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「ラムザイヤー論文」とその反撥 8 [思うこと]

▼さて慰安婦は「性奴隷」かという問いに答えるためには、まず「奴隷」とは何か、を定義しておかなければならない。
 外務省が準備した「クマラスワミ報告」への「反論書」によれば、「奴隷条約」(1926年)第1条1では、「奴隷制度」を「その者に対して所有権に伴ういかなる又はすべての権力が行使されている者の地位又は身分」と定義しているという。ずいぶん分かりにくい表現だが、「所有権に伴う権力が行使されている」とは、人が誰かの私有財産とされ、その支配の下で無報酬の労働を強いられ、売買・譲渡の対象とされる、といったような理解でよいだろうか。だから「奴隷」には、人間としての権利や自由は認められない。
 慰安婦は「奴隷」だったのだろうか?

 まず、無償の労働を強いられたのかという点に関していえば、まったくそのようなことはなく、きわめて高収入であったことは史料の示すところだ。文玉珠は、昭和18年3月に軍事郵便貯金に500円を預けたのを皮切りに、その後毎月のように数百円ずつ預け、昭和20年4月に5千円を引き出して故郷の母親に送ったが、それでもまだ6~7千円の貯金があったという。(『ビルマ戦線 楯師団の「慰安婦」だった私』森川万智子 梨の木舎 1996年)

 慰安婦は売買・譲渡されるモノとして扱われたのか?
 親と女衒と楼主の間で、どのような取引があったのかは推測するしかないが、慰安婦と楼主の間の関係は、前借り金の貸し付けと慰安所における労働による返済、という契約関係だったと見ることができるだろう。そのことは軍も含め関係者の共通の理解であり、軍は借金を返済し終わった慰安婦が帰国する場合、帰るための無料の便宜を図る旨の指示を出していたし、何人もの慰安婦が廃業して帰国したことが史料に記録されている。

 慰安婦は自由を認められず、劣悪な労働環境、労働条件に置かれていたから奴隷だという主張はどうか?
 労働条件の受け止め方は、史料を見るかぎり個人差が大きかったようである。文玉珠のように金を溜めることを生きがいに一生懸命働き、環境に適応した慰安婦がいた一方、慰安所に適応できずに毎日を辛い思いで過ごした女性や、移動の途中で川に身を投げた慰安婦もいたことを、史料は語る。彼女たちにとって慰安所での労働と生活は、奴隷のような日々だったかもしれない。
 しかし「王侯貴族のような生活を送る者」が王侯貴族ではないように、「奴隷のような生活を送る者」が「奴隷」であるとは限らない。「奴隷」であるかどうかは、その生活が耐えがたいものかどうかではなく、あくまでその「法的関係」を見ることで判断しなければならない。
 筆者の結論は、慰安婦を法的に「奴隷」ということはできない、というものだ。
 慰安婦は慰安所で「管理」されていたが、軍や楼主に「所有」されていたわけではなく、自由な行動を制限されていたが、これは「所有権に伴う権力」が行使された結果ではなかった。
 「奴隷」という決め付けは、互いに似たような境遇にあった慰安婦と兵士の間に、人間的感情の交流が生じたことを覆い隠すという意味でも、歴史の実態を知るうえで有害である。「性奴隷」あるいは「軍性奴隷」という「定義」(クマラスワミ)は、政治的非難以上のものではないのだ。

 (女性への「性暴力」である点で変わりがないという理屈で、慰安所制度と強姦をひとくくりにすることなど、噴飯ものというほかない。)

