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『ソ連獄窓十一年』3 [本の紹介・批評]

▼1946年の6月初旬、ウォロシーロフ監獄に三十五、六歳の男が入ってきて、「関東軍参謀・山形陸軍少佐」だと名のった。ハルビン特務機関に長く勤務し、ソ連の対日宣戦布告後、新京在住の軍人家族を輸送する指揮官をつとめ、平壌でソ連軍に逮捕されたと前野に語った。ハルビン在任中、多数の白系ロシア人をスパイとして使っていたが、戦後それらのスパイのほとんどが捕らえられ、禁固20年、25年という重刑に処せられていることを知っていたから、山形は自分も重刑を覚悟していた。
 「自分は25年の判決は覚悟している。しかし落胆する必要は少しもない。われわれの運命は要するに国際情勢の如何にかかっている。国際情勢が日本に有利に展開すれば、25年が5年で釈放されることもあり得る。問題は日本が一刻も早く復興し、国際社会において十分の発言力を持つようになってくれることだ」。
 前野は山形の言葉を聞き、はっと目が覚めるほど新鮮な感銘を受けた。その時まで前野が接した日本人は皆、腹を減らし、過去の思い出と家族の心配にとらわれてその時々を過ごすのが精いっぱいの様子で、帰還したあと国家の復興にどう力を捧げるかということを考え、語り合う者はほとんどいなかった。
 「アメリカはどう出てくるのか。日本の国体をどうしようとするのか」。山形少佐はしきりに祖国の運命を話題にした。「自分は帰国後、すぐに新政党運動を始める」と言って、日本の復興の方策や新しい日本の理想を語ったりした。この生活環境でこれだけの気概と抱負を保持していることに、前野は好感を持ちつつ質問した。
 「あなたほどソ連の事情に通じている人が、軍人家族を引率して平壌からさらに南下せず、あえて平壌にとどまってソ連軍に逮捕されたのはどういうわけか。俊敏で目先の利くあなたらしくないように思われるが」。
 山形少佐は次のように答えた。「日本軍は米軍と熾烈な戦闘を行い、大きな損害を与えてきたので、米軍の日本人に対する恨みはきわめて深く、占領したのち日本人に対して激しい報復手段が取られるものと、関東軍司令部は予想した。一方ソ連軍に対しては、日本は積極的に戦闘を行っておらず、ソ連のほうから条約を無視して仕掛けた戦争であり、開戦後一週間で終了したことから見ても、ソ連軍の日本人に対する態度は寛大だろうと予想した。そこから、軍人家族団に対しては平壌にとどまり、南下しないように命令が出された」―――。
 これが対ソ作戦を最大の任務とし、ソ連研究に莫大な精力を費やしてきた関東軍司令部のソ連観だったのか……。その甘さとあまりの認識不足に、前野はただ呆れるしかなかった。

▼6月下旬、軍法会議が開かれ、山形少佐は護送兵に迎えられて出廷し、帰ってくると法廷内の様子をこと細かに面白おかしく説明した。被告はハルビン特務機関関係の7~8人で、検事の公訴事実の陳述があり、それに続いて裁判長は、公訴事実についての認諾を求めているらしかった。被告がその事実を否認しても認めたとしても、それ以上深い突っ込んだ尋問はなく、二日間で公訴事実の認否に関する供述は終了した。
 普通の国の裁判なら、ここから事実に関する本格的な取り調べが始まり、証拠調べが行われることになるのだが、それまでのソ連のやり方を見ていると、とてもそのような丁寧な手続きを踏む国とは前野には思えなかった。この法廷が開かれる前に、上部機関から結論が下達されていて、法廷における取り調べはまったく形式的なもの、という気がしてならない。とすれば、被告人に対する控訴事実の認否を終えたということは、これで事実調べが終わったことを意味し、いつ判決が下されてもおかしくない、ということかもしれない……。
 前野は山形に自分の心配を伝え、山形は、一応の準備はしておこうと、その夜荷物を整理した。
 翌日は日曜日だったが、護送兵が迎えにやってきた。山形は、判決が出たら自分は本監獄に送られ、ここには帰ってこられないだろう。帰ってこなかったら、判決が出たものと考えてくれ、と言い残して出ていった。
 夕方、便所に行く時間に、全員監房を出て玄関前で二列縦隊に整列し、歩き出そうとしたとき、その出来事が起きた。玄関前の広場の東北の隅に、トラックに鉄の箱を載せたような形の囚人自動車が止まっていたが、《その箱の横っ腹にある鉄扉が猛烈な勢いでゆさぶられ、驚くほど大きな音を発した。皆ビックリしてそちらを振り向いた瞬間、なんとも名状しがたい、ぞっとするような人間の高い叫び声が箱の内から聞こえてきた。/突然だったので、何を叫んだのか分からなくて隣の人になんだなんだと尋ねていると、ふたたび箱の扉がゆさぶられ、今度は明瞭に、
 「山形参謀銃殺!」
という叫びが耳朶を打った。はっとして立ち止まったが、あわてた番兵の叱咤に囚人の隊列は、広場の西南隅にある便所の板囲いの内に追い立てられた。》
 用足しをしながら互いに語り合い、結局、箱のなんらかの隙間からわれわれの隊列を認めた山形氏が、自分に下された判決を伝えようとした「血の叫び」だ、という結論に達した。帰りにまた同様の叫びがあったなら、危険を冒してもこれに答えなければなるまい……。
 便所が終わって囚人たちの隊列が箱車に近づいた時、その扉がふたたび破れんばかりに内側から叩かれ、「山形参謀銃殺!」という叫びが聞こえた。先頭を歩いていた若い日本軍将校が、「わかったぞお! かならず家族に伝えるぞお!」と右手を高く差し上げて叫んだ。するとそれが通じたらしく、箱の中は静かになり、二度と扉は叩かれず、叫び声も聞かれなかった。しかし驚いた番兵は、囚人たちを早々に監房に追い込んだ。
 監房に戻った囚人たちは、だれ一人口をきく者もなく、黙然と座り込んでいた。山形の銃殺は、ソ連が旧日本軍特務機関をいかに憎んでいるかを物語っている、と前野は思った。

▼上の出来事は、「ウォロシーロフ野戦監獄」でのひとコマである。前野茂は「野戦監獄」について説明していないのでよくわからないのだが、判決の下った囚人が収容される本格的な「監獄」ではなく、容疑者を取り調べのあいだ入れておく一種の留置場のようなものらしい。
 ウォロシーロフ監獄にはさまざまな囚人が来ては、また他所に連れて行かれた。前野のような旧満州国の幹部もいれば関東軍の将校もおり、満洲や北朝鮮からたくさんの日本人、中国人、朝鮮人が送り込まれてきた。満洲や北朝鮮から連れてこられた中国人や朝鮮人には、八路軍や北朝鮮の共産党に邪魔な存在となった人びとが、「反ソ陰謀」を企てたとして逮捕されたケースが多く、北朝鮮から送られてきた日本人には元警察官が多かった。
 ソ連の国営農場で労働を強制されていた日本軍の捕虜が脱走し、捕まって送り込まれたケースも三件あった。彼らの話を聞き、前野はソ連の日本軍捕虜に対する考えをはっきりと理解した。「要するに、これは捕虜ではなく奴隷である。ソ連軍は満洲その他の占領地で多くの物を奪っただけでなく、人間を拉致して、酷烈な労働を強制しているのである。」
 ソ連の市民が二人、同房になった。ヨーロッパ戦線でドイツ軍の捕虜となり、米軍に解放され、米国経由でソ連に送還された男で、ウラジオストックの職場で米国の見聞談を話したのが密告され、「資本主義に与して米国の宣伝をした」として逮捕されたのだった。
 彼らは山形少佐のように、判決が出されてどこかへ連れ出される場合もあっただろうが、裁判もなく、それどころか尋問すらなく、他所に移される場合も多かったようだ。中国人の一人が当直将校の巡回の際に抗議するのを、前野は見た。
 「速やかに取り調べを実行し、罪があるなら罰するがよく、罪がないならただちに釈放せよ。ここに連行されてすでに半年になるのに、まだ一度も呼び出しがない。厳重に抗議する。」

 前野は1946年8月末に、「ウォロシーロフ野戦監獄」から10キロの距離にある「ノボリコニスク将官収容所」に移された。

(つづく)

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