SSブログ
本の紹介・批評 ブログトップ
前の10件 | 次の10件

『フクシマ戦記』 [本の紹介・批評]

▼『フクシマ戦記』(船橋洋一 文藝春秋 2021年)は、前回のブログを書くにあたって参照した本の一つであるが、印象に残っていることをいくつか書き留めておきたい。

 2011年3月の東日本大震災で巨大な津波に襲われ、全電源を喪失した福島第一原発では、原子炉の暴走を止めるために、現場では注水による冷却に全力を注いだ。注水の方法として、初めは機動隊、消防、自衛隊のポンプ車やヘリコプターからの放水が行われたが、主要な方法として使われたのは、連結送水口を使った注水と、ドイツのプツマイスター製のコンクリートポンプ車による注水だった。このコンクリートポンプ車は、折りたたんだアームを伸ばすと58メートルにもなり、アームの先から生コンの代わりに水をピンポイントで注入することができた。プツマイスター社の技術者トマス・カイルが現場に来て、運転から修理の仕方まで指導した。
 このプツマイスター製のコンクリートポンプ車は、チェルノブイリの原発事故の際も活躍した。事故の直後、ソ連政府はヘリコプターから5千トンの砂や土などを投下して熱を逃がし、放射能を緩和したあと、上からコンクリートを流し込み、原子炉をコンクリートの「石棺」の中に封じこめることにした。
 コンクリートポンプ車10台の運転席に、放射能を遮るための重さ4トンの鉛のフードをかぶせ、窓やビデオカメラにも鉛を貼った。遠隔操作するためにビデオカメラも取り付けた。
 《その操縦の訓練のため、ソ連から何十人もの人々がシュツットガルトに送り込まれた。全員、死刑囚だった。この作戦に従事すれば釈放する、と約束されてきたのだった。/すべてが極秘作戦だった。彼らはよく食べた。ビールをラッパ飲みし、ソーセージを貪った。カイルは彼らの訓練係の一人だった。
 3カ月近く続いた石棺作戦は成功した。カイルはほっとしたが、ずいぶんとあとになって、恐ろしい話を聞いた。彼らは全員、被爆のせいで3年以内に死亡した、と。》

 ロシアのウクライナに対する「特別軍事作戦」でも、死刑囚や懲役囚が「活用」されているという話を聞く。プリゴジンというプーチンと親しい新興財閥の一人が、「ワグネル」という名の「民間軍事会社」を持っていて、各地の刑務所から釈放をエサに囚人を集め、傭兵として戦場に送り出しているという。ヒソヒソ声で語られる秘密の話ではなく、表通りで報じられるニュースだというところが恐ろしい。筆者はロシア人について何も知らないのだが、その性格の内にはある意味で“合理的”に思考し、躊躇なくやってのけるという側面があるらしい。

▼福島第一原発の原子炉がもっとも危機的状況にあった3月15日の朝、吉田所長は、機械の操作や復旧に必要な最小限の人間を除き、所員に退避を命じた。650名ほどがバスに乗って第二原発へ移動し、あとに69名が残った。
 この出来事は、米国のニューヨーク・ポスト紙が公式ツイッターに、「フクシマの50人の勇敢な日本人が踏みとどまり、過熱する炉心と闘っている」と投稿したことで、一般に知られるようになった。ギター奏者のブライアン・レイが自分のツイッターで、「フクシマ50 すごい 日本の新たなヒーローたち、ホンモノそのもの」とつぶやき、英国のガーディアン紙が配信した記事によって、勇敢な「フクシマ・フィフティ」は全世界に広まった。

 しかし残った所員69人という数は、《5つの原子炉と7つの燃料プール(共用プールを含む)を相手に格闘していた現場としてみれば、絶望的に不十分であり、いずれ撤退を迫られるか、全員玉砕に追いやられるかの規模でしかない》と船橋洋一は書く。
 《米国務省担当官はこの時の東電の現場の対応態勢、なかでも従業員の数について「冗談のように少ない規模」とみなし、この数字では東電の撤退は不可避だと深刻に捉えていた。
 「このレベルの原発事故だと米国なら何千人で対処する。戦争計画のようなもので臨まなければならないところだ」と同担当官はのちに述べている。》

 危機の状況において、必要な国家態勢を冷静に考える米国の担当官と、勇敢な「フクシマ・フィフティ」の美談にとどまりやすい日本人の落差は、根の深い問題かもしれない。危機のあいだ現場に踏みとどまったある東芝の技術者は、そこに先の戦争につながるものを見、日本人はああやって自分たちを追い込んで玉砕するのだ、と述懐している。

▼この3月14日夜から15日にかけての危機的状況にあって、菅直人首相が早朝東電本店に乗り込み、東電幹部に10分間近い演説をしたことはよく知られている。「……日本がつぶれるかもしれないときに撤退はありえない。60歳以上は現地に行って死んだっていいとの覚悟でやってほしい。オレだって行く。われわれがやるしかない。撤退はありえない。撤退したら東電は必ずつぶれる……」。
 この時の菅首相の演説をTV電話で聞いた福島第一原発の現場の所員たちは、強い反感を覚え、また菅の行動を批判的に見る人びとは、その間現場の作業を妨げただけだと非難した。吉田所長は「調書」の中で、自分たちは「撤退」なんて言葉は一言も使っていない、「誰が逃げたんだと所長は言っている、と言っておいてください」と強く反発している。
 しかしこの「撤退」問題は、言葉の言い間違い、聞き間違いというレベルで問題にしたあげく、忘れ去って良い問題ではない。「幸運」に恵まれなければ、日本人はこの問題に否応なく直面しなければならなかったはずの、大問題なのだ。
 国会事故調のヒアリングで、弁護士の野村修也は、「退避について、全員が退避したいと仮に申し出があった場合に、政府には退避するなという命令を発する権限はあるんでしょうか」と質問している。海江田万里(経済産業相)は、こう答えている。「それは、命令はないと思います。命令は。ですから、お願いするということでございます。頑張っていただけないか。私はそのような言い方をずっとしてきたつもりであります」。

 細野豪志(首相補佐官)は、この時の菅の行動について次のように語ったという。「ただ、やっぱり東電の作業員が死ぬ可能性があって、(自分は)死ねとは言えなかったんですね。そこは菅さんにかなわなかった。菅直人は、間接的にだけど、東電の作業員は死ねと、死んでもいいと、言ったんです。一人の命より国家の重みのほうがあると言ったんだと思いますよ。そういう表現は使わなかったけど。私は国家の重みと作業員の命というのをきちっと天秤にかけられなかった。それぞれの個人の人生とか家族とか、そっちにやっぱり自分の中で行ってしまった弱さですね。彼(菅直人)はまったくもってヒューマニストじゃないんです。リアリスト。」
 「この局面でわが国が生き残るためには何をしなければならないのかという判断は、これはもう本当にすさまじい嗅覚のある人だと思っているんです。……撤退はありえないし、東電に乗り込んで……そこでやるしかないんだという判断は、日本を救ったと今でも思っています」。
 《菅に批判的な官僚たちも、直接危機対応に取り組んだ人々は、この点に限っては、似たような評価を下す》と、船橋は書いている。

(おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

『朝日新聞政治部』6 [本の紹介・批評]

▼鮫島浩はこの事件について考えたことを、『朝日新聞政治部』の中で二つ述べている。一つはもちろん記事の評価についてである。
 担当した二人の朝日記者は、東電の隠蔽体質を批判して、福島第一原発の現場事務所と本店を結ぶテレビ会議の映像を公開させた実績を持つ。2012年9月5日の紙面に、不十分ながら公開された東電テレビ会議についての報道が載っているが、リードには次のような言葉が付されていた。
 「原発暴走中と思えぬ緩慢な対応。戦略性のない物資補給。現場への理不尽な要求。東京電力が開示した原発事故のテレビ会議記録から見えたのは、失策を重ね、事態を悪化させる、人災の側面だった」。
 公開された映像には、吉田所長が所員の退避を命じたあたりの音声が付いていなかった。「吉田調書」を入手して、その場面で吉田所長が「待機命令」を出していたことが判明し、東電が意図的にその事実を隠していた疑いがあったと自分たちは考えたのであり、吉田所長の「待機命令」に焦点を当てたことは「合理的」だった、と鮫島は今も主張する。
 だが繰り返しになるが、原子炉の制御が不可能となる危機的状況にあって、吉田所長の頭にあったのは所員をいくらかでも安全な場所へ「退避」させることであり、「待機」させることではではなかったはずである。だから事前の打ち合わせに沿って所員に「退避」を命じ、所員は「命令に従って」バスに乗ったのだ。公開された資料を読むかぎり、筆者には「所員が命令に背いて職場を放棄した」という情景は、思い浮かばない。

