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PERFECT DAYS [映画]

▼映画「PERFECT DAYS」(監督:ヴィム・ヴェンダース)を観た。渋谷区内に点在する公衆トイレの清掃員として働く男・平山(役所広司)の生活を、ドキュメンタリー風に撮った映画である。
 早朝、まだ暗いうちに平山は、古いアパートの一室で目を覚ます。部屋は畳の間で、家具はほとんどなく、きちんと整理されている。平山は手早く布団を畳んで隅に置き、歯を磨き、仕事着に着替えて外に出る。自動販売機で缶コーヒーを買い、仕事道具を積んだ軽ワゴン車に乗り込み、今日はどのテープを聞こうかと少し考える。「朝日のあたる家」をセットし、聞きながら平山の車は首都高で渋谷に向かう。
 公衆トイレに到着すると、車から道具を取り出し、入り口に「清掃中」の掲示板を立て、一生懸命便器の掃除を始める。ときどき掲示を無視してトイレに入り、用を足す人間も現れるが、彼らにとって清掃作業員の存在はほとんど目に入らないらしい。平山も何も言わない。
 何箇所か清掃し、昼は神社の境内のベンチに座り、おにぎりを食べる。境内の樹々の葉のあいだから、木漏れ日が漏れている。平山は揺れる葉影を無言で見つめ、樹々を見上げ、そして古いフィルム式のカメラで写真に撮る。
 午後も何箇所か清掃し、まだ日の高いうちにアパートに戻る。アパートは「東京スカイツリー」が近くに見える墨田区押上にあり、平山は近くの銭湯が開くと同時に客となり、湯船に浸かって手足を伸ばす。
 行きつけの大衆酒場に寄ってビールを飲み、アパートへ帰り、布団に横になって文庫本を読む。眠くなれば枕もとの電灯を消し、満足して一日を終える。

 カメラは次の日もまた次の日も、同じ行動、同じ動作を正確に繰り返す平山を追い、記録する。平山は極めて無口である。他人と喋ったり交わったりする欲求は少しもなく、小さな名もない草花に水をやって大事に育てたり、自分で決めた仕事や日課をきちんと果たすことに満足感を覚える性格なのだ。
 公衆トイレ清掃員の同僚として、かなりいい加減な若者が登場するが、平山の生活が大きく乱されることはない。
 若い娘が母親と衝突して家出し、伯父の平山を頼ってアパートにやって来る。平山は黙ってアパートに泊め、清掃作業の現場に車に乗せて連れていく。平山の生活は、少しも変わらず続いていく。
 ある夜、その娘の母で平山の妹である女性が、娘を迎えに来る。彼女と平山の立ち話から、観客は平山が鎌倉での裕福な生活を捨ててここでアパート暮らしを始めたことを知るが、詳細は説明されない。だが観客は、平山が質素ではあるが納得のいく現在の生活に満足していることを、それまでに知らされているので、鎌倉には戻らないという彼の言葉を、意地や強がりだと受け取りはしない―――。

▼監督のヴィム・ヴェンダースは、小津安二郎の大ファンとして知られている。主人公の名前を「平山」としたのは、小津の「東京物語」で笠智衆の役名「平山周吉」、あるいは「秋刀魚の味」で同じく笠智衆の役名だった「平山周平」にちなんだのだと、インタビューで語っている。(「キネマ旬報」2024年1月号)
 「東京物語」の笠智衆は老妻をなくし、葬儀に集まった娘や息子たちがそれぞれの生活の場に帰っていったあと、通りかかった村人と挨拶を交わす。笠智衆の穏やかな笑顔の内に、ひと仕事を無事に終えたという安堵感と独りになった寂寥感が、ほのかに見える。「秋刀魚の味」の笠智衆は娘を嫁に出し、独りになった寂しさはあるがほっとした思いもあり、複雑な気持ちでいる。
 「……そんな幸福と悲しみの交錯、混交を、笠は素晴らしく美しく表現している。そういうところを『PERFECT DAYS』に翻訳したい」と考えたと、ヴィム・ヴェンダースは語る。
 しかし映画を見た後の筆者の感想は、監督の期待に沿うものではなかったように思う。『PERFECT DAYS』の主人公は、身の回りの小さな自然を愛し、自分の仕事をきちんと果たし、満足して眠りにつく毎日を送っている。それは他人との付き合いやお喋りよりも、納得のいく仕事こだわる「職人」たちの世界に近いように見える。
 しかし「東京物語」の主人公の世界は違う。笠智衆の穏やかな笑顔を見た観客は、それを美しいと思い、自分もああいう風に老いたいものだという感想を抱いたのではないか。そこには期せずして「老い」という人間共通の課題に開かれた、一つの優れた解答があった。
 『PERFECT DAYS』の役所広司の、一日の仕事を終えたあとの穏やかな顔も悪くはない。しかし観客がそこに共感や憧れを見るかと言うと、どうもそこから少し距離があるように思われる。

(小津の「東京物語」について、筆者は以前書いたことがあるので、下記のページを参照してもらえるとありがたい。)

https://tamagawa.sakuraweb.com/biblio10-minnagenki.html#minna

▼このブログは今回、つまり2023年末で丁度600回となった。始めたのは2011年だったように思うが、確かな記憶があるわけではない。現在は週に一度、金曜日にアップロードするのをノルマとしているが、これも当初からそのようにルール化していたかどうか、いつからそのようになったのか、確かではない。
 現在、筆者にとってブログを書くことは、生活のリズムをつくり出す上で、大きな働きをしている。またブログを書くことで、筆者は宿題として抱えてきた課題のいくつかに、回答を出すことができた。
 しかし最近感じるのは、書くことに対する内発的な意欲が薄れ、惰性で文章を作り上げているのではないかということである。週1回、400字詰めの原稿用紙にして7~8枚の文章をまとめることは、十年もやっていればわりあい簡単な作業となり、続けられないわけではない。それに来る2024年は、世界の秩序を大きく変える(可能性のある)イベントが目白押しの年である。
 ウクライナやパレスチナの戦争がどうなるか、世界が注目しているところだが、これに大きな影響を及ぼすロシアの大統領選挙が3月17日に、米国の大統領選挙が11月5日にある。日本への影響という点では、1月13日の台湾の総統選挙や4月10日の韓国の国会議員選挙も見逃せない。(世界の秩序に与える影響は無視できるほどかもしれないが、わが日本の政治でも変化が予想される。)
 したがってブログのネタに困るという心配はなく、筆者は世界の動きを追いかけるべきなのかもしれない。
 しかし筆者はあえてブログを1年間休もうと思う。1年の休暇で筆者のブログを書く意欲が湧き出てくる保証はないが、後期高齢者といわれる歳になっても、やってみなければ分からないことはある。『PERFECT DAYS』の主人公は、決まった生活のリズムを変えることに強い怖れの感情を懐いているようだったが、筆者はあえて生活のリズムを変え、そこに生産的な可能性を見たいと考えている。
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 過去のブログ記事は、この「多摩の川風 袂に入れて」でも読めるが、そのうち半分ほどは筆者のホームページで整理した形で公表しているので、下記のURLにアクセスされることをお勧めする。
 「多摩川のほとりから」https://tamagawa.sakuraweb.com/

 


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今年も12月になった3 [思うこと]

