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「ラムザイヤー論文」とその反撥 5 [思うこと]

▼さて、初めの問いに戻る。慰安婦を売春婦と見なす理解を批判し、慰安婦は「性奴隷」だとして、日本国家の「法的責任」を追及する「告発派」の主張と、「告発派」の主張を批判する「疑問派」の主張―――どちらの言い分が正しいのかという問いである。
 最近は両派の議論や非難合戦はほとんどなく、「告発派」は結論がすでに世界で定まったかのような顔をしているし、「疑問派」は世界に広まった「誤解」を正すのを半ば諦め、自分たちの「理解」だけで満足しているようにも見える。産経新聞のように、「歴史戦」と称して世界に打って出ようという動きも中にはあるが、同じような顔ぶれが同じような主張を繰り返しているということで、「論争」にはならない。
 今回の「ラムザイヤー論文」のように、「歴史修正主義」の反攻として“ふくろ叩き”にされるような事件は、久々ではないだろうか。
 1990年代は冷え切った現在と違い、熱い論争があった。「告発派」は、韓国人の元慰安婦を掘り起こしては裁判所に訴えを出させ、日本を糾弾することに力を注いでいたし、「疑問派」は、慰安婦とは売春ビジネスであり、強制連行などなかったと「河野談話」批判に力を入れていた。「アジア女性基金」が1995年に発足し、国民から募金を集め、元慰安婦に「償い金」と総理の「お詫びの手紙」を手渡す事業を、1997年1月から韓国で開始した。この時捲き起こったのが、日本国家の「法的責任」をめぐる論争である。
 
 「告発派」を支援する雑誌「世界」では、1997年の3月号に吉見義明の論文「歴史資料をどう読むか」を掲載している。細かい議論はあとで必要に応じて見るとして、結論部分を以下に転記する。
 《「慰安婦」問題は人種差別、女性に対する暴力、貧しい者に対する差別が複合した深刻な人権侵害事件だったが、現在の世界でも、このような暴力や差別は克服されておらず、しばしば深刻な形で再発している。ボスニアにおける集団レイプや沖縄における少女レイプ事件などはその一端である。「慰安婦」問題を考えることは、日本人という枠や利害を超えて、このような事件の再発を防止するという未来のための課題なのである。》

 「慰安婦」問題は深刻な人権侵害事件であり、旧ユーゴの内戦で発生した「集団レイプ」と同じだという議論は、日本の社会でどの程度の賛同が得られるものか、はなはだ疑問だが、雑誌「世界」の編集部は吉見の主張に賛同していたようだ。吉見論文の次のページに、鈴木裕子という人の「セカンド・レイプにほかならない」という文章を載せているのだが、その冒頭は次のようなものだ。

 《日本軍性奴隷(いわゆる「従軍慰安婦」)制度とは、戦場における強姦の常態化、制度化にほかならない。軍「慰安婦」にされたことと戦場強姦の被害にあったことは、軍の性暴力犠牲者という点で基本的に同一である。》

▼前々回、筆者は次のように書いた。「慰安所、慰安婦の実態を知るには、適切な史料にあたるとともに、歴史の想像力を時代の全体性のなかで働かせることが必要である。政治的な告発や糾弾の声をあげる前に、その時代の状況に自分を置いて想像し、理解することが、歴史家にまず求められる。」
 歴史家の仕事は、史料を踏まえてそこで生きた人びとの生活や感情を想像し、理解し、その理解を時代全体に広げて記述することであるだろう。
 歴史学者・吉見義明や「女性史研究家」を名乗る鈴木裕子に、シロウトの筆者がもの申すのは恐れ多いことだが、吉見たちの文章は日本国家糾弾の叫び声が充満しているだけで、そこには慰安婦たちの姿もないし、兵隊たちの声も聞こえてこない。
 文玉珠からの「聞き書き」から、慰安婦と客の兵士の関係について語った部分を、少し引用してみよう。

 《せっかく遊びに来ているのに、部屋の隅で黙ってひざ小僧を抱えて座っている若い兵隊もいたりする。そういう人は、上官から殴られたりしてよほど悲しいか、金がないのだから、わたしが酒をおごりますと酒を飲ませてあげる。そういうことはすぐに部隊で伝わるらしい。何日かあとには必ずその兵隊の上官にあたる人がきて、切符を一、二枚余分に置いて帰ってくれる。チップもはずんでくれる。》
 《将校たちの歓迎会や送別会などのパーティにお呼びがかかるようになってきた。私はお金になるのだからと自分を納得させて、パーティにも行ったし、とにかく一生懸命に働いた。》

