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安倍晋三の死4 [政治]

▼安倍晋三の政治について、もう少し続ける。
 安倍の「国葬」問題を取り上げたTVの討論番組で、ある評論家が次のような発言をしていた。
 「吉田茂は戦後日本の方向を、軽武装・経済専念の方向に定めたが、安倍は吉田路線から新しい路線に転轍した。安倍元首相は日本の外交・安全保障の問題を、本当に理解し変えることができた唯一の政治家だった」。つまり安倍晋三は、吉田茂と同様、日本の針路に関わる大きな決定をした、国葬に値する存在だという趣旨だった。

 『朝日新聞政治部』(鮫島浩 2022年)という本によると、1999年、政治部に新たに配属された鮫島など若手記者に対し、政治部長・若宮啓文は次のような訓示を与えたという。「君たちね、せっかく政治部に来たのだから、権力としっかり付き合いなさい」。
 「権力って、誰ですか?」と怖いもの知らずの鮫島が聞くと、若宮政治部長はしばし黙ったあと、「経世会、宏池会、大蔵省、外務省、そしてアメリカと中国だよ」と、静かに簡潔に答えたという。
 その後20年以上日本の政治を眺めてきた鮫島は、この若宮部長の発言を幾度も想い起し、すぐれた眼力による的を射た回答であると思う。
 《日米同盟を基軸としつつ対中国関係も重視するのが経世会や宏池会が牛耳る戦後日本外交の根幹だった。政治家やキャリア官僚は日頃から在京のアメリカ大使館や中国大使館の要人と接触し独自のルートを築く。政治記者を煙に巻いても米中の外交官には情報を明かすことがある。政治記者ならアメリカや中国にも人脈を築いてそこから情報を得るという「離れ業」も必要だ。国際情勢に対する識見を身につけた上で、米中の外交官が欲する国内政局に精通し、明快に解説できないようでは見向きもされない。》(『朝日新聞政治部』)

 すこし話が横道に逸れたが、筆者の注意を惹いたのは、若宮政治部長の回答の中に清話会が入っていなかったという点だった。

▼もうひとつ、鮫島の語るエピソードを紹介する。鮫島は清話会の町村信孝の担当になり、初対面のときに、やや挑発的に挨拶した。「町村さんは通産官僚出身で、文部大臣など要職を歩んでこられたエリートですね」。すると町村は、顔を真っ赤にして激昂し、こうまくし立てたという。
 「何を言っているんですか!私は自民党の同期で政務官になったのがいちばん遅かった。いちばん出世が遅かったのですよ。なぜだかわかりますか!私が清話会だからです。日本の政治はずっと、経世会が牛耳ってきたんです。経世会は最初に宏池会に相談する。その次に社会党に根回しする。社会党がNHKと朝日新聞にリークする。我々清話会はNHKと朝日新聞の報道をみてはじめて、何が起きているかを知ったのです。これが日本の戦後政治なんですよ!わかりますか」
 しかし2001年に小泉政権が誕生し、清話会が一転して自民党を牛耳るようになる。そして現在、自民党の各派閥の国会議員は、清話会(安倍派)が94人、経世会の後身である茂木派は54人、麻生派が50人、二階派が40人、宏池会(岸田派)が40人等々であるといわれる。
 傍流であった清話会が主流となり、二位の派閥の二倍近い規模を持ち、隆盛を誇るにあたって、安倍晋三が長期間首相であり、自民党総裁であったことは大きく影響したことであろう。だが日本社会のかなり深い部分が変わり始めており、その政治面への反映が、右派といわれる清話会の隆盛として現われたと見るべきなのかもしれない。
 年代別の投票行動を調査すると、18歳~30歳代の自民党支持が顕著に高い。日本社会の変容が安倍政権を生み、長期にわたって支えてきたのか、それとも安倍政権の政策が日本社会の変容を加速したのか、そのあたりの因果関係は不明だが、安倍の政策は国際秩序が大きくきしむ時代の動きに、わりあい適合していたように見える。

▼さて、安倍晋三の「国葬」問題である。日が経つにつれて国葬の反対者が増え、国葬賛成者を上回り、岸田総理は国会の閉会中審査に出席して「丁寧な説明」をし、質疑に応じることを余儀なくされた。それでも「説明が足りない」という声が、圧倒的に多いらしい。

 日本は、ひとの功績を認めたり、称揚したり、つまり個人を目立たせることに、極めて消極的な社会ではなかろうかと、筆者は常々思っている。「ノーベル賞受賞」など、外部の権威が認めてくれた場合は、喜んでその人の功績を讃えるが、自分から進んで人を認めることに積極的ではない。さらに言えば、個人の名前を出して互いに認め合うよりも、匿名の気楽さや無責任さのなかに、居心地の良さを感じる程度が高い社会ではないかと感じている。
 昔、必要があって短期間だが英字紙を読んでいた時期があったが、記事の作り方が日本の新聞と大きく違うことに気がついた。英字紙の記事には、必ずどこそこの誰々さんという具体的な名前の市民が登場し、その誰々さんの顔が見えるように話がまとめられる。一方日本の新聞では、具体的な個人名は省かれることが多く、仮名が用いられることも多い。
 その代り日本の新聞記事に必ず載っているものは、「年齢」であり、匿名であろうと仮名であろうと、年齢だけは記される。一方、英字紙の記事の場合、年齢が載っている割合は、それほど高くなかったように記憶する。
 こういう社会の慣習の違い、あるいは社会の雰囲気の違いは、社会的功績のあった有名人の名前を、公共の施設に付けることが当然と受け止められる社会と、それをとんでもないと排除する社会の違いを生み出す。以前、イタリアを旅行したとき、近代イタリアを統一したエンマニュエル1世やその宰相だったカブールの名前を付けた大通りが、多くの町にあるのを見て驚いた。日本で言えば、明治天皇大通りとか、西郷隆盛通りということになるが、これはとても考えられないことだろう。
 パリの国際空港はシャルル・ドゴール空港だし、ニューヨークの国際空港はジョン・F・ケネディ空港だが、東京国際空港(成田)をシンゾー・アベ空港に改称しようという提案には、安倍の熱烈な崇拝者もしりごみすることだろう。
 こういう、ひとの功績を認めたり称揚したり、個人を目立たせることに、臆病で消極的な社会において、「国葬」をどう考えるべきなのか。

▼日本で「国葬」の非生産的な議論が行われている最中、エリザベス2世の逝去(9/8)のニュースが伝えられた。日本の多くの人々はニュースを聞いて、女王の国葬のことを反射的に思い浮かべたに違いない。筆者もその一人であり、そのとき思ったのは、「国葬」が国民から支持されるのに欠かせないのは、故人への「親しみ」や「敬愛」の念なのだろうということだった。
 理屈ではないのだ。国民の間に自然に生まれる「親しみ」や「敬愛」の念の対象となり、国家のまとまりを象徴し体現するのが現代の王族の存在理由なのだが、エリザベス2世はその任をよく果たしたのではないだろうか。
 ひるがえって安倍晋三の「国葬」だが、もともと無理な設定だったように思われる。上に見たように日本人の国民性は、個人の称揚を潔しとしないところがあり、安倍個人をこの例外とする理由はなかったし、政治家・安倍晋三は国民の「親しみ」や「敬愛」の対象でもなかった。
 岸田文雄の浅知恵は、安倍晋三の霊魂を、かえって悩ませ、迷わせているように見える。

(つづく)

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