▼前回、10月7日の「開戦」以降、イスラエルの攻撃によって大きな被害を受けているにもかかわらず、ハマスを支持するパレスチナ人が増えていることを見た。それではイスラエルの世論はどうなっているのか。
 シンクタンク「イスラエル民主主義研究所」は12月11日~13日に、ユダヤ系503人とアラブ系101人の男女にインタビュー形式で尋ねた調査結果を、19日に発表した。イスラエル国内のアラブ系住民は約2割と言われるから、調査は人種別の人口比を考慮して行われたと言える。
 「軍事計画を立てる際に、どの程度ガザの人たちの苦しみを考慮するべきか」という設問に対し、ユダヤ系は「ほとんど考えるべきではない」「あまり考えるべきではない」が合わせて81%を占めたという。一方アラブ系では、「大いに考えるべきだ」「かなり考えるべきだ」が、計83%だった。
 またユダヤ系の回答には政治的立場によって違いがあり、右派の89%、中道の77.5%、左派の53%が、それぞれ「考えるべきではない」と答えた、という。
 「戦争」が始まって以来、イスラエル軍の空爆によって瓦礫の山と化したガザの街や、生き埋めになって救助される人々、泣き叫ぶ子供たちといった戦争の様子は、映像によって世界に届けられている。ガザの保健当局の発表によれば、死者数は、12月19日時点で2万人を超えた。「即時休戦」「即時停戦」を求める声が世界に広がっているのだが、イスラエルのユダヤ系の国民は、「ガザの人々の苦しみなど考慮する必要はない」と言うのだ。
 彼らのそうした考えや感情の傾向は、「開戦」以降に始まったものではなく、近年徐々に強まってきたものと見ることができ、それはイスラエル議会の構成にも反映されている。

▼イスラエルの議会は、独裁者が出ることを防ぐという理由から、完全比例代表制を採用している。2019~2022年に5回もの総選挙を行っているが、全部で120の議席の過半数を取る政党が現れず、連立の組み方をめぐって争いや駆け引きが続いているからである。
 2022年末の選挙でつくられた政権の与党は、リクード(右派)32、宗教シオニズム(極右)14、シャス党(ユダヤ教超正統派)11、ユダヤの力(ユダヤ教超正統派)7、の64議席であり、過半数(61)をわずかに上回る状態だった。開戦後の10月12日に国民団結党(中道右派)12が新たに与党に加わり、ようやく安定勢力を獲得したが、極右やユダヤ教超正統派が休戦や停戦に不満な場合、政権離脱をちらつかせることで戦争の行方を左右する力を握っている。
 現在の政権では、「宗教シオニズム」党の党首が「財務相兼第二国防相」に就き、「ユダヤの力」の党首が「国家安全保障相」に就いている。「財務相兼第二国防相」というのは聞きなれない面妖な肩書だが、国防相が占領地行政を管轄するということを知れば、事態は容易に理解できる。つまり占領地である「ヨルダン川西岸地区」に入植地を増やしていくという政策を推進するポストなのである。パレスチナ人の抵抗は当然発生するが、治安を維持するのは「国家安全保障相」の役割である。
 極右やユダヤ教超正統派は、パレスチナ全土がユダヤの民に神が「約束した土地」であり、入植地を広げることは当然と考えていて、ネタニヤフは政権を取るために彼らの希望を入れ、希望するポストを用意したというわけだ。(以上はBSフジの「プライムニュース」に拠る。)
 西岸地区では10月7日の「戦争」勃発以降、入植者によるパレスチナ人襲撃が増大し、200人以上が殺され、イスラエルの国防相が入植者による暴力の急増を非難する(12/5)事態となっている。
 
▼「ガザ 素顔の日常」という映画を見た。2019年につくられた記録映画で、ガザに暮らす人々の日常を撮ったものである。
 映画は、海辺でサーフィンを楽しむ若者たちの光景から始まる。どこの国でも見られる普通の風景である。次に、漁船に乗る少年にカメラが向けられる。少年は、いまに大きな漁船を買って、兄弟と漁に出たいと夢を語る。
 ガザでは今でも妻を4人まで持てるらしく、妻が3人で子供が40人という初老の漁師も登場する。子供の一人は、兄弟がたくさんいて大家族は楽しいと言う。陽気な売店の店主やタクシーの運転手なども登場する。
 ガザは一見、他の中東の街と変わりのない土地のように見える。しかし実態は、イスラエルの造った巨大な壁に囲まれ、イスラエルによって経済的に封鎖された「天井なき牢獄」であることが、少しずつ示されていく。
 ガザ地区の西側は南北40㎞ほどの海岸線だが、船は海岸線から遠くまで出ることはできない。漁業ができる領域が定められていて、そこから外に出ようとするとイスラエル海軍から銃撃されるのだ。
2007年にガザをハマスが実効支配するようになってから、イスラエルは地区を封鎖し、物資も人の移動も制限している。若者たちに仕事はなく、希望を実現することは難しい。
 映画は後半、砲撃で廃墟となったたくさんの鉄筋造の建物を映し出し、タイヤを燃やし、イスラエル兵に石を投げるパレスチナの子供たちにカメラを向ける。イスラエル軍はこれに対して、実弾を打ち返す。
 2014年と2018年に、パレスチナの住民とイスラエル軍の衝突があり、数十名の死者が出、多くの学校や病院、家屋、発電所などが破壊された。また同じことが起きるのではないかと恐れている、と老女が語り、「私たちはただ生きたいのです」という言葉が、画面に残る。
 
▼ガッサン・カナファーニーの中・短編小説を読んだことがある。(『太陽の男たち/ハイファに戻って』) パレスチナを追われ、中東の各地で暮らす人々の日常生活をたんたんと描いているのだが、登場人物たちの背後に読み手がパレスチナの歴史理解を挿入することで、場面がにわかに活性化される、そういう小説だった。
 (カナファーニーはパレスチナの中流家庭に生まれ、イスラエル建国のときは12歳だった。難民の一人としてシリアの山村に逃れ、やがてダマスカスに移った。新聞の校正係や難民救済機関の学校の教員などをしたのち、ベイルートの新聞で主幹として健筆をふるい、PFLPの公式スポークスマンとして活動した。その発言は世界のジャーナリストに注目され、イスラエル側には脅威となり、1972年、車に仕掛けられたダイナマイトによって、彼は車ごと吹き飛ばされた。享年36歳。)

▼今回の「パレスチナの戦争」はどのようにして終わるのだろうか。緊急に必要とされる水や食糧や医薬品は、いつ人々の手に届くのか、イスラエル軍が徹底的に破壊した家屋や病院、学校や多くのインフラ施設は、どのようにして再建されるのだろうか。
 戦闘はいつかは止む。ハマスは「開戦」後2か月半を、よく戦っていると言えるが、それでも組織的抵抗は近いうちに終わるのではないか。
 だがそのあと、イスラエルはどうするのか。彼らは明確な「出口戦略」を持たないまま、ハマスの「壊滅」に向けて突き進んできたが、パレスチナ人の存在を無視しようとする彼らの「思想」が、国際社会に受け入れられるとは思えない。入植地をめぐるパレスチナ人民との対立は、深刻な国内対立となってイスラエルの政治を混乱させるかもしれない。
 当面は絶望しか見えない「パレスチナ問題」だが、イスラエル政治の混乱の可能性にわずかな「希望」を見出したいという筆者の思いは、姑息に過ぎるだろうか。

 (おわり)

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今年も12月になった2 [思うこと]

▼戦争に関する「国際法」は、戦争や闘争の主体について現実を踏まえて対象を拡大しただけでなく、毒ガスや細菌などの生物・化学兵器を禁止したり、捕虜や傷病者、一般住民の保護について取り決めたりしている。1949年にジュネーブで締結された4条約は、捕虜や傷病者、一般住民を保護する内容の条約だが、それらはさらに検討が重ねられ、補完するものとして1977年に二つの「ジュネーブ条約に追加される議定書」が採択された。
 この議定書が、一般住民(平和的住民)の保護をどのように規定しているかを見てみよう。
 「平和的住民及び非軍事物に対する尊重及び保護を確保するために、紛争当事者は、常に、平和的住民と戦闘員とを、また、非軍事物と軍事目標を区別しなければならず、従ってその行動を軍事目標に対してのみ向けなければならない。」(第一議定書第48条)
 「非軍事物」とは、「民用物」と訳している条約集もあるが、軍事目標でないすべての物を言い、攻撃は軍事目標にきびしく限定されなければならない。礼拝所や学校、家屋のような通常平和的な目的に使われる物は、明らかに軍事行動に寄与するために用いられている証拠がない場合は、「非軍事物」と推定されなければならない。
 「無差別攻撃」は許されない。無差別攻撃とは「特定の軍事目標に向けられていない攻撃」や、特定の軍事目標に限定することのできない戦闘の方法・手段を用いる攻撃である。そして特に二つの類型を挙げて、それは無差別攻撃とみなされると警告している。
 一つは、都市などの一般住民や非軍事物が集中している地域に多数の軍事目標がある場合で、相互に明確に分離されるものを単一の軍事目標とみなして砲撃や爆撃を加えること。
 もう一つは、予期される具体的かつ直接的な軍事的利益と比べ、巻き添えにする一般住民の死亡や傷害、非軍事物の損害が、過度に引き起こされると予想される攻撃である。(第一議定書第51条)
 戦争に関する国際法を思い起こすことは、法の「無力」に失望することになるかもしれない。しかしそれは「文明」の証しであり、完全なニヒリストであっても言葉の上ではそれを尊重しているかのように振舞わざるを得ないところに、法の存在理由を見ることができる。

