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「ラムザイヤー論文」とその反撥 7 [思うこと]

▼クマラスワミは「証言」という一章を設けて、4人の元慰安婦の証言を報告書に収めている。彼女は韓国人11名、在日韓国人1名、北朝鮮人4名の証言を得たということだが、報告書に収録されたのは北朝鮮人2名、韓国人2名の分である。この北朝鮮の元慰安婦の証言内容がすさまじい。
 ・13歳の時、恵山市の日本陸軍の守備隊に連れて行かれ、そこには朝鮮人の女の子が400人ぐらいいて、毎日5000人を超える日本兵のため性奴隷として働かされた。少女のうちの一人が、なぜ一日40人もの相手をしなければならないのか、と聞いたとき、何が起こったか。
 「彼女を懲らしめるために、中隊長ヤマモトは剣で打てと命じました。私たちの目の前で彼女を裸にして手足を縛り、釘の出た板の上に転がし、釘が彼女の血や肉片でおおわれるまでやめませんでした。最後に、彼女の首を切り落としました。」

 ・別の北朝鮮の元慰安婦の証言。「私たちは定期的に検診を受けさせられました。病気に罹っていると分かると、殺されてどこかへ埋められました。ある日、新しく来た少女が私の隣の部屋に入れられました。彼女は男たちに抵抗しようとして、一人の腕に噛みつきました。その後、彼女は中庭に連れ出され、私たち全員が見ている前で剣で首をはねられ、身体を切り刻まれました。」

 クマラスワミは元慰安婦たちの「証言」を聞き、「深く心を揺さぶられ」、自分が読んだ慰安所に関する「文書情報を裏付けるもの」だと考えた。しかし筆者は、どうしてこういうデタラメとすぐ見破られるような話を、彼女が報告書に取り入れたのか、不思議に思う。
 なぜデタラメか。慰安所は、ひとつの「制度」だからである。
 慰安所は兵士の慰安のために作られた「制度」であり、だから部隊所属の兵士と憲兵が秩序維持にあたり、料金も時間も、衛生管理も慰安婦の年季奉公の期間等も、すべて規則や契約で定められていた。兵士や指揮官が勝手に慰安婦の首を斬り落としたり、身体を切り刻んだりできるはずがない。
 クマラスワミたちは、「女性に対する性暴力」だと言って慰安所と強姦をひとくくりにしたがるが、慰安所が「制度」であった点で戦場の強姦とは根本的に異なることを、理解していないと言うほかない。

▼「報告書」は、そのあと日本政府の「法的責任」を論じ、「道義的責任」を論じ、「勧告」に至る。「第二次世界大戦中に日本帝国軍によって設置された慰安所制度が国際法の義務の違反であることを承認し、かつその違反の法的責任を受け入れること」など6項目の勧告を、日本政府に出しているのだが、それらをここで紹介する必要はないだろう。
 「奴隷」という概念を明確に定義づける検討を行わず、慰安所と慰安婦についてデタラメな話を「事実」と思い込み、実態を知らないまま「慰安婦は性奴隷」と言ってはばからない、そういうレポートに価値はないからだ。
 1996年4月の国連人権委員会は、「クマラスワミ報告」を付属文書として含む「報告書」について、「take note」と決議した。「報告書」の採択を目指して活動してきた日本や韓国の活動家たちは、抱き合って喜びを表したと報じられた。
 しかし同委員会では、事前にすり合わせて全員一致で採択するのが通例で、その場合、評価の度合いを示す表現として、1.「賞賛commend」、2.「歓迎welcome」、3.「評価しつつ留意take note with appreciation」、4.「留意take note」が使われる。同委員会が委嘱した報告だから、よほどのことがないかぎり「否認reject」はないということを考えれば、「留意take note」が低い評価であることは明らかである。秦郁彦は新聞の問い合わせに、「留意take noteというのは“認知”ではなく、そういう報告があったと“聞きおく”程度の意味で拘束性もない」と答えたという。(秦郁彦『慰安婦と戦場の性』1999年)

▼「慰安所」と「慰安婦」について、これまでの史料の検討から得られた筆者自身の考えを、整理しておきたい。

 ① 日本軍や日本政府が朝鮮半島で、「奴隷狩りに等しい大掛かりな強要と暴力的誘拐を使って女性を集める」(クマラスワミ報告)ようなことはなかった。しかし自ら進んで慰安婦になった女性のほかに、親に売られたり業者の甘い言葉に誘われたり、つまり本人の意思に反して慰安婦にされた女性がいたであろうことは、十分想像できる。(慰安婦のリクルートの方法について、現在「告発派」と「疑問派」のあいだに認識の違いはない、と筆者は見ている。)

 ② 軍は慰安所の料金制度をはじめとする規則を定め、秩序維持に当たり、慰安婦の検診(検黴)を行い、慰安婦たちが業者に連れられて戦地の慰安所に来るまでの交通の便宜を図るのも、軍の仕事だった。そもそも慰安所の発案者は陸軍であり、軍の必要のために軍の監督下で行われた事業であった。
 しかし慰安婦のリクルートや管理、慰安所の経営は業者の仕事であり、一つのビジネスと観念されていた。(慰安所経営は現在の企業経営と同様に売買されたことが、「帳場人の日記」に記されている。)

 ③ 慰安婦たちは普通の月で1500円程度の稼ぎがあり、その40~50%が自分の収入だった。(ミッチナでの米軍の報告書) 彼女たちはこの収入から借金を返済し、また楼主は衣服や必需品、奢侈品に法外な代金を請求したから、実質的な収入はかなり少なかったかもしれないが、それでも休日に街でダイヤモンドを買ったり(文玉珠)、郵便貯金をしたり、借金を返し終えて廃業することができた。
 当時の貨幣価値が現在のわれわれにはピンと来ないが、文玉珠が、「千円あれば大邱で小さな家が一軒買える」と語っているのが参考になるだろう。ちなみに昭和20年の一等兵、二等兵の給料は月額9円、戦地増俸が12円だった(『兵隊たちの陸軍史』伊藤桂一 昭和44年 番町書房)。

 ④ 借金を返済した慰安婦は廃業し、帰国することができた。しかし戦況のため帰国できない場合もあった。だが「帳場人の日記」に何人もの慰安婦が廃業し、故郷に帰り、帳場人・朴が彼女たちのために送金したことが記されていることは、記憶されてよい。

 これらの理解は、繰り返すが、すでに紹介した史料に拠るものである。一級史料、あるいはそれに準ずる史料だが、何百とあった慰安所の一部の事情しか伝えていないと見ることも、あるいは可能かもしれない。また慰安所が戦地にある以上、事情が戦況により大きく左右されたことも疑いない。
 しかし慰安所がひとつの制度である以上、上の史料が示すものとまったく異なるものだったと言うことも不可能だろう。国家が軍隊組織に「売春」制度を導入したことへの個人の思いは別にして、事実をきちんと把握することを疎かにして歴史家の務めが果たせるはずがない。

(つづく)

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