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『ソ連獄窓十一年』2 [本の紹介・批評]

▼前回、前野茂は、「12月の末、ソ連軍に引き渡され、朝鮮の平壌に移動させられた」と書いたが、正確に言うと、安東でソ連軍に引き渡されたあと鴨緑江を渡り、対岸の朝鮮・新義州の拘置所に入れられ、その後に平壌に移された。朝鮮に侵入したソ連軍の行動と朝鮮北部の状況を、前野は新義州の同房者などから聞いた情報をもとに記録しているので、少し記しておこう。

 日本が降伏し、ソ連軍が朝鮮に侵攻したとき、朝鮮では元のままの政治体制で占領者を迎えようとした。満州における情報を入手した憲兵や警察官は、荷物をまとめ、家族を連れて南下しようとしたが、朝鮮総督府は現状不変更を指令し、警察官には現場にとどまって治安維持の任務にあたるよう命令した。
 ソ連軍が進駐して来ると、平安北道知事は大宴会を催してこれを歓迎したが、ソ連軍が真っ先に実行したのは、総督府の官吏の追放と憲兵、警察官の逮捕だった。知事をはじめ日本人警察官全員と司法機関の長は平壌に連行され、在職中にソ連のスパイを検挙、起訴、裁判した疑いのある者は、留置場または監獄に入れられた。
 ソ連軍はまた、地方政治は民主主義の原則にしたがって朝鮮人が自由かつ自主的に行うべきだと宣言し、政党を組織しようとする者は組織幹部の名と主義綱領を書面で提出するように指示した。朝鮮人は喜んで、われもわれもと自由主義的政党や民族主義的政党をつくり、幹部名や綱領等を占領軍に提出した。ソ連軍はこうして占領地内の有害分子の人名と所在をはっきりつかむと同時に、共産党を育成、強化することに力を注いだ。そして時期を見て、共産党支配に有害と認められた人びとを反ソ親日反動分子として、あるいは親米分子として、逮捕していった。

 共産党は行政の実権を掌握すると、地主の土地を没収して小作人に分配し、総督府時代の村長や警察官、一般市民でも日本の政策に協力して表彰されたような者を逮捕し、処刑した。地主たちは持てるだけの財産を持って三十八度線を越え、南に逃げていった。
 前野は、在留日本人に対して北朝鮮政権が行った施策について、「人道を無視した残虐な復讐」であり、その「窮境は聞くだけで息苦しくなるほどのものだった」と書いている。
 まず日本人の居住する家屋を、敵の財産であるという理由で没収した。このため家を失った新義州の日本人は、当局の指定した空き倉庫に収容され、土間にむしろを敷いて寝起きすることを余儀なくされた。彼らの動産は数個の行李と夜具のみ、所持することを許された。お金は全部貯金するよう強制され、毎月一定額だけ引き出して使うことが認められたが、昂進するインフレの前に無力であり、仕事を求めれば道路掃除や便所の汲み取りなど下級の筋肉労働以外になく、その賃金は朝鮮人の三分の一以下と決められていた。日本女性の売春の代価も三分の一以下とされ、日本人は餓死寸前の状態にまで追い込まれている、と前野は書き留めている。

▼1946年1月下旬、前野茂は新義州から平壌の監獄へ鉄道で移された。そして2月10日になり、平壌からウラジオストック近くのウォロシーロフ市まで大型双発機で運ばれ、ここの野戦監獄に入れられた。
 監獄での生活は、次のようなものだった。午前6時起床。白樺の小枝を束ねたホウキで房内の掃除。7時ごろから1日分の黒パン(各人600g)と白湯が支給される。昼食は午後2時から3時までの間に雑穀のスープと木製スプーン一杯の雑穀の粥。夕食は6時から7時までの間に雑穀のスープ。野菜がぜんぜん支給されないことが不安だった。砂糖が1日25グラム支給されたので、前野はそれを3,4日分溜めておいて口に含んだり、粥に入れてプディングのようにして食べたりした。
 朝夕2回、便所の時間があり、兵士の指示の下、野外の便所に集団で向かう。大きな堀の上に碁盤の目のように板が渡されていて、一度に数十人が並んで用を足す。周囲は、満洲から分捕ってきたベニヤで囲ってあったが、寒いときや雨天の時はたいへんだった。しかしこれが、囚人が外気に触れられる唯一の機会だった。
 日本人の囚人にとって不可解なのは便所の紙を与えてくれないことだった、と前野は書いている。囚人は犬同様、尻を拭く必要がないとでも考えているのだろうか、と不思議に思っていたが、ある時看守の兵士が囚人といっしょに並んで用をすませ、紙を使わないで立ち去ったのを見て、ようやく紙をくれない理由が呑み込めた。前野は房から外に出るたびに紙くずを拾い、用足しに使うことにした。
 食事と掃除の時間を除いて囚人たちは何もすることがなく、毎日の最大の仕事はシラミ退治と雑談だった。

▼ソ連軍の前野に対する取り調べは新義州の留置場から始まったが、取調官が他国の事情に無知であったり、通訳に法律の素養がまったくなかったりして、容易に進まなかった。
 前野は、文教部次長の職にあったのは1か月に過ぎず、それまでは司法部次長として満州国の司法行政の分野で腕を振るった法律の専門家である。満洲に渡る前、日本では判事の職にあった。司法部次長の仕事の内容は法律で定められており、隠す必要もないため、取り調べには率直に語る姿勢で臨み、在職中に立案した法律などについて説明した。
 取り調べのあと供述内容は調書にまとめられ、通訳がそれを読み聞かせ、署名を求められる。ウォロシーロフ監獄での調書には、満州国官吏としての前野の業績が大ざっぱに書かれたあと、最後に「司法部次長の下に全司法機関が所属していた」と読み聞かせられたので、それはどういう意味かと前野は質問した。
 「一般司法機関が司法部に所属していたというのは行政的な意味では正しいが、裁判は外部の力から完全に独立しており、司法部大臣もこれに干渉することは許されなかった。調書の最後の部分がこのことに反する意味なら、署名はできない」。
 取調官の中尉は、前野の言ったとおりのことが書かれているので心配する必要はないと言い、ロシア語の読めない前野は確認するすべもなく、署名せざるをえなかった。
 しかし後になって、「満州国の一般司法機関だけでなく、軍事司法機関もともに司法部次長の指揮下に属していて、その裁判も司法部次長の命令で自由に変更され、決定されていた」と記載されていたことが判明した。前野はこの記載の訂正のために、四苦八苦させられることになる。

(つづく)

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