▼12月9日、イスラエル軍のガザ地区攻撃により「少なめに見積もって7千人以上のハマス戦闘員を殺害した」と、イスラエル国家安全保障顧問は地元TVのインタビューで述べたという。
 しかしガザの保健当局の12月10日の発表によれば、10月7日の戦闘開始以後の一般住民の死者は1万8千人にのぼり、負傷者は5万1300人だという。その多くは連日連夜行われているイスラエル軍の空爆によるものだろうが、それは戦闘開始後の合計で2万2千箇所以上にのぼるという。ガザ地区の広さは東京23区の6割程度であるから、空爆のすさまじさはわれわれの想像をはるかに超えると言わなければならない。
 筆者はイスラエル軍が、一般住民と戦闘員を区別しなかったり、民用物を意図的に軍事目標にしているとは考えない。しかし地下トンネルが縦横に、300~500㎞も掘りめぐらされているといわれるガザ地区で、ハマスの戦闘員を殺戮するために「無差別攻撃」を行っていることは確かであり、それが「国際法」の求める一般住民の保護に違背し、住民の殺戮と都市や住居の破壊を大規模に実行するものであることは、明らかである。
 ハマスの10月7日の越境攻撃によるイスラエル国民の殺害と人質の拉致は、許されぬ行為であり、テロルとして非難されなければならない。だからその後イスラエルが、人質の解放とハマスの壊滅を求めてガザ地区を攻撃したことも、一定程度は許されるだろう。だが、「一定程度」を超えて攻撃を続け、ガザの一般住民の被害を極度に拡大し、それを「自衛のため」と称することは許されず、ハマスのテロルと同様に強く非難されなければならない。
 どちらが正しいかではない。どちらも正しく、そしてどちらも許されぬ行為をしていると筆者は考える。
 なぜハマスが「正しい」のか? 彼らがパレスチナの歴史と現状を見て覚えるイスラエルへの敵愾心は、十分に根拠があるからだ。彼らにとってイスラエルへのテロルは、巨大な不正義に対する絶望的な抵抗であり、世界の無関心に対する抗議であるだろう。
 一方イスラエルは、パレスチナの地で「建国」し、周囲のアラブ諸国の敵意に囲まれながら75年間営々と国づくりに励んできた。彼らにとってイスラエル国家の存続は至高の価値であり、それを脅かす者と戦い打倒することはすべてに優先する課題である。

▼世の中どうあるべきかを考え、それが正しい理由を論証できたとして、その通り実現することはまずありえない。パレスチナの問題について、イスラエルとパレスチナの二国家共存しか「解決」法はないと多くの論者が主張し、筆者もそう考え、国連の決議もそれを認めている。しかし問題は一向に解決に向かわず、今日の事態を迎えたのである。
 ハマスは2017年にそれまでの姿勢を転換して綱領を改訂し、イスラエルの建国を非合法としながらも、1967年の第三次中東戦争以前のイスラエルとパレスチナの人々の間の境界線を受け入れる姿勢を示した。それはハマスが国際的孤立を避けたいという思惑から出たものだろうが、問題の解決へ向かう一つのきっかけになりうるポイントだったように見える。
 問題が解決に向かわない原因は、より多くイスラエル側に求められるように思う。イスラエルがパレスチナ国家が造られることを歓迎せず、米国がイスラエルの姿勢と行動を支持し続けているからである。
 10月7日のハマスの越境攻撃に始まる「戦争」について、11月下旬の休戦期間中にパレスチナ民間調査研究機関が実施した、ガザと西岸地区での調査結果が報じられていた。(毎日新聞12/14)。それによると、ハマスによる越境攻撃を正しいと回答した者は、ガザ地区で57%、西岸地区で82%であり、ハマスの支持率は9月の前回調査に比べ、ガザ地区で4%増の42%、西岸地区では32ポイント増の44%で、いずれも西岸地区を治める穏健派組織ファタハを上回ったという。「戦後のガザ地区は誰に統治してほしいか」という質問では、「ハマス」と答えた者が全体の60%(ガザ地区38%、西岸地区75%)を占めた。

(つづく)

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今年も12月になった [思うこと]

▼今年も12月になった。毎年この時期には喪中はがきが届くのだが、今年はこれまでになく多いような気がする。もちろん本人のものはまれで、多くは兄や姉、義兄や義姉が亡くなったので、今年は新年のあいさつを遠慮するという趣旨のものである。
 「親の喪中」というのは、われわれ団塊の世代の場合、もう多くはない。今年届いた中で一通だけあったが、ご母堂が百歳で亡くなったとのことだった。もし亡くなるまで元気で暮らし、百歳でコロリと亡くなったのだとしたら、実に目出たいことと言わなければならないだろう。
 野生動物は老いない、という話を聞いたことがある。サケは卵を産み、精子を振りかけると、オスもメスもそこで死ぬのだそうだ。生殖を済ませるまでは現役バリバリだが、役目が終わると直後に脳が委縮し、ホルモンが出なくなり、死んでしまう。野生のチンパンジーのメスも、閉経後すぐに死んでしまうのだという
 縄文時代、日本人の平均寿命は15歳だったと何かで読んだ記憶がある。平安時代は30歳、明治時代は43~44歳、昭和25年(1950年)でもそれは、男:58歳、女:62歳だった。「生殖の役目が終わるとすぐ死ぬ」というほどではないが、それでも「老後」の期間は短く、「老後」の心配をする必要はほとんどなかったのである。
 ところが現在(2021年)、日本人の平均寿命は男:81.47歳、女:87.57歳だという。平均寿命は、乳幼児の死亡率が下がればそれだけ伸びる仕組みになっているから、寿命の伸びは割り引いて考える必要があるが、それでも戦後の70年間に約25歳も寿命が延びたことは驚くに値する。凡夫が戸惑いを感じたとしても、いっこうに不思議はないのだ。
 少し前まで、ひたすら仕事に打ち込んできた男が「定年」となり、仕事から解放されたあとの空虚な時間を持て余すという話が、「老後」の一つの定番の形だったが、最近はあまり聞かないように思う。「定年」を延長し、「老後」も働くというスタイルが急速に普及したことが一つの理由だろうが、高齢者の面々がそれぞれ「老後」を工夫して過ごしている結果なのだろう。
(なお、日常生活において介助や介護を必要としない期間を示す「健康寿命」は、男:72歳、女:74歳だということをどこかで聞いた。周囲の元気な年寄りを見ると、この「健康寿命」は5~6歳先に伸ばした方が良いように思うが、考え方自体は生かすべきものである。)

▼12月は1年を振り返る月なのだが、あいにくウクライナもパレスチナも戦争の真っ最中であり、今後の見通しさえ立たず、とても1年を振り返るような余裕はない。
 ウクライナ軍は、6月初めの「反転攻勢」開始から半年が過ぎたが、世界が期待するような戦果を出せず、苦しんでいる。ロシアが占領しているウクライナ南部のザポリージャ州に攻め入り、占領地を東西に分断することで補給路を断とうとしているが、攻勢は計画通りに進んでいない。制空権をロシアに握られている中で、ロシア軍が敷いた地雷原を突破し、その後ろで守りを固めている敵の部隊を打ち破ることは、極めて困難なことのようだ。
 10月にパレスチナで戦争が勃発すると、筆者が恐れたとおり、ウクライナ戦争に対する世界の関心はかなり低下しているように見える。米国やNATO諸国の “支援疲れ”もあり、ウクライナへの武器援助がいつまで続くか、そしてウクライナ国民の忍耐がいつまで続くか、という大きな心配を抱えたまま、戦争は年を越そうとしている

 パレスチナの戦争は、イスラエルとハマスが「人質交換」をするために11月24日から7日間の「休戦」が行われたが、12月1日、イスラエル軍は攻撃を再開した。イスラエル軍はガザ南部の都市に対して激しい空爆を行い、地上軍も攻め入り、パレスチナ人の死傷者は増え続けている。しかしイスラエルの国防省は、ハマスが民間人を「人間の盾」として使っていることを非難し、ハマスの掃討のためには民間人の死傷者が出ることもやむを得ないと述べている。
 この戦争はいつまで続くのだろうか? そしてテロルを実施したハマスを掃討するためには、パレスチナの民間人の犠牲は本当にやむを得ないのか? 国際法はどのように定めているのだろうか?
 
