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朱夏4 [本の紹介・批評]

▼東安省鶏寧県の哈達河(はたほ)開拓団は、1935年(昭和10年)に第4次の移民として入植した人たちである。開拓地の総面積は六千町歩(約六十平方キロ)で、既耕地と未耕地と山林が、それぞれ二千町歩ほどだった。山林は灌木が多く、既耕地には三千人ばかりの中国人と朝鮮人が住んでいた。六千町歩(約六十平方キロ)という数字だけを聞いても想像が難しいが、東京の世田谷区(58㎢)や大田区(61㎢)とほぼ同じ面積と聞けば、その広さに驚くことだろう。
 当初の移民計画では、未耕地に入植し、開拓するものとされていたが、多数の農業移民を送り出し受け入れる必要から、既耕地を買い上げて入植する案が現実的な政策として採用された。入植地の買収は、関東軍と満州国によって行われた。
 哈達河開拓団は、昭和10年に先遣隊として56名が入植したが、翌年、本隊133名が日本各地から入植し、10の部落に分かれて住んだ。また、「満蒙青少年義勇軍」の発足に先立ち、昭和12年には「山形少年隊」16名が開拓団に加わった。終戦時の哈達河開拓団の総戸数は290戸を数えた。
 開拓団の団長・貝沼洋二は、朝鮮で育ち、札幌農大を卒業したあと朝鮮に戻り、農民や小作人の世話をする仕事に就く。その後拓務省の嘱託になって満洲に渡り、開拓団経営のノウハウを学び、昭和10年に哈達河開拓団が結成されると団長となった。貝沼は当時40歳だった。
 口数は多くないが、公平無私で古武士のような風格を持ち、「俺について来い」という言葉が団員の胸に抵抗なく入っていくような、人間的魅力を持っていたという。生き残った男の一人は、「貝沼団長と団員の結びつきを知らないで、麻山事件の解明はできない」と後に語っている。

▼昭和20年に入るころから、関東軍はソ連軍の侵攻は必至と考え、密かに後退を開始していた。主力を「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約」し、長期持久戦を戦うという作戦計画である。連京線とは満州国の首都・新京から大連に至る南北の鉄道路線であり、京図線とは新京と図們を結ぶ東西の鉄道路線であり、この新京、大連、図們を結ぶ三角形は満州国の南東部の朝鮮に接する一画を示す。開拓団が入植した土地は、ほとんど全てがこの三角形の外側にあり、哈達河開拓団の開拓地も例外ではない。しかし開拓地の人びとは、自分たちが関東軍から見棄てられたことを知らなかった。
 
 昭和20年8月9日の朝、哈達河開拓団の人びとは飛行機の爆音を耳にし、上空を西に向かって飛ぶ機体を見た。しかしそれがソ連機であり、ソ連が中立条約を破って国境を突破し、首都の新京やハルビンがその日爆撃されたというような情報は、伝わってこなかった。
 貝沼団長が東海警察隊に行ってようやく情報を得、引き上げ命令が出たこと、最小限の身支度と荷物と食糧を準備して、鉄道駅のある鶏寧に向けて出発することなど、開拓団の各部落へ連絡員を走らせた。広大な開拓地に分散する各部落に連絡するには多くの時間を要したが、それでも開拓民たちは夜のうちに馬車に家族と荷物を積み込み、出発した。
 だが夜が明ければ、避難民の馬車はソ連軍戦闘機の攻撃目標だった。急降下しては銃撃する戦闘機により多くの馬が撃たれ、徒歩を余儀なくされる避難民が続出した。また避難の列から遅れる者に、暴民の群れが近寄って品物をねだり、女と見れば品物を強奪した。
 避難民が目指した鶏寧を通り牡丹江へ至る鉄道は、ソ連機の攻撃により10日の朝を最後に止まっていた。鶏寧の街は炎を挙げて燃えていた。

