SSブログ

奈良の旅3 [旅行]

▼晴れ。旅行会のメンバーは8時半にホテルを出、橿原神宮前駅から近鉄線に乗り、壷井八幡宮に向かった。羽曳野市壷井という土地は、「源氏」の祖先・源頼信が館を構え、いわゆる「河内源氏」発祥の地といわれる所である。
 平忠常の乱(1028年)が起きたとき、「追討使」に任命された源頼信は、前任の平直方とともに乱を平定した。直方は、頼信の嫡男・頼義の武芸に感服し、自分の娘を嫁がせ、その持参金として相模国・鎌倉の領地と屋敷を贈った。これが関東に源氏が進出するきっかけとなり、その後東北地方で起きた前九年の役や後三年の役の活躍により、源氏の東国武士の棟梁としての地位は確固たるものになった―――。

 壷井八幡宮や源頼信らの墓というきわめてマイナーな場所を訪れることにしたのは、メンバーの中に強い希望があったからだが、電車の駅からかなり遠いところにあるため、平均年齢が70歳代後半という一行の年齢を考えると、少々無茶だったかもしれない。
DSC04311.JPG
DSC04313.JPG【壷井八幡宮への階段と神殿】
 上ノ太子駅で降り、歩くこと20分。ようやく壷井八幡宮に着いた。そのあと源頼信、頼義、義家の源氏三代の墓を見ようと山道を歩きはじめたが、道はしだいに狭くなり、あちこちに斜面の崩れた跡が補修されずに残っているような状態で、結局途中で引き返さざるを得なくなった。羽曳野市の「トレイル」の標識が道のところどころに埋め込まれていたが、最近は通る人もないらしく、標識は半ば土に埋もれており、とても山歩きを楽しむような環境ではない。
 近くに仁徳天皇陵に次ぐ大きさだという応神天皇の前方後円墳があるので、それを見る予定だったのだが、それを飛ばして富田林の寺内町へ急ぐことにした。

▼寺内町(じないまち)とは、中世後期から近世前期に一向宗(浄土真宗)の仏教寺院を中心に形成された自治集落である。堀や土塁で囲まれ、信者や商工業者が集住した。寺内町という呼称は、街の全域が寺の境内と見なされたことから生じたもので、寺院の境外に形成された門前町とはその意味で異なる。
DSC04316.JPG
DSC04318.JPG

 富田林の寺内町は、織田信長に対して逆らわない姿勢を貫き、石山本願寺のように滅ぼされずに済んだ。現在は江戸時代以降の町家約40軒が、昔の姿で残されている。
DSC04319.JPG
DSC04327.JPG
DSC04328.JPG
DSC04323.JPG
 ボランティアのガイドの方に町の中を案内してもらったが、近鉄線の富田林駅から徒歩で十分以上かかるという距離感が、寺内町が昔の姿で残る大きな要因となったという。もし線路がもう少し近くを走り、駅が近ければ、寺内町の民家は近代的な商店に変貌していたことだろう。それは昨日の飛鳥の里の景観にも通じることで、「人知を超えた幸運」というほかない。
DSC04332.JPG
DSC04334.JPG【旧杉山家住宅】
 旧杉山家住宅という造り酒屋の建物の内部が、公開されていた。江戸時代のもので、富田林の寺内町でも最古の建築物とされる。明治の終り頃、堺の与謝野晶子たちとともに活躍した明星派の歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)は、この杉山家の長女だった。露子が結婚した相手は彼女が歌を詠むことを嫌い、文筆活動を禁じたので、明星派の歌人としての露子の活動はそこで終る。しかし彼女が昭和に入ってから詠んだ歌や書き残した「自伝」は、熱心な研究者の手によってまとめられ、出版されている。
 ガイドの説明によれば、杉山家住宅は昭和五十年代に売りに出されたが、そのとき関わった不動産業者がこの建物の価値に気づき、市に保存を働きかけ、重要文化財として保存されることになった。それが富田林の寺内町全体の保存のはじまりだったという。

(おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

奈良の旅2パレスチナの戦争 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。