▼戦争に関する近代的な法は、ナポレオン戦役のあとに作られた。1814~1815年のウィーン会議は、国家の間で戦われる戦争についてのルールを再建し、このルールは1914~1918年の第一次世界大戦においても、陸戦遂行の実際を支配した。しかしそれは正規軍同士の戦闘に適用されるものであり、戦闘員と非戦闘員の区別や敵と犯罪者の区別、戦争と平和の間の明確な区別を前提としていた。
 ナポレオン軍はスペインに侵攻し、政府軍を撃破したあと各地のゲリラに悩まされたが、古典的な戦争法ではゲリラのような非正規の存在は、存在の余地がなかった。
 しかし内戦や植民地戦争、大衆蜂起、義勇兵などさまざまな現象が現れるその後の歴史のなかで、古典的なヨーロッパの戦争法規は修正を余儀なくされる。カール・シュミットはゲリラを含む非正規の闘争者を一括して「パルチザン」という呼称で論じているが、1907年にハーグで締約された「陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約」は、非合法的な抵抗運動者や地下活動家に一定の条件の下で「交戦者」としての資格を与えるようになった。「交戦者」と認められるなら、彼らは正規の戦闘力として取り扱われ、正規の戦闘員の権利と特権を享受する。彼らの闘争行為は違法ではなく、彼らが捕虜ないし負傷者となった場合は、捕虜及び負傷者として特別に待遇されることを要求できるのだ。 
 「交戦者」として認められる一定の条件とは、簡単に言えば、
・指揮官の指揮下にあること
・遠方から認識できる徽章を有すること
・公然と兵器を携帯すること
・戦争の法規慣例を順守して行動すること
とされた。敵がこれらの条件に合致するかどうかによって、軍隊の行為が正当な自衛の措置であったか、それとも違法な「虐殺」であったかを分けることになる。
 1937年の「南京事件」で「虐殺はなかった」と主張する論者が、日本軍の殺戮した中国人は民間人の間に紛れ込んだ便衣隊であり、保護すべき捕虜ではなかったと弁明するのは、その一例である。

(つづく)

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デジタル時代でも電話での対応が一番 [思うこと]

▼ひと月ほど前、新しいパソコンを買った。
 それまで使っていたパソコンの動きが遅く、いつもイライラさせられていたのだが、ひと月前に動きが固まったまま電気が消え、いくらスイッチを入れても立ち上がらなくなったのである。バックアップを取っていなかったから、それまで書き溜めた文章や撮り溜めた写真類が、一瞬にしてすべて失われたかと蒼くなった。メーカーの相談窓口に電話し、電気のコードを差し込み口から抜いたり差したりを幾度かやってみたが、息を吹き返す様子はない。専門の業者に依頼すればデータの復旧ができる場合もあるが、軽度の障害で6万円台、重度の障害の場合は15~16万円の費用が掛かるという。
 しかしありがたいことに、やがて小さな指示ランプが点灯し、それから画面全体が明るくなり、事なきを得た。
 バックアップのためにハードディスクやSSDを外付けすることも考えられたが、この際パソコンを新しくしようと思った。パソコン障害の再発に備えてバックアップを取ることも良いだろうが、再発しないパソコンに替えることがより根本的な対応になる。バックアップは新しいパソコンの様子を見ながら考えればよい。データの復旧にかかる費用を聞いたことが、パソコンを買い替える気持ちの後押しとなった。

▼新しいパソコンは、OSはWindows11、CPUはCore i7、メモリは16GB、内臓ストレージはSSD256GB、のノート型である。CPUやメモリのレベルが以前に比べて格段に上がっているのに、内臓ストレージの容量が半減しているのは、以前はハードディスク、今回のものはSSDで、SSDが高価だということがその理由なのだろう。
 さっそくパソコンの初期設定にかかろうとしたが、今のパソコンにはマニュアルらしいマニュアルが付いていない。50ページほどの小冊子が付いていて、「セットアップ」の方法を説明しているが、重点は「インターネットで調べる」ことに置かれている。それで問題が片付かない場合は、「サポート窓口」に問い合わせたり「訪問サポート」を依頼すればよいという仕組みである。
 分厚いマニュアルを添付してもほとんど読まれず、読んだとしても正しく理解されない場合が少なくないことを考えれば、それは合理的な方針だと言えるかもしれない。しかし筆者の場合、まずマウスを使えるようにするのに一苦労させられることになった。
 筆者の新しいパソコンにはBluetoothのマウスが付いていて、それを使うにはBluetooth接続設定を行う必要があると小冊子には書かれていた。Bluetooth接続設定の仕方はネット上のマニュアルをご覧くださいとのことだが、そのためには初期設定を終わらせ、ネットに繋がらなければならない。古いパソコンのマウスを使うことをその時は思いつかなかったので、「サポート窓口」に電話をした。担当者は、マウスの代わりに指で矢印を動かす方法で接続設定の仕方を指示し、マウスは無事に動き始めた。

▼初期設定を終えたあと、古いパソコンからデータを移す作業に取り掛かったが、これもスムーズには進まなかった。新旧パソコンをLANケーブルで結び、引っ越しソフトのボタンをクリックすれば出来上がりと簡単に考えていたのだが、引っ越しソフトのことでメーカーの「サポート窓口」に問い合わせると、基本OSが異なる場合(旧パソコンはWindows10)は、“手作業”でやる方が良いという。そこでUSBメモリを買ってきて、古いパソコン内の「ドキュメント」、「ピクチャー」、Microsoft Edgeの「お気に入り」、Outlookの「連絡先」をコピーし、それを新パソコンに再コピーするという方法で、引っ越しを行うことにした。
 「ドキュメント」と「ピクチャー」については、割合簡単にコピーして移すことができた。「お気に入り」のコピーも「サポート窓口」でやり方を教わり、なんとか解決した。しかしOutlookの「連絡先」は、同じやり方ではコピーできない。メーカーの「サポート窓口」では、「Windowsに関することはメーカーでお答えするが、Office製品、つまりOutlookやWordやExcelに関することはマイクロソフトに聞いてほしい」と言う。そういう仕切りになっているらしい。
 そこでマイクロソフトに電話すると、有料登録をするかネット上のQ&Aを見るようにという返事だった。マイクロソフトはつい最近まで、パソコン購入から3か月間は無料で電話の問い合わせに回答していたのにと憤慨したが、どうしようもない。結局、プロバイダーが行っている有料サポート窓口に連絡し、なんとか「連絡先」のコピーを終えた。