 しかし慰安婦が皆、文玉珠のように陽気で面倒見が良く、仕事に適応できたわけではない。日本語が覚えられなかったり、慰安婦生活にどうしても慣れることができない娘もいた。そういう娘は軍人が言葉をかけても返事をしないし、反抗的な態度を取り、軍人もいらいらして殴ったり蹴ったりということも起きる。「かわいそうに、乱暴される娘はいつも決まっていた。」
 そして文の回想は、兵隊たちの上にも及ぶ。
 《……軍隊というところはほんとうに、要領の悪い人にとっては生きにくいところだった。若い兵隊は次から次と上官から殴られるし、命令があれば前線でもどこへでも行かなければならない。朝から晩まで自由な時間などないし、明日死ぬことになるかもしれない。なんとか要領よく命令をこなしていかなければ身が持たない。》
 《お国のために、天皇陛下のために、と一生懸命になって前線に行く若い兵隊がいちばんかわいそうだった。私たちと同じ年ごろだった。兵隊たちには、私たちのところに来ること以外、楽しみはなかった。ほとんどは、「慰安所にくることだけを一週間考えていた」といっていた。》
 文玉珠の回想は、軍隊は密閉された究極の階級社会であり、その中で人間関係の緊張は極端に高まること、要領よく適応できる人間もいれば、要領が悪く、いつも泣かされている人間もいたことを教えている。

▼慰安婦たちはたいてい「スーちゃん」(恋人)を持っていた。文玉珠(慰安所での名前はフミハラヨシコ)のスーちゃんは三つ年上の上等兵で、「上品で、やさしくて、ひょうきんで、それに賢い男だった」。
《「戦争が終わったら、日本に行っていっしょに暮らそう」というから、「私は朝鮮に帰らなければならない。そんなことはできない」というと、ホンダミネオはこういった。
「それなら自分が朝鮮にいこう。ヨシコが日本人になってもいいし、自分が朝鮮人になってもいい。愛に国境はないというではないか。おまえはばかやなあ」。
 そういったとき、ホンダミネオは泣いていた。この言葉をわたしは決して忘れない。ホンダミネオという男はほんとうにいい男だった。》(「聞き書き」をまとめた森川万智子は、なぜか文玉珠の恋人を仮名にしているので、ここでは解説に従って本名の音に直した。なお、ホンダミネオ氏はアキャブで戦死した。)

 吉見義明は、慰安婦たちの生活に「想像力」を働かせ、次のように述べている。
 《性奴隷制の下では、女性たちが毎日泣きながら暮らしたはずであるという想定は現実を無視している。絶望的な状況の下でも人間は状況に適応して生きていかなければならないからである。彼女たちは、このような中で、自分たちの存在が戦争のために意味があると自己納得しようと努力したり、現場で一定の実権をもつ下士官などを「恋人」としたりして、苦界の中で生き抜いていこうとした。》(「歴史資料をどう読むか」)
 だが筆者から見ると、吉見の「想像力」はあらかじめ枠をはめられていて、見るべきものを見ていない。兵士たちと慰安婦たちの間に、人間的な感情の交流があったことを見落としている。
 文玉珠の「聞き書き」には、兵士が「かわいそう」という言葉が幾度も出てくる。慰安婦が「性奴隷」であったのなら、兵士たちは「戦闘奴隷」であったのであり、彼らの間には同じような境遇にある者へのシンパシーがあったことを、彼は見ていない。(あるいは、あえて見ようとしない。)

(つづく)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 4 [思うこと]

▼帳場人・朴は、妻の兄弟が経営する慰安所で働くために、1942年7月に釜山を軍の手配した船で発ち、台湾、シンガポールを経由して8月にビルマに着いた。戦場に近いプロームとアキャバの慰安所で働き、翌年5月にラングーンに移り、さらに9月にはシンガポールに移った。
 軍政下のシンガポールでは、一般民間人の移動は昭南特別市警務部によって統制・管理され、様々な手続きが必要とされたが、以下に書き写すのは、著者がその「様々な手続き」の状況を『日記』から書き出した部分である。期せずしてそれは、慰安婦の廃業や帰国について触れていて、慰安婦・慰安所を理解する貴重な資料となっている。

