を劇的に変え、名もなき人々も自分の声をあげることが可能になったが、それがより良き「政治」をもたらすという保証は、残念ながら存在しないのだ。

▼2010年代の最初に公開された「ソーシャル・ネットワーク」(2010年)は、「フェイスブック」をつくりだしたマーク・ザッカーバーグをモデルにした映画である。主人公は人と人を結ぶはずのSNSを世に出すが、恋人と別れ、ともにフェイスブックを創りあげた友人と争うことになる。映画は、主人公が裁判を経て巨万の富を得たことを伝え、幕を閉じるが、サクセス・ストーリーではなく苦さがあとに残る作品だと、番組は評していた。
 2011年、「ウォールストリートを占拠せよ Occupy Wall Street」という運動がアメリカで発生し、若者たちがウォールストリートに集まり、政府による金融機関救済や富裕層への優遇措置などを批判した。若者たちは、SNSによる参加呼びかけに応えて集結したのだが、運動の背景にあったのは、リーマンショック(2008年)から政府の手で救済されたにもかかわらず高額報酬を得ている金融機関の経営者たちや、高止まりしている失業率の問題であり、かってないほど広がったアメリカ社会の経済格差の問題だった。
 2013年に「ウルフ オブ ウォールストリート」(監督:マーティン・スコセッシ)という映画がつくられた。80年代にウォール街で莫大な富を築いた実在の人物をモデルにした映画だが、映画の中で主人公は金を稼ぎたいという欲望をむき出しにして、恥じるところがない。番組は「ウォール街」(1987年 監督:オリバー・ストーン)と比較しながら、この映画の「新しさ」を考える。
 「本物の仕事」と「本物ではない仕事」、実際に何かを創り出す仕事と単に金を回すだけの仕事という観念が、「ウォール街」ではまだ生きていたと、番組は言う。つまり米国の伝統的な価値観がまだ存在していたのに対し、2013年の映画ではのっぺりした欲望のみが恥じらいもなく前面に押し出され、そこには富裕層のある種の開き直りがうかがえると、番組は見る。

▼2010年代初め、テクノロジーの進歩が自由で民主的な価値観を行きわたらせるという希望が、アメリカ社会に広がっていた。しかしテクノロジーの発展はアメリカ社会の弱点を拡大し、現実と虚構の区別のつかない言動による社会の混乱が、アメリカ社会の分断をいっそう加速した。
 「ジョーカー」(2019年 監督:トッド・フィリップス)は、コメディアンになることを夢見ながら、ジョーカーの格好で児童施設を回ったり、商店の宣伝プラカードを持って街頭に立ったりして、細ぼそと暮らしている主人公・アーサーの物語である。彼はあるきっかけからウォール街の証券会社で働く若者を拳銃で殺すが、そのニュースが報じられるとジョーカー姿の犯人への共感の言葉がSNS上で広がる。「おれたちは皆ジョーカーだ」という声が街にあふれ、それはやがて暴動となる―――。
 アーサーの怒りは、アメリカ社会の「成功者」たちに向けられているのだが、映画を観た若者の99%がアーサーに共感したと、ある映画批評家は番組の中で語る。
 2019年は拡大する経済格差、人種の壁、リベラルと保守の溝など、社会の分断対立が加速し吹き荒れた年だった。