 鮫島チームのスクープ記事は、「吉田調書」の言葉尻にこだわって、誤った情景を描き出していると筆者は考えるが、現実の福島第一原発の事故はその後どうなったのだろうか。
 原子炉や燃料プールを冷却するための注水活動は、その後も必死で継続されたが、それが
本格的に行われたのは、3月22日からである。ドイツ製のコンクリートポンプ車が運び込まれ、この日、4号機の燃料プールに注水した。このコンクリートポンプ車は、折りたたんだアームを伸ばすと58メートルにもなり、アームの先から生コンの代わりに水をピンポイントで注入することができた。それから約3か月間、このコンクリートポンプ車の注水が、原子炉の暴走を抑え続けた。(『フクシマ戦記』船橋洋一)
 政府事故調のヒアリングで、吉田所長は機動隊、消防、自衛隊の行った初期の放水活動について、量的にわずかであり、あまり効果がなかったと厳しい評価をしている。それに対してドイツ製のコンクリートポンプ車の注水は、効果的だったと評価した。吉田所長が陣頭指揮した連結送水口を使った注水と、このコンクリートポンプ車の注水だけが、原子炉の冷却に有効に働いた。(『フクシマ戦記』)
 しかし、福島第一原発の現場の必死の闘いにもかかわらず、原子炉の暴走を止められず、「東日本壊滅」となった可能性がなかったわけではないだろう。そうならなかったのは、ただ「幸運」だったからだと言うしかない。

▼鮫島浩がこの事件の体験から述べているもう一つは、インターネットの世界が既存メディアをしのぐ力を持ってきた現実を、自分を含め、朝日新聞があまりにも軽視していたという反省である。
 スクープ記事のあと、「日本を貶めるのか」という批判がネット上や週刊誌に見られたが、「一部右派のイデオロギー的な主張にとどまっていた」。しかし、「命令違反と言えるのか」、「誤報ではないか」という批判が、少しずつネット上で広がりはじめた。そして8月5日、朝日新聞が「慰安婦問題を考える」を掲載したことで猛烈な「朝日バッシング」が起き、慰安婦報道と何の関係もない「吉田調書」も、この嵐の中に呑み込まれてしまった。
 9月11日、社長は記者会見を開き、「吉田調書」に関する記事を「誤報」として取り消し、関係者を処罰すると表明した。鮫島は記者職を解かれ、「知的財産室」に移り、ネット上に朝日新聞の記事が無断使用されていないかチェックする仕事を与えられた。それまでインターネットとは無縁に暮らしてきた彼は、そこで初めてネットの世界の現実に触れて驚く。
 鮫島は、朝日新聞に対する多くの罵詈雑言、とくに「吉田調書」を報じた記者に対する誹謗中傷を目にする。それらに眼を通しながら気づいたのは、「そうか、朝日新聞はこれに屈したのか」ということだった。
 《朝日新聞はネット言論を軽視し、見くだし、自分たちは高尚なところで知的な仕事をしているというような顔をして、ネット言論の台頭から目をそむけた。それがネット界の反感をさらにかきたて、ますますバッシングを増幅させたのだ。すでに既存メディアをしのぐ影響力を持ち始めたネットの世界を、私はあまりに知らな過ぎた。》
 鮫島は個人的にツイッターのアカウントを開設し、毎朝一本つぶやくことにした。
 《反応はまったくなかった。リツイートも「いいね」もほとんどなく、1か月たってもフォロワーは数十人にとどまった。厳しい世界だと思った。渋谷の雑踏で、一人つぶやいている気がした。読者に届くかどうかをさして考えず、読者からの反応も直接受けない新聞記者という仕事がいかにぬるま湯だったかを痛感した。》

 鮫島は、職務外のツイッター発信をするようになってから、批判的な眼差しで朝日新聞を読むようになり、その記事が「ネット情報に比べて早さにも広さにも深さにも劣っていることを実感した」と言う。しかしそこまで自信を喪失することもないだろう。
 たしかに鮫島チームのスクープ記事批判の火の手をあげ、朝日新聞の社長を「取り消し」と謝罪に追い込んだのは、「ネット言論」の力だったであろう。しかしその元にあったのは門田隆将の「紙の言論」であり、大勢を決したのは、産経新聞、読売新聞をはじめとする新聞各社の、朝日のスクープ記事に対する批判だったはずだ。
 鮫島は、朝日新聞社内に委縮ムードが広がり、「国家権力側の逆襲におびえ、抗議を受けないように無難な記事を量産しているように見える」と書く。そういう面もあるのだろう。しかし森友学園が格安で国有地の払い下げを受けていたというスクープや、財務省の「森友」決済文書書き換えの事実を暴くスクープなど、鮫島の後輩たちが委縮せずに頑張っていることも認めなければならない。

▼米国の「中間選挙」では、直前の予想に反して民主党がある程度ふんばりを見せたらしい。しかしそもそもトランプが力を持つ背景には、米国の分断された社会と「ネット言論」の力がある。新聞やTVなどのオールドメディアの力が低下するのと並行して、「ネット言論」が盛り上がり、それがトランプに力を与えているのだ。
 インターネットには市民どおしが繋がり、それが信じられないほどの力を発揮する側面があるが、また、社会から「権威」や「正統」を喪失させ、社会を混沌に投げ込む力も併せ持つ。オールドメディアと「ネット言論」を、人びとがいかに賢く取捨選択し、使いこなしていくか、それが問われているのであり、米国においていま試されているのだ。

(おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

『朝日新聞政治部』5 [本の紹介・批評]

▼2014年8月5日、朝日新聞は「慰安婦問題を考える(上)」という記事を、見開き2面を使って特集した。「朝日新聞の慰安婦報道に寄せられた様々な疑問の声に答えるために、私たちはこれまでの報道を点検しました。その結果を皆さまに報告します」というのが、記事の趣旨である。
 具体的には、「朝日新聞に寄せられた疑問の声」を五つの項目に整理し、それに答える形をとっているが、「吉田清治の証言」を「裏付けが得られず虚偽と判断」して関連記事を取り消したほかは、おおむね「朝日」の従来の主張で問題がないとするものだった。「吉田清治の証言」とは、日本の国家権力の末端にいた吉田が、済州島で朝鮮人女性を慰安婦にするために、“奴隷狩り”のような方法で連行したという「証言」だが、秦郁彦の現地調査以来、日本の論壇ではデタラメと見なされてきたしろものである。
 しかしこの特集には、朝日新聞がデタラメを報じた記事を、なぜ20年間批判されながら取り消さなかったのかという点について、何の説明もなく、謝罪の言葉もなかった。
 翌日8月6日の「慰安婦問題を考える(下)」は、「日韓関係はなぜこじれたか」という解説記事に、有識者5人の発言で検証を締めくくっている。

 この2日間の朝日新聞の「検証記事」は、「朝日バッシング」の嵐を引き起こした。とくに「朝日」で連載中の池上彰のコラムがこの問題を取り上げ、「朝日」の対応に疑問を投げかけたところ、掲載を拒否されたという事実が発覚すると、「朝日バッシング」の嵐はいっそう強まった。
 当時の「朝日バッシング」の様子をこのブログでも記録している(2014年10月5日)ので、再掲する。

 《「事件」発生から2か月が経つが、騒ぎはなかなか収まらない。朝日新聞が過去に行った「従軍慰安婦」に関する報道を検証し、吉田清治の「証言」に関する記事を取り消すと発表したのに対し、朝日新聞の誤った報道が日本の名誉を傷つけたという広範な批判、非難の声が上がり、続いているのだ。
 たとえば少し前の9月10日の新聞紙面を見ると、「文藝春秋」10月号の広告が出ているが、塩野七生「朝日新聞の‘告白’を越えて」、櫻井よしこ「朝日誤報を伝えないニュース番組」、平川祐弘「朝日の正義はなぜいつも軽薄なのか」などの見出しが並んでいる。同じ日に発売の「中央公論」を見ると、「朝日慰安婦報道の大罪」の見出しの下に、西岡力の論文「朝日の検証は噴飯ものである」を載せている
 さらに同日発売の「週刊新潮」は、「おごる『朝日』は久しからず」の特集だし、「週刊文春」は「追及キャンペーン第4弾」として「朝日新聞が死んだ日」の大特集を組み、また池上彰「『掲載拒否』で考えたこと」を別立てで載せている。
 他の月刊誌の多くは「朝日」非難の声をさらに高め、週刊誌は週替わりで「朝日」バッシングの記事を競っている。》