・(1944年)4月10日、今般帰還した慰安婦二名の送金許可願を横浜正金銀行に提出し、特別市保安課に行って、今般新しく入った慰安婦の市丸と静子の二名の就業許可願を提出したところ、軍医の診断書を添付して再び提出してほしいと言われた。
・7月9日、金本恩愛とその妹の順愛が今般帰京のために廃業するといい、主人の西原様は承諾したので、廃業届を保安課営業係に提出した。
・7月12日、宋明玉に対する在留照明の手続きが完了し、証明書の下付を受けた。
・7月20日、金本恩愛とその妹の順愛の両人を連れて特別市保安課旅行係に行って、帰還旅行証明の手続き書類を提出したが、不備な点があり、そのまま持ってきた。
・9月6日、保安課営業係に金永愛の廃業同意書を提出し、証明を受けた。
・11月5日、特別市保安課営業係の坂口警部のところを訪ね、本俱楽部の仲居の絹代に対する解雇同意書と、稼業婦の秀美の廃業同意書を交付してもらってきた。金本恩愛とその妹の順愛の両人を連れて特別市保安課分室の旅行係に行き帰還旅行証明手続きを提出した。
・11月6日、西原様付託の送金をして、秀美の帰国旅行証明申請書を提出した。
・11月8日、仲居の李東鳳の旅行証明申請書を旅行証明係に提出した。
・11月15日、稼業婦の金永愛は今日、内地に帰還する船に乗った。
・11月16日、特別市保安課営業係に行って、帰国した金永愛の酌婦認可書を返納した。
(ちなみに朴は、稼業婦、酌婦、慰安婦を同じ意味に使っている、と著者は言う。)

▼この「日記」が『日本軍慰安所管理人の日記』として出版され、世に知られるようになる20年ほど前に、文玉珠(ムン・オクチュ)という女性が慰安婦であったことを名のり出、その体験談が「聞き書き」で出版された。(『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』森川万智子 梨の木舎 1996年) この文玉珠は帳場人・朴と接触はなかったようだが、同じ日に同じ船で釜山からビルマに渡り、マンダレー、アキャブ、ラングーンの慰安所で働き、タイのアユタヤで終戦を迎え、1946年に故郷の大邱に戻った。
 彼女の「聞き書き」は、「体験」から半世紀後に記録されたものであるから、歴史の史料としての価値は低くならざるを得ないが、それでも慰安所や慰安婦を理解するための情報を、豊富に含んでいる点で貴重である。慰安所の生活に触れた部分をいくつか摘記する。
 
・慰安所の料金は、兵 1円50銭、下士官 2円、尉官 2円50銭、佐官 3円。
 文玉珠の受けとる切符は普通の日で30円~40円、日曜日には70円~80円になった。
「軍人たちは、自分はどうせ死ぬかもしれないのだから、とチップをはずんでくれたのでそれだけの金額になったが、実際に相手をしたのはそれほど多かったわけではない。ただ日曜日など、昼ご飯を食べる時間もなく働くことがあった。」

・兵隊たちが給料を野戦郵便局で貯金していることを知り、文は事務をしている軍人に、自分も貯金できるかと尋ねると、もちろんできるという。兵隊に頼んでハンコを作ってもらい、お金を500円預けた。「私の名前の預金通帳が出来上がってくると、ちゃんと500円と書いてあった。生れてはじめての貯金だった。小さいときから子守や物売りをして、どんなに働いても貧しい暮らしから抜け出すことができなかったわたしに、こんな大金が貯金できるなんて信じられないことだ。千円あれば大邱に小さな家が一軒買える。母に少しは楽をさせてあげられる。晴れがましくて、ほんとうにうれしかった。」

・アキャブで爆撃にあったり、山中を行軍したり、というそれまでの体験に比べ、退却してきたラングーンは自由だった。週に一度か月に二度、許可をもらって人力車に乗って買い物に行くのが楽しみだった。イギリス人がやっている洋服屋で服を買ったり、服地を買ってきて自分たちで縫ったりした。ルビーや翡翠が安かった。自分もダイヤモンドを一つ買った。日本の活動(映画)や内地から来た歌舞伎を見に行ったこともあった。

・「わたしは軍人たちの機嫌をそこなわないよう、楽しんでもらえるようにできるだけ務めた。兵隊たちの家族やふるさとの話を聞き、一緒に日本の歌をうたった。気晴らしになるよう一緒におどけて踊ったりもした。日本語を教えてくださいと頼むと、喜んで教えてくれる兵隊も多かった。わたしがよく覚えるので、次に来るときはもっと面白い言葉を教えてやろうと、次々と新しい言葉やことわざを教えてくれる人もあった。……兵隊たちの間では、わたしは利口で陽気で、面倒見のいい慰安婦として有名になっていった。」