▼AIの発明により個人の嗜好に合わせたマーケティングが可能になると、企業は、あなたならこれが欲しいはずだと、次々に商品を紹介するようになった。フェイスブックの初代社長ショーン・パーカーは、率直に次のような発言をしている。
 「アプリ開発者は、『最大限にユーザーの時間や注意を奪うためにはどうすべきか?』と考える。そして、写真や投稿に対して『いいね』やコメントが付くことで、ユーザーの脳に少量のドーパミンが分泌されるように工夫する。それは私のようなハッカーが思いつく発想だ。人の心の脆弱性を利用しているのだ。私たち開発者はそのことを理解したうえで、あえて実行したんだ」。
 他人とつながりたいという自然な欲望すら商品化し、利潤に変える資本主義の仕組みが支配する社会。そんな時代にあらがう作品として、番組は「パターソン」(2016年 監督:ジム・ジャームッシュ)という映画を紹介する。
 主人公・パターソンはニュージャージー州のバスの運転手で、彼のなにげない日常を描いた作品である。彼の趣味は詩を書くことだが、その詩を印刷したりSNSで発表したりすることはない。資本主義が煽る欲望から距離を置き、世の中にいま存在しているものだけで十分、という感じで暮らしている。
 「金持ちになることより、すでに持っているものに感謝することが大事」だというかのような主人公の態度は、常により多くの物、より新しい物を求め続ける「資本主義」の対極にあるものだ、と映画批評家は評価する。
 筆者は「パターソン」を観ていないが、三十年前にジャームッシュの「ダウン バイ ロ―」や「ストレンジャー ザン パラダイス」を面白く観た者として、彼の資本主義システムへの違和感が持続していることに、感銘を受ける。

 アメリカでは、多民族国家における人種の壁が越えられないまま、資本主義は人々の欲望を煽り続け、情報技術の発達は社会の急激な変化をもたらし、経済格差の拡大と貧困層の増大を生み出している。それらは社会の分断を進め、アメリカ政治の混迷となって現れている。
 番組のナレーションは最後に、「迷走する偉大なる実験国家・アメリカ。しかしそこには常に何かを求め続けるエネルギーが潜んでいる。はたしてその行方は?」と問いかけて終る。
 迷走するアメリカの行方は社会の分断の行方にかかっているのだが、それについては稿を改めて考えることにしたい。

(おわり)

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サブカルチャーの時代2 [映画]

▼時代の雰囲気としてのアメリカの「90年代」は、いつ始まりいつ終わったのか、わりあい明瞭に答えられる問題のように見える。ベルリンの壁の崩壊(1989年)が始まりであり、同時多発テロ(2001年)が終わりとなる、ほぼ十年強の期間である。
 ジョージ・ブッシュjr.は90年代を振り返り、「安息の時代」と呼んだが、ソ連という「共産主義国家」が消滅し、「歴史の終り」が語られた時代は、米国が唯一の超大国を誇ったと同時に、明確な敵や悪役が見えない奇妙な時代でもあった。冷戦は米国に、ソ連と対峙し民主主義や自由、資本主義を守るリーダーとしての役割を与えていた。ソ連や共産主義という宿敵によって、アイデンティティを与えられていたと言うことができるかもしれない。
 だからソ連と共産主義が消えたことは米国に、誰と戦い、何と戦えばよいのかよく分からないという、すっきりしない状態をもたらした。中東のテロリストは、まだ登場していなかった。
 「ミッション インポッシブル」(1996年)の主人公イーサン・ハント(トム・クルーズ)は、米国諜報機関に所属していたが、組織を裏切ったと見なされ、追われる身となる。彼を陥れた敵は、冷戦終結で仕事を失い、将来を悲観した仲間だった。
 この映画はシリーズ化され、次々と続編が作られ、トム・クルーズはさまざまな相手と戦うことになるのだが、彼のモチベーションや任務の全体像は明確ではない。

 90年代後半の米国ではITが経済を牽引し、人びとはインターネット技術が繋ぐ明るい世界に胸を躍らせると同時に、テクノロジーの発達が自分たちをどこへ連れて行くのか、密かな不安の思いも懐いていた。
 「マトリックス」(1999年 監督:ウォシャウスキー兄弟)は、コンピュータ技術の発達により仮想現実が膨張し、現実と虚構が入り混じる時代の到来をいち早く取り入れた映画の一つである。主人公ネオ(キアヌ・リーブス)は、自分の生きてきた世界がすべてAIが作り出した虚構だったことを知り、人類を解放するためにAIに闘いを挑む―――。

