SSブログ

ロシアのウクライナ侵略7 [思うこと]

▼ロシア軍のウクライナ侵攻が始まってから、一昨日でちょうど6ヶ月となった。しかし戦争の終る気配はつゆほども見えず、停戦のために動く世界の政治指導者もいない。まだまだ「停戦」を持ち出す状況にはないのだ。
 4月の初めに米国下院の公聴会で、米軍の制服組トップのミリー統合参謀本部議長が、ウクライナの戦争は「少なくとも数年単位になる」と発言し、長期化する見通しを語っていた。筆者はその発言は知っていたが、一方では「いくらなんでも」という気持も強く、言葉通りに信じる気にはならなかった。しかし実際に半年が経ち、停戦交渉が行われる気配すら見えないことを考えると、「少なくとも数年単位」という言葉はプロの見通しとして、真剣に受け止めなければならないのかもしれない。

 2月24日、北、東、南の三方向からウクライナに攻め込んだロシア軍は、はじめは短期間に首都キーウと主要都市を占領し、傀儡政権を立てるつもりでいた。しかしウクライナ人の抵抗が予想以上に頑強であったために、ロシア軍は計画を変更し、キーウ周辺の兵を東部に回し、東部地域に戦力を集中した。
 東部地域でロシア軍は、武器の量や射程の長さで優位に立った。遠距離からミサイルでウクライナ軍を叩き、そのあと戦車部隊が進出するという戦法で徐々に占領地を拡大し、ロシアに近い東部から黒海沿岸の南部にかけて、かなりのウクライナ領土を占領した。
 しかし米国およびヨーロッパから武器の援助が拡大されると、ウクライナ軍が反撃に転じる場面も増え、とくに南部の州で奪還する地域も出てきているらしい。
 8月に入り、ロシアが2014年に併合したクリミヤ半島でも、空軍基地の戦闘機や弾薬庫が爆破される「事件」が相次いで起きた。「事件」というのは、ロシア側はウクライナの攻撃だと認めず、ウクライナ側も自分たちの戦果だとは言わない、という奇妙な状況にあるからだ。おそらくウクライナ戦争の今後と終わり方を含む大きな戦略的問題として、双方が相手の出方を見つつ慎重に検討しているからなのだろう。戦争は依然拡大局面にあると言える。

▼さて、ひるがえって日本の問題である。日本は戦後の国際秩序のなかで、みずからは「軽武装」のまま平和と経済的繁栄を享受してきた。その国際秩序が軍事力によって理不尽にも踏みにじられ、国際社会はそれを止めることができないという現実をみて、日本人の安全保障に関する意識は大きな衝撃を受けた。「衝撃」の内容については、3月にこのブログに書いた文章(3月25日「ロシアのウクライナ侵略」3)が筆者の言いたいことをほぼ言い尽くしているので、これを以下に再掲する。

 《ウクライナの戦争に関するニュースに接する日本人は、ロシア軍が問答無用の軍事力で人びとを殺傷し街を破壊する映像に憤り、ウクライナに同情や支援を惜しまない。また、ウクライナ市民が避難する劇場、学校、病院、教会などを爆撃しながら、あれはウクライナ側の仕業だとシラを切り、あるいはそこに武器が隠されていたからだと強弁するロシア政府を見て、ロシアへの反感を強め、勇敢に戦いつづけるウクライナ人に感心する。しかし同時に、ある戸惑いも感じているのではないだろうか。
 ウクライナ人が祖国を守るために侵略者と戦うと言い、空爆によって命を脅かされ、街を廃墟にされても白旗を掲げない抵抗の姿は、戦後日本人の信条に鋭い疑問を突き付けているからである。ウクライナ人の勇敢な抵抗は、戦後日本の公認の正義、「命は地球より重い」が空疎な欺瞞であることを告発しているとも言える。
 米軍の焼夷弾によって都市を焼かれ、ひと晩に十万人を焼き殺された日本人は、戦後を「平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して」生きてきた。核兵器の出現が「決戦戦争」を不可能にし、それにつながる可能性のある戦争を不可能にしたという事情と、その核兵器を持つ米国とソ連の圧倒的な軍事力が、国際政治の秩序をつくり、戦後日本の「平和」を保証したのである。
 そしてそのことが、戦後日本人の「平和至上主義」を可能にした。
 しかし今、国際社会がむきだしの暴力を止める力を持たないという現実を見せつけられ、日本人の安全保障観は根底から揺らいでいる。》