▼文玉珠の話に郵便貯金が出てくるが、帳場人・朴の「日記」にも貯金や送金のことが記載されている。1944年、シンガポールでの日記である。
・6月12日、横浜正金銀行の支店に行き、金川光玉の送金許可書を貰ってきた。夜1時半頃まで事務をした。
・6月13日、4月に帰還した郭玉順の送金を彼女の帰還後にしたものの、未だ受け取っていないと二回も電報が来ていた。
・6月16日、朝飯を食べて、銀行へ行き、稼業婦の貯金をしてきた。

 『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』の著者・崔吉城は、「日記」の読後感を次のように書いている。
 《朴氏は慰安所というものを、国家のために戦う戦士たちを慰安する国策の「慰安業」だと思っていたようで、それは当時の軍政の政策でもあり、単なる「遊郭」とは考えていなかったようである》。
 そのことは、ラングーンの市庁舎前で開かれた大詔奉戴記念式典に、慰安婦たちを連れて参加したり、慰安所の従業員全員で記念写真を撮ったりしている記述から、推測される。
 《現代より近代以前、平時より戦時には、売春は醜い職業ではなかった。特に、命がけで戦地に赴く軍人には、性は恥ずかしいものではなかった。その意味で、慰安業とは公的なものという意識があったと思われる。》

(つづく)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 3 [思うこと]

▼慰安所、慰安婦の実態を知るには、適切な史料にあたるとともに、歴史の想像力を時代の全体性のなかで働かせることが必要である。政治的な告発や弾劾の声をあげる前に、その時代の状況に自分を置いて想像し、理解することが、歴史家にまず求められる。
 
 1944年8月に、ビルマのミッチナで米軍の捕虜となった慰安業者2名と朝鮮人慰安婦20名に対し、米軍の「戦時情報局レド本部心理作戦班」のアレックス・ヨリチ(依地)軍曹らが尋問した資料が、残されている。2週間にわたって一人ずつ詳細に調べ、膨大な報告書を作成したもので、本部に送ると大評判になり、回し読みされたという。
 その報告のはじめに、《「慰安婦」とは、将兵のために日本軍に所属している売春婦、つまり「従軍売春婦」に他ならない》と説明されている。そして、日本軍の戦闘の行われる場所にはどこにでも「慰安婦」が存在したと言われるが、《この報告は、日本軍によって徴集され、かつ、ビルマ駐留日本軍に所属している「慰安婦」だけについて述べるものである》と、調査にたずさわった者の禁欲的な姿勢を明示している。要点を以下に示すが、この報告は慰安婦問題の一級史料である。

▼・慰安婦たちは、1942年5月初旬、日本の周旋業者によって集められた。周旋業者の語る誘いの言葉は、「多額の金銭と家族の負債を返済する好機」、「楽な仕事」、「新天地における将来性」だった。役務の中身は明示されなかったが、病院にいる負傷兵を見舞い、包帯を巻いてやり、一般的に言えば、将兵を喜ばせる仕事だと考えられていた。
 このような偽りの説明を信じて多くの女性が海外勤務に応募し、二百円~三百円の前渡金を受けとった。
・売春業に関わっていた者も若干いたが、大部分は売春について無知、無教育だった。彼女たちは前渡しされた金額に応じて、6ヶ月から1年にわたり役務に束縛された。
・平均的朝鮮人慰安婦は25歳ぐらいで、無教育、幼稚、気まぐれ、わがままである。
・食糧、物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きは良かった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きたばこ、化粧品を買うことができた。
・彼女たちはビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食会に出席した。彼女たちは蓄音機を持っていたし、都会では買い物に出かけることが許された。
・慰安所の営業条件は軍により規制されていた。料金は次のとおり。
1. 兵  午前10時~午後5時 1円50銭 20分~30分
2. 下士官 午後5時~午後9時 3円   30分~40分
3. 将校  午後9時~午前0時 5円   30分~40分
 (将校は20円で泊まることもできた。)
・慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることだった。
・兵士から慰安婦に対する「結婚申し込み」の事例はたくさんあり、実際に結婚が成立した例もいくつかあった。
・「慰安所の楼主」は慰安婦の稼ぎの50~60%を受けとっていた。慰安婦は普通の月で1500円程度の稼ぎがあり、750円を渡していたということになる。
・1943年の後期に、軍は借金を返済し終わった慰安婦の帰国を認める指示を出した。その結果、一部の慰安婦は朝鮮に帰ることを許された。
・慰安婦の健康状態は良好だった。彼女たちは避妊具を十分支給され、また兵士たちも軍から支給された避妊具を持ってくることが多かった。日本軍の正規の軍医が慰安所を週に一度訪れて検査を行い、罹患したとみられる慰安婦はすべて処置され、隔離され、病院に送られた。