 8月10日の午後、雨が降り出し、翌11日の午前中に一時上がるが、午後には再び降りはじめ、夜には豪雨となった。泥道に故障する馬車が続出し、ほとんどの避難民は雨の中で立ったまま寒気に震え、夜明けを待った。雨除けの布団もぐっしょり水を含み、馬車を失った人たちは雨除けの布団もなかった。体力のない乳幼児が幾人か亡くなった。
 8月12日。雨足が弱まり、一行はふたたび進行を開始。出発以来エサを与えられていない馬は、弱って足をもつれさせ、道端に捨てられる荷物の数が増えた。やがて太陽が昇ると、たちまち大陸の炎暑となり、避難民の疲労はいよいよ増した。このころから、開拓団を追い越して撤退する軍のトラックや日本兵の数が、増えてきた。
 道は山腹を上ったり下ったりしながら、曲がりくねって麻山駅近くに降りていく。
 前方でしきりに銃声や軽機関銃らしい連発音が聞こえる。偵察に出ていた団員が、前方にソ連軍がいることを伝えた。つまり後方から追いかけてくるとばかり思っていたソ連軍が、自分たちを追い越して麻山に進出しており、哈達河開拓団は前方と後方をソ連軍に挟まれていることが判明した。

▼哈達河開拓団は苦しい逃避行の中で、多数の落後者を出しつつ自然に三つの群れに分かれていた。先頭集団は、途中の空襲で馬をやられなかったので、順調に先へ行くことができた集団であり、その1キロメートル後方に貝沼団長を中心に約四百名の中央集団がおり、さらに1キロメートル後方の後尾集団では、女たちが疲れ切って落後寸前の状態にあった。
 昼近く、後尾集団が麻山に到着したころ、銃声がますます激しさを増した。歩兵30人ぐらいの分隊が通りかかり、これから斬り込みになるかもしれないと、兵士たちは軍靴を脱いで地下足袋に履き替え、水筒の水で型どおりの水さかずきを酌み交わし、背嚢をそろえて道端に置いた。そして開拓団の女たちに、この中にパンがあるから食べてもいいよと言った。

 中央集団は、機関銃や迫撃砲弾の炸裂する音が間近に聞こえる、三方を山に囲まれたゆるい傾斜地にいた。そこに兵隊が来て、「ソ連の戦車がすぐ前方にいる。わが軍も応戦しているが戦死者も多く、これ以上の前進は無理である」と団長に伝えた。
 団長は後退してくる日本軍部隊に、「せめて一個小隊の兵を、安全地帯まで護衛に付けてほしい」と懇願したが、拒絶される。
 そこに先頭集団の二人が、顔面蒼白で駆け込んできた。前方から突然敵の戦車群の攻撃を受け、皆はトウモロコシ畑に逃げ込んだが、そこに自動小銃が撃ち込まれ、多数の仲間が殺されたと言った。さらに銃弾の飛び交う中で最期の時が来たことを知り、自分は合掌する妻を撃ち、母にならって手を合わせている三人の子供たちを次々と撃ったこと、そして部落の細君たちを「処置」してきたことを報告した。

▼先頭集団の報告を終始無言で聞いていた団長は、みずから偵察のために山に登った。降りてきた団長を、待ち構えていた一同がとりまいた。
 「われわれは完全に包囲されている。日本軍さえ敗走するこの状況で、全員が一緒に脱出することは、まず不可能であると思う」と団長は言った。そして選択肢は二つだと続け、一つは、入植以来一家のように親しんできた人たちが、辛いことだがばらばらになって脱出すること、もう一つは、生きるも死ぬも最後まで行動を共にすること、いずれをとったらよいか、意見があったら聞かせてほしい、と言った。
 《身近に迫る銃砲弾の響きも人々の耳から消え去り、〈ついに来るべきものが来た!〉という感慨の中で、重苦しい沈黙が人々の間を流れた。/やがて嗚咽と慟哭が津波のように広がって、その中から、「私たちを殺してください」とまず女たちが声をあげた。/同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。「自決しよう」「日本人らしく死のう」「沖縄の例にならえ」「死んで護国の鬼となるんだ」。そんな言葉がつぎつぎと発せられた。》
 団員の中から、斬込隊結成の声があがった。「自分ももちろん自決することに賛成である。しかし男としてなすことなくこのまま自決するのは、何としても悔しい」。
 団長は、「自分も今となっては自決が最善の方法かと思う。しかし、男子は一人でも多くの敵を倒してから死ぬべきであるかもしれない」と言い、だが自分は開拓団の責任者として、女子供たちと行動を共にすると語った。

 (つづく)

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