▼ロシアによるウクライナ侵略戦争は、早く終わらせなければならない。そして機能不全となった国連安保理事会を改革し、国際秩序を再建しなければならない。またそれと同時に、日本人の特異な安全保障観も、この機会にあらためなければならない、と筆者は考える。
 なぜ、それは特異なのか? 世界には「軍事力」というものが存在し、「軍事力」はある環境の下では大きな力を発揮するという現実から、できるだけ眼をそらそうとしてきたからである。
 もう少し正確に言い直すなら、多くの日本人は自衛隊や日米安保条約の必要性を認めるという形で「軍事力」の保護を受けながら、正面から「軍事力」という存在を受け入れ、理解しようとはしてこなかった。その折衷的な姿が、日本国憲法9条と自衛隊や日米安保条約が並立する現状である。
 戦火の下を逃げまわった日本人の悲惨な体験は、体験した個人にとっては決して忘れることのできない貴重な教訓であるかもしれない。だからそれを語り継ごうと、マスメディアが力を入れることが無意味だとは思わない。しかしそこにとどまり、「軍事力」を忌避するだけで、それを理解し、賢くコントロールする力をわれわれが身につけないならば、悲惨な体験は別の形で繰り返されるかもしれない、と考えるべきなのではないか。
 世界の国々は皆、陰に陽に力を模索しつつ利益を求め、自分たちの行動が正当であることを主張する。国家間の関係には力の要素、利益の要素、価値の要素が複雑に働いているのに、日本人は力の要素はできるだけ見ないようにしてきた。ウクライナの戦争は、そうした戦後の日本人のありかたをあらためて反省する、貴重な機会を提供している。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

朱夏6 [本の紹介・批評]

▼開拓団の悲劇の原因を求める議論は、多くの場合ソ連の参戦で終り、あるいはそこから一挙に満洲国という国家の「虚構性」の問題に飛びやすく、「満蒙開拓団」という政策自体の検討・検証に向かうことは、ほとんどないらしい。
 加藤聖文は次のように書いている。(『満蒙開拓団』)
 満洲開拓政策は、「優秀な日本人農民が未開の満洲で模範的な開拓民となることで、現地民も感化され、やがて満州全土が理想郷となる」という「物語」の上に成立している。しかし日本人農民すべてが現地民と比べて「優秀」であるという根拠はまったくないし、機械式農法の導入も限られている開拓民の姿は、模範でも憧れでもなく、「感化」されようがなかった。
 《さらに他民族に対する理解度も決定的に欠けていた。そもそも開拓団と現地民とは構造的に不平等な関係であったこと、どのような形であれ、外来民が流入してきた場合、現地民は必ず反発することが見落とされている。そしていつかは顕在化する現地民との対立が、ソ連侵攻を機に一挙に噴出したのであって、悲劇の根本要因はもっと根深いところにあったという思慮は一切見られない。》
 満蒙開拓政策を進めた人びとのうち、石黒忠篤だけは唯一、開拓団をめぐる悲劇に対して自責の念を漏らしていたという。しかし石黒を除き、加藤完治ら開拓推進派にとって、敗戦間際のソ連参戦は彼らの免罪符となった。「開拓団は五族協和の旗印のもとで現地民と共存を図り、王道楽土の建設を目指していたが、それをすべて打ち砕いたのはソ連であって、悲劇の責任はソ連のみにある」と考えることで、政策の問題点から目をそらすことができたからである。

▼加藤完治が昭和20年秋に書いた、「終戦の御詔勅を拝して」と題する文章が残っている。(『麻山事件』に引用されているので、少々長くなるが、そこから再引用する、)
 《(8月)16日は午前中は家に閉じこもって静かに御詔勅をくり返し、くり返し奉読し、更に謹書して大御心の那辺にあるかを拝察したのである。奉読し、謹書している間に段々と大御心のほどが拝察できるようになり、ついに明瞭に拝察し得て、自分は元気よくご命令に絶対服従し、陛下が仰せられる 万世ノタメニ太平ヲ開カント欲ス のお言葉を体して、今度は真剣に世界平和の使徒として、日本国民の本文を尽くそうと固く決心するに至ったのである。(中略)
 過去のことは過去のこととして懺悔すれば足りる。人はいかなる人でも失敗というものはある。その失敗を顧みて、二度とその失敗を繰り返さぬように覚悟し、新たに確固たる人生観の下に孜々としてその理想実現に努力する人こそ、我等は真人と思うのである。
 ただ無暗に人の事ばかり責めて、自分のことを少しも反省せぬ態度は、けっして真面目な日本人のとるべき道ではない。互いに攻め合うことはやめて、日本をして今日あらしめたのは、考えて見るほど日本国民全体が悪かったのである。ここに一大反省をして本当に道義の国日本を再建して、世界各国とともに世界の平和に貢献したいと私は念願する。》