▼2001年9月の同時多発テロの発生により、米国人は愛国心を高揚させた。米軍兵士に寄り添うような映画、たとえば「ブラックホーク・ダウン」(2001年 監督:リドリー・スコット)のような戦争映画も作られたが、しかしそれは一時のことであり、イラク戦争が進行する中で、自分たちはなんのために戦っているのかという思いが、急速に社会に広がっていく。番組は、人びとの心の迷いを象徴する新たなヒーローとして、映画「ボーン アイデンティティ」(2002年 監督:ダグ・リーマン)の主人公を挙げる。
 主人公ジェイソン・ボーン(マット・デイモン)は、CIAによってつくられた「殺人マシン」(暗殺者)だった。任務途中の事故で記憶を失い、ボーンは残された手掛かりをたどって自分が何者なのかを知ろうと動き出す。それを知ったCIAの幹部は、「殺人マシン」育成計画が表に出ることを恐れ、ボーンを消すために次々に暗殺者を送り、死闘が繰り広げられる。
 自分は外国で、理由も分からず人を殺していたらしい―――。自分が過去に通ってきた場所に再び身を置くことで、ボーンはしだいに記憶を取り戻す。正しいと信じて行ったことが間違いと分かった時、どうするべきなのか。ボーンは自分が殺した外交官夫妻の娘に詫びるために、ロシアへ行く。
 ロシアで待ち伏せていた最強の暗殺者を、凄絶なカーチェイスの末になんとか倒し、彼は傷ついた体を引きずって、アパートで一人暮らす娘に会いに行く。(第2作「ボーン スプレマシー」2004年 監督:ポール・グリーングラス)。画面はすばやいカット割りの連続で、ボーンの激しい動きと揺れ動く心を映し出していた。

 2000年代初め、米国は正義をとり戻すために「テロとの戦い」に足を踏み入れた。しかし待っていたのはさらなる混沌であり、アメリカ社会の分裂だった。
 筆者は「ジェイソン・ボーン」の3部作(第3作は「ボーン アルティメイタム」2007年 監督:ポール・グリーングラス)を、満足して観た。いずれもIT機器を駆使してボーンを追うCIAと、組織の追求や暗殺者たちの攻撃をかわしながら過去の記憶を取り戻そうとするボーンの、激しい攻防戦に次ぐ攻防戦である。筆者の満足感には、活劇の面白さももちろんあるのだが、物語の設定が含むある種の苦み、政府組織によって裏切られた男の孤独な闘いという要素も含まれていたように思う。

▼2000年代の米国では、同性婚をめぐる人びとの分裂があらわになり、社会は大きく揺れた。
 2004年にマサチューセッツ州で同性婚が合法化された。保守派は猛反発し、ブッシュjr.は同性婚反対を掲げて大統領再選を果たす。しかし保守派は政治的には力を持っていたが、文化的には同性婚をめぐる論争に負けてしまった、と番組は述べる。その論争に大きな影響を与えたのが、「ブロークバック・マウンテン」という映画だった。
 「ブロークバック・マウンテン」(2005年 監督:アン・リー)を筆者は観ていないので、番組からの受け売りなのだが、美しい自然を背景にした二人のカウボーイの愛の物語なのだそうだ。彼らには妻子があるが、それでも二人の愛は20年間続く。しかし二人の関係が世間に知られ、主人公は自殺する。同性愛に対する社会の不寛容が二人の男の人生をいかに破壊したかを静かに描き、社会を変えるべきだと訴えた映画は、多くの共感を呼んだらしい。
 作品のメッセージは、保守派を黙らせた。保守派の強い反発が予想されたが、上映禁止はユタ州の1館のみだったと番組は言う。
 アメリカの文化産業はリベラル寄り、民主党寄りだと言われる。トランプを大統領に担ぎ出した策士スティーブン・バノンは、保守派はワシントンだけでなくハリウッドも支配するべきだった、と発言したと伝えられる。分断され、激しく対立しあうアメリカ社会ならではの発言だが、社会の分裂は時とともにさらに強まる。