▼上の報告は、『従軍慰安婦資料集』(吉見義明編・解説 大月書店 1992年)に収録されているものである。同資料集には「慰安所経営者(M739)からの聴取」という題名の史料も収録されており、この「M739」は「報告」で尋問された慰安業者のうちの一人であるらしい。内容的に上の「報告」と少し齟齬するところもあるようだが、いくつか補足しておきたい。
・M739は朝鮮人未婚女性22人を買い受けたが、彼女らの両親に対する支払い額は、その性格、容貌、年齢に応じて300円~1000円だった。
・下士官と兵は週に一度、将校は希望すれば何度でも通うことができた。
・M739の慰安所の一日あたり利用者数は、下士官・兵が併せて80~90人、将校が10~15人だった。
・慰安婦が前渡金とその利息を返済したときは、朝鮮へ帰るための無料の交通の便宜が提供され、あとは自由の身になると見なされていた。1943年6月、第15軍司令部が債務から解放された慰安婦たちを帰国させる手配をしたが、戦況のゆえにM739のグループでは、一人も帰国を認められた者はいなかった。―――

▼さて、慰安婦問題の一級史料をもう一つ見ておこう。『朝鮮出身の帳場人が見た慰安婦の真実』(崔吉城 ハート出版 平成29年)の中に紹介されている「帳場人」の日記である。
 「帳場」は商店や旅館などで帳簿付けをする場所のことだが、ここで言う「帳場人」は、慰安所のオーナーに雇われ、慰安所の経理事務を任された従業員の意味だろう。
 「帳場人」朴(著者は「日記」を残した人の姓のみ記載している)は1905年に生まれ、登記所職員などの勤務ののち1942年7月に海外(ビルマとシンガポール)に渡り、1944年末に帰国、1979年に亡くなった。彼は1922年から1957年までの36年間、ほぼ1日も欠かさず日記をつけていたが、日記はハングルと日本語の漢字やひらがな、カタカナ混じりで書かれていた。日記は2000年ごろ慶州の古本屋で発見され、2013年に安秉直ソウル大学名誉教授が韓国語に翻訳し、『日本軍慰安所管理人の日記』として出版した。
 「日記」が紹介されると韓国では、「軍や警察による強制連行があった証拠」と受け止める者が多く、一方日本では、「慰安所が売春宿だったことの証拠」と受け止められた。《しかし、この日記には慰安婦募集の過程は書かれておらず、強制連行や軍が業者に強制して連れて行った、などということには一切触れていない。》(崔吉城)
崔吉城は文化人類学を専攻する広島大学名誉教授だが、日記の1943年と44年の2年分を対象に、必要な個所を適宜日本語に翻訳し、解説を加えながら、慰安所や慰安婦の実態を明らかにしようとしたのがこの本である。

(つづく)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 2 [思うこと]

▼前回の記事を公開したあと、茶谷さやかが「慰安婦否定論」という言葉で指しているものの一つに、慰安婦問題について日本国家の「法的責任」を認めない主張があるのかもしれない、と思った。
 1990年代に「アジア女性基金」により、元慰安婦へ「償い金」と総理大臣の「お詫びの手紙」を手渡す事業が行われた。これは、日本国家の「法的責任」を問うことが、既存の法律上も日韓請求権協定の上からも困難であること、しかしそれでも問題の道義的責任に応えたい、という考えに基づいて国民から広く寄金を募り、行われた事業だった。それに対し、「日本は法的責任を認め、謝罪せよ」という主張が、韓国の慰安婦支援団体や日本の支援者たちの一部からなされ、「アジア女性基金」の事業への批判や妨害が発生したのである。
 慰安婦を性奴隷と認めない考え方や慰安婦を売春婦と見なす理解、そして日本国家の「法的責任」を認めない主張―――これらは茶谷(たち)の頭の中で互いに関連し合い、一括して「慰安婦否定論」という名称で呼んでいる、と見るのが適当と思われる。しかし前回見たように「慰安婦否定論」という名称は不適切なので、以下の検討では便宜上、「法的責任疑問論」あるいは単に「疑問論」と呼ぶことにしたい。(「法的責任否定論」と呼ぶことも考えたが、日本の「法的責任」を追及する主張、考え方への疑問を広く含むものとして、この名称を使用する。)
 そして、「疑問論」を批判する茶谷さやかや吉見義明らを一括して「慰安婦問題告発派」と呼び、その主張や考え方(「告発論」)を吟味していくことにする。

