SSブログ

日本の1970~90年代とサブカルチャー2 [思うこと]

▼「サブカルチャーの時代・日本篇」は、他にもいろいろな事象を素材に取り上げ、70年代を語ろうとしている。担当ディレクターは、自分のよく知る日本の同時代であったからこそ、「アメリカ篇」のように何本かの映画の「分析」だけで、もっともらしく「時代を語る」わけにはいかなかったのだ。
 高度経済成長が日本社会に及ぼした影響はきわめて大きく、人びとの服装や食べ物、家や街並み、職業や生活スタイル、人間関係や家族形態まで、広く社会を変えた。いま古い写真を見ていると、東京に高速道路が出来、新幹線が走り、オリンピックが開催された1964年辺りを境に、日本の社会が別の国かと感じられるほど大きく変わったことに気がつく。
 高度経済成長の裏側で大気汚染や水質汚濁などの公害問題が拡がり、中東戦争に発する「オイルショック」(1974年)は「狂乱物価」を生み、スーパーマーケットにはトイレットペーパーを求めて長蛇の列が出来るという、混乱ももちろんあった。だがそれから五十年が過ぎたいま、70年代に感じられるのは、負の側面も含めた高度経済成長の巨大な影響力であり、当時騒がれた「ロッキード事件」などの政治問題は、ずっと小さくなる。

 もうひとつ、筆者が「サブカルチャーの時代・日本篇」を見ていて気付いたのは、「時代の空気」とか「時代の気分」というものが、個人によって違うというあたりまえのことだった。「時代の空気」などと気軽に言うが、存在するのは個々人の感じ方や気分でしかない。しかし同時に個々人の感じ方や気分を越えて、「時代の空気」が集合的に実在するということも、また確かなのである。
 番組は「日本篇」に、日本映画を研究する外国人2人と当時の日本社会についてコメントする日本人2人を登場させているが、そのうちの一人である林真理子の発言が筆者には面白かった。彼女は山梨県で育ち、大学入学で東京に出てきたのだが、地方にいたとき東京はどのように見え、上京後それがどう変わり、あるいは変わらなかったのか、そういう自分の体験を率直に話し、体験を通して「時代」を語っていた。
 たとえば林は、庄司薫の「赤頭巾ちゃん気をつけて」(1969年)について述べる。当時山梨県の高校1年生だった林真理子は、この小説を読んで、東京のレベルの高い高校生はこういうことを考えているんだと、ショックを受けたという。
 また彼女は、大学を卒業して小さな広告の事務所に就職したが、「アンアン」や「ノン・ノ」を読んだことがなかった。彼女の格好が「あまりにもひどいので」、少しは勉強しろと事務所で「アンアン」を投げつけられたこともあった、それぐらい田舎の子だった、と当時を振り返っている。
 「70年代後半にコピーライターになって、一番派手な華やかなところに自分を置くことになった。そこになじみたいが、自分はダサい格好したおねーちゃん。そのことで劣等感が深くなっていく。華やかな場所になじめない自分も認めたいが、一方、奔放に生きている都会の女の人も素敵だと思う。ものすごく自分の中で葛藤していた……」。
 個々人の体験や想いを抜きにして、「時代の空気」など存在しないという当たり前のことに、筆者は遅まきながら気づかされた。

▼林真理子のひそみに倣うというわけでもないが、筆者自身の70年代を少しだけ振り返ってみよう。
 筆者の学生時代は60年代から70年代初めにかけてであり、「全共闘」運動のはじまりから終わりまでを横目で見ながら、欝々とした時間を過ごしていた。なぜ鬱々としていたか、今それを思い出して語る気力はないが、当時はそれを「時代への逆恨み」と表現していたように記憶する。                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                                               自分の憂鬱に理のないことは十分わかっているが、それでも自分の憂鬱が本物であることは確かである、といった意味だったはずだ。「オレをこれほど惨めにしてくれた〈時代〉に、いつか必ず“落とし前”を着けてやる」と、筆者は自分自身に大見えを切った。
 しかし就職し、毎日決まった時間に起きて職場に行き、与えられた仕事をこなすうちに、自分の欝々とした気分が霧が晴れるように急速に薄れていくことに気がついた。自分の憂鬱は、これほど根拠の稀薄なものだったのかと呆れたが、可笑しくもあった。

 職場ははじめ青山にあったが、その後丸の内に移ったので、仕事帰りに銀座2丁目の並木座に立ち寄って、映画をよく観た。並木座はいわゆる名画座で、小津安二郎や黒沢明、溝口健二をはじめ、日本の監督の名画や意欲作を、週替わり二本立てで上映していた。百席もない、スプリングが飛び出しそうな古い椅子は、いつも満席に近かった。
 藤田敏八監督の「赤い鳥逃げた?」(1973年)を観たのも、そこだったと思う。どのような映画だったか記憶ははなはだ怪しいのだが、全体の気分と一部の場面だけは鮮やかに覚えている。
 原田芳雄とその弟分・大門正明、桃井かおりの三人が、都会の片隅で暮らしている。三人は、無為な時間を過ごす暮しに疲れ、出口の見えない日々に苛立っている。兄貴分の原田芳雄がつぶやく。「やることなくなったら、俺たちジジイだよ」。
 都会暮らしでニッチもサッチも行かなくなった三人は、温泉地に流れてくる。原田芳雄が二人に言う。「よし、シロクロをやろう」。大門も桃井も嫌だとは言わない。
 温泉客が数人、身を乗り出して見入る蒲団の上で、二人は裸で男女の交接を演じる。部屋の片隅に座る原田の眼に、涙がにじむ―――。
 「不安と焦燥の青春」の終りを描いた作品、ということになるのだろう。同時にそれは、70年代前半の「時代の気分」の半面を表現していたと、筆者は思う。

▼もう一つ、この時代の出来事で筆者の頭に残っているのは、「東アジア反日武装戦線」を名のる若者たちが、新三菱重工や大成建設、間組などのビルに爆発物を仕掛けて爆発させ(1974年8月~75年5月)、逮捕された(1975年5月)事件である。
 彼らは自分を「日本帝国主義の本国人」ととらえ、戦前の植民地支配や侵略、戦後の経済的収奪に責任があると自らを責める。われわれの現在の「平和で安全な小市民生活」は、植民地の人民の収奪と犠牲の上に築かれている。だからわれわれは、日帝を打倒するための闘争を開始しなければならず、それは法と市民社会をはみ出す闘い、つまり武装闘争でなければならない―――。彼らの作成した『腹腹時計』には、爆弾の製造法とともに上のような「主張」が載っている。
 彼らの主張には酌むべき点はひとつもないが、彼らが自分を追い込んでいった思考の軌跡は痛ましい、と筆者は当時思った。同世代のごく普通の若者たちが、無理な論理の単純化を仲間内で重ねていった末に、「連続企業爆破」に行き着いたという事実の恐ろしさに、胸が痛んだ。
 彼らもニューファミリー層の一員として、ダイニングキッチンのある郊外の団地で、新生活を始めていたとして少しも不思議でないのに、何が彼らを「武装闘争」に走らせたのか。―――筆者にとって70年代前半とは、そのような「犠牲」の上に花開いた時代だった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。