(つづく)

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サブカルチャーの時代 [映画]

▼NHKのBS放送で、この1月~2月に「サブカルチャーの時代」という連続番組をやっていた。副題に「欲望の系譜」とあり、主として映画によって大衆の欲望のありかを探り、その時代や米国社会の変化を読み解こうという趣旨の内容だった。1時間番組で全18回、1950年代から2010年代まで踏破したようである。(再放送だったらしい。)
 筆者は途中から半分ほどを見ただけだが、社会の「気分」や「雰囲気」を映画をヒントに読み解くことは、なかなか意欲的な趣向といえる。米国で製作された放送番組かと思っていたのだが、フィルムのクレジットを見るとそうではなく、NHKが自前で製作したらしい。番組の中に米国の歴史家、哲学者、映画批評家が登場し、映画に社会の変化がどのように反映されているかを語っているが、彼らの考えも借りつつNHKのスタッフが自力で米国社会を考察したようだ。考察の素材に使われる映画には筆者の観たものもけっこうあり、うなづくことも多かった。

▼筆者が観たのは1990年代からである。
 冷戦が終わり、世界が自由主義で結ばれる新しい時代が到来した。ソ連との競争に打ち勝ち、唯一の超大国となった米国だったが、大都市に暮らす人々の心は空虚なものを抱えていたと、番組は語る。大都市ではゴミとホームレスと麻薬中毒者が増え、治安は悪化し、殺人事件が頻発した。ニューヨーク市の1990年の殺人事件の被害者は、2,245人とピークに達した。
 「ゴースト」(1990年 監督:ジェリー・ザッカー)は、銃で殺された青年が生きている人間の眼には見えない幽霊(ゴースト)になって、悪者から恋人を守る恋愛映画だが、大いにヒットした。ヒロイン役のデミ・ムーアの当時の夫はブルース・ウィリスで、その「ダイハード 2」が同時期に公開されたが、「ゴースト」は集客数で「ダイハード 2」に圧勝したという。「ゴースト」が大ヒットした背景には、幽霊となって恋人を守るという映画の設定の面白さもあったが、舞台となったニューヨーク市の治安の悪さという要素も大きかったと、番組は言う。

 1992年にロスアンゼルスで暴動が起き、死者63人、火災3千件以上を出した。黒人のロドニー・キングが、車のスピード違反で逮捕される際に、警官たちに袋叩きにされて重傷を負うという事件があり、その光景を近隣住民が映像に撮り、全国ニュースとなった。警官たちは起訴されたが、裁判で無罪となり、裁判所や警察署に対する抗議運動が暴動となったのである。
 「マルコムX」(1992年 監督:スパイク・リー)は、多民族社会アメリカの困難さを実在の黒人指導者を通して描いた。「許されざる者」(1992年 監督・主演:クリント・イーストウッド)は、仲間をめった刺しにされたのに保安官が犯人を厳しく罰しようとしない現実に憤り、娼婦たちが金を集めて人を雇い、復讐しようとする物語だった。
 冷戦に勝利した米国ではあったが、社会は安心や安全、安息からほど遠い状況だった。