▼さて、「ラムザイヤー論文」だが、A4の紙面8ページの短いものである。論文の構成をまず示すと、1.序論、2.日本と韓国における戦前の売春、3.慰安所、4.結論、となっており、第2章の戦前の売春制度の解説が全体の半分以上を占めている。
 1930年代の後半、中国大陸で戦争を続ける日本軍は、性病から兵士を守り、強姦事件を減らすための仕組みを作る必要があった。そこで日本国内でのように売春宿の制度を導入することにし、軍事拠点の近くに半公式の売春宿(semi-official brothel)を設置するように民間業者に促し、営業許可を与えるかわりに軍の厳格な衛生管理や避妊具の使用を義務付けたのである。この売春宿(brothel)を慰安所(comfort station)と呼び、ここで働く売春婦(prostitute)を慰安婦(comfort woman)と呼んだ。「ラムザイヤー論文」は、戦時の慰安所を平時の売春宿と比較しながら、慰安婦の収入や契約期間が慰安所の経営者と慰安婦の置かれた立場を反映して決定されたことを、明らかにしようとした。

 「ラムザイヤー論文」は、戦前の売春制度の実態を説明するために、『帝都における売淫の研究』(フクミ・タカオ著 1928年)、『女給と売笑婦』(クサマ・ヤスオ著 1930年)、『海外醜業婦問題』(日本キリスト教婦人矯風会著 1920年)など、多くの戦前の研究書や調査資料を活用している。ラムザイヤーは幼少年期に日本で育ち、日本語の著作もあるほど日本語が達者なのだという。(参考文献欄に、これらの文献名はローマ字で記載されているので、判読して上のように記したが、分からない著者名はカタカナにした。)
 しかし「論文」自体は、戦前の日本の売春宿や売春婦に関する歴史学的研究ではない。売春婦と売春宿のあいだには「年季奉公契約」が成立していて、これは「信頼できるコミットメント」という「ゲーム理論」の基本的ロジックで説明できるというものである。
 公認の日本の売春婦は、ふつう次のような「年季奉公契約」の下で働いていた。「前借金が本人または親に支払われ、全額返済か契約期間満了か、どちらか早い時点まで働く」、「1920年代半ばの前借金の水準は1000円~1200円で無利子」、「最も一般的な契約期間は6年で、売り上げの3分の2から4分の3を売春宿が取り、残りの額の6割は前借り金の返済に、4割は本人に渡された」。
 ラムザイヤーの言う「ゲーム理論の基本的ロジック」とは、次のようなことのようだ。
若い女性は、売春が危険で過酷な仕事であり、たとえ短期間従事しただけでも自分の評判を損なうものであることを理解しているので、十分な報酬を得られるという信頼できる保証を求める。一方、売春宿は、売春婦が顧客を満足させるよう動機づける必要がある。そこで年季奉公契約の内容は、最初に売春婦に大金を前払いし、働く期限に上限を設けた上で、顧客を満足させればさせるほど返済が速く進み、早くやめることができるという、両者の思惑が一致した地点を表わすものとなった。
 「慰安婦は、国内の公認の売春婦と同様の契約で慰安所に雇われたが、重要な違いがあった。遠く離れた戦地で働くためにリスクが高まることを反映し、契約期間が短縮されて2年が通例となり、もっと短い場合もあった。慰安婦は大きなリスクの代償として国内の売春婦よりもさらに高い報酬を得ていた」と、「ラムザイヤー論文」は述べている。

▼筆者は「ラムザイヤー論文」を読んで、面白いとは思わなかった。それは「ゲーム理論」というものをよく知らず、そのありがたさを理解していないせいかもしれなかったが、「論文」が慰安婦問題についての新しい情報を与えてくれるものではなかったことが大きい。
 また、戦前の日本国内の売春宿と売春婦の関係について、「論文」の記述は筆者の理解とかなり距離があるようにも感じた。たとえば次のような記述である。
 「もし東京の売春宿の主人が契約をごまかそうとしたなら、売春婦は警察に苦情を申し立てることができた。警察は皆が売春婦に同情的であることはなかったが、中には同情的な者もいた。売春婦は売春宿を契約不履行で裁判所に訴えることもできたし、裁判に勝った者もいた。また、売春宿から抜け出し、大東京の匿名性の中に姿をくらますこともできた」。
 筆者は、戦前の売春婦たちは売春宿に対してずっと従属的であり、契約を盾に宿の主人を裁判所に訴えるというような「自立した労働者」のイメージを持っていなかった。ラムザイヤーが参照した戦前の売春婦に関する文献がそう語っているなら、筆者は自分の理解を改めなければならないが、あるいは茶谷たち批判者が言うように、そこには大きな「歪曲」があるのかもしれない。いずれにしても戦前日本の売春婦や売春宿の問題は、筆者の当面の関心事ではないから、この問題の結論はここでは保留しておく。