▼朝日バッシングの矛先は、慰安婦の「吉田証言」の記事だけでなく、福島第一原発の「吉田調書」の報道にも向かったということだが、筆者はあまりその記憶がない。それは筆者の関心が「慰安婦」の方にのみ向かっていて、原発事故の方になかったからかもしれない。今回、良い機会だと思い、福島第一原発の事故の記録を遅まきながら読んでみた。
 読んだのは、『死の淵を見た男――吉田昌郎と福島第一原発の五〇〇日――』(門田隆将 2012年12月 PHP)、『「吉田調書」を読み解く』(門田隆将 2014年11月 PHP)、『メルトダウン・カウントダウン』上・下(船橋洋一 2012年12月 文藝春秋)、『フクシマ戦記』上・下(船橋洋一 2021年2月 文藝春秋)。「朝日バッシング」問題に直接触れているのは、門田隆将の『「吉田調書」を読み解く』である。
 門田は生前の吉田昌郎に長時間のインタビューをし、その部下たち約90名にも取材して、『死の淵を見た男』を書いた。福島第一原発事故の際の男たちの闘いを「ノンフィクション」にまとめた門田にとって、朝日新聞の「所長命令に違反 原発撤退」というスクープ記事は、必死に闘った現場の人びとを貶める許しがたいものだった。
 門田は自分のブログに、5千字ほどの批判の文章を載せた。批判文は反響を呼び、ブログを読んだ「週刊ポスト」編集部から記事の執筆を依頼され、また写真誌「FLASH」には、彼がインタビューに答えた記事が載った。
 門田の批判は、朝日の記事は事実を捻じ曲げており、「反原発」、「再稼働阻止」という社の方針にあわせて都合の良い部分のみを取り上げ、真実とはかけ離れたことを真実であるかのように報道している、というところにあった。朝日の報道によって世界中のメディアが、「日本人も現場から逃げていた」と報じた。最後まで1Fに残って原子炉の崩壊と闘った人びとを、「フクシマ・フィフティーズ」と呼んで評価していた海外メディアも、今では「所長命令に違反して所員が逃げてしまった結果に過ぎない」と、評価を変えた。事実と異なる報道によって日本人を貶めるという点において、図式は「慰安婦報道」とまったく同じではないか―――。

▼6月の上旬、「週刊ポスト」と「FLASH」が発売されると、朝日新聞はすぐに週刊誌の編集部宛てに「抗議書」を送り、訂正と謝罪を求めた。「抗議書」の最後には、「誠実な対応をとらない場合は、法的措置をとることも検討します」という文言が付けられていた。
 8月18日、産経新聞が「吉田調書」を入手してスクープ記事を掲載した。「朝日」の「所長命令に違反して撤退」の記事を、全面的に批判する内容だった。
 8月30日、読売新聞が入手した「吉田調書」に基づき、「朝日」の記事を批判する報道を展開し、31日には共同通信の配信を受けて、毎日新聞や地方紙などほぼ全国の新聞に「吉田調書」問題が掲載された。いずれも「命令違反で撤退」という事実はない、という内容だった。

 朝日新聞は9月11日、木村伊量社長が記者会見を開き、「吉田調書」に関する記事を取り消し、読者と東京電力の関係者に謝罪した。また、「慰安婦問題」に関わる「吉田清治証言」を虚偽と判断し、関連記事を取り消すまでに20年もかかったことを謝罪した。
 筆者は、デタラメな「吉田清治証言」記事を20年以上放置してきたことや、池上彰のコラムの掲載拒否問題、「吉田調書」の「所長命令に違反して撤退」の記事の問題が、3点セットで「バッシング」の対象とされていることは知っていた。だが糾弾のメインは、問題の大きさから言って当然「慰安婦」関連の記事であると思っていた。
 木村社長の謝罪会見の主たる対象が「吉田調書」の記事であり、「慰安婦」関連記事は従たる問題とされたことに違和感があった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

『朝日新聞政治部』4 [本の紹介・批評]

▼「吉田調書」のスクープ記事は、その後批判の集中砲火に晒され、「慰安婦報道」とともに朝日新聞社を揺るがす大騒動に発展し、「取り消し」処分を受けることになった。朝日新聞社という報道機関にとっても鮫島記者個人にとっても大問題となったこの事件を、すこし詳しく見ていくことにする。

 2014年5月20日の朝日新聞朝刊の一面トップの記事の見出しは、次のようなものだった。「所長命令に違反 原発撤退」、「政府事故調の『吉田調書』入手」、「福島第一の所員の9割」、「震災4日後 福島第二へ」「全資料公表すべきだ」。内容は、これらの見出しが語っているとおり、「2011年3月15日の朝、第一原発にいた所員の9割(650人)が、吉田所長の待機命令に違反して、10㎞南の福島第二原発へ撤退していたことが判明した。東電はこの命令違反による現場離脱を3年以上伏せていた」というものである。
 第二面は、「葬られた命令違反」の見出しの下、当日の福島第一原発の状況を再現した記事である。2号機に注水できず、高熱の核燃料が格納容器の外に溶け出し、放射能がまき散らされる、いわゆる「チャイナシンドローム」の危険が現実に迫った緊迫した状況下で、吉田所長が事故対応に追われつつ、現場仕事と直接の関わりの少ない人間を退避させるために、本店と打ち合わせたり、バスを手配したりした様子が描かれている。
 吉田所長は、放射能が出てくる可能性は高いと考え、第二原発への撤退を念頭に準備させていたが、一方で構内の放射線量がほとんど上昇していない事実も重く見ていた。そして総合的に考えて、格納容器は壊れていないと判断した。「現場へすぐに引き返せない第二原発への撤退ではなく、第一原発構内かその付近の比較的線量の低い場所に待機して様子を見ることを決断し、命令した。ところが待機命令に反して所員の9割が第二原発へ撤退」してしまった。その事実を東電は隠している、というのが、見出し「葬られた命令違反」の意味である。

 このスクープ記事は、朝日新聞社内で称賛された。幹部は、社長が今年の新聞協会賞は間違いないと興奮している、と喜びの声をあげ、鮫島がパソコンを開けると、スクープを絶賛する同僚からのたくさんのメールが届いていた。世論もこのスクープを絶賛した。
 《マスコミ各社は吉田調書を入手できず、朝日新聞の独走を静観していた。》《当初の批判は、「日本を貶めるのか」という一部右派のイデオロギー的な主張にとどまっていた。》(『朝日新聞政治部』)

▼いま筆者がこのスクープ記事を読むと、いろいろな疑問が湧いてくる。
 政府が9月に「吉田調書」の公開に踏み切ったので、調書の内容を新聞が紙面で紹介した範囲ではあるが、読むことができる。それと鮫島たちの記事を併せて読むとき、新聞が「吉田調書」の中から読者にまず伝えるべきは、「所長命令に違反 原発撤退」だったのだろうかという点が、最大の疑問として浮かぶ。
 それよりも、所員を指揮して懸命に原子炉の冷却作業に取り組んできた吉田所長が、制御できない2号機を前に、「東日本壊滅」を予期し、死を覚悟したという事実の方が、よほど大きなスクープなのではないのか。
 筆者など、震災発生後に1号機や3号機の建屋の爆発のニュースを耳にしても、遠くの出来事として聞いただけで、いずれは復旧するものとなんの根拠もなく考えていた。心理学でいう「正常性バイアス」の好例だが、多くの日本人も同様だったはずで、事態の深刻さを伝える情報をどれほど目にしたか、記憶は怪しい。だから最前線の指揮官が「東日本壊滅」を覚悟したという事実は、大きなニュースであるはずなのだ。

 次の問題は、「福島第一原発の所員の9割が、所長命令に違反して撤退した」という表現が、実態を正確に表わしているかという疑問である。この表現からは、指揮官が「逃げるな」「踏みとどまって闘え」と命令したのに、部下たちは命令を無視してわれ先に逃げだした、という光景が目に浮かぶが、実際はどうだったのか。
 吉田所長は原子炉の冷却作業の指揮をとるとともに、退避の準備も事前に進めさせた。「操作する人間とか復旧の人間とか」は必要ミニマムで置いておくが、そのほかの人間を退避させるために、人数を調べさせ、使えるバスが何台あり、運転手はいるか、燃料は入っているか、バスをどこに待機させるかということまで細かく指示し、準備させている。そして3月15日の朝6時過ぎに危機が深まったと判断して、退避を実行させた。
 調書の中では質問に答え、「バスで退避させました。2Fのほうに」と短く答えている。2Fとは福島第二原発を指す。そのあと吉田は、次のように発言する。
 「本当は私、2Fに行けと言っていないんですよ。ここがまた伝言ゲームのあれのところで、行くとしたら2Fかという話をやっていて、退避をして、車を用意してという話をしたら、伝言した人間は、運転手に、福島第二に行けという指示をしたんです。私は、福島第一の近辺で、所内に関わらず、線量の低いようなところに一回避難して次の指示を待てと言ったつもりなんですが、2Fに行ってしまいましたと言うんで、しょうがないなと。」
 この発言のあと、次のようにも言う。「よく考えれば2Fに行った方がはるかに正しいと思ったわけです」。
 要するに吉田所長は、部下たちが福島第二へ避難したことを、自分の指示が正確に伝わらなかったが、結果的に正解だったと肯定的に評価しているのだ。それが、「バスで退避させました。2Fのほうに」という発言に表われている。
 鮫島チームのスクープ記事が実態を離れ、誤ったイメージを読者に与えるものであったことは確かである。