 新しいパソコンを古いパソコンと同じように使うためには、データの引っ越しだけでは済まない。古いパソコンに自分で入れていたソフト(アプリ)は、自分で新たに入れ直さなければならないし、その分のデータの移動も別途やらなければならない。筆者はホーム・ページ・ビルダーのソフトをあらためて購入してデータも移し、「筆ぐるめ」の住所録や年賀状作成ソフトを入れ直し、ウイルス対策についてセキュリティ会社と契約し、ようやく一息ついた。初期設定を始めてから10日ほど経っていた。
 (それぞれのデータの移行は、各ソフト会社に電話して指示を受けることで、ようやく達成することができた。IT時代になって各企業は顧客との電話対応を減らし、ネット上のQ&Aやチャットで代替させたいと考えているようだが、筆者の場合、それらが役に立ったためしがない。職員が電話で丁寧に回答してくれるのが一番のサービスであることは、これからも変わらないのであり、企業はその予算を削るべきではないと強く思う。)

 パソコンという商品を購入するのは、他の電化製品の購入とは少しわけが違うようだ。取り扱いの専門的知識を持たない者は、これを自分の道具として使えるようにするために、相当な忍耐の時間を強いられる。他のパソコン購入者も同じように苦労しているのだろうか? それとも初期設定やデータの引っ越しを専門サービス業者に委託することで、苦労なく新しいパソコンとの新生活を始めているのだろうか?
 筆者は二十年ほど前にデスクトップのパソコンを購入して以来、今回でおそらく7台目の買い物である。以前のスタート時の初期設定やデータの引っ越しは、もう少し簡単だったような気がするのだが、記録を残していないので確かなことは分からない。

(この稿終わり)

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「政治」の不在 [政治]

▼「パレスチナの戦争」について、筆者のとりあえず述べたいことは前回で一応終えたのだが、肝心のことにはなにも触れていない。つまり目下の喫緊の課題である「休戦」あるいは「停戦」のこととか、パレスチナの人々が生きていく最低限の環境をどのように保障するかという問題について、何ひとつ自分の考えを述べていない。
 述べなかった理由は明らかである。絶え間ない空爆や銃撃、破壊され瓦礫と化した街、瓦礫の下に埋もれた多くの死体や負傷者という現実の前で、どのような言葉も議論も無力であるからだ。イスラエルとパレスチナの「二国家共存」以外に問題の解決法はないと多くの人々が考え、それが正しい道筋だとしても、それが目下の緊急事態を打開する力を持つわけではない。
 米国はイスラエル擁護の姿勢を変えず、国連決議は実効性を伴わず、国際社会は無力をさらけ出している。しかしその中で、パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し、停戦を求める声が世界で拡大している。イスラエル政府は世界に広がる反イスラエルの感情に苦慮し、攻撃を続けることが人質解放につながると弁明したり、民衆を「人間の盾」に使うハマスを非難したりするが、苦しい立場にあることは変わらない。ここに辛うじて、筆者はささやかな希望を見る。
 イスラエルの「極右」といわれる政治勢力は、パレスチナ全土をイスラエルの領土にしたい、そのためにパレスチナ人をシナイ半島(エジプト領)にでも追い出したいと希望している。彼らは、ガザのパレスチナ人が今回の「戦争」でどれほどの犠牲を出そうと、おそらく意に介さないにちがいない。しかしその「極右」勢力を含むイスラエル政府は、そのような「本音」を表に出すことはできず、非難の声の広がりに苦慮している。少なくともここには、言葉の通じる共通の場が存在するのであり、共通の場を拡げていくことが問題の解決に繋がっていくと一筋の期待を抱くことができる。
(ロシアによるウクライナ侵略に救いがないのは、一つにはロシアの指導者の語る言葉が、国際社会で語られる言葉とまったく噛み合わない点にあるように思う。)

▼イスラエルの閣僚でエルサレム問題・遺産相の男が地元ラジオのインタビューで、「ガザに原爆を落とすべきか」と問われ、「それも一つの選択肢だ」と述べたという。また彼は240人の人質について、「戦争に代償はつきもの」と発言したという。
 ネタニヤフはこの「極右」の閣僚の、閣議などへの出席を当面凍結する措置をとり、「イスラエルと軍は、非戦闘員に被害を出さぬように、国際法の高い基準のもとに行動している」と弁明したと報じられた(11/7)。
 イスラエル社会の「右傾化」は、ラビン首相の暗殺とネタニヤフの政権奪取以降、進行した。西岸地区のイスラエルの支配地域にユダヤ人入植地が建設され、彼らを守るという名目でイスラエル軍兵士たちが任務に就く。国際法違反だという国際社会の批判に耳を貸さずに入植地は増え続け、それは社会の「右傾化」をさらに促進する。
 昨年末の国会議員選挙では、パレスチナに融和的でかっては政権を握っていた労働党は、定数120のうちのわずか4議席と惨敗した。今回の「戦争」でイスラエル社会はさらに「右傾化」し、高橋和夫の講座にインタビューの形で登場していたような、パレスチナ人との融和や共存によって平和を作り出そうと考える人々に、非難の砲火が向かうことにならないだろうか。
 パレスチナ攻撃をやめようとしないイスラエルを非難し停戦を求める声が、世界で拡大していることについて、それこそハマスの戦術に乗るものだと反発する主張を耳にすることがある。ハマスは武力でイスラエル軍に勝てるはずがなく、そのことを彼らは十分承知しているのに攻撃を始めた。彼らはパレスチナの人々を戦渦に巻き込むことによって、イスラエルの残虐性を世界に訴えることを狙っており、それが彼らの目的であり、戦術であるからだ。だからイスラエル批判のデモをし、批判の声を上げることは、ハマスの戦術に乗せられている以外のなにものでもない。―――
 しかしハマスの戦術に乗ることを批判する発言者が、イスラエルの入植地が年々拡大し、その過程で入植者がパレスチナ農民のオリーブの樹を伐り、家屋を破壊し、抵抗する人々を殺害している現実に言及することはない。(昨年1年で200人以上殺害と研究者は言う。)また「天井のない監獄」といわれる、高い壁で囲まれた狭い空間に押し込められたパレスチナ人の、抑圧された希望のない生活に言及することもない。
 
▼むき出しの力と力がぶつかり合い、互いに相手を殲滅しようとする。力の強い者は自分の主張を通してすべてを取り、相手には一物も与えず、不満にはさらに力を加えて抑えつける。われわれの見せられているそういう光景は、「中東」というかの地の苛酷な政治風土に因るのだろうか。その光景を一言で表現するなら、「政治」の不在ということである。
 「政治」とは何かという問いに答えることは難しい。「戦争」さえ「他の手段をもってする政治」とされるぐらいだから、その広がりはわれわれの日常の人間関係から戦争に至るまで広大無辺と言ってよく、権力や物理的強制力、利益配分や秩序などに着目した多くの定義がある。しかしそれは学者に任せておけばよい。筆者がここで「政治の不在」と呼んだのは、相手と妥協し、協調して安定した秩序を作り出すことが、目先の利益を総取りし、相手の不満を力で抑圧するよりももっと大きな利益であると判断し、周到に実現する力が存在しないということである。
 イスラエルの独立戦争以来パレスチナの土地で繰り広げられた戦いは、第4次中東戦争(1973年)以降は「政治解決」に向かう条件が存在した、と筆者は思う。「オスロ合意」(1993年)は、イスラエルの長期的利益のためにリーダーが決意した重い政治的決断だった。

 いまなぜパレスチナに「政治」が不在なのか。それはパレスチナ人の利益を代表する国家が存在せず、またイスラエルの側に長期的利益を考える勇気あるリーダーが存在しないからだと言える。
 自分たちの利益を代表する国家が存在しないとき、パレスチナの人々はイスラエルという国家の前に、裸の個人として立たされる。相手と自分のあいだに圧倒的な力の差があるとき、イスラエルはパレスチナの個人の訴えを無視して、好き勝手なことができるし、相手に何らの譲歩をする必要を感じない。高い壁を作り、その中にパレスチナ人を閉じ込めておけば、自分たちは不都合な現実を見ないで済む。彼らの不満は力で容易に押さえつけることができ、つまり存在しないことにできたのだ。
 そういう圧倒的な力の不均等が、超大国アメリカがイスラエルの側に立つことによって固定化され、「政治の不在」が永続化されてきたというのが、パレスチナのここ三十年の歴史だった。