 こういう無内容な文章を読まされる者は誰しも苦痛を感じるだろうが、「苦痛」で済めば幸運と言わねばならない。なぜなら加藤がこの文章を書いていた昭和20年の秋、《満洲では彼の送り込んだ義勇隊や開拓団など二十七万人が何十日もの山中彷徨の中にあり、その多くが「草むす」屍を曝しつつあった。ようやく辿り着いた難民収容所においても病に倒れた。全満邦人百五十五万人の十四パーセントにしかすぎない彼らが、死亡者数では五十パーセントに当る八万人を出してい》(中村雪子)たからである。
 中村雪子は、加藤完治の文章が自分の満洲に送り込んだ人びとに何ひとつ触れずに終わるのを見て、「開拓団の人々の無念さを思わずにはいられない」と書く。筆者も同感だが、同時に戦前の日本を支配していた「国粋主義」や「国体思想」の無内容さを、自己証明しているとも思う。

▼作詞家・なかにし礼は、満洲からの引き上げを体験している。彼は昭和13年の生まれで、満洲の牡丹江で7歳まで育った。牡丹江は満洲北部の交通の要所で、関東軍の司令部のひとつが置かれており、哈達河(はたほ)から南西の方向に、直線距離で130㎞ほどの距離である。
 なかにしの父母は昭和9年に小樽から満州国に移り住み、酒造りを始めた。牡丹江の水から良質の酒ができ、その酒を関東軍に納めることで、なかにし家は莫大な収入を得、またたく間に地方の名士となった。
 しかし昭和20年8月、ソ連の侵攻が始まり、一家は軍用列車に乗せてもらい、途中なんども戦闘機の空襲を受けながらハルビンに逃れる。ハルビンでは街頭で煙草や大福餅を売って命を繋ぎ、翌年9月に葫蘆島から米軍の輸送船で引き揚げを果たした。
 なかにしは60年代半ばに作詞家としてデビューし、菅原洋一「知りたくないの」(1965年)やザ・ピーナッツ「恋のフーガ」(1967年)、黛ジュン「恋のハレルヤ」(1967年)、「天使の誘惑」(1968年)、「夕月」(1968年)など、立て続けにヒット曲を生み出した。その後もヒット街道は続き、1970年には年間ヒット曲ベスト100曲のうち、18曲がなかにしの作詞だったという。
 最近になり、筆者はなかにし礼が、「人形の家」(1969年 作曲:川口真)は自分たち満洲居留民が日本という国家から捨てられたという思いを歌ったものだ、と語っていたことを知り、仰天した。そのようなこととはつゆ知らず、弘田三枝子の張り上げる歌声に聞き惚れていたからである。

 顔もみたくないほど
 あなたに嫌われるなんて
 とても信じられない
 愛が消えたいまも
 ほこりにまみれた 人形みたい
 愛されて 捨てられて
 忘れられた 部屋のかたすみ
 私はあなたに 命をあずけた

 あれはかりそめの恋
 心のたわむれだなんて
 なぜか思いたくない
 胸がいたみすぎて
 ほこりにまみれた 人形みたい
 待ちわびて 待ちわびて
 泣きぬれる 部屋のかたすみ
 私はあなたに 命をあずけた
 私はあなたに 命をあずけた