▼それにしても、鮫島チームはなぜ初歩的な「ウラ取り」調査を、疎かにしたのだろうか。もしもバスの運転手に行き先を指示した総務課の職員や、バスに乗り込んだ所員たちにていねいに取材していたなら、「所長命令に違反 原発撤退」という表現が実態を誤って伝えるものであることは、明らかだったはずである。
 鮫島は、『朝日新聞政治部』の中で、待機命令を知らずに第二原発へ向かった所員もいただろうから、早めに軌道修正したほうがよいと、懸念を伝えてくる同僚もいたと書いている。鮫島も忠告に従って、説明不足や不十分な表現を補おうと動いたらしい。しかし結局そのような補足記事を載せることに、新聞社トップの了解を得ることができず、修正は実現しなかった。
 鮫島はまた、二人の記者の「反原発イデオロギー」が記事を歪めたという指摘に対して、彼らは反原発記者というよりも「東電の隠蔽体質に怒る記者」であり、東電が隠す事実を暴くことに執念を燃やす記者であって、「政治的イデオロギーを感じたことはない」と書く。
 そうだったのかもしれない。東電を批判しなければならないという記者の先鋭化した意識が、「吉田調書」の中から「命令違反」の「事実」を見つけ出し、十分な裏付け取材のないまま突っ走ったのだろう。本来、より広い視野の中で記事をチェックするべき鮫島デスクは、特ダネ発掘の誘惑に逆らえず、「記者への信頼」を自分への言い訳に、アブナイ記事を通してしまった。
 「吉田調書」を通して、東電本社や日本政府(菅首相)の対応の問題点を、政府事故調査・検証委員会の正規の報告書とは別の角度から指摘し、追及することも可能だったはずである。そうしなかったことが惜しまれるが、その責任は鮫島自身も認めているように、ひとえに「デスク」である鮫島にある。

(つづく)
 

nice!(0)  コメント(0) 

『朝日新聞政治部』3 [本の紹介・批評]

▼2011年3月11日午後2時46分、巨大地震が発生した。宮城県牡鹿半島から東南東130㎞、深さ24㎞の海底を震源とするもので、マグニチュード9.0と測定された。地震発生に伴ってけた外れに大きな津波が派生し、東北地方の太平洋沿岸に押し寄せた。岩手、宮城、福島の三県は津波をもろに受け、2万人近い死者と行方不明者を出した。「東日本大震災」である。
 福島第一原発を襲った巨大な津波は、第一波が高さ4メートルほどのもので、地震の41分後だった。第二波は49分後で、高さは10メートルを超えた。その水流が高さ10メートルの防潮堤を乗り越え、原発敷地内に駆け上がっていった。
 原子炉建屋、タービン建屋、中央制御室の入っているサービス建屋など、ほとんどの重要施設は海面から10メートルの高さにあり、また非常用ディーゼル発電機はタービン建屋の地下室に設置されていた。津波がこれらの建屋を呑み込んだために、すべての電源が失われ、原子炉の冷却が不可能となり、電動式の弁やポンプ、監視計器などがすべてストップする事態となった。
 事務本館に隣接する「免震重要棟」に緊急時対策室がつくられ、東京の東電本店とのテレビ会議の準備もすぐに整った。中央制御室は、1号機と2号機、3号機と4号機、5号機と6号機というように、原子炉を二つずつ制御するために全部で三つある。1号機から3号機は運転中であり、4号機から6号機は定期点検中だった。
 中央制御室の運転員たちは小型の発電機を持ち込み、知りたい計器に一時的にバッテリーを繋いで、かろうじて数値を確認していった。冷却されないために高温・高圧になっている原子炉格納容器を海水によって冷やすことと、弁を開けて高圧を外に逃がす(ベント)ことが、喫緊の課題だった。ベントをすれば放射能が外に拡散するので、住民の避難を先に行う必要があった。
 運転員たちは二人ずつ、放射能の付着を防ぐタイベックスーツを着、その上に耐火服を装着し、全面マスクを付け、空気ボンベを背負い、線量計を持って建屋の中に入り、手動で弁を開こうとした。なんとか弁を開くことに漕ぎつけたこともあれば、放射線量が高く、途中で撤退を余儀なくされる場合もあった。
 注水には、陸上自衛隊駐屯地の消防車3台が、リレー式に使われた。

▼3月12日午後3時36分、1号機の原子炉建屋の5階部分が「水素爆発」で吹き飛んだ。水素爆発とは、高熱となった被覆管(金属)が水と反応して水素が生まれ、それが空気中の酸素と反応して爆発するものだという。だが、注水活動は休みなく続けられた。
 3月14日午前11時1分、3号機の建屋が水素爆発。けが人は出たが、死者はゼロだった。しかし飛散した瓦礫によって消防車が壊れ、ホースも破れ、注水活動がストップした。
 最大の危機を迎えたのは2号機だった。3号機の爆発の影響で2号機の給水装置が止まり、炉内の圧力が上昇し始めた。水位も徐々に低下し、海水注入しようとしても中の圧力が高くて入らない状態が続いた。
 午後6時過ぎ、何が原因かはわからぬまま圧力が下がりはじめ、午後7時54分、水も入りはじめた。しかし午後9時35分、一度下がりはじめた2号機の格納容器圧力が再び上昇に転じ、午後11時46分、それは設計圧力の2倍近い750パスカルに達した。いつ何が起きてもおかしくない状況と言えた。
 もしも2号機の原子炉格納容器が爆発し、放射能が飛散するなら、福島第一原発で原子炉を冷却するために懸命に働いている人びとは、注水活動を中断してはるか遠くに避難しなければならなくなる。そのことは、福島第一原発と第二原発併せて10機の原子炉が制御不能となることを意味していた。福島第一原発所長の吉田昌郎の脳裏に浮かんだのは、「東日本壊滅」のイメージだった。

▼鮫島記者は、東日本大震災発生時には政治部にいたが、2012年にまた「特別報道部」に異動し、デスクとして「調査報道」に取り組むことになった。
 そこで最初に取り上げたのは、福島第一原発で働く作業員たちの被爆の実態をごまかすために、下請け業者が作業員の身につける線量計に鉛板を当てて隠しているという事実だった。原発作業員たちの劣悪な労働環境に迫るキャンペーンは、大きな反響を呼んだ。
 次に取り上げたのは、「手抜き除染」の問題だった。「被爆隠し」の取材で多くの作業員に接触する中で、汚染地域から回収された木々や土砂が山林や河川に捨てられているという話を、記者の一人が聞き込んできたのである。記者たちは厳冬期に除染作業の現場に張り込み、「手抜き除染」の現場を望遠レンズで写真や動画に収めた。
 鮫島デスクのもとには、原発利権や医療利権に関するものから文化団体や宗教法人の不正を追うものまで、次々に記事が持ち込まれ、鮫島はそれを1面トップに押し込んでいった。
 「手抜き除染」のキャンペーンは、2013年の新聞協会賞を受賞した。

 2014年2月、経済部のK記者が「吉田調書」を入手したが、経済部では手に負えないので引き受けてほしい、という依頼が「特別報道部」にあり、鮫島が引き受けることになった。「吉田調書」とは、福島第一原発所長の吉田昌郎が政府事故調査・検証委員会の聴取に答えた内容を記録した文書で、政府は極秘文書として公開していなかった。吉田昌郎は前年の2013年に死去したため、彼が原発事故への対応の経緯を詳細に語り残した、唯一の公式記録だった。
 経済部のK記者は特別報道部に移り、ほかに原発事故を追ってきたM記者を加え、鮫島は3人で「吉田調書」問題に取り組むことにした。二人の記者は事故直後から3年にわたって東電取材を重ね、東電の隠蔽体質に強い批判を持っていた。東電が国会事故調査委員会に虚偽の説明をした事実を暴いて、原発事故直後の社内テレビ会議の映像を公開するようキャンペーンを行い、不十分ながら公開させてもいた。
 「吉田調書」のコピーは、A4版で400ページを超える量だった。原発について深い知識を持つとともに、原発事故の経緯を熟知しなければ、読んでもすぐに理解できるものではなかった。K記者とM記者は、事故直後の東電の対応を日本で最も熟知している人間だと言えたが、しかし二人だけで膨大な調書を読み込み、必要な追加取材をしながら、「吉田調書」のキャンペーンを続けていくのは難しい。鮫島は取材班を増やすことを提案したが、二人は頑なにそれを断った。吉田調書の入手先が発覚することを恐れたからであり、二人の警戒心は、朝日新聞社内の同僚にも向けられていた。結局、二人の記者が認めた女性記者一人を加えた態勢で、取り組むことになった。
 2014年5月20日の朝刊に、「吉田調書」入手の第一報が載った。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

『朝日新聞政治部』2 [本の紹介・批評]