 しかし「ラムザイヤー論文」に価値がないかと言えば、筆者は「慰安婦問題」の論争史の中では、十分価値があると考える。それは慰安所や慰安婦を国内の売春宿や売春婦の制度と並べて論じることで、非建設的な論争を整理する役割を果すことになった点である。
 「慰安婦とは性奴隷である」と、一部で言われてきた。しかし「性奴隷」というのは、慰安婦の置かれた状態への一つの「感想」、「解釈」、あるいは「政治的決め付け」の類であり、「制度」の説明ではない。日本軍が組織的に慰安所を造ったことを告発するのなら、慰安婦・慰安所を「制度」として明確にした上で告発し、非難しなければならない。「ラムザイヤー論文」は資料の歪曲を多く含んでいるかもしれないが、「制度」として慰安所、慰安婦を説明しようとした試みという意味で、評価できるのである。

(つづく)

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「ラムザイヤー論文」とその反撥 [思うこと]

▼「ラムザイヤー論文」のことが、昨年一部で騒がれた。
 「ラムザイヤー論文」といっても、知る人は多くないだろう。ハーバード・ロースクールの教授であるマーク・ラムザイヤーが、2020年12月、「International Review of Law and Economics」誌に、「太平洋戦争中の性行為契約 Contracting for sex in the Pacific War」という論文を発表した。学術誌のネット版に載った短い学術論文だったのだが、内容が知られると反撥する運動が起き、発表誌の編集部に抗議が寄せられたのである。
 発表誌に抗議を行ったうちの一人が、「世界」2021年5月号に、「ラムザイヤー論文はなぜ『事件』となったのか」というレポートを載せているので、「論文」の内容に触れる前に、まず論文非難の動きについて見ておこう。
 執筆者は茶谷さやかというシンガポール国立大学の助教授で、彼女は昨年2月に友人のチェルシー・シーダー(青山学院大学准教授)から「論文」のことを知らされ、多くの有志とともに「論文」の検証作業を行った。そして、シーダーと茶谷は他にノースウエスタン大学教授やケンブリッジ大学の研究員、ノースカロライナ州立大学教授を加え、5人連名で検証結果をまとめた批判論文を発表誌の編集部に送り、論文を撤回するよう要求した。
 茶谷によれば、すでにハーバード・ロースクールの諸団体も連名で抗議声明を出しており、世界のフェミニストによる公開書簡と署名活動、韓国系アメリカ人協会による署名活動が起こり、多くの日本史研究者も「撤回要求」の手紙を出した。
 さらにハーバード大学歴史学部教授のアンドリュー・ゴードン(日本史)とカーター・エッカート(朝鮮史)が論文撤回を求めたことが、人びとを驚かせたという。二人は学問の独立を重視し、政治的行動には慎重な研究者だったからだ。
 また経済学者やゲーム理論学者たちも、ゲーム理論の言葉を使ったからといって歴史の新事実が証明されるわけではないとし、掲載誌に適切な検証プロセスを求める手紙を公開した。この手紙には1か月後に、3400名以上の賛同者が名を連ねることになった。
 ハーバード大学では学生たちが、元慰安婦を招いてパネルディスカッションを行い、キャンバスで抗議運動を続け、日本国内では慰安婦問題の活動家たちと日本の歴史学術4団体が共同声明を出した。 「国内外の歴史研究者同士のネットワークが濃くなり、根拠のない歴史修正主義の英語圏の学術界への進出や、右派の嫌がらせに、連帯して対応できるようになった」と、茶谷は「収穫」の手ごたえを書いている。

▼長々と、ラムザイヤーの短い論文の生み出した大きな反撥について、茶谷さやかのレポートの中から紹介した。茶谷は自分たち5人の論文撤回要求について、「ラムザイヤー論文」が「学問倫理と研究の誠実性」に悖るものだからだ、と書く。資料や証言を誠実に分析して得られた結論なら、「たとえ感情的・政治的に受け入れがたい」ものであっても、受け入れることになるだろうが、「論文」の資料の扱いには大量の歪曲が見られる。学問にたずさわる者の責任を果たし、学術界の信用を取り戻すための作業として、批判しなければならなかった、という。
 しかし単に資料の扱いに大量の歪曲が見られたから、「ラムザイヤー論文」に批判や非難が集中するという「事件」が起きたわけではない。「論文」が彼らの「定説」と見なす慰安婦理解を否定するものだったからであり、それがハーバード・ロースクールの教授というネームバリューのある者によって書かれ、発表されたからであり、つまり慰安婦問題をめぐる新たな政治的反動と見なされたからこそ、「事件」となったのである。