▼調べて見ると、なかにしの「自分たち満洲居留民は日本という国家から捨てられた」という思いは、関東軍が守ってくれないためにソ連軍や満人暴徒の襲撃を受け、日本に帰り着くまでに死ぬほど苦しい思いをした、という体験にとどまらない事実を指していた。
 「居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ル」という大東亜大臣東郷茂徳名の訓令が、昭和20年(1945年)8月14日付で在外公館に発せられている。また8月26日には、「外地在住内地人ノ人身安定策」として、「在留内地人ニ対シテハ徒ニ早期且無秩序ニ引揚ヲ決定セシムルコトナク、当分冷静ノ態度ヲ維持セシムル様徹底指導スル」ことが、在外公館に通達された。
 大本営参謀は8月26日付の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実施報告」で、「内地の食糧事情等からすれば、在留邦人はソ連の庇護下に満洲および朝鮮に土着させて生活を営むよう、ソ連側に依頼するのがよい」(要旨)とする方針を示していた。
 これらを見るかぎり祖国日本の政府は、ソ連軍の攻め込んだ満洲の現実も、生活を一挙に根こそぎ奪われて祖国に帰るしか道のない居留民の実状も、なにひとつ理解していなかったことがわかる。なかにしが、「満洲居留民は日本という国家から捨てられた」と受け止めたのは、正しい理解なのだ。
 なかにし礼は学生時代、シャンソンの訳詩で生活を支えていたから、作詞の技法は十分心得ていた。しかし自分で詞を作ろうとすると、歌い上げるべき内容は自分の体験から汲み出してくるほかない。自分の体験に根差した思いやさまざまな感情をもとに、それらを糸口にしたり、組み替えたりしながら、歌詞を生み出すのである。
 自分にとって戦争体験にまさる体験はない。自分の体験の中から、関東軍に捨てられ、祖国に捨てられ、「帰ってくるな」と言われたときの思いを歌にしたのが「人形の家」だ、となかにしは言った。

(おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

朱夏5 [本の紹介・批評]

▼開拓団員たちは貝沼団長の周りに集まり、互いに別れの挨拶を交わし、十年間の礼を言いあった。それからそれまで肌身につけていた故郷の父母の写真や応召中の夫の写真、貴重品などを集めて火をつけた。荷物を解き、晴着を出して子どもたちに着せ、自分たちは白鉢巻、白襷を締め、親子や部落の人々で水さかずきを交わした。
 団長は斬込隊長を選び、そのあと一同で東方を遥拝し万歳を三唱すると、拳銃で自らのこめかみを撃ち、倒れた。
 斬込隊に加わる男は、馬車から取り出した毛布を敷いて、その上に妻と娘と3人で座った。妻と顔を見合わせると妻は寂しく笑い、小さな声で「幸せな15年でした」と言った。娘は、男が抱きあげると耳に口を寄せて、「あのね、お母ちゃんがいいところへ連れて行くって……」と言う。三昼夜の爆撃におびえていた娘がいじらしい、と男はつよく思った。
 「父ちゃんも少し遅れるけどすぐ追いつくからね」と言って、まず娘を撃ち、次いで妻の胸を撃つ。妻は「もう一発」と叫んで倒れていった。
 開拓団の男たちの多くが応召して、妻と子供たちばかりの家族も多かったから、彼女たちの「処置」は他の男子団員の手で行われた。銃声がしだいに激しくなり、やがて静かになった。血なまぐさい臭いと強い火薬の臭いが辺りに充ち、あちこちで苦しみ呻く声が聞こえた。

 後尾集団にいた女たちは、貝沼団長が自決したという知らせを聞いて、「ああ、これで死ねるわネエ」と思わず歓声にも似た声をあげたという。疲労しきった身体をひきずってどうにかそこまで来た女たちの前に、永遠の安息が広がっていた。女たちのリーダー格だった女はその夫に、「あなた、もうここが最後です」と告げ、他の女たちも男に最期の挨拶をした。逡巡する夫に、女は、「迷っても無駄です」と言って決断を迫り、「処置」を実行させた。