▼2001年の春に小泉政権が誕生すると、鮫島記者は経済財政担当大臣・竹中平蔵に付くように、官邸キャップから指示された。経済のことはまったく素人ですよ、と言うと、くっついていれば良い、そのうち判るようになるよ、とキャップは答えた。
 政治部は政治家に番記者を張り付け、その政治家が直面している政治課題を一緒に追いかけさせる。内閣改造で閣僚の顔ぶれが一新したら、政治部記者もガラリと入れ替わる。
 他方、経済部は役所ごとに担当記者を置き、役所の政策課題を追いかけさせる。いつまでその職にいるか分からない大臣よりも、事務次官など官僚のほうが情報源として重要なのだ。民間から内閣に入ったばかりの竹中を、経済部の記者たちは相手にしなかったが、それは合理的なことだった。
 「朝日」以外に「竹中番」を付ける新聞社はなかったから、鮫島は竹中とその政務秘書官と3人で毎日会い、昼は大臣室で、夜はファミレスで話をした。当時の竹中は、政治家や官僚、記者たちから軽んじられていたので、鮫島と話をする時間は十分あった。《「素人三人組」が寄り添って、政官業の既得権の岩盤に挑む戦略をああでもないこうでもないと言い合う、漫画のような日々だった。》
 《竹中氏は当初、敗れ続けた。だが、くじけなかった。自民党や財務省が水面下で主導する政策決定過程をオープンにして世論に訴えた。経済財政諮問会議の議事録を公開して「抵抗勢力」の姿を可視化したのだ。これは的中した。マスコミは次第に「抵抗勢力」を悪者に仕立て始めた。そして小泉首相は「竹中vs抵抗勢力」の戦いが佳境を迎えると歌舞伎役者よろしく登場し、竹中氏に軍配を上げたのだった。》
 政策決定の中心が、「自民党・霞が関」から「首相官邸」へ移り始めた。竹中の影響力は急拡大し、政治家や官僚が頻繁に訪れるようになり、鮫島は予算や税制に関する「特ダネ」を連発した。新聞各社は慌てて竹中を追いかけはじめたが、すでに遅く、竹中は時間に追われ、初対面の記者が一から関係をつくる暇はなかった。―――
 鮫島は当時をいま振り返り、竹中平蔵の提灯記事を書いたつもりはないが、結果的に竹中を後押しした面があることは否定できない、と書く。竹中は「抵抗勢力」との戦いを有利に進めるために鮫島(朝日新聞)に情報を流し、鮫島はそれを承知で、情報の確度を確認したうえで記事にしたのである。
 竹中の切り拓いた「首相官邸主導」の政策決定は、第二次安倍内閣でいっそう本格的な形で実現することになった。

▼このブログは、鮫島記者の活躍を追いかけることが主たる目的ではないから、エピソードの紹介はこの辺で切り上げ、筆者の興味を惹いた小さな点をすこし挙げておきたい。
 ひとつは鮫島記者の周囲には、通常の企業よりもずっと多く途中入社の記者がいたという点である。元銀行員という記者、元「週刊文春」の記者、高知新聞や北海道新聞から移ってきた記者などと一緒に、鮫島は仕事をしている。「終身雇用」や「年功序列」などを特徴とする日本企業でありながら、新聞記者という職業は専門性が高く、そのためけっこう企業間の流動性が高いのかもしれない。「朝日新聞社」のネームバリューで能力ある人間を一本釣りできた、という面もあったのだろう。
 もうひとつ興味を惹いたのは、世の中の問題を掘り起こして社会に問いかけるのが新聞の役割だという、「ジャーナリズム」の古典的イメージに照らして見ると、新聞社の現実は「制度化」され過ぎているという点である。政府高官や有力政治家に張り付いて、その意向を把握することに精力をすり減らす政治部の取材にしろ、警察情報の「抜いた」「抜かれた」の競争に追いまくられる警察取材にしろ、本当に社会の喫緊の課題に取り組んでいるかと問われるなら、かなり怪しいと言わざるを得ない。しかしそれでも毎日の紙面を埋め、他社との競争に勝つためには、そういう「制度化」された取材方法が欠かせないのであり、そのうち記者たちはそれに慣れ、それ以外の方法を考えなくなる。
 鮫島は言う。《ほとんどの記者は上司から次々に仕事を発注され、自分の持ち場の当局発表の取材に追われ、受け身の仕事に明け暮れている。好きなテーマをじっくり掘り下げている記者は、ほんの一握りだ。私はそのような新聞記者のあり方に疑問を感じてきた。同僚たちは常に人事評価を気にしながら「やらされ仕事」をこなし、くたびれ、ストレスをためていた。》

▼朝日新聞社のなかで、「調査報道の充実」の掛け声とともに「特別報道チーム」がつくられ、鮫島記者が配属されたとき、そこには各部で扱いにくい記者が集められていた。鮫島は彼らと話し合い、警察や検察、国税庁などに依存しない「調査報道」をしようと意気込んだ。
 丁度「トリノ五輪」が開催され、荒川静香が金メダルを取り、フィギュアスケート人気が過熱している時だった。人気高騰のフィギュア界は、広告代理店やテレビ局が群がるドロドロした世界だった。特報チームは2か月間の取材ののち、「スケート連盟 不透明支出」と見出しを打った記事を書いた。反響は大きく、ワイドショーや週刊誌が飛びつき、新聞各紙も無視できず、ついに背任容疑でスケート連盟元会長など幹部が逮捕される事件となった。
 特報チームは次に、「非正規労働の実態」を調べ、「偽装請負 製造業で横行/実態は派遣 簡単にクビ」の記事で始まるキャンペーンを行い、大きな反響を得た。鮫島は、次のように書いている。
 《調査報道との出会いは、私の新聞記者観を大きく変えた。この経験がなければ、永田町を奔走し、政治家をひたすら追いかける政治部記者として会社員人生を歩んでいたかもしれなかった。調査報道の醍醐味を知った以上、元の政治記者には戻れなかった。》

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

『朝日新聞政治部』 [本の紹介・批評]

▼『朝日新聞政治部』(鮫島浩 講談社 2022)という本を、面白く読んだ。筆者のブログ記事「安倍晋三の死」には、この本から引用した部分が少しあるが、あらためて取り上げ、論じてみたい。
 著者・鮫島浩は1971年の生まれ。1994年に朝日新聞社に入り、水戸や浦和の支局でのサツ回りを経て、本社の政治部記者となる。才気煥発で“ひとこと多い”鮫島は、上司に認められたり煙たがられたりしながらさまざまな体験をし、新聞記者としての歩みを続ける。この本の性格を一言で言えば、「体験的新聞記者論」ということになるが、これを同種の体験談から抜きん出た読みごたえのあるものにしているのは、ひとつは接触した政治家や官僚、新聞記者たちの描写が生き生きとしていることに因るのだろう。
 もうひとつは、鮫島記者が特別報道部デスクとして手掛けた福島第一原発の「吉田調書」に関するスクープが、初めは朝日新聞社内で絶賛されたにもかかわらず、4か月後に「誤った内容の報道」であるとして「取り消」された事件である。この事件の顛末を通じて鮫島は朝日新聞社の体質に見切りをつけるのだが、まずは筆者の面白く読んだ箇所を中心に、いくつか内容を紹介したい。

▼政治部に配属された若い記者は、まず総理番をさせられる。一日中総理大臣を追いかけ、総理に面会した人を確認して「首相動静」の記事を出す。総理と面会した人に、何を話したかを聞く。また鮫島が小渕総理番となった当時は、総理が官邸内や国会内を移動するときに肩を並べて歩き、直接質問する「ぶらさがり」取材が許されていた。録音や録画は認められておらず、総理番を代表して質問した記者はやり取りを記憶し、直後に各社に伝える。
 小渕総理と政治記者のぶらさがり取材には緊張関係があった、と鮫島は振り返る。
 《小渕総理が政治記者という職業に敬意を払っていたからだろう。当時は新聞の影響力が大きく無視できないという政治家としての現実的な判断もあっただろう。(中略)新聞の影響力低下にともなって政治記者は軽んじられるようになり、一方的に権力者にこびへつらうようになったのが今の官邸取材の実態である。権力者側の「善意」や「誠意」には期待できないことを前提に、新たな政治取材のあり方を構築しなければ、政治報道への信頼はますます失われていくだろう。》