 「パレスチナの戦争」の勃発直後、BSフジの「プライムニュース」という番組に参加した高橋和夫が感想を問われ、「研究者たちは、皆、絶望しています」と絞り出すような声で言った。その時の高橋の表情が、忘れられない。

(この稿終わり)


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パレスチナの戦争3 [政治]

▼ハマスの奇襲によって始まった「パレスチナの戦争」は先週で1か月が過ぎ、パレスチナ住民の死者は1万人を超えた。爆撃機とミサイルによる絶え間ない攻撃によって、ガザの建物の多くが瓦礫と化した。10月下旬からはイスラエル地上部隊がガザに侵攻し、水も食糧も薬品も燃料も枯渇しつつある住民たちは、病院や学校などにかろうじて避難しているが、そこにもミサイルは落ち、死者と負傷者は増え続けている。住民を支援する国連施設で働く国連職員の死者も、100人を超えた。
 10月7日のハマス奇襲は、イスラエルの想定を完全に覆すものだった。ハマスは大量のロケット弾を撃ち込んでイスラエルの防空網を破り、越境した戦闘員は千人以上のイスラエル市民を殺害し、200人を超える人質を連れ去った。
 市民の殺害の方法も残虐だったと報じられている。米国のブリンケン国務長官は議会上院の公聴会で次のように証言した(10/31)という。
 「私はイスラエルを訪れ、ハマスの残虐行為について多くの証言を聞いた。例えば、家族4人で朝食をとっているところにテロリストが乱入し、拷問を加えた末に全員を射殺した。父親は、子供たちが見ている前で眼球をくりぬかれた。母親は乳房を切り取られた。娘は脚を切断された。息子は指を切断された。その後テロリストは4人を射殺し、その食卓で食事をとった」。ホラー映画のようなおぞましい場面を見ていた人間が、よくぞ無事に現場を抜け出し、証言したものだと感嘆するが、そのほかにも現場に到着した兵士や警察官、救急隊員、検視官などが、手を縛られたまま焼かれた女性や子供の黒焦げの遺体を見たと、証言をしているようだ。
 イスラエルはガザ地区への報復攻撃を、自衛権に基づく正当な行動だと主張する。しかし無抵抗の市民の殺害が許されないこと、受けた被害と均衡の取れない、十倍、二十倍の報復が正当化されないことは、「国際法」以前に人間の良識の範囲であろう。
 しかしネタニヤフ首相は停戦にも休戦にも応じようとはしない。ハマスを殲滅し、ガザ地区を占領した後、イスラエルの統治下に置くことを公言している。
 唯一イスラエルの行動を左右する力を持つ米国は、イスラエルの側に立ち、その影響力を強く行使しようとはしない。ガザ市民の死者は今後も増え、街はさらに破壊されるであろうことは確実だが、いつどのような形でそれが止むのかは、何も見えない。
 この戦争の行方を決める決定的な要素は、イスラエル国内の世論であろう。市民の戦争支持は今のところ揺らいでいないようだが、ネタニヤフ首相の支持率は30%を切る状態だという。国難発生ともなれば、「一致団結」「挙国一致」でたちまちまとまる国に住む者として、とても不思議な気がするが、どうやらこの辺りが戦争の行方を決めるカギなのかもしれない。

▼10月24日、国連のグテーレス事務局長は安全保障理事会で、「どんな紛争でも民間人の保護が重要だ」と強調した。その上でイスラエルやハマスを名指しせずに、民間人を「人間の盾」として使うことや、百万人以上の人々に避難所も水も燃料もないガザ南部に避難するように命じ、そのうえで南部を爆撃し続けることは、民間人の保護に反すると非難した。
 また、10月7日のハマスによるイスラエルの攻撃について、「何もない状況で急に起こったわけではない」と言い、「パレスチナの人々は56年間、息の詰まる占領下におかれてきた。自分たちの土地を入植によって少しずつ失い、暴力に苦しんできた。経済は抑圧されてきた。人々は家を追われ、破壊されてきた。そうした苦境を政治的に解決することへの希望は消えつつある」と述べた。
 同時に、パレスチナの人々が怒っているからといって、ハマスによるおぞましい襲撃が正当化されるわけではない。またおぞましい襲撃を受けたからと言って、パレスチナの人々に対する集団的懲罰が正当化されるわけではない」とも主張した。(以上はBBCニュース10/25から引用。)
 イスラエルはこの発言に猛反発し、事務総長の即時の辞任を求めると国連大使が旧ツイッターに投稿した。

 グテーレス事務総長のこの発言は、穏当なものであろう。2007年、イスラエルはテロの防止などを理由にガザ地区に分離壁を建設し、ガザ地区への人と物の出入りは厳しく制限されるようになった。パレスチナ側は地下にトンネルを掘り、エジプトから生活物資を密輸して対抗した。地下のトンネルはその後も延長され、今では300~500キロメートルの長さと言われ、ハマスがイスラエル軍に抵抗する基地となっている。

▼「パレスチナの戦争」の初回に、第三次中東戦争以降の歴史を後回しにして、「オスロ合意」について触れた。イスラエルのユダヤ人とパレスチナのアラブ人が互いの存在を認め、共存していくためには、互いの「国家」を認め合わなければならない。イスラエルの独立戦争と建国以来、続いてきた両者の対立が、ついに1993年に解消に向かう「合意」に至ったことを、まず強調しておきたかったからである。
 何が「合意」をもたらしたのか。高橋和夫は、「インティファーダ」の影響が大きかったのではないか、と言う。「インティファーダ」とは、1987年にヨルダン川西岸地区とガザ地区で起きたパレスチナ民衆のイスラエルに対する抗議運動だが、すでにPLOはチュニジアに撤退し、物理的な力を何も持たない中で、若者たちはイスラエル兵に石を投げ、タイヤを燃やしてイスラエルの占領に抗議する意思を示した。この抵抗運動がイスラエルのラビン首相に、PLOとの交渉を決意させたと高橋は考えるが、妥当なところかもしれない。
 筆者は他に、世界が冷戦終結の余韻に浸っていた1993年という時代の雰囲気や、1991年のイラク戦争の結末も、ラビンの決断に影響していたのではないかと思う。
 そしてラビン首相が第三次中東戦争時のイスラエル軍の参謀総長であり、つまり救国の英雄として国民から厚く信頼されていたからこそ、劇的な政策転換も可能となったのだろう。
 しかし既述の通り、ラビンは1995年にユダヤ原理主義の男に暗殺された。その翌年行われた選挙で、ラビンの後継者ペレスの率いる労働党がネタニヤフ率いる右派政党リクードに敗北し、二国家建設の「合意」プロセスは頓挫する。ネタニヤフは、ハマスとパレスチナ自治政府の分裂の状態を維持することがイスラエルの利益だと考え、パレスチナ側の分裂を策し、それを和平交渉を進めない口実として利用したからである。
 ネタニヤフが数次にわたって長期間、政権を維持する背景には、イスラエル社会の「右傾化」があるのではないかと筆者は推測する。

▼ウクライナ戦争で傷ついた国連の権威と力は、パレスチナの戦争でさらに傷を深めた。国連が地域紛争解決のために力を発揮できない状態が、続いているのだ。
 米国もパレスチナの戦争で、その行動や発言の身勝手さを世界に示し、道義的権威を失墜させた。しかし安定的な国際関係では軍事力や経済力以外に、秩序を維持する説得力ある論理や道義的権威の存在が欠かせない。国際秩序の揺らぎは、ウクライナの戦争や台湾問題の行方にも暗い影を落としている。

(この稿おわり)

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パレスチナの戦争2 [政治]

▼前回、話を急ぎすぎ、端折りすぎたので、もう少し丁寧にパレスチナの歴史をたどることにする。(急いだことには理由があるのだが、それには後で触れる。)