▼中央集団の男たちでつくられた斬込隊約40名は、山頂に上り、敵陣をうかがい、薄暮れの時を待って山を下りた。しかし接近する気配を察知されて、自動小銃の猛射を浴びる。斬込隊も撃ち返すが、たちまち何十倍もの自動小銃弾を撃ち込まれ、後退し、負傷者の手当てをする。隊員は三分の一に減っていた。
 隊長が今後の作戦を諮ると、「敵は優勢で、自分たちが死を賭して臨んでも成功は覚束ない。日本軍と行動を共にして戦うのが最善だと思う。皆疲れ果てており、後退して少しでも睡眠をとり、明日の戦闘に備えよう」という意見が出、反対する者はなかった。隊長は、やみくもにでも敵陣に突っ込み、死に場所を得る考えだったが、隊長である以上、身勝手な行動は許されないと考え、多数意見に従うことにした。
 その後彼らは牡丹江に行く途中で日本の敗戦を知り、自決しようとしたが、日本軍の将校から、「日本はまだ降伏していない。流言飛語を信ずるのか」と強く制止され、ふたたび死ぬ機会を失う。
 麻山の出来事から一ヶ月後、彼らは無人のある部落で休憩していた時、突如地元民の襲撃を受け、仲間を失う。隊長は、これ以上逃避行を続けることはいたずらに犠牲者を増やすだけであり、生きて菩提を弔うことこそ自分の使命だと考え、ソ連軍に投降した。以後、三年余の間シベリア抑留生活を送り、昭和23年12月に帰国した。

 麻山での開拓民四百余名の集団自決という出来事は、生き残った男たちによって明かされ、語られてきたが、ほんとうに集団自決しか道がなかったのかという疑問も、死者を知る人々のあいだでくすぶり続け、消えることはなかった。

▼『麻山事件』の著者の中村雪子は、1923年長野県に生まれ、1939年満州に渡り、1942年に結婚、1946年に引き揚げと、著者紹介欄に書かれている。宮尾登美子より2歳年長だが、十代で結婚して満洲で暮らし、同じようにソ連軍の侵攻と引き揚げを体験している。1959年から名古屋女性史研究会に所属し、「福田英子」についての共著などを手掛けたあと、13年かけて哈達河(はたほ)開拓団の「麻山事件」について調べ、1983年に著書として発表した。
 中村の暮らしたのはハルビンで、満州東北部の開拓村と直接の関係はなかったであろうが、彼女は哈達河開拓団の生存者を探し、そのつながりをつたって次々に生存者と連絡を取り、会って話を聞き、文通を重ねて疑問を確かめた。生存者の間にも、一部に反目や不信感が残り、「麻山事件」の状況理解に違いがある中、中村は違いは違いとして残しつつ、証言と資料によりできるだけ正確に事件を知ろうと努めた。
 そうやって書かれた『麻山事件』は、けっして読みやすい読み物ではないが、著者自身による整理やまとめが少なく、生き残った人々の証言をそのまま提示している分、史料としては信用できるように思う。

▼「麻山事件」に象徴される満洲開拓民の悲劇の原因を考えると、まずソ連が日ソ中立条約を破って一方的に満洲に攻め込み、避難民を不法に攻撃したことや、関東軍が開拓民を保護することを軍事戦略上放棄し、にもかかわらずそのことを開拓民に知らせなかったことが挙げられよう。このため開拓民たちは、むき出しの暴力の前に裸で晒されることになったのである。
 前回触れたように、関東軍は新京、大連、図們を結ぶ三角形の外側の、満州国の4分の3に当たる部分の防衛を放棄し、三角形の内側部分を山岳地帯に拠りながら防衛しようとする計画を立てた。そして対ソ戦が勃発した場合は、国境周辺の老幼婦女子(つまり開拓団の老幼婦女子である)を南満洲へ避難させることを考えていた。しかし大本営は、ソ連軍の攻撃を誘発しないように「対ソ静謐」を保持する必要性と、現地民の動揺を招くという理由から、関東軍の考えに同意しなかった。
 またソ連(ロシア)という国が力のみを信奉し、国際社会の良識や約束事など平気で破って意に介さない野蛮な相手であったことも、日本にとって(満洲開拓民にとって)不運あるいは不幸であったと言えよう。ソ連の政治指導者は、満州の工業機械や建設資器材から人間の労働力にいたるまで、「戦利品」としてソ連に持ち帰ることを躊躇しなかったし、兵士たちは強姦、強奪を、「ヤリ得」と心得ていた。
 ルーズベルト、蒋介石、チャーチルの3人は1943年11月にカイロで会談し、同盟国の戦争目的を「カイロ宣言」として発表している。その中で、「同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行っている」と言い、「同盟国は、自国のためには利得を求めず、また領土拡張の念も有しない」と明記する。しかしソ連の政治指導者にとって8月9日以降の満洲侵略は、日露戦争の仇を討つ戦いであり、ソ連(ロシア)の領土を拡張する戦いであり、そのことを少しも隠すつもりはなかった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