▼映画「フォレスト・ガンプ」(1994年 監督:ロバート・ゼメキス)の主人公フォレスト・ガンプは、米国のベビーブーマー世代の5~6歳年長である。小さいときは自分の脚でしっかり歩くことも難しく、両脚にギプスをはめ、小学校の校長からはIQが低いから特殊学級のある学校に行くようにと、勧められたりもした。フォレストの友達は、スクールバスで声をかけてくれたジェニーだけだった。
 フォレストはいじめっ子たちに自転車で追いかけられ、走って逃げているうちに両脚のギプスが不要になるだけでなく、走ることが得意であることに目覚める。そしてアメリカン・フットボールの選手として大学に入り、卒業後は陸軍に入隊してベトナムへ行く。
 ベトナム戦争でフォレストの部隊は全滅するが、彼は弾丸が飛び交う中、傷ついた隊長や同僚を肩に担ぎ、獅子奮迅の働きで救助する。
 戦場から帰国したフォレストを迎えたのは、反戦運動の盛りあがりだった。彼は反戦活動家となっていたジェニーと再会するが、彼女は活動家仲間とともに去っていく。
 フォレストは、戦死した同僚が生前に熱く語っていたエビ漁を、元隊長といっしょに始める。そしてハリケーンによってエビ漁の船が全滅したときにも彼らの船は沈まず、逆にエビの大漁に恵まれる。フォレストはやがて多くの富を得て、事業から離れる。
 フォレストはジェニーとまた再会して結婚するが、彼女は一夜を過ごしたあと姿を消す。最愛の母が亡くなり、フォレストはある日走りはじめる。アラバマ州を抜け、アメリカ合衆国を横断し、3年間走り続け、その走る姿はTVで報じられ、たくさんの一緒に走る人びとが現われた。
 ある日フォレストは、何も言わず、走るのをやめた。フォレストは再びジェニーに巡り合い、二人の間に息子が生まれていたことを知る。二人は子どもと一緒に結婚生活を始めるが、ジェニーは病気で亡くなる。―――

 この映画は、フォレスト・ガンプという純真で善良な男を狂言回しに使った、米国社会の同時代史である。エルビス・プレスリーやジョン・レノンをはじめ、歴代のアメリカ大統領がフォレストと関わる形で出てくるし、アラバマ大学の黒人入学をめぐり州知事とケネディ大統領が対立した事件やベトナム戦争、ベトナム反戦運動、やがて中国承認に至る「ピンポン外交」、ウオーターゲイト事件等々も同様に出てくる。
 日本で公開された時、米国で大変評判になっている映画だと聞いて筆者も観たのだが、それほど面白いとは思わなかった。それは米国の観客が、画面の同時代史をどういう思いで観ていたかに、考えが及ばなかったからかもしれない。
 米国の90年代は、銃規制や同性愛、人工妊娠中絶などの問題でリベラルと保守の対立が激化した時代であり、人々の価値観が衝突する「文化戦争」の時代とも言われた。そうしたとげとげしい時代に人びとは、純真で善意のかたまりのようなフォレスト・ガンプにアメリカの伝統的美徳を見、共感したというのが、番組の解釈だった。失われつつあるアメリカの素朴な良心を演じきったトム・ハンクスに、観客は清々しさを感じ拍手を送った。

▼90年代はアメリカ社会の政治的対立が激化した時代であったが、パリの郊外にディズニーランドができる(1992年)など、アメリカの消費文化が世界に浸透するグローバル化の時代でもあった。
 「大きな物語は存在せず、一人ひとりが自分の道を見つけなければならない時代の到来だった」と、番組は総括する。そうした時代に成人した若者たちを理解するのに最高の映画、と番組が絶賛するのが、「リアリティ・バイツ」(1994年 監督:ベン・スティラー)である。筆者は観ていないので論じる資格がないが、彼ら60年代半ばから70年代に生まれた若者たちは、からっぽの世代、「ジェネレーションX」などと呼ばれる。
 彼らはポップカルチャーにのめり込み、現実世界ではなくポップカルチャーに媒介された世界に生きている。ポップカルチャーを通して彼らはようやく現実に触れ、気持ちを表現することができるのだと、番組は言う。
 彼らの親たち、60年代の若者たちは、新しい世界を夢見てカウンター・カルチャーに熱狂した。しかし熱狂のあとに残されていたのは、変わらない現実だった。
 90年代の若者たちは、闘う前からその空しさに気づいている。しかしそうした若者たちにも、現実は容赦なく噛みつく(リアリティ・バイツ)。親世代の離婚率が高く、シングル家庭で育った者も多く、社会に出ようとする90年世代には厳しい就職難が待っていた。