▼総理番のもう一つの重要な仕事は、主要省庁から送り込まれる総理秘書官を取材し、総理の本音を探ることである。総理番記者は日中は総理に密着して動いているから、彼らが総理秘書官に接触できるのは深夜か早朝になる。鮫島が担当したのは、大蔵省出身の細川興一だったが、彼は小渕総理が竹下内閣の官房長官時代に官房長官秘書を務めて信頼を得、総理秘書官の中のリーダー的存在だった。
 細川総理秘書官は、「実に面倒な人」だった。総理番との酒席で論争を仕掛けてくることはあっても、情報を漏らすことは一切なかった。「夜討ち朝駆け」にもめったに口を開かない。迂闊な質問をすると猛烈に反論する。そのため多くの総理番からひどく敬遠されていた。
 鮫島は毎朝、細川の自宅に通った。細川が総理秘書官になって半年が経ち、細川邸に通う総理番はごくわずかだった。取材の成果がまったく期待できないからだが、鮫島記者はこれをチャンスととらえ、毎日午前4時に起き、ハイヤーで細川邸に日参した。
 朝、顔を合わせても細川は無言で、「おはよう」とも言わなかった。だが不思議なことに、迎えの車にかならず鮫島も乗せ、一緒に官邸に向かった。車の中で、細川は新聞を読み、鮫島が何を質問しても無視した。口を開くのは、質問とは関係ない新聞記事の悪口をいう時だけで、まったく話が噛み合わないまま車は官邸に着く。記者は官邸の前で降ろされ、朝の取材は終了。「取材メモ」は一行も書けず、成果はゼロ。この「朝駆け」を、鮫島は1年間、ほぼ毎日続けた。
 やがて鮫島は、「取材メモ」こそ1行も書けなかったものの、質問に対する細川の微妙な表情で、イエスかノーかを見極めることができるようになった。新しいネタは取れなくても、情報を確認する「ウラ」は取れるようになった。
 《警戒心の強い細川氏が私の裏付け取材の狙いに気づかなかったとは思えない。それでも彼は毎朝私をハイヤーに同乗させ、質問を一切無視し、時に私を罵倒し、しかしその表情で私の質問に答えた。細川氏は彼なりのやり方で私を受け入れたようだった。》

▼四国・高松の母子家庭に育った鮫島は、中学高校時代にニュースで報じられる不条理な出来事について、しばしば母親に文句を言った。母親は、あなたが偉そうなことを言わなくても、世の中の偉い人がちゃんと考えてくれているわよ、と言った。鮫島が「偉い人って、誰?」と反論すると、母親はほんのひととき考え込み、「大蔵省の人よ」と答えた。
 《戦後日本において大蔵省はそういう存在だった。私は細川氏を担当してこの話を思い出し、久々に母に電話した。「おかあさん、俺は大蔵省の偉い人と会ったよ。毎朝一緒にハイヤーに乗り、時折一緒に飲んでいるよ。実にとんでもない人だよ!」。母はその言葉の意味をほとんど理解していないようだった。》
 小渕総理が急逝したあと細川総理秘書官は大蔵省に戻り、官房長、主計局長を経て事務次官になった。
 鮫島は書く。
 《細川氏は「尊敬する官僚」とはとても言えない。しかし私は政治記者として最初に取材した細川氏から長い歳月をかけて多くを学んだ。出会いから20年余、お互いに立場は変わっても時折会って激論を交わしてきた。何度も怒鳴られ、負けずに反論した。
 ネタをもらったことは一度もない。しかし、エリート官僚とは何者か、教科書では学べないその素顔を、細川氏は自分自身の生きざまを20年以上にわたって私にさらけ出すことで伝えた。私は彼のおかげでエリート官僚の実像をよく知り、自信を持って批判できるようになった。権力批判の鉄則は権力側の本性をよく知ることだ。》

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

朱夏6 [本の紹介・批評]

▼開拓団の悲劇の原因を求める議論は、多くの場合ソ連の参戦で終り、あるいはそこから一挙に満洲国という国家の「虚構性」の問題に飛びやすく、「満蒙開拓団」という政策自体の検討・検証に向かうことは、ほとんどないらしい。
 加藤聖文は次のように書いている。(『満蒙開拓団』)
 満洲開拓政策は、「優秀な日本人農民が未開の満洲で模範的な開拓民となることで、現地民も感化され、やがて満州全土が理想郷となる」という「物語」の上に成立している。しかし日本人農民すべてが現地民と比べて「優秀」であるという根拠はまったくないし、機械式農法の導入も限られている開拓民の姿は、模範でも憧れでもなく、「感化」されようがなかった。
 《さらに他民族に対する理解度も決定的に欠けていた。そもそも開拓団と現地民とは構造的に不平等な関係であったこと、どのような形であれ、外来民が流入してきた場合、現地民は必ず反発することが見落とされている。そしていつかは顕在化する現地民との対立が、ソ連侵攻を機に一挙に噴出したのであって、悲劇の根本要因はもっと根深いところにあったという思慮は一切見られない。》
 満蒙開拓政策を進めた人びとのうち、石黒忠篤だけは唯一、開拓団をめぐる悲劇に対して自責の念を漏らしていたという。しかし石黒を除き、加藤完治ら開拓推進派にとって、敗戦間際のソ連参戦は彼らの免罪符となった。「開拓団は五族協和の旗印のもとで現地民と共存を図り、王道楽土の建設を目指していたが、それをすべて打ち砕いたのはソ連であって、悲劇の責任はソ連のみにある」と考えることで、政策の問題点から目をそらすことができたからである。

▼加藤完治が昭和20年秋に書いた、「終戦の御詔勅を拝して」と題する文章が残っている。(『麻山事件』に引用されているので、少々長くなるが、そこから再引用する、)
 《(8月)16日は午前中は家に閉じこもって静かに御詔勅をくり返し、くり返し奉読し、更に謹書して大御心の那辺にあるかを拝察したのである。奉読し、謹書している間に段々と大御心のほどが拝察できるようになり、ついに明瞭に拝察し得て、自分は元気よくご命令に絶対服従し、陛下が仰せられる 万世ノタメニ太平ヲ開カント欲ス のお言葉を体して、今度は真剣に世界平和の使徒として、日本国民の本文を尽くそうと固く決心するに至ったのである。(中略)
 過去のことは過去のこととして懺悔すれば足りる。人はいかなる人でも失敗というものはある。その失敗を顧みて、二度とその失敗を繰り返さぬように覚悟し、新たに確固たる人生観の下に孜々としてその理想実現に努力する人こそ、我等は真人と思うのである。
 ただ無暗に人の事ばかり責めて、自分のことを少しも反省せぬ態度は、けっして真面目な日本人のとるべき道ではない。互いに攻め合うことはやめて、日本をして今日あらしめたのは、考えて見るほど日本国民全体が悪かったのである。ここに一大反省をして本当に道義の国日本を再建して、世界各国とともに世界の平和に貢献したいと私は念願する。》

 こういう無内容な文章を読まされる者は誰しも苦痛を感じるだろうが、「苦痛」で済めば幸運と言わねばならない。なぜなら加藤がこの文章を書いていた昭和20年の秋、《満洲では彼の送り込んだ義勇隊や開拓団など二十七万人が何十日もの山中彷徨の中にあり、その多くが「草むす」屍を曝しつつあった。ようやく辿り着いた難民収容所においても病に倒れた。全満邦人百五十五万人の十四パーセントにしかすぎない彼らが、死亡者数では五十パーセントに当る八万人を出してい》(中村雪子)たからである。
 中村雪子は、加藤完治の文章が自分の満洲に送り込んだ人びとに何ひとつ触れずに終わるのを見て、「開拓団の人々の無念さを思わずにはいられない」と書く。筆者も同感だが、同時に戦前の日本を支配していた「国粋主義」や「国体思想」の無内容さを、自己証明しているとも思う。

▼作詞家・なかにし礼は、満洲からの引き上げを体験している。彼は昭和13年の生まれで、満洲の牡丹江で7歳まで育った。牡丹江は満洲北部の交通の要所で、関東軍の司令部のひとつが置かれており、哈達河(はたほ)から南西の方向に、直線距離で130㎞ほどの距離である。
 なかにしの父母は昭和9年に小樽から満州国に移り住み、酒造りを始めた。牡丹江の水から良質の酒ができ、その酒を関東軍に納めることで、なかにし家は莫大な収入を得、またたく間に地方の名士となった。
 しかし昭和20年8月、ソ連の侵攻が始まり、一家は軍用列車に乗せてもらい、途中なんども戦闘機の空襲を受けながらハルビンに逃れる。ハルビンでは街頭で煙草や大福餅を売って命を繋ぎ、翌年9月に葫蘆島から米軍の輸送船で引き揚げを果たした。
 なかにしは60年代半ばに作詞家としてデビューし、菅原洋一「知りたくないの」(1965年)やザ・ピーナッツ「恋のフーガ」(1967年)、黛ジュン「恋のハレルヤ」(1967年)、「天使の誘惑」(1968年)、「夕月」(1968年)など、立て続けにヒット曲を生み出した。その後もヒット街道は続き、1970年には年間ヒット曲ベスト100曲のうち、18曲がなかにしの作詞だったという。
 最近になり、筆者はなかにし礼が、「人形の家」(1969年 作曲:川口真)は自分たち満洲居留民が日本という国家から捨てられたという思いを歌ったものだ、と語っていたことを知り、仰天した。そのようなこととはつゆ知らず、弘田三枝子の張り上げる歌声に聞き惚れていたからである。

 顔もみたくないほど
 あなたに嫌われるなんて
 とても信じられない
 愛が消えたいまも
 ほこりにまみれた 人形みたい
 愛されて 捨てられて
 忘れられた 部屋のかたすみ
 私はあなたに 命をあずけた