 まず、パレスチナ問題の出発点である「ナクバ(大惨事)」についてである。高橋和夫の講義には、イスラエル人やパレスチナ人などたくさんの人々へのインタビューが、取り入れられている。
 イスラエルの独立戦争を特殊部隊の隊員として戦い、現在、平和活動家として活動する高齢の男性は、独立戦争の勝利の見通しが持てた時点で、アラブ人をパレスチナから追い出す秘密の意思決定が、指導者の間でなされたようだと言う。戦争勝利後イスラエルは、領土とした村や町からアラブ人を武力によって追放し、抵抗する者は殺し、建物を破壊した。追放され、難民となった者の数は75万人とされる。
 アラブ人が追放された土地は収用され、ヨーロッパから移住してきたユダヤ人に分け与えられ、破壊された村や町は植林で緑の野山に変わった。しかしさすがにアラブ人追放の歴史は、イスラエルの歴史の恥部であり、その事実を知る市民は多くはないらしい。
 「記憶」という名の団体をつくって活動をしているイスラエルの若い女性が、インタビューで次のように語っていた。「ナクバ」に関する知識を広めることが、自分たちの活動の目的である。多くのユダヤ系イスラエル人はナクバを知ることを恐れている。「敗者のことはほっておけ、知りたくない」という反応もある。だが大勢の市民が関心を示すということも事実だ。パレスチナは、子供のころ聞かされたような無人の土地ではなかった。イスラエル人とパレスチナ人の和解を成立させ、パレスチナ難民の帰還をなんらかの形で可能とするべきである、と。
 彼女の団体では、「ナクバ」に関わった兵士から体験を聞く会を催し、証言を集める活動を行っている。

▼1967年の第3次中東戦争はイスラエル軍の奇襲で始まり、イスラエルは6日間で圧勝し、シリアのゴラン高原やヨルダン領のヨルダン川西岸地区、エジプトのシナイ半島を占領した。
 第4次中東戦争は、エジプトやシリアが奪われた領土を奪還するために1973年にイスラエルを奇襲した戦争で、アラブ側は緒戦は有利に作戦を進めたが、勝利することはできず停戦に至った。
 ペルシャ湾岸諸国は石油価格の引き上げを宣言し、いわゆる「オイルショック」が発生、「油断」を突かれた日本政府は、アラブ寄りの方針を打ち出して石油を確保しようとした。
 その後ニクソン政権やカーター政権が、中東地域の平和維持のためにいろいろ働きかけるが、目立った大きな出来事としては、エジプトのサダト大統領がイスラエルのベギン首相とのあいだで平和条約(1979年)を結んだことが挙げられるだろう。しかしサダトは「アラブの大義」の裏切り者として、1981年に暗殺されてしまう。

 エジプトと平和条約を結ぶことで、中東におけるイスラエルの軍事力は圧倒的となった。1982年、イスラエル軍はレバノンの首都・ベイルートに迫り、ここを拠点に活動していたPLO(パレスチナ解放機構)を包囲した。
 アラファト率いるPLOは、以前、ヨルダン川西岸地区で活動していたが、第三次中東戦争(1967年)でイスラエルに占領された後は、東岸地区(ヨルダン領)に移った。しかしPLOの存在に危機感を抱いたヨルダンは、1970年9月に武力で弾圧し(「黒い九月」と呼ばれる)、PLOはレバノンの首都ベイルートに拠点を移していたのである。イスラエルのレバノン戦争は、このPLOの壊滅を狙ったものであり、アラファトとPLOは、遠いチュニジアに撤退せざるを得なかった。
 レバノンにはパレスチナ難民のキャンプがあったが、PLOの去ったあと、ここをレバノンのキリスト教系の民兵組織が3日間襲撃し、三千人以上の虐殺を行った。イスラエル軍が打ち上げた照明弾が襲撃の合図だったといわれている。

 それまでの中東戦争は、イスラエルが生き延びるために選択の余地のない戦争だと国民に理解されていた。しかしこのレバノン戦争はそうではなく、イスラエルにとって有利な秩序をつくるためのものであり、イスラエル軍の中に戦争を拒否する人々を生み出した。
 パレスチナ難民のキャンプ襲撃・虐殺事件については、その真相究明を求める集会がテルアビブで開かれ、40万人が参加した。

▼イスラエルの面積は日本の四国ほどの大きさで、人口は834万人である。一方、パレスチナ人が住むヨルダン川西岸地区は日本の三重県と同じぐらいの面積で、人口は280万人、ガザ地区は東京23区の6割ぐらいの面積で人口は170万人、併せて450万人が暮らしている。
 ガザ地区の人口の過半数は、イスラエル独立戦争で土地を追われ、難民として逃れてきた人たちであり、ヨルダン川西岸地区には難民もいるが、もともとそこで暮らしていた人も多い。
 経済状態を見ると、イスラエル人の年間所得は36,991ドル(2014年)だが、パレスチナ人の年間所得は2,720ドル(2013年)で、1割にも満たない。
 ヨルダン川西岸地区とガザ地区で、パレスチナ人の「自治」が行われているわけではない。ヨルダン川西岸地区はA地域、B地域、イスラエルの支配地域の3種類に分けられ、イスラエルの支配地域が圧倒的に広い。面積的に一番小さいA地域は、いちおうパレスチナ人の自治区となっているが、イスラエルの支配地域のなかに点在するだけである。それより広いB地域は、行政権はパレスチナ人にあるものの、警察権はイスラエルの手に握られている。
 各地域は10メートルほどの高いコンクリートの壁で囲まれ、パレスチナ人は移動する際にイスラエルの検問所を通らなければならない。パレスチナ人はここで手荷物検査など、屈辱的な体験を強いられる。
 イスラエルの支配地域ではイスラエル人の入植地が増え続けている。
 
(つづく)

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パレスチナの戦争 [政治]

▼ウクライナの戦争に続いてもう一つ、パレスチナで戦争が10月7日に勃発した。筆者は目を背け、耳を塞ぎたい気持ちで毎日を過ごしている。
 ウクライナ戦争はまだよかった。ロシアによる侵略行為に驚き、国際秩序に及ぼすその影響について強く憂慮したが、自分の立ち位置に迷いはなく、国際社会が分かりやすい態度表明をしていることも救いだった。ウクライナ軍が欧米からの武器の支援を得て善戦し、戦況が悪くない点でも希望が持てた。ウクライナ軍がロシア軍を押し戻し、プーチンのロシアが得るものもなく、侵略の代価ばかりが巨大な請求書を突き付けられることで、この古典的な悲劇が幕となる可能性について考えると、これからの世界にも希望が持てるような気がした。
 しかしパレスチナの戦争は違う。出口のない密室の中で、殺したり殺されたりの緊張が極限まで高まり、破裂し、多くの無辜の民が毎日殺されているのに、世界は有効な手を差し伸べることができない。イスラエルとハマスの圧倒的な力の差により、戦いの今後はイスラエルの指導者の手に握られ、彼は、一般市民の犠牲が大きくてもハマスを根絶するまで戦いをやめないと公言している。
 またパレスチナの戦争は、ウクライナの戦争への関心を薄れさせ、米国からの武器援助を妨げるという意味でも、筆者の心配は募る一方である。

▼筆者のパレスチナ問題の理解は、次のようなものである。(以下の記述は、BSの「放送大学」で聞いた高橋和夫の講座「パレスチナ問題」(2016年)に、全面的に拠っている。)