(つづく)

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ウクライナの戦争と日本5 [思うこと]

▼前回、「軍事専門家の視点にはそれ特有の狭さや欠落があるのだろうが」と書いたが、高橋杉雄の『現代戦略論』から省かれているのは、国民の感じ方、受け止め方、考え方である。日本の意思決定が、曲りなりにも「選挙」を通じて行われるのだとするなら、「防衛政策」について決めるのも、最終的には国民の感じ方、受け止め方、考え方である。高橋は、そのような事情は十分承知の上で軍事の常識を説明したのであり、そこから先を考え判断するのは、われわれ国民一般の仕事である。
 「台湾有事」となれば、日本は「集団的自衛権」を行使し、自衛隊が米軍と一体となって戦うことが予想される。そのとき米軍基地の多数置かれている沖縄はどうなるのだろうか。あるいは米海軍基地があり、原子力空母「ロナルド・レーガン」の母港である横須賀基地はどうなるのか。「ロナルド・レーガン」の艦載機が基地とする厚木飛行場はどうか。在日米軍司令部が置かれる横田基地はどうなるのか―――。
 高杉の『現代戦略論』によれば、中国はその政治目的を遂げるために、まず多数の弾道ミサイルと巡航ミサイルを日米の航空基地に叩き込み、日米の航空戦力の壊滅を狙うものとされる。中国軍のミサイル攻撃の精度は極めて高く、日米の空軍基地は大打撃を被るという想定だから、基地の周辺にも被害は及ぶだろう。何よりもミサイル攻撃の恐怖は、基地周辺住民のみならず、「ひ弱」(宮澤喜一)な国民のよく耐えられる程度のものではないだろう。
 そのように日本のこれからの「戦争」の危険性を具体的に考えるとき、国民が戦後の「平和主義」に先祖返りしたとしても不思議はないかもしれない。日本は戦争に巻き込まれないために、基地の使用に反対するべきだ。米国と同盟を結ぶべきではなく、基地の返還を要求し、どこの国とも敵対しないようにするべきだ、「集団的自衛権」などとんでもない、というように。
 中国は尖閣諸島の帰属で日本と対立しているが、だからといって尖閣問題で日本にミサイルを撃ち込むことはないだろう。また、北朝鮮の核兵器やミサイルも、北朝鮮が韓国を攻撃したときに日本が韓国や米軍を支援しなければ、日本に飛んでくることはないと、考えることができるかもしれない。
 しかしこの「一国平和主義」は、非現実的で危険な空想に過ぎない。
 なぜなら、日本がこれまでの米国との軍事同盟をやめ、日本の基地の返還を求めるようなことになれば、極東における軍事バランスは劇的に変わり、中国や北朝鮮に有利な環境を創り出す。これまで中国や北朝鮮の軍事力の行使を抑止してきた大きな力が消え、野望を満たすチャンスが訪れたと分かった時、何が彼らをとどめるだろうか。軍事バランスの急激な崩壊が戦争を引き起こす――そういう愚かな過ちを行ってはならない。
 第二に「一国平和主義」は、軍事同盟を結んできた米国と決定的に対立する事態を招くだろう。日本と米国の結びつきは軍事面だけでなく、政治・経済・文化などあらゆる面に及ぶのだが、それらの結びつきを反故にし、進んで孤立することは、日本国民にとって厄災以外のものではない。
 したがって日本の平和は、戦争を「抑止する力」をいっそう確実なものにする方向で、考えていくしかないのである。