朱夏4 [本の紹介・批評]

▼東安省鶏寧県の哈達河(はたほ)開拓団は、1935年(昭和10年)に第4次の移民として入植した人たちである。開拓地の総面積は六千町歩(約六十平方キロ)で、既耕地と未耕地と山林が、それぞれ二千町歩ほどだった。山林は灌木が多く、既耕地には三千人ばかりの中国人と朝鮮人が住んでいた。六千町歩(約六十平方キロ)という数字だけを聞いても想像が難しいが、東京の世田谷区(58㎢)や大田区(61㎢)とほぼ同じ面積と聞けば、その広さに驚くことだろう。
 当初の移民計画では、未耕地に入植し、開拓するものとされていたが、多数の農業移民を送り出し受け入れる必要から、既耕地を買い上げて入植する案が現実的な政策として採用された。入植地の買収は、関東軍と満州国によって行われた。
 哈達河開拓団は、昭和10年に先遣隊として56名が入植したが、翌年、本隊133名が日本各地から入植し、10の部落に分かれて住んだ。また、「満蒙青少年義勇軍」の発足に先立ち、昭和12年には「山形少年隊」16名が開拓団に加わった。終戦時の哈達河開拓団の総戸数は290戸を数えた。
 開拓団の団長・貝沼洋二は、朝鮮で育ち、札幌農大を卒業したあと朝鮮に戻り、農民や小作人の世話をする仕事に就く。その後拓務省の嘱託になって満洲に渡り、開拓団経営のノウハウを学び、昭和10年に哈達河開拓団が結成されると団長となった。貝沼は当時40歳だった。
 口数は多くないが、公平無私で古武士のような風格を持ち、「俺について来い」という言葉が団員の胸に抵抗なく入っていくような、人間的魅力を持っていたという。生き残った男の一人は、「貝沼団長と団員の結びつきを知らないで、麻山事件の解明はできない」と後に語っている。

▼昭和20年に入るころから、関東軍はソ連軍の侵攻は必至と考え、密かに後退を開始していた。主力を「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約」し、長期持久戦を戦うという作戦計画である。連京線とは満州国の首都・新京から大連に至る南北の鉄道路線であり、京図線とは新京と図們を結ぶ東西の鉄道路線であり、この新京、大連、図們を結ぶ三角形は満州国の南東部の朝鮮に接する一画を示す。開拓団が入植した土地は、ほとんど全てがこの三角形の外側にあり、哈達河開拓団の開拓地も例外ではない。しかし開拓地の人びとは、自分たちが関東軍から見棄てられたことを知らなかった。
 
 昭和20年8月9日の朝、哈達河開拓団の人びとは飛行機の爆音を耳にし、上空を西に向かって飛ぶ機体を見た。しかしそれがソ連機であり、ソ連が中立条約を破って国境を突破し、首都の新京やハルビンがその日爆撃されたというような情報は、伝わってこなかった。
 貝沼団長が東海警察隊に行ってようやく情報を得、引き上げ命令が出たこと、最小限の身支度と荷物と食糧を準備して、鉄道駅のある鶏寧に向けて出発することなど、開拓団の各部落へ連絡員を走らせた。広大な開拓地に分散する各部落に連絡するには多くの時間を要したが、それでも開拓民たちは夜のうちに馬車に家族と荷物を積み込み、出発した。
 だが夜が明ければ、避難民の馬車はソ連軍戦闘機の攻撃目標だった。急降下しては銃撃する戦闘機により多くの馬が撃たれ、徒歩を余儀なくされる避難民が続出した。また避難の列から遅れる者に、暴民の群れが近寄って品物をねだり、女と見れば品物を強奪した。
 避難民が目指した鶏寧を通り牡丹江へ至る鉄道は、ソ連機の攻撃により10日の朝を最後に止まっていた。鶏寧の街は炎を挙げて燃えていた。