 あれはかりそめの恋
 心のたわむれだなんて
 なぜか思いたくない
 胸がいたみすぎて
 ほこりにまみれた 人形みたい
 待ちわびて 待ちわびて
 泣きぬれる 部屋のかたすみ
 私はあなたに 命をあずけた
 私はあなたに 命をあずけた

▼調べて見ると、なかにしの「自分たち満洲居留民は日本という国家から捨てられた」という思いは、関東軍が守ってくれないためにソ連軍や満人暴徒の襲撃を受け、日本に帰り着くまでに死ぬほど苦しい思いをした、という体験にとどまらない事実を指していた。
 「居留民ハ出来得ル限リ定着ノ方針ヲ執ル」という大東亜大臣東郷茂徳名の訓令が、昭和20年(1945年)8月14日付で在外公館に発せられている。また8月26日には、「外地在住内地人ノ人身安定策」として、「在留内地人ニ対シテハ徒ニ早期且無秩序ニ引揚ヲ決定セシムルコトナク、当分冷静ノ態度ヲ維持セシムル様徹底指導スル」ことが、在外公館に通達された。
 大本営参謀は8月26日付の「関東軍方面停戦状況ニ関スル実施報告」で、「内地の食糧事情等からすれば、在留邦人はソ連の庇護下に満洲および朝鮮に土着させて生活を営むよう、ソ連側に依頼するのがよい」(要旨)とする方針を示していた。
 これらを見るかぎり祖国日本の政府は、ソ連軍の攻め込んだ満洲の現実も、生活を一挙に根こそぎ奪われて祖国に帰るしか道のない居留民の実状も、なにひとつ理解していなかったことがわかる。なかにしが、「満洲居留民は日本という国家から捨てられた」と受け止めたのは、正しい理解なのだ。
 なかにし礼は学生時代、シャンソンの訳詩で生活を支えていたから、作詞の技法は十分心得ていた。しかし自分で詞を作ろうとすると、歌い上げるべき内容は自分の体験から汲み出してくるほかない。自分の体験に根差した思いやさまざまな感情をもとに、それらを糸口にしたり、組み替えたりしながら、歌詞を生み出すのである。
 自分にとって戦争体験にまさる体験はない。自分の体験の中から、関東軍に捨てられ、祖国に捨てられ、「帰ってくるな」と言われたときの思いを歌にしたのが「人形の家」だ、となかにしは言った。

(おわり)

nice!(0)  コメント(0) 

朱夏5 [本の紹介・批評]

▼開拓団員たちは貝沼団長の周りに集まり、互いに別れの挨拶を交わし、十年間の礼を言いあった。それからそれまで肌身につけていた故郷の父母の写真や応召中の夫の写真、貴重品などを集めて火をつけた。荷物を解き、晴着を出して子どもたちに着せ、自分たちは白鉢巻、白襷を締め、親子や部落の人々で水さかずきを交わした。
 団長は斬込隊長を選び、そのあと一同で東方を遥拝し万歳を三唱すると、拳銃で自らのこめかみを撃ち、倒れた。
 斬込隊に加わる男は、馬車から取り出した毛布を敷いて、その上に妻と娘と3人で座った。妻と顔を見合わせると妻は寂しく笑い、小さな声で「幸せな15年でした」と言った。娘は、男が抱きあげると耳に口を寄せて、「あのね、お母ちゃんがいいところへ連れて行くって……」と言う。三昼夜の爆撃におびえていた娘がいじらしい、と男はつよく思った。
 「父ちゃんも少し遅れるけどすぐ追いつくからね」と言って、まず娘を撃ち、次いで妻の胸を撃つ。妻は「もう一発」と叫んで倒れていった。
 開拓団の男たちの多くが応召して、妻と子供たちばかりの家族も多かったから、彼女たちの「処置」は他の男子団員の手で行われた。銃声がしだいに激しくなり、やがて静かになった。血なまぐさい臭いと強い火薬の臭いが辺りに充ち、あちこちで苦しみ呻く声が聞こえた。

 後尾集団にいた女たちは、貝沼団長が自決したという知らせを聞いて、「ああ、これで死ねるわネエ」と思わず歓声にも似た声をあげたという。疲労しきった身体をひきずってどうにかそこまで来た女たちの前に、永遠の安息が広がっていた。女たちのリーダー格だった女はその夫に、「あなた、もうここが最後です」と告げ、他の女たちも男に最期の挨拶をした。逡巡する夫に、女は、「迷っても無駄です」と言って決断を迫り、「処置」を実行させた。

▼中央集団の男たちでつくられた斬込隊約40名は、山頂に上り、敵陣をうかがい、薄暮れの時を待って山を下りた。しかし接近する気配を察知されて、自動小銃の猛射を浴びる。斬込隊も撃ち返すが、たちまち何十倍もの自動小銃弾を撃ち込まれ、後退し、負傷者の手当てをする。隊員は三分の一に減っていた。
 隊長が今後の作戦を諮ると、「敵は優勢で、自分たちが死を賭して臨んでも成功は覚束ない。日本軍と行動を共にして戦うのが最善だと思う。皆疲れ果てており、後退して少しでも睡眠をとり、明日の戦闘に備えよう」という意見が出、反対する者はなかった。隊長は、やみくもにでも敵陣に突っ込み、死に場所を得る考えだったが、隊長である以上、身勝手な行動は許されないと考え、多数意見に従うことにした。
 その後彼らは牡丹江に行く途中で日本の敗戦を知り、自決しようとしたが、日本軍の将校から、「日本はまだ降伏していない。流言飛語を信ずるのか」と強く制止され、ふたたび死ぬ機会を失う。
 麻山の出来事から一ヶ月後、彼らは無人のある部落で休憩していた時、突如地元民の襲撃を受け、仲間を失う。隊長は、これ以上逃避行を続けることはいたずらに犠牲者を増やすだけであり、生きて菩提を弔うことこそ自分の使命だと考え、ソ連軍に投降した。以後、三年余の間シベリア抑留生活を送り、昭和23年12月に帰国した。

 麻山での開拓民四百余名の集団自決という出来事は、生き残った男たちによって明かされ、語られてきたが、ほんとうに集団自決しか道がなかったのかという疑問も、死者を知る人々のあいだでくすぶり続け、消えることはなかった。

▼『麻山事件』の著者の中村雪子は、1923年長野県に生まれ、1939年満州に渡り、1942年に結婚、1946年に引き揚げと、著者紹介欄に書かれている。宮尾登美子より2歳年長だが、十代で結婚して満洲で暮らし、同じようにソ連軍の侵攻と引き揚げを体験している。1959年から名古屋女性史研究会に所属し、「福田英子」についての共著などを手掛けたあと、13年かけて哈達河(はたほ)開拓団の「麻山事件」について調べ、1983年に著書として発表した。
 中村の暮らしたのはハルビンで、満州東北部の開拓村と直接の関係はなかったであろうが、彼女は哈達河開拓団の生存者を探し、そのつながりをつたって次々に生存者と連絡を取り、会って話を聞き、文通を重ねて疑問を確かめた。生存者の間にも、一部に反目や不信感が残り、「麻山事件」の状況理解に違いがある中、中村は違いは違いとして残しつつ、証言と資料によりできるだけ正確に事件を知ろうと努めた。
 そうやって書かれた『麻山事件』は、けっして読みやすい読み物ではないが、著者自身による整理やまとめが少なく、生き残った人々の証言をそのまま提示している分、史料としては信用できるように思う。

▼「麻山事件」に象徴される満洲開拓民の悲劇の原因を考えると、まずソ連が日ソ中立条約を破って一方的に満洲に攻め込み、避難民を不法に攻撃したことや、関東軍が開拓民を保護することを軍事戦略上放棄し、にもかかわらずそのことを開拓民に知らせなかったことが挙げられよう。このため開拓民たちは、むき出しの暴力の前に裸で晒されることになったのである。
 前回触れたように、関東軍は新京、大連、図們を結ぶ三角形の外側の、満州国の4分の3に当たる部分の防衛を放棄し、三角形の内側部分を山岳地帯に拠りながら防衛しようとする計画を立てた。そして対ソ戦が勃発した場合は、国境周辺の老幼婦女子(つまり開拓団の老幼婦女子である)を南満洲へ避難させることを考えていた。しかし大本営は、ソ連軍の攻撃を誘発しないように「対ソ静謐」を保持する必要性と、現地民の動揺を招くという理由から、関東軍の考えに同意しなかった。
 またソ連(ロシア)という国が力のみを信奉し、国際社会の良識や約束事など平気で破って意に介さない野蛮な相手であったことも、日本にとって(満洲開拓民にとって)不運あるいは不幸であったと言えよう。ソ連の政治指導者は、満州の工業機械や建設資器材から人間の労働力にいたるまで、「戦利品」としてソ連に持ち帰ることを躊躇しなかったし、兵士たちは強姦、強奪を、「ヤリ得」と心得ていた。
 ルーズベルト、蒋介石、チャーチルの3人は1943年11月にカイロで会談し、同盟国の戦争目的を「カイロ宣言」として発表している。その中で、「同盟国は、日本国の侵略を制止し罰するため、今次の戦争を行っている」と言い、「同盟国は、自国のためには利得を求めず、また領土拡張の念も有しない」と明記する。しかしソ連の政治指導者にとって8月9日以降の満洲侵略は、日露戦争の仇を討つ戦いであり、ソ連(ロシア)の領土を拡張する戦いであり、そのことを少しも隠すつもりはなかった。

