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朱夏5 [本の紹介・批評]

▼開拓団員たちは貝沼団長の周りに集まり、互いに別れの挨拶を交わし、十年間の礼を言いあった。それからそれまで肌身につけていた故郷の父母の写真や応召中の夫の写真、貴重品などを集めて火をつけた。荷物を解き、晴着を出して子どもたちに着せ、自分たちは白鉢巻、白襷を締め、親子や部落の人々で水さかずきを交わした。
 団長は斬込隊長を選び、そのあと一同で東方を遥拝し万歳を三唱すると、拳銃で自らのこめかみを撃ち、倒れた。
 斬込隊に加わる男は、馬車から取り出した毛布を敷いて、その上に妻と娘と3人で座った。妻と顔を見合わせると妻は寂しく笑い、小さな声で「幸せな15年でした」と言った。娘は、男が抱きあげると耳に口を寄せて、「あのね、お母ちゃんがいいところへ連れて行くって……」と言う。三昼夜の爆撃におびえていた娘がいじらしい、と男はつよく思った。
 「父ちゃんも少し遅れるけどすぐ追いつくからね」と言って、まず娘を撃ち、次いで妻の胸を撃つ。妻は「もう一発」と叫んで倒れていった。
 開拓団の男たちの多くが応召して、妻と子供たちばかりの家族も多かったから、彼女たちの「処置」は他の男子団員の手で行われた。銃声がしだいに激しくなり、やがて静かになった。血なまぐさい臭いと強い火薬の臭いが辺りに充ち、あちこちで苦しみ呻く声が聞こえた。

 後尾集団にいた女たちは、貝沼団長が自決したという知らせを聞いて、「ああ、これで死ねるわネエ」と思わず歓声にも似た声をあげたという。疲労しきった身体をひきずってどうにかそこまで来た女たちの前に、永遠の安息が広がっていた。女たちのリーダー格だった女はその夫に、「あなた、もうここが最後です」と告げ、他の女たちも男に最期の挨拶をした。逡巡する夫に、女は、「迷っても無駄です」と言って決断を迫り、「処置」を実行させた。

▼中央集団の男たちでつくられた斬込隊約40名は、山頂に上り、敵陣をうかがい、薄暮れの時を待って山を下りた。しかし接近する気配を察知されて、自動小銃の猛射を浴びる。斬込隊も撃ち返すが、たちまち何十倍もの自動小銃弾を撃ち込まれ、後退し、負傷者の手当てをする。隊員は三分の一に減っていた。
 隊長が今後の作戦を諮ると、「敵は優勢で、自分たちが死を賭して臨んでも成功は覚束ない。日本軍と行動を共にして戦うのが最善だと思う。皆疲れ果てており、後退して少しでも睡眠をとり、明日の戦闘に備えよう」という意見が出、反対する者はなかった。隊長は、やみくもにでも敵陣に突っ込み、死に場所を得る考えだったが、隊長である以上、身勝手な行動は許されないと考え、多数意見に従うことにした。
 その後彼らは牡丹江に行く途中で日本の敗戦を知り、自決しようとしたが、日本軍の将校から、「日本はまだ降伏していない。流言飛語を信ずるのか」と強く制止され、ふたたび死ぬ機会を失う。
 麻山の出来事から一ヶ月後、彼らは無人のある部落で休憩していた時、突如地元民の襲撃を受け、仲間を失う。隊長は、これ以上逃避行を続けることはいたずらに犠牲者を増やすだけであり、生きて菩提を弔うことこそ自分の使命だと考え、ソ連軍に投降した。以後、三年余の間シベリア抑留生活を送り、昭和23年12月に帰国した。

 麻山での開拓民四百余名の集団自決という出来事は、生き残った男たちによって明かされ、語られてきたが、ほんとうに集団自決しか道がなかったのかという疑問も、死者を知る人々のあいだでくすぶり続け、消えることはなかった。

▼『麻山事件』の著者の中村雪子は、1923年長野県に生まれ、1939年満州に渡り、1942年に結婚、1946年に引き揚げと、著者紹介欄に書かれている。宮尾登美子より2歳年長だが、十代で結婚して満洲で暮らし、同じようにソ連軍の侵攻と引き揚げを体験している。1959年から名古屋女性史研究会に所属し、「福田英子」についての共著などを手掛けたあと、13年かけて哈達河(はたほ)開拓団の「麻山事件」について調べ、1983年に著書として発表した。
 中村の暮らしたのはハルビンで、満州東北部の開拓村と直接の関係はなかったであろうが、彼女は哈達河開拓団の生存者を探し、そのつながりをつたって次々に生存者と連絡を取り、会って話を聞き、文通を重ねて疑問を確かめた。生存者の間にも、一部に反目や不信感が残り、「麻山事件」の状況理解に違いがある中、中村は違いは違いとして残しつつ、証言と資料によりできるだけ正確に事件を知ろうと努めた。
 そうやって書かれた『麻山事件』は、けっして読みやすい読み物ではないが、著者自身による整理やまとめが少なく、生き残った人々の証言をそのまま提示している分、史料としては信用できるように思う。

▼「麻山事件」に象徴される満洲開拓民の悲劇の原因を考えると、まずソ連が日ソ中立条約を破って一方的に満洲に攻め込み、避難民を不法に攻撃したことや、関東軍が開拓民を保護することを軍事戦略上放棄し、にもかかわらずそのことを開拓民に知らせなかったことが挙げられよう。このため開拓民たちは、むき出しの暴力の前に裸で晒されることになったのである。
 前回触れたように、関東軍は新京、大連、図們を結ぶ三角形の外側の、満州国の4分の3に当たる部分の防衛を放棄し、三角形の内側部分を山岳地帯に拠りながら防衛しようとする計画を立てた。そして対ソ戦が勃発した場合は、国境周辺の老幼婦女子(つまり開拓団の老幼婦女子である)を南満洲へ避難させることを考えていた。しかし大本営は、ソ連軍の攻撃を誘発しないように「対ソ静謐」を保持する必要性と、現地民の動揺を招くという理由から、関東軍の考えに同意しなかった。
 またソ連(ロシア)という国が力のみを信奉し、国際社会の良識や約束事など平気で破って意に介さない野蛮な相手であったことも、日本にとって(満洲開拓民にとって)不運あるいは不幸であったと言えよう。ソ連の政治指導者は、満州の工業機械や建設資器材から人間の労働力にいたるまで、「戦利品」としてソ連に持ち帰ることを躊躇しなかったし、兵士たちは強姦、強奪を、「ヤリ得」と心得ていた。
 ルーズベルト、蒋介石、チャーチルの3人は1943年11月にカイロで会談し、同盟国の戦争目的を「カイロ宣言」として発表している。その中で、「同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行っている」と言い、「同盟国は、自国のためには利得を求めず、また領土拡張の念も有しない」と明記する。しかしソ連の政治指導者にとって8月9日以降の満洲侵略は、日露戦争の仇を討つ戦いであり、ソ連(ロシア)の領土を拡張する戦いであり、そのことを少しも隠すつもりはなかった。

(つづく)

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