▼戦争勃発から1年を超えたウクライナの戦いについて、TV番組では今後の見通しとともに、なぜプーチンは侵略を決断したのか、専門家たちが議論していた。
 プーチン自身は、開戦当初は、ドンバス地方の同胞をウクライナの「ネオナチ」から守るためだというような理屈をこねていたが、最近ではもっぱら、西欧の攻撃からロシアを守る「祖国防衛」の戦いだと言うようになっている。(2/22「祖国防衛者の日」の演説)。だがいま明らかなのは、プーチンの頭の中でウクライナは一般的な「主権国家」ではなく、ロシアの属国であるべき存在であり、あるべき姿に戻さなければならない、と彼が思っていたということである。
 2014年にクリミア半島をロシア領に編入しようと、プーチンが軍事力を動かしたとき、彼の希望は大きな抵抗もなく実現した。2022年もまた同じようにキーウ(キエフ)を軍事占領し、政権幹部を入れ替えることは容易だと、彼は考えていたはずである。
 米国もウクライナの軍事力や政治力について低く評価しており、ロシアの侵略を非難する一方、ゼレンスキーには亡命を勧めた。しかしゼレンスキーは亡命せず、国内にとどまって戦うことを選び、国民にも共に戦うことを求めた。ウクライナ軍は善戦し、キーウに向かうロシアの戦車部隊を撃破することで、短期間にウクライナを占領しようというプーチンの野望を粉砕した。

 この全世界注視の出来事は、あらためて貴重な教訓を与えてくれる。
 第一に、プーチンがウクライナに軍を進めたのは、自分の野望が容易に実現すると考えたからである。ウクライナ軍が十分な強さを持ち、徹底抗戦すると予想していたなら、彼は安易にロシア軍に侵攻開始の命令を出さなかったはずである。
 第二に、ゼレンスキーやウクライナ国民の戦いの決意と実績が、世界の人びとに感銘を与え、及び腰だった米国とNATO諸国からの支援を引き出し、それがロシア軍から占領地を奪還する力となっている事実である。
 要するに、「天は自ら助くる者を助く」である。ウクライナが十分な「自衛力」を備えていないと見られたときに戦争が起きたということ、ウクライナ国民の不屈の戦いの意志と能力が、世界の支援を引き出し、また国際秩序を再建しようという機運を高めている事実を、重く受けとめなければならない。

▼日本の防衛政策の問題に話を戻す。
 日本は「安保三文書」を改定し、戦後最大の防衛政策の転換をしようとしている。世論調査によれば、防衛力強化のためにGDP比2%を防衛費に充てる方針について、55%の国民が賛成し、反対は33%だという。(日経新聞12月調査。)もっとも、防衛力強化のためでも増税には反対という「世論」だったようだが、筆者も防衛費の拡大は、抑止力維持のためにやむを得ないと考える。
 来年2024年には、台湾の総統選挙(1月)、ロシアの大統領選挙(3月)、米国の大統領選挙(11月)と、ビッグイベントが目白押しである。ロシアについてはプーチンの大統領再選は動かないだろうが、台湾と米国についてその結果次第では、世界の運命が左右される可能性もある。
 日本の政治は、戦争が起きないように必要な「抑止力」を備えるとともに、意図せざる戦争の勃発を防ぐ外交努力に、力を注がなければならない。そして日本国民の「ひ弱さ」の問題に正面から向き合い、克服する必要がある。
 以前紹介したことがある高坂正堯の言葉を再度引用して、この稿を終りたい。

 「日本の不安は安全保障にある。より正確に言えば、安全保障感覚の欠如にある。というのは、日本は概ね正しい安全保障政策をとってきたが、それは“神話”の上に築かれたものであり、現実の分析に立脚していないからである。少なくとも後者は公然と議論されず、せいぜいが“密教”にとどまってきた。そうした状況は安全保障政策に現実の欠陥があるときよりも、ある意味では一層厄介である。国家にとって重要な問題を真剣に考えなくなるし、それは長い目で見て国民の能力を低下させる。」(「安全保障感覚の欠如」1996年)

(おわり)

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