 筆者は以前から、「慰安婦は性奴隷だ」と主張する人びとに強い不満と不信を持っているのだが、それは彼らが事実をあいまいにしたまま、日本国家の告発・糾弾という政治運動に力を注ぐように見えるからだ。
 たとえば慰安婦問題が1990年代に入って韓国で問題にされたとき、彼らの理解は、「韓国の少女たちが無理やり慰安婦にされた」、「少女たちは日本政府や日本軍によって力ずくで強制連行された」といったものだったはずである。勤労動員の「挺身隊」を「慰安婦」と結びつける誤解があったからこそ、慰安婦支援団体は「挺対協(挺身隊問題対策協議会)」を名のったわけだが、挺身隊に動員された少女たちは工場に派遣されたのであり、「慰安所」に送り込まれたわけではなかった。
 また「日本軍の一員として韓国人女性を捕まえて慰安婦にした」という吉田清治の証言も、当時の韓国での「慰安婦」の理解に大きく影響したであろう。しかし現在、吉田証言はまったくの捏造であったことが判明しており、朝日新聞は2014年に関連する記事を全面撤回し、謝罪した。
 要するに90年代に元慰安婦の人たちを支援し、日本国家を告発する運動に賛成した人びとのあいだには、事実への誤った理解があったのだが、吉見義明をはじめとする告発派の学者たちは、誤った理解をただすための努力をどれだけしたのだろうか。
 筆者の理解しているところでは、吉見は、日本軍が韓国女性を力づくで「強制連行」したという主張が無理であることは認めつつ、「本人の意思に反して連れて行く」ことも「広義」の「強制連行」にあたると言い続けている。自分たちの主張の正しさを装う吉見の態度は、事実を明確にするのとは逆方向への「努力」であり、韓国をはじめ世界に慰安婦問題の誤った理解が広まることに貢献してきている。

▼茶谷さやかのレポートの中に、「慰安婦否定論」という言葉が使われている。ラムザイヤーが慰安婦の話は「純粋な虚構」だと繰り返すのを読み、《彼が「慰安婦」否定論者であることがはっきり分かった》とか、《「慰安婦」否定論が繰り返されてきたのは知っていたが、……このような右派の一方的主張が、それとは無縁だと思い込んできた英語圏の学術誌に入ってきたことは、大きな衝撃であった》というように。
 茶谷が敵愾心を燃やす相手に貼り付けるこの「慰安婦否定論」だが、考えてみるとよく分からない言葉である。彼女がどのような主張を「慰安婦否定論」と言うのか、言葉の上からは推測できない。
 一見すると、「慰安婦など存在しなかった」という主張のように聞こえるが、そのような主張をする者はいないから、そういう意味ではないとして、「強制連行」はなかったという主張を、「否定論」と言っているのだろうか。しかし日本の国家権力による韓国人女性の力ずくの「連行」などなかったことは、「右派の一方的主張」でもなんでもなく、吉見義明も含めて認めているところである。
 もちろん慰安婦には、自分の意志でその世界に入った女性ばかりでなく、騙されて、自分の意志に反して慰安婦にされた者もいたであろう。しかし、「自分の意志に反して慰安婦にされた女性がいた」可能性を否定する論者はいないだろうし、少なくとも筆者は、そういう主張を読んだことがない。したがって吉見の言うような「広義」の「強制連行」理解を採用したとしても、「強制連行」説否定は、「慰安婦否定論」になりようがない。
 それでは、慰安婦が「性奴隷」だと認めない主張をもって、「慰安婦否定論」と呼んでいるのか?その可能性は高いと思われるが、その場合は率直に「性奴隷説否定論」と呼ぶべきである。
 また、慰安婦は売春婦だという理解を指して、「慰安婦否定論」と呼んでいるのか?この可能性も大いにあると思われるが、いずれにしても、茶谷たちラムザイヤー論文の批判者の動機がすこぶる政治的なものであることを、ここでは確認しておきたい。「慰安婦否定論」の当否については、ラムザイヤー論文の中身を見てから検討することにする。

(つづく)

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