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奈良の旅2 [旅行]

▼快晴。朝食を済ませ、8時少し前にホテルを出、奈良の大仏を見に行った。奈良公園に入ると、シカの姿があちこちに見えた。 DSC04248.JPGDSC04253.JPG  やがて東大寺の南大門が遠くに見え、その下で修学旅行の中学生の団体がいくつも、まだ早い時間であるにもかかわらず、記念写真を撮っている。外国人観光客の姿も多く見られた。  京都ではいま、許容量を超えて観光客が押し寄せる「オーバーツーリズム」の問題が騒がれているが、東大寺や奈良公園の規模は雄大で、多くの観光客を呑み込んでびくともしないようだ。今年は東大寺を開いた良弁僧正の生誕1250年にあたるということで、生誕祭の準備を進めていたが、寺の見学に少しも支障はない。 DSC04264.JPG DSC04271.JPG DSC04286.JPG DSC04290.JPG  大仏殿を出て、少し高台にある二月堂へ行った。二月堂の縁側から寺の建物のはるか向こうに、奈良の市街が見えた。二月堂裏参道を通って東大寺の外に出、バスで近鉄奈良駅に出た。 ▼昼過ぎに、橿原神宮前駅の近くのホテルに旅行会のメンバーは集合した。4年ぶりだが、参加者13人の全員が変わりなく元気なのは、なによりである。  荷物をホテルに預け、飛鳥の里をめぐる「かめバス」に乗り、飛鳥寺に行った。仏教の受容や天皇家の皇位継承をめぐって対立していた蘇我氏と物部氏が、最終的に曽我馬子が物部守屋を滅ぼす形で決着し、馬子が戦勝記念に建てたのが飛鳥寺である。日本最初の本格的な寺院とのことで、鞍作鳥(止利仏師)が造った高さ3メートルほどの飛鳥大仏を本尊として安置している。 DSC04296.JPG 【飛鳥大仏】  飛鳥寺の裏の田の端に、蘇我入鹿の首塚と称する遺跡があった。飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)で中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)や中臣鎌足等によって切り殺された入鹿の首を埋めたといわれる遺跡だが、自分の屋敷のあった甘樫丘(あまかしのおか)を300メートルほど先に見る位置にある。 DSC04298.JPG DSC04300.JPG  飛鳥の地は、千四百年前は都であったが、現在は「明日香村」である。都が奈良北部(平城京)へ京都へ東京へと移る中、飛鳥の里は眠り続け、世の中の発展から取り残され、そのおかげでわれわれは、千四百年前とそれほど変わらないであろう田園風景を目にすることができるのだ。    今回、奈良を旅行するにあたり、筆者は幾冊か関連の図書を読んだが、不思議に思ったひとつは飛鳥時代の「宮」が長くても二十年と少し、短ければ十年と少しで転々と移転していることだった。  「飛鳥時代」は政治史の時代区分ではなく、文化史の区分だとも言われるが、少なくとも推古天皇が592年に豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、710年に元明天皇が平城京に都を移すまでの120年間、宮殿はだいたい飛鳥の地にあり、政治の中心地だった。難波豊崎宮(孝徳天皇)や大津宮(天智天皇)など、飛鳥の外に宮殿が移されたこともあったが、多くは現在の「明日香村」の狭いエリア内で移転が繰り替えされた。  当時の宮殿が、国家統治の施設というより、天皇の個人的な住家であったからかもしれないが、その頻繁な引っ越しは現代のわれわれには理解しがたい。    蘇我馬子の墓と伝えられる石舞台古墳に行き、天武・持統天皇陵に立ち寄って、ホテルへ戻った。 DSC04308.JPG 【天武・持統天皇陵。持統天皇は天武の皇后で、亡くなる前に、火葬にして夫の天武天皇と一緒に埋葬されることを希望したという。】 (つづく)
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