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朱夏6 [本の紹介・批評]

▼開拓団の悲劇の原因を求める議論は、多くの場合ソ連の参戦で終り、あるいはそこから一挙に満洲国という国家の「虚構性」の問題に飛びやすく、「満蒙開拓団」という政策自体の検討・検証に向かうことは、ほとんどないらしい。
 加藤聖文は次のように書いている。(『満蒙開拓団』)
 満洲開拓政策は、「優秀な日本人農民が未開の満洲で模範的な開拓民となることで、現地民も感化され、やがて満州全土が理想郷となる」という「物語」の上に成立している。しかし日本人農民すべてが現地民と比べて「優秀」であるという根拠はまったくないし、機械式農法の導入も限られている開拓民の姿は、模範でも憧れでもなく、「感化」されようがなかった。
 《さらに他民族に対する理解度も決定的に欠けていた。そもそも開拓団と現地民とは構造的に不平等な関係であったこと、どのような形であれ、外来民が流入してきた場合、現地民は必ず反発することが見落とされている。そしていつかは顕在化する現地民との対立が、ソ連侵攻を機に一挙に噴出したのであって、悲劇の根本要因はもっと根深いところにあったという思慮は一切見られない。》
 満蒙開拓政策を進めた人びとのうち、石黒忠篤だけは唯一、開拓団をめぐる悲劇に対して自責の念を漏らしていたという。しかし石黒を除き、加藤完治ら開拓推進派にとって、敗戦間際のソ連参戦は彼らの免罪符となった。「開拓団は五族協和の旗印のもとで現地民と共存を図り、王道楽土の建設を目指していたが、それをすべて打ち砕いたのはソ連であって、悲劇の責任はソ連のみにある」と考えることで、政策の問題点から目をそらすことができたからである。

▼加藤完治が昭和20年秋に書いた、「終戦の御詔勅を拝して」と題する文章が残っている。(『麻山事件』に引用されているので、少々長くなるが、そこから再引用する、)
 《(8月)16日は午前中は家に閉じこもって静かに御詔勅をくり返し、くり返し奉読し、更に謹書して大御心の那辺にあるかを拝察したのである。奉読し、謹書している間に段々と大御心のほどが拝察できるようになり、ついに明瞭に拝察し得て、自分は元気よくご命令に絶対服従し、陛下が仰せられる 万世ノタメニ太平ヲ開カント欲ス のお言葉を体して、今度は真剣に世界平和の使徒として、日本国民の本文を尽くそうと固く決心するに至ったのである。(中略)
 過去のことは過去のこととして懺悔すれば足りる。人はいかなる人でも失敗というものはある。その失敗を顧みて、二度とその失敗を繰り返さぬように覚悟し、新たに確固たる人生観の下に孜々としてその理想実現に努力する人こそ、我等は真人と思うのである。
 ただ無暗に人の事ばかり責めて、自分のことを少しも反省せぬ態度は、けっして真面目な日本人のとるべき道ではない。互いに攻め合うことはやめて、日本をして今日あらしめたのは、考えて見るほど日本国民全体が悪かったのである。ここに一大反省をして本当に道義の国日本を再建して、世界各国とともに世界の平和に貢献したいと私は念願する。》

 こういう無内容な文章を読まされる者は誰しも苦痛を感じるだろうが、「苦痛」で済めば幸運と言わねばならない。なぜなら加藤がこの文章を書いていた昭和20年の秋、《満洲では彼の送り込んだ義勇隊や開拓団など二十七万人が何十日もの山中彷徨の中にあり、その多くが「草むす」屍を曝しつつあった。ようやく辿り着いた難民収容所においても病に倒れた。全満邦人百五十五万人の十四パーセントにしかすぎない彼らが、死亡者数では五十パーセントに当る八万人を出してい》(中村雪子)たからである。
 中村雪子は、加藤完治の文章が自分の満洲に送り込んだ人びとに何ひとつ触れずに終わるのを見て、「開拓団の人々の無念さを思わずにはいられない」と書く。筆者も同感だが、同時に戦前の日本を支配していた「国粋主義」や「国体思想」の無内容さを、自己証明しているとも思う。