 現在、イスラエルという国家があるパレスチナという土地は、かってはオスマン・トルコの領土だった。オスマン・トルコは宗教的には寛容で、ユダヤ教徒やキリスト教徒の自治を認めていたから、20世紀の初めまで各教徒が共存していた。
 オスマン・トルコは第一次世界大戦で、ドイツの側に立って参戦した。大英帝国はアラブの指導者フセインに、独立を支持することをエサにトルコに対して反乱を起こすよう働きかけ(フセイン・マクマホン協定)、またシオニストに対してはその協力を得るために、ユダヤ人の建国を認める旨の約束をした。(バルフォア宣言)。そしてフランスとは、アラブのトルコ領を大戦後に山分けにする秘密協定を結んだ。(サイクス・ピコ協定)。戦争終結後、国際連盟が発足し、パレスチナは英国が統治を委任される土地となった。
 パレスチナには農業を営む少数のユダヤ人とアラブ人が棲み、互いの交流はないまま共存していた。英国の委任統治下ではパレスチナへ移住するユダヤ人は増えず、移住が爆発的に起こるのは、第二次世界大戦の終結後である。
 ナチの強制収容所で6百万人のユダヤ人が殺された事実が明らかになり、世界に衝撃を与えた。ユダヤ人に対して負い目を追うヨーロッパ社会は、1947年の国連決議によってパレスチナを二つに分割し、半分をユダヤ人に与えると決定した。ユダヤ人はこの決議を受け入れたが、アラブ人は受け入れなかった。国連決議後、アラブ連盟諸国とユダヤ人の戦いが起こった。(第一次中東戦争と呼ばれる。)
 戦争はアラブ側有利に進んだが、やがて武器がソ連やヨーロッパからユダヤ側に届きはじめ、形勢は逆転し、イスラエルは1948年5月に独立を宣言した。そしてイスラエルの領土内に住むアラブ人を、国外に追放した。このとき家と土地から追われたアラブ人は75万人に昇り、これが現在にいたる「パレスチナ難民」のはじまりである。この追放を、アラブ人はアラビア語で「ナクバ(大惨事)」と呼ぶ。
 第一次中東戦争の結果、パレスチナの北部と南部、その間を結ぶ地中海沿いの土地はイスラエルの領土となり、アラブ人の土地はガザ地区とヨルダン川西岸の二か所となった。国連はその結果を承認したが、アラブ側は認めなかった。
 (以下の地図は、1948年のイスラエルの独立戦争(第一次中東戦争)以後のものである。白っぽいところがイスラエル領。戦争前と比べ、北部のアラブ人地域が消え、ガザ地区とヨルダン川西岸地域も小さくなっているが、現在よりははるかに大きい。)
パレスチナ.png

▼現在のパレスチナ問題を考える上で大きな影響を及ぼしているのは、第三次中東戦争と呼ばれる1967年の戦争である。
 1967年にエジプトなどアラブ諸国とイスラエルの軍事的緊張が高まり、6月5日朝、イスラエルはアラブ諸国の空軍基地を奇襲し、これを壊滅させた。獲得した制空権の下で、イスラエル軍は地上戦でもアラブ諸国の軍を打ち破り、エジプト領のシナイ半島、ヨルダン川西岸地域(ヨルダン領)、シリア領ゴラン高原を占領し、6日間で戦争に完勝した。歴史的にパレスチナと呼ばれていた土地のすべてを、イスラエルが支配するようになった。
 講師の高橋和夫は、この戦争の勝利がイスラエル社会に与えた影響として、アラブ人との間の土地問題をどう解決するかについて、イスラエル人のあいだのコンセンサスが崩れたことを指摘する。安全保障上の理由から、イスラエルの安全が確かになるまで占領地を保有するという考え方は、それまでもあった。しかし神学上の理由から、パレスチナの土地は本来ユダヤ人のものだという主張が強まり、これが問題の解決をいっそう難しくしたのである。

▼パレスチナ問題の一つの画期は、1993年のオスロ合意だった。ノールウェーで秘密裏に進められていたイスラエルとPLO(パレスチナ解放機構)との交渉がまとまり、調印式が米国のホワイトハウスで行われた。クリントンが間に立ち、イスラエルのラビン首相とPLOのアラファト議長が合意文書に署名し、握手を交わした。
 合意のポイントは、PLOとイスラエルの相互承認であり、ガザとエリコ(ヨルダン川西岸地域)で、アラブ人の自治を先行して実施することであり、その他の問題は交渉により1999年までに解決することだった。
 この合意は、テロ組織とは交渉しないと主張してきたイスラエルのラビン首相が、PLOを承認することを決意することにより実現した。ラビンは1967年の第三次中東戦争の時の参謀総長であり、国民的な人気を持つ政治家であった。
 しかしオスロ合意は、二つの事件によって阻まれる。1995年11月のラビンが暗殺され、翌年5月に行われた選挙でラビンの後継者として「平和」を訴えたぺレスが、右派政党リクードのネタニヤフに敗れたからである。

(つづく)

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奈良の旅3 [旅行]

▼晴れ。旅行会のメンバーは8時半にホテルを出、橿原神宮前駅から近鉄線に乗り、壷井八幡宮に向かった。羽曳野市壷井という土地は、「源氏」の祖先・源頼信が館を構え、いわゆる「河内源氏」発祥の地といわれる所である。
 平忠常の乱(1028年)が起きたとき、「追討使」に任命された源頼信は、前任の平直方とともに乱を平定した。直方は、頼信の嫡男・頼義の武芸に感服し、自分の娘を嫁がせ、その持参金として相模国・鎌倉の領地と屋敷を贈った。これが関東に源氏が進出するきっかけとなり、その後東北地方で起きた前九年の役や後三年の役の活躍により、源氏の東国武士の棟梁としての地位は確固たるものになった―――。

 壷井八幡宮や源頼信らの墓というきわめてマイナーな場所を訪れることにしたのは、メンバーの中に強い希望があったからだが、電車の駅からかなり遠いところにあるため、平均年齢が70歳代後半という一行の年齢を考えると、少々無茶だったかもしれない。
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DSC04313.JPG【壷井八幡宮への階段と神殿】
 上ノ太子駅で降り、歩くこと20分。ようやく壷井八幡宮に着いた。そのあと源頼信、頼義、義家の源氏三代の墓を見ようと山道を歩きはじめたが、道はしだいに狭くなり、あちこちに斜面の崩れた跡が補修されずに残っているような状態で、結局途中で引き返さざるを得なくなった。羽曳野市の「トレイル」の標識が道のところどころに埋め込まれていたが、最近は通る人もないらしく、標識は半ば土に埋もれており、とても山歩きを楽しむような環境ではない。
 近くに仁徳天皇陵に次ぐ大きさだという応神天皇の前方後円墳があるので、それを見る予定だったのだが、それを飛ばして富田林の寺内町へ急ぐことにした。

▼寺内町(じないまち)とは、中世後期から近世前期に一向宗(浄土真宗)の仏教寺院を中心に形成された自治集落である。堀や土塁で囲まれ、信者や商工業者が集住した。寺内町という呼称は、街の全域が寺の境内と見なされたことから生じたもので、寺院の境外に形成された門前町とはその意味で異なる。
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 富田林の寺内町は、織田信長に対して逆らわない姿勢を貫き、石山本願寺のように滅ぼされずに済んだ。現在は江戸時代以降の町家約40軒が、昔の姿で残されている。
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 ボランティアのガイドの方に町の中を案内してもらったが、近鉄線の富田林駅から徒歩で十分以上かかるという距離感が、寺内町が昔の姿で残る大きな要因となったという。もし線路がもう少し近くを走り、駅が近ければ、寺内町の民家は近代的な商店に変貌していたことだろう。それは昨日の飛鳥の里の景観にも通じることで、「人知を超えた幸運」というほかない。
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DSC04334.JPG【旧杉山家住宅】
 旧杉山家住宅という造り酒屋の建物の内部が、公開されていた。江戸時代のもので、富田林の寺内町でも最古の建築物とされる。明治の終り頃、堺の与謝野晶子たちとともに活躍した明星派の歌人・石上露子(いそのかみつゆこ)は、この杉山家の長女だった。露子が結婚した相手は彼女が歌を詠むことを嫌い、文筆活動を禁じたので、明星派の歌人としての露子の活動はそこで終る。しかし彼女が昭和に入ってから詠んだ歌や書き残した「自伝」は、熱心な研究者の手によってまとめられ、出版されている。
 ガイドの説明によれば、杉山家住宅は昭和五十年代に売りに出されたが、そのとき関わった不動産業者がこの建物の価値に気づき、市に保存を働きかけ、重要文化財として保存されることになった。それが富田林の寺内町全体の保存のはじまりだったという。

(おわり)

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