(つづく)

nice!(0)  コメント(0) 

朱夏4 [本の紹介・批評]

▼東安省鶏寧県の哈達河(はたほ)開拓団は、1935年(昭和10年)に第4次の移民として入植した人たちである。開拓地の総面積は六千町歩(約六十平方キロ)で、既耕地と未耕地と山林が、それぞれ二千町歩ほどだった。山林は灌木が多く、既耕地には三千人ばかりの中国人と朝鮮人が住んでいた。六千町歩(約六十平方キロ)という数字だけを聞いても想像が難しいが、東京の世田谷区(58㎢)や大田区(61㎢)とほぼ同じ面積と聞けば、その広さに驚くことだろう。
 当初の移民計画では、未耕地に入植し、開拓するものとされていたが、多数の農業移民を送り出し受け入れる必要から、既耕地を買い上げて入植する案が現実的な政策として採用された。入植地の買収は、関東軍と満州国によって行われた。
 哈達河開拓団は、昭和10年に先遣隊として56名が入植したが、翌年、本隊133名が日本各地から入植し、10の部落に分かれて住んだ。また、「満蒙青少年義勇軍」の発足に先立ち、昭和12年には「山形少年隊」16名が開拓団に加わった。終戦時の哈達河開拓団の総戸数は290戸を数えた。
 開拓団の団長・貝沼洋二は、朝鮮で育ち、札幌農大を卒業したあと朝鮮に戻り、農民や小作人の世話をする仕事に就く。その後拓務省の嘱託になって満洲に渡り、開拓団経営のノウハウを学び、昭和10年に哈達河開拓団が結成されると団長となった。貝沼は当時40歳だった。
 口数は多くないが、公平無私で古武士のような風格を持ち、「俺について来い」という言葉が団員の胸に抵抗なく入っていくような、人間的魅力を持っていたという。生き残った男の一人は、「貝沼団長と団員の結びつきを知らないで、麻山事件の解明はできない」と後に語っている。

▼昭和20年に入るころから、関東軍はソ連軍の侵攻は必至と考え、密かに後退を開始していた。主力を「適宜連京線以東、京図線以南の山地に集約」し、長期持久戦を戦うという作戦計画である。連京線とは満州国の首都・新京から大連に至る南北の鉄道路線であり、京図線とは新京と図們を結ぶ東西の鉄道路線であり、この新京、大連、図們を結ぶ三角形は満州国の南東部の朝鮮に接する一画を示す。開拓団が入植した土地は、ほとんど全てがこの三角形の外側にあり、哈達河開拓団の開拓地も例外ではない。しかし開拓地の人びとは、自分たちが関東軍から見棄てられたことを知らなかった。
 
 昭和20年8月9日の朝、哈達河開拓団の人びとは飛行機の爆音を耳にし、上空を西に向かって飛ぶ機体を見た。しかしそれがソ連機であり、ソ連が中立条約を破って国境を突破し、首都の新京やハルビンがその日爆撃されたというような情報は、伝わってこなかった。
 貝沼団長が東海警察隊に行ってようやく情報を得、引き上げ命令が出たこと、最小限の身支度と荷物と食糧を準備して、鉄道駅のある鶏寧に向けて出発することなど、開拓団の各部落へ連絡員を走らせた。広大な開拓地に分散する各部落に連絡するには多くの時間を要したが、それでも開拓民たちは夜のうちに馬車に家族と荷物を積み込み、出発した。
 だが夜が明ければ、避難民の馬車はソ連軍戦闘機の攻撃目標だった。急降下しては銃撃する戦闘機により多くの馬が撃たれ、徒歩を余儀なくされる避難民が続出した。また避難の列から遅れる者に、暴民の群れが近寄って品物をねだり、女と見れば品物を強奪した。
 避難民が目指した鶏寧を通り牡丹江へ至る鉄道は、ソ連機の攻撃により10日の朝を最後に止まっていた。鶏寧の街は炎を挙げて燃えていた。

 8月10日の午後、雨が降り出し、翌11日の午前中に一時上がるが、午後には再び降りはじめ、夜には豪雨となった。泥道に故障する馬車が続出し、ほとんどの避難民は雨の中で立ったまま寒気に震え、夜明けを待った。雨除けの布団もぐっしょり水を含み、馬車を失った人たちは雨除けの布団もなかった。体力のない乳幼児が幾人か亡くなった。
 8月12日。雨足が弱まり、一行はふたたび進行を開始。出発以来エサを与えられていない馬は、弱って足をもつれさせ、道端に捨てられる荷物の数が増えた。やがて太陽が昇ると、たちまち大陸の炎暑となり、避難民の疲労はいよいよ増した。このころから、開拓団を追い越して撤退する軍のトラックや日本兵の数が、増えてきた。
 道は山腹を上ったり下ったりしながら、曲がりくねって麻山駅近くに降りていく。
 前方でしきりに銃声や軽機関銃らしい連発音が聞こえる。偵察に出ていた団員が、前方にソ連軍がいることを伝えた。つまり後方から追いかけてくるとばかり思っていたソ連軍が、自分たちを追い越して麻山に進出しており、哈達河開拓団は前方と後方をソ連軍に挟まれていることが判明した。

▼哈達河開拓団は苦しい逃避行の中で、多数の落後者を出しつつ自然に三つの群れに分かれていた。先頭集団は、途中の空襲で馬をやられなかったので、順調に先へ行くことができた集団であり、その1キロメートル後方に貝沼団長を中心に約四百名の中央集団がおり、さらに1キロメートル後方の後尾集団では、女たちが疲れ切って落後寸前の状態にあった。
 昼近く、後尾集団が麻山に到着したころ、銃声がますます激しさを増した。歩兵30人ぐらいの分隊が通りかかり、これから斬り込みになるかもしれないと、兵士たちは軍靴を脱いで地下足袋に履き替え、水筒の水で型どおりの水さかずきを酌み交わし、背嚢をそろえて道端に置いた。そして開拓団の女たちに、この中にパンがあるから食べてもいいよと言った。

 中央集団は、機関銃や迫撃砲弾の炸裂する音が間近に聞こえる、三方を山に囲まれたゆるい傾斜地にいた。そこに兵隊が来て、「ソ連の戦車がすぐ前方にいる。わが軍も応戦しているが戦死者も多く、これ以上の前進は無理である」と団長に伝えた。
 団長は後退してくる日本軍部隊に、「せめて一個小隊の兵を、安全地帯まで護衛に付けてほしい」と懇願したが、拒絶される。
 そこに先頭集団の二人が、顔面蒼白で駆け込んできた。前方から突然敵の戦車群の攻撃を受け、皆はトウモロコシ畑に逃げ込んだが、そこに自動小銃が撃ち込まれ、多数の仲間が殺されたと言った。さらに銃弾の飛び交う中で最期の時が来たことを知り、自分は合掌する妻を撃ち、母にならって手を合わせている三人の子供たちを次々と撃ったこと、そして部落の細君たちを「処置」してきたことを報告した。

▼先頭集団の報告を終始無言で聞いていた団長は、みずから偵察のために山に登った。降りてきた団長を、待ち構えていた一同がとりまいた。
 「われわれは完全に包囲されている。日本軍さえ敗走するこの状況で、全員が一緒に脱出することは、まず不可能であると思う」と団長は言った。そして選択肢は二つだと続け、一つは、入植以来一家のように親しんできた人たちが、辛いことだがばらばらになって脱出すること、もう一つは、生きるも死ぬも最後まで行動を共にすること、いずれをとったらよいか、意見があったら聞かせてほしい、と言った。
 《身近に迫る銃砲弾の響きも人々の耳から消え去り、〈ついに来るべきものが来た!〉という感慨の中で、重苦しい沈黙が人々の間を流れた。/やがて嗚咽と慟哭が津波のように広がって、その中から、「私たちを殺してください」とまず女たちが声をあげた。/同時に男子団員からも「自決だ!」の声があがった。「自決しよう」「日本人らしく死のう」「沖縄の例にならえ」「死んで護国の鬼となるんだ」。そんな言葉がつぎつぎと発せられた。》
 団員の中から、斬込隊結成の声があがった。「自分ももちろん自決することに賛成である。しかし男としてなすことなくこのまま自決するのは、何としても悔しい」。
 団長は、「自分も今となっては自決が最善の方法かと思う。しかし、男子は一人でも多くの敵を倒してから死ぬべきであるかもしれない」と言い、だが自分は開拓団の責任者として、女子供たちと行動を共にすると語った。

 (つづく)

nice!(0)  コメント(0) 
前の10件 | 次の10件 本の紹介・批評 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。