▼作詞家・なかにし礼は、満洲からの引き上げを体験している。彼は昭和13年の生まれで、満洲の牡丹江で7歳まで育った。牡丹江は満洲北部の交通の要所で、関東軍の司令部のひとつが置かれており、哈達河(はたほ)から南西の方向に、直線距離で130㎞ほどの距離である。
 なかにしの父母は昭和9年に小樽から満州国に移り住み、酒造りを始めた。牡丹江の水から良質の酒ができ、その酒を関東軍に納めることで、なかにし家は莫大な収入を得、またたく間に地方の名士となった。
 しかし昭和20年8月、ソ連の侵攻が始まり、一家は軍用列車に乗せてもらい、途中なんども戦闘機の空襲を受けながらハルビンに逃れる。ハルビンでは街頭で煙草や大福餅を売って命を繋ぎ、翌年9月に葫蘆島から米軍の輸送船で引き揚げを果たした。
 なかにしは60年代半ばに作詞家としてデビューし、菅原洋一「知りたくないの」(1965年)やザ・ピーナッツ「恋のフーガ」(1967年)、黛ジュン「恋のハレルヤ」(1967年)、「天使の誘惑」(1968年)、「夕月」(1968年)など、立て続けにヒット曲を生み出した。その後もヒット街道は続き、1970年には年間ヒット曲ベスト100曲のうち、18曲がなかにしの作詞だったという。
 最近になり、筆者はなかにし礼が、「人形の家」(1969年 作曲:川口真)は自分たち満洲居留民が日本という国家から捨てられたという思いを歌ったものだ、と語っていたことを知り、仰天した。そのようなこととはつゆ知らず、弘田三枝子の張り上げる歌声に聞き惚れていたからである。

 顔もみたくないほど
 あなたに嫌われるなんて
 とても信じられない
 愛が消えたいまも
 ほこりにまみれた 人形みたい
 愛されて 捨てられて
 忘れられた 部屋のかたすみ
 私はあなたに 命をあずけた

 あれはかりそめの恋
 心のたわむれだなんて
 なぜか思いたくない
 胸がいたみすぎて
 ほこりにまみれた 人形みたい
 待ちわびて 待ちわびて
 泣きぬれる 部屋のかたすみ
 私はあなたに 命をあずけた
 私はあなたに 命をあずけた

▼調べて見ると、なかにしの「自分たち満洲居留民は日本という国家から捨てられた」という思いは、関東軍が守ってくれないためにソ連軍や満人暴徒の襲撃を受け、日本に帰り着くまでに死ぬほど苦しい思いをした、という体験にとどまらない事実を指していた。
 「居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ル」という大東亜大臣東郷茂徳名の訓令が、昭和20年(1945年)8月14日付で在外公館に発せられている。また8月26日には、「外地在住内地人ノ人身安定策」として、「在留内地人ニ対シテハ徒ニ早期且無秩序ニ引揚ヲ決定セシムルコトナク、当分冷静ノ態度ヲ維持セシムル様徹底指導スル」ことが、在外公館に通達された。
 大本営参謀は8月26日付の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実施報告」で、「内地の食糧事情等からすれば、在留邦人はソ連の庇護下に満洲および朝鮮に土着させて生活を営むよう、ソ連側に依頼するのがよい」(要旨)とする方針を示していた。
 これらを見るかぎり祖国日本の政府は、ソ連軍の攻め込んだ満洲の現実も、生活を一挙に根こそぎ奪われて祖国に帰るしか道のない居留民の実状も、なにひとつ理解していなかったことがわかる。なかにしが、「満洲居留民は日本という国家から捨てられた」と受け止めたのは、正しい理解なのだ。
 なかにし礼は学生時代、シャンソンの訳詩で生活を支えていたから、作詞の技法は十分心得ていた。しかし自分で詞を作ろうとすると、歌い上げるべき内容は自分の体験から汲み出してくるほかない。自分の体験に根差した思いやさまざまな感情をもとに、それらを糸口にしたり、組み替えたりしながら、歌詞を生み出すのである。
 自分にとって戦争体験にまさる体験はない。自分の体験の中から、関東軍に捨てられ、祖国に捨てられ、「帰ってくるな」と言われたときの思いを歌にしたのが「人形の家」だ、となかにしは言った。

(おわり)

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