▼筆者は「慰安婦問題」について、歴史学者・秦郁彦の論文から多くのことを学んだ。しかし「告発派」の第一人者・吉見義明の論文に対しては、ほとんどの場合納得できず、反感ばかりを募らせてきたように思う。どこに筆者が納得できず反感を覚えたか、簡単に記しておきたい。
 吉見の論文ないし発言は、一見冷静で客観的、理知的なように見えて、実はきわめて党派的、感情的である。たとえば上に挙げた、「慰安婦は廃業することができたか」という慰安婦の地位に関する重要なポイントに関し、吉見は「前借金や追徴金の全額返済または契約期間の満了に加えて、慰安業者の許可、軍の許可の三つが必要だった」と、「廃業」が難しかったことを臭わせる。また、債務をすべて返済したが「戦況を理由に軍は帰国を認めなかった」例もあると言い、ビルマのミチナで米軍の捕虜となった20人の慰安婦のケースを挙げている。(吉見義明「ラムザイヤー論文の何が問題か」『世界』2021年5月号所収)。
 吉見は、「慰安婦は廃業できなかった」とはさすがに書かないが、「廃業」への軍の許可がおりなかった例を強調し、廃業した実例には触れようとしない。
 しかしビルマのミチナ(日本軍はミイトキーナと呼んでいた)とは、どういう場所か。
 第二次世界大戦中、日本軍は米英の中国軍支援ルート(いわゆる「援蒋ルート」)を遮断するために、1942年にビルマを占領し、イギリス・インド軍はインド領のインパールに退却した。ミイトキーナはインパールや中国雲南省に近い、ビルマ北端の街である。
 1944年3月に、日本軍はインパール攻略の戦闘を起こす。しかし作戦は惨憺たる失敗に終わり、4か月後にようやく作戦中止を決定したときには、ビルマ全土の防衛も破綻していた。8月3日にミイトキーナは陥落。
 軍が「戦況を理由に」帰国を認めなかったのがいつの時点のことか不明だが、戦闘のない時期には平穏だった街も、やがて状況が緊迫し、空爆が開始され戦闘に包まれた。債務を返済し終えた慰安婦に、軍が「戦況を理由に」帰国を認めないことも当然起こり得たと思われるが、このことが「廃業できる」ことへの反証になる、と吉見は考えるのだろうか。
 
 また慰安婦の収入に関して、「高収入」だったというのは間違いだと吉見は主張するのだが、その理由は、ハイパーインフレによって慰安婦たちの稼ぎは数十分の一以下に減価したからだという。また戦後の「預金凍結」措置によって、月々の生活費を超える額を引き出せない時期があったことを言い、だから慰安婦が高収入だったというのは「事実に反するのは明らか」だという。(吉見義明「ラムザイヤー論文の何が問題か」)。
 収入が高いか低いかは、同時代の比較の中で意味をもつことがらだ。そうして稼いだ金が、その後ハイパーインフレの影響を受けないという保証はどこにもないし、戦後の日本人は等しくこの影響を受けた。ハイパーインフレによって収入は大きく減価したから、「慰安婦たちが高収入だったという説は誤りだ」と言う吉見は、自分の主張がコッケイだという自覚がないのだろうか。

▼吉見は、慰安婦たちの労働環境や労働条件に関し、なぜかミチナの「米軍報告書」の次の部分を引用しようとしない。
 《食料、物資の配給量は多くなかったが、欲しい物品を購入するお金はたっぷりもらっていたので、彼女たちの暮らし向きは良かった。彼女たちは、故郷から慰問袋をもらった兵士がくれるいろいろな贈り物に加えて、それを補う衣類、靴、紙巻きタバコ、化粧品を買うことができた。
 彼女たちはビルマ滞在中、将兵と一緒にスポーツ行事に参加して楽しく過ごし、また、ピクニック、演芸会、夕食行事に出席した。彼女たちは蓄音機を持っていたし、都会では買い物に出かけることが許された。》
 《慰安婦は接客を断る権利を認められていた。接客拒否は、客が泥酔している場合にしばしば起こることであった。》
 《……これらの慰安婦の健康状態は良好であった。》

 前々回にも述べたことだが、このような記述がどれだけの慰安所に当てはまることなのかは、他の史料も含めて比較検討しながら、よく考えなければならないことだろう。しかし「第三者の立場で観察した唯一の公文書」(秦郁彦)としてこの報告書の史料的価値は高く、それを無視して勝手に慰安婦や慰安所のイメージを描くことは許されない。
 要するに、筆者の吉見義明に対する批判の第一は、彼が自分の主張を通すために、都合の良い史料は引用するが、都合の悪い史料は無視するという史料の恣意的な扱い方、言い換えれば党派的な姿勢にある。

(つづく)

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