 8月10日の午後、雨が降り出し、翌11日の午前中に一時上がるが、午後には再び降りはじめ、夜には豪雨となった。泥道に故障する馬車が続出し、ほとんどの避難民は雨の中で立ったまま寒気に震え、夜明けを待った。雨除けの布団もぐっしょり水を含み、馬車を失った人たちは雨除けの布団もなかった。体力のない乳幼児が幾人か亡くなった。
 8月12日。雨足が弱まり、一行はふたたび進行を開始。出発以来エサを与えられていない馬は、弱って足をもつれさせ、道端に捨てられる荷物の数が増えた。やがて太陽が昇ると、たちまち大陸の炎暑となり、避難民の疲労はいよいよ増した。このころから、開拓団を追い越して撤退する軍のトラックや日本兵の数が、増えてきた。
 道は山腹を上ったり下ったりしながら、曲がりくねって麻山駅近くに降りていく。
 前方でしきりに銃声や軽機関銃らしい連発音が聞こえる。偵察に出ていた団員が、前方にソ連軍がいることを伝えた。つまり後方から追いかけてくるとばかり思っていたソ連軍が、自分たちを追い越して麻山に進出しており、哈達河開拓団は前方と後方をソ連軍に挟まれていることが判明した。

▼哈達河開拓団は苦しい逃避行の中で、多数の落後者を出しつつ自然に三つの群れに分かれていた。先頭集団は、途中の空襲で馬をやられなかったので、順調に先へ行くことができた集団であり、その1キロメートル後方に貝沼団長を中心に約四百名の中央集団がおり、さらに1キロメートル後方の後尾集団では、女たちが疲れ切って落後寸前の状態にあった。
 昼近く、後尾集団が麻山に到着したころ、銃声がますます激しさを増した。歩兵30人ぐらいの分隊が通りかかり、これから斬り込みになるかもしれないと、兵士たちは軍靴を脱いで地下足袋に履き替え、水筒の水で型どおりの水さかずきを酌み交わし、背嚢をそろえて道端に置いた。そして開拓団の女たちに、この中にパンがあるから食べてもいいよと言った。

 中央集団は、機関銃や迫撃砲弾の炸裂する音が間近に聞こえる、三方を山に囲まれたゆるい傾斜地にいた。そこに兵隊が来て、「ソ連の戦車がすぐ前方にいる。わが軍も応戦しているが戦死者も多く、これ以上の前進は無理である」と団長に伝えた。
 団長は後退してくる日本軍部隊に、「せめて一個小隊の兵を、安全地帯まで護衛に付けてほしい」と懇願したが、拒絶される。
 そこに先頭集団の二人が、顔面蒼白で駆け込んできた。前方から突然敵の戦車群の攻撃を受け、皆はトウモロコシ畑に逃げ込んだが、そこに自動小銃が撃ち込まれ、多数の仲間が殺されたと言った。さらに銃弾の飛び交う中で最期の時が来たことを知り、自分は合掌する妻を撃ち、母にならって手を合わせている三人の子供たちを次々と撃ったこと、そして部落の細君たちを「処置」してきたことを報告した。

▼先頭集団の報告を終始無言で聞いていた団長は、みずから偵察のために山に登った。降りてきた団長を、待ち構えていた一同がとりまいた。
 「われわれは完全に包囲されている。日本軍さえ敗走するこの状況で、全員が一緒に脱出することは、まず不可能であると思う」と団長は言った。そして選択肢は二つだと続け、一つは、入植以来一家のように親しんできた人たちが、辛いことだがばらばらになって脱出すること、もう一つは、生きるも死ぬも最後まで行動を共にすること、いずれをとったらよいか、意見があったら聞かせてほしい、と言った。
 《身近に迫る銃砲弾の響きも人々の耳から消え去り、〈ついに来るべきものが来た!〉という感慨の中で、重苦しい沈黙が人々の間を流れた。/やがて嗚咽と慟哭が津波のように広がって、その中から、「私たちを殺してください」とまず女たちが声をあげた。/同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。「自決しよう」「日本人らしく死のう」「沖縄の例にならえ」「死んで護国の鬼となるんだ」。そんな言葉がつぎつぎと発せられた。》
 団員の中から、斬込隊結成の声があがった。「自分ももちろん自決することに賛成である。しかし男としてなすことなくこのまま自決するのは、何としても悔しい」。
 団長は、「自分も今となっては自決が最善の方法かと思う。しかし、男子は一人でも多くの敵を倒してから死ぬべきであるかもしれない」と言い、だが自分は開拓団の責任者として、女子供たちと行動を共にすると語った。

 (つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。