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『ソ連獄窓十一年』4 [本の紹介・批評]

▼前野茂ら6人が、山形少佐が乗せられたのと同じ箱車で移動させられた「ノボリコニスク将官収容所」は、小規模な収容施設だった。日本軍捕虜の将官を収容する目的でつくられたもので、最近まで関東軍の将官と満州国軍の将官二十数名が当番兵を従えて収容されていたとのことだった。
 ここには日本人三十余名、中国人約二十名、ドイツ人四名が収容されていた。日本人の大部分は、ハルビンなど満洲に置かれた領事館の職員であり、中国人の大部分は汪兆銘政権の下で北朝鮮の領事館で仕事をしていた職員、ドイツ人もハルビンと大連で逮捕されたドイツ領事館の下級職員だった。12月初めには新京の日本大使館と領事館の職員二十余名も加わった。
 彼ら外交機関の職員は、ソ連軍が自分たちを一般市民以上に保護するだろうと期待していたが、ソ連にしてみれば外国の外交機関職員はすべてスパイにほかならず、タイピストもお茶くみの女子事務員も全員逮捕されたというわけだった。
 外務省や満州国外交部の職員に対する尋問が、年を明けた47年2月から再開された。彼らの行っていたソ連についての情報収集が尋問の対象とされたが、それについてソ連が刑事罰を科すことができると考える者は一人もいなかった。外交機関の職員が駐在する国で情報収集し、本国に送ることは当然の職責であり、どの国でもやっていることである。無条件降伏した国の職員だからといって、それを捕らえて刑事処分に付するなどということは、常識上考えられない。もしそれらの人びとの行為を、戦争犯罪として処罰の対象にしようとするなら、それは連合国によって設けられた特別法廷で行うべきものであり、ソ連の国内法の対象として裁かれるべきものではない―――。

▼47年4月になり、前野茂の尋問がようやく再開された。中尉の肩書を持つ調査官は、前野がどのような方法で裁判を指導したのかと訊いた。前野はその質問を、満洲の裁判組織をいかに近代化し、いかに裁判官の質の向上を図ったかという意味に取り、説明を始めると、調査官は苦々しげに言葉をさえぎり、そんなことは聞いていないと言った。「あなたは司法部次長として、満洲のあらゆる裁判を重く重くと指導したに違いない。その指導の方法を尋ねているのだ。それが分かっていながら、ことさら関係のない話をする。あなたは嘘つきだ」。
 前野が、満州国では「裁判の独立」が尊重されていたことを説明すると、調査官は、以前の取り調べであなたは、「あらゆる司法機関は自分に隷属していた」と言い、調書に署名しているではないかと言った。驚いた前野は、署名に至った事情を説明し、満州国の司法制度の説明に努めたが、調査官は疑わしそうな表情で前野の顔をにらむばかりだった。
 次に調査官は、日本軍部のソ連攻略計画に側面から協力していたという視点から、前野を追求した。
 前野は答えた。満州国が日本軍部の方針の下に建てられたものであったとしても、満州国で働いた日系官吏がすべて日本軍の目的のために仕事をしていたと考えるのは誤りである。われわれはもっと大きな理想の実現のために、すなわち満洲の地に理想的な文化国家を建設するという理想のために挺身した。そうした理想があったからこそ、公正な司法制度の確立や裁判の独立のために力を尽くしたのであり、理想がなければ裁判の独立も、意味を失うであろう―――。
 調査官は終始苦々しい顔をして聞いており、上の前野の陳述は少しも調書に取らなかった。

 前野に対する尋問は3週間続き、最後に次の事実を認めるかと言って一通の文書を通訳を通じて前野に読み聞かせた。満州国の司法部の官吏だった時代に多くの中国人を圧迫する法律を立案・公布・施行し、監獄運営の責任者として中国人民主主義者を収監し、さらに裁判所、検察庁を指揮して民主主義者に対する刑罰を重く重くと指導した、云々。
 前野は思う。かりに事実がこの通りだったとして、中国政府がこの事実を取り上げ、問題にすることは理解できる。しかしソ連はまったく無関係ではないか。これらの事実はソ連の法律とどう関わるのか、まるで理解できない―――。
 前野は、読み聞かされた事実はソ連の国内法の罪に当たるのか?もしそうだとすれば法の条文を示してほしい、と言った。調査官の答えは、ソ連刑法第58条4項に該当するというものだったので、その法文を読んでほしいと、さらに要求した。
 「日本資本主義を援助した行為を処罰するのです。」
 「それは他国に対する内政干渉ではないか。そんなバカげた法律などありえない。」
 「あなたとこの点について議論するのは無駄である。当方が読み聞かした事実について認めるのかどうか、返答すればよい。」
 前野は議論をあきらめて事実の認否に話を移し、それまでの主張を繰り返したが、いくら説明しても理解されない憤懣から、声は自然に大きくなった。

▼5月の半ば、前野茂は例の囚人を運ぶ箱車でハバロフスクまで連れて行かれ、ここからシベリア鉄道の囚人車両に乗せられ、モスクワに護送された。起訴されたのかどうか不明だったが、「モスクワで再調査する」ということらしい、と前野は考えた。
 19日間の囚人車両の過酷な旅の果てに前野が連れて行かれたのは、モスクワの町はずれにあるレホルトブスカヤ監獄で、政治犯未決監獄として有名なところだった。入れられたのは間口3メートル、奥行き5メートル、天井までの高さ4メートルほどの独房で、入口は鉄板でおおわれた分厚く重い扉であり、部屋の片隅に水洗便器が置かれ、他の隅にラジエーターを囲む頑丈な木の箱があり、箱の穴を通して暖められた空気が出てくる仕組みになっていた。
 午前5時起床、午後10時就寝、その間囚人はベッドに腰かけることは差し支えないが、ヨコになることや眠ることは許されなかった。食事は朝6時ごろから8時ごろまでの間に一日分の黒パン600グラムと角砂糖1個、白湯が食器に半分ぐらい支給された。昼食は正午から午後2時の間にひしゃく1杯のキャベツのスープと雑穀の粥が大さじ2杯ぐらい、夕食は6時から8時の間に昼と同様の量のスープだった。
 散歩は1日10分から20分、風呂は十日に一度。前野はこの監獄で6か月間、独房生活を強いられた。

(つづく)

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