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日本の1970~90年代とサブカルチャー6 [思うこと]

▼1995年に起きた二つの大事件によって、人びとは「80年代」が本当に終わったことを知らされた。
 第一の事件は、1月17日早朝の阪神淡路大震災の発生である。マグニチュード7.3の大地震は高速道路を横倒しにし、生活インフラを切断、火災も発生した結果、6千人を超える死者が出た。日本人は、日本が便利で効率的で安全な国だと考えてきたのだが、そうとは言えない現実を突きつけられたのである。
 第二の事件は、3月20日に発生した地下鉄サリン事件である。乗客乗員14人が死亡し、負傷者は6千人以上にのぼった。オウム真理教団によって引き起こされたこの事件は、化学兵器が一般市民に向けて使われた類を見ない犯行として、世界に衝撃を与えた。
 実行犯の多くが理系の高学歴の若者たちだったことも、波紋を広げた。この国の若者の教育は、どうなっているのか? 彼らはこの国の経済的な繁栄の中で、かえって虚無感にとらえられ、そこを教団につけこまれたのか?
 TVは連日、オウム真理教関連のニュースでいっぱいだった。
 麻原彰晃こと松本智津夫は、山梨県上九一色村の教団施設内に潜んでいたところを、5月16日に逮捕された。

 90年代は1995年を間にはさんで、前半と後半ではまったく空気感の違う社会となったと、番組は言う。後半は、今にいたる長い暗い時代のはじまりだった。

▼90年代を通じて、株価は小さな上げ下げを繰り返しつつ、下がり続けた。不動産の価格も下落を続け、底の見えない状態が続いた。
 日本人の賃金が1997年をピークにその後2020年まで下がり続けているのは、日本経済がほとんど伸びなかったことが大きな原因であろう。日本の生産力(実質GDP)の90年代の伸び率は、年率にして0.65%に過ぎない。
 求人倍率が低迷し、94年の流行語大賞に選ばれたのは「就職氷河期」だった。「フリーター」が職業選択の自由を意味する時代は終わり、「安定志向」、「内向き」などの言葉で、揺れる若者の心が語られた。
 日本経済を立て直すために「グローバル・スタンダード」が盛んに言われ、「ガバナンス」やら「コンプライアンス」やら、次々にコトバが輸入された。
 だが佐々木敦は言う。「世界の中の日本、世界に出て行く日本、というモードから、世界と無関係なというか、世界は世界、日本は日本、という感じになってきた。現状をなんとか肯定したい。そういう感覚が随所に出てきた―――」。

▼金融機関の破綻が相次ぎ、失業者がはじめて300万人を突破したこの時代を象徴するものとして、番組は2000年に公開された映画「バトルロワイアル」(監督:深作欣二)を取り上げる。
 離島に連れてこられた1クラスの中学生たちに向かって、元担任教師のキタノ(北野武)が、「新世紀教育改革法」、別名「バトルロワイアル法」について説明する。「……この国はもう、ダメになってしまいました。失業者が街にあふれ、不登校児も増加、少年犯罪が多発するこの国で、エラい人たちが相談してこの法律を作りました。……今日は皆さんに、ちょっと殺し合いをしてもらいます。最後の一人になるまで。反則はありません」。そしてこうも言う。「これだけは覚えておけ。人生はゲームだ。闘って生き残る、価値ある大人になりましょう……」。
 主人公の中学生は、「バトルロワイアル」から脱出しようと団結を求めるが、クラスメートたちは生き残るために互いに殺し合う。―――
 筆者はこの映画を観ていないので、なんとも言いかねるのだが、外国では新しいカルト映画として支持を集めたらしい。
 日本映画に詳しい米国の学者は、次のように評価する。
「この映画は90年代につくられたが、90年代の映画らしくない。高齢になった深作欣二が撮っているのに、若い反抗的な監督の作品のようだ。抵抗、怒り、非人道的なシステムに対する叫び。深作は60年代の感性なのです。」
 さらに彼はこの映画に、「社会は競争だからキミは負けだ」、「自分の身は自分で守りなさい」という「新自由主義」の主張に対する、反対のメッセージを読み込む。
 しかし番組は、この映画が日本ではどういう評判だったのかについて、何も触れていない。日本の若者たちは深作欣二の「抵抗、怒り、非人道的なシステムに対する叫び」に、熱く反応したのだろうか?
残念ながら筆者には、どうもそのようには思えない。―――

▼いま筆者自身の90年代を振り返ると、ほとんど思い出すこともないことに驚く。記録をもとに記憶を掘り起こしていけば、その時自分がどういう仕事をしていて、上手くいっていたのかどうか、家族はどうしていたのかなど、なんとか語ることはできるかもしれない。しかし鮮やかなイメージとして浮かんでくるものは、ほとんど無いに等しい。
 これは筆者の感受性が年齢とともに鈍くなっていたからであろうし、世の中の動きに反応するより、日常の雑用に追われ、対応することで精いっぱいだったということの顕われでもあるのだろう。
 90年代に自分はどういう映画を観たか、思い出そうとしても、70~80年代のようにはっきりと答えることができない。子どもを連れて「ホームアローン2」(1992年)や「ダイハード3」(1995年)を観たことや、周防正行の「シコふんじゃった」(1993年)、「Shall we ダンス?」(1996年)を観に行った記憶はある。また、「シンドラーのリスト」(1994年 監督:S,スピルバーグ)、「ショーシャンクの空に」(1994年 監督:フランク・ダラボン)、「フォレスト・ガンプ」(1995年 監督:ロバート・ゼメキス)なども観ている。だが答えられるのは、その程度なのだ。
 90年代の歌の記憶は、さらに乏しい。なかにし礼が、「昭和の時代とともに日本の歌謡曲は終わった」と言ったように、日本の歌の「変質」という事情が大きかったと思うが、ふと口ずさめるような90年代の歌を、筆者はひとつも持っていない。

 95年に「Windows95」が発売され、本格的なインターネット時代が始まったのだが、まだまだ日本社会は、ネット時代のあわただしい変化から遠かったようである。年配者や高齢者をあわてさせない変化のマイルドな社会とは、この時代が日本の停滞の時代だったことを照らし出しているのかもしれない。

▼1960年代から90年代までの40年間を駆け足で見てきた番組は、締めくくりのナレーションで次のように語る。
 ―――(40年間を振り返って)この間ずっと忘れていたのは、あの言葉、闘争の時代に発せられたあの言葉に応えることではなかったのだろうか?
 「……僕がしみじみと感じたのは、知性というものは、ただ自分だけではなく、他の人たちをも自由にのびやかに豊かにするものだというようなことだった。」(『赤ずきんちゃん気をつけて』庄司薫)
 戦後、教えられた豊かさのため、ひたすら走る競争に夢中になってきた日本。しかしそこからはみ出した感受性は、あちこちに溢れていた。その名づけがたい精神の運動が日本のサブカルチャーの源泉だったとしたら、のびやかで自由な心が、思いがけない形で他者との対話の回路をいま開いている。―――
 番組は、日本の映画やアニメ、マンガなどのサブカルチャーが、世界で人気を得ていることに、もっと目を向けるべきだと主張する。
 日本の経済はあいかわらず低迷したままで、世界における経済力は低下しつつあるが、そのタイミングで世界は日本を評価しはじめた。「この皮肉な現象こそ考えるべきなのかもしれない」と。

 日本のアニメやマンガが世界で人気を集めていることは、もちろん悪いことではない。しかしそれだけだとするなら、そしてそのことに縋らなければならないのだとするなら、やはり淋しい。うつろいやすい世界の中で基礎的な力を保持し、敬愛されることの必要性は、これまでもこれからも